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1950 11TH BRUMM ALFA ROMEO 158 R.PARNEL
初代F1親子ドライバー レッグ・パーネル F1初戦で3位表彰台 ALFA ROMEO 158 レッグ・パーネル イギリス出身 1950年 F1の開幕戦となった記念すべきGPの エントリしたー21名のドライバーの1人 アルファロメオの4号車で出場 3F(ファリーナ ファジオーリ ファンジオ) に次ぐ予選は4位 アルファロメオが上位独占 決勝はファンジオのリタイアもあり パーネルは3位でフィニッシュ 決勝もアルファロメオが表彰台を独占 パーネルのアルファロメオは1戦のみ その後1954年までイギリスGP中心に F1でスポット参戦を続けたが 表彰台はこの3位が1度限り パーネルの息子 ティム・パーネルも 1962年にF1で2度の決勝進出があり 所謂F1親子ドライバーの初代がパーネル レッグ・パーネルはその後自身の名前の プライベートチームを結成し ジョン・サーティス クリス・エイモン マイク・ヘイルウッド ピアス・カレッジなどが 同チームでF1参戦している モデルはブルム 1950年のF1開幕戦 イギリスGP仕様 予選4位→決勝3位表彰台 2020年にF1開始70年を記念して 発売されたモデル 限定70台
240315 R.PARNEL 1950 70FW12C
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1971 17TH QUARTZO (FRANK WILLIAMS) MARCH 711 H.PESCAROLO
アンリ・ペスカロロ Fウイリアム移籍 自身F1最後の入賞 MARCH 711 1971年フランク・ウイリアムズRCの3年目は マーチより701 後711を購入して アンリ・ペスカロロの1名体制で参戦 フランスの潤滑油メーカーMOTULがスポンサー ペスカロロはR6イギリスGPで4位 R8オーストリアGPで6位入賞 これが自身最後なる通算5度目の入賞 ティートレイと呼ばれた独得の フロントウイングの形状のマーチ711は 1971年にプライベーター含め 9名のドライバ―が使用したが ポイント獲得はマーチ本隊の ロニー・ピーターソンと2人のみ R9イタリアGPではペスカロロ キャリア唯一となるFL獲得 年間4ポイントで17位 翌1972年もFウイリアムズに残留 モデルはQUARTZO R6イギリスGP仕様 予選17位→決勝4位入賞 ティートレイとリアウイングの MOTULのロゴがとても目立ち 他のマーチ勢ファイヤストーンに対し 当該マシンはグッドイヤーのタイヤ
231117 H.PESCAROLO 1971 1回FW12C
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1998 12TH PMA STEWART FORD SF-2 R.BARRICHELLO
スチュワート グランプリ2年目 ルーベンス・バリチェロ STEWART SF-2 1998年レギュレーション変更で タイヤの円周方向に4本(前輪用は3本)の平行な 溝を持つグルーブドタイヤが初めて導入された ブリヂストンタイヤはこの変更にうまく対応し グッドイヤー勢に対しアドバンテージを得た スチュワートはこの利点を生かし ルーベンス・バリチェロが R5スペインGPとR7カナダGPで5位入賞 カナダはJ・マグヌッセン6位とダブル入賞 以降はチームメイトがヤン・マグヌッセンから ヨス・フェルスタッペンに変更されたが グッドイヤー勢の巻き返しもあり ノーポイントに終わった バリチェロはの予選はシングルグリットが2回 16戦中10戦が7列目スタート(13位・14位)を占めて フォードのワークスエンジンで あったがコンストラクター8位 予選の結果がほぼ年間の結果に近く スチュワート2年目も不本意なシーズンとなった バリチェロは翌1999年もスチュワートに残留 スチュワート最後の年にJ・ハーバートともに チーム唯一の1・2フィニッシュを決める #F1-1998年
230504 R.BARRICHELLO 18 1/43FW12C
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1964 13TH SPARK (SCUDERIA CENTRO SUD) BRM P57 T.MAGGS
最高位2位ドライバ― トニー・マッグス 自身最後の入賞 BRM P57 トニー・マッグス 南アフリカ出身 1960年ヨーロッパジュニアフォーミュラで ジョー・シフェールと同点でチャンピオン F1での南アフリカ人初入賞・初表彰台獲得者 過去に同国の表彰台獲得ドライバ―は ジョディ・シェクターと2人のみ 1962年・1963年にクーパーで 2位表彰台を各1回 記録している 最高位2位ドライバ―の1人 1964年はプライベートチームで BRMの型落ちマシンP57で5戦にエントリー この時のBRMのレギュラードライバーは グラハム・ヒル / リッチ・ギンザー マッグスはR6ドイツで予選16位→決勝6位 R7オーストリアで予選19位→決勝4位 いずれも予選下位から追い上げての入賞 オーストリアでの4位が 自身F1での最後の9回目の入賞であった 翌1965年 2年ぶりの開催の地元 南アフリカGPに参戦してF1からは引退した #F1-1964年
230417 T.MAGGS 17 1/43FW12C
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2005 19TH PMA McLAREN MERCEDES MP4-20 P.DE.LA.ROSA
the story will be at a later date.
230327 P.DE.LA.ROSA 1回 10FW12C
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1970 15TH QUARTZO (STP CORPORATION) MARCH 701 M.ANDRETTI
マリオ・アンドレッティ 初の3位表彰台 MARCH 701 1970年マリオ・アンドレッティは 新規参入のMARCH 701の車体で STPの支援を受けて5戦のみの参戦 モデル仕様のR2スペインGPで 予選16位からの追い上げで3位表彰台 マリオにとって初入賞(生涯入賞38回)を 初の表彰台(生涯表彰台19回)で決めた 他の4レースは全てリタイアに終わり 年間順位は15位 4ポイント この年8名ものドライバ―が MARCH701の車体で参戦しており マーチのワークスだけでなく ティレル等のチームも使用 そのドライバーは C.エイモン/J.シフェール/J.シュチュワート R.ピーターソン/F.セーベルなど錚々たる面々 マリオは翌1971年はフェラーリに移籍 自身の初優勝を飾ります #F1-1970年
230228 M.ANDRETTI 18 1/43FW12C
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1969 12TH BRUMM FERRARI 312 C.AMON
資金難フェラーリ 1台エントリー クリス・エイモン途中離脱 1969年フェラーリは資金難で市販車部門が 経営安定のためフィアット傘下に入る状況 スクーデリア・フェラーリはエンツォが 立て直しを図り1台のみのエントリー クリス・エイモンはフェラーリ3年目 R2スペインGPでは予選2位 決勝は途中トップに立つと2位に 40秒以上の差をつけ独走状態であったが エンジンが壊れまたも初勝利ならず フェラーリV型12気筒エンジンの信頼性が低く エイモンは6戦中5戦リタイア R4オランダGPの決勝3位が唯一の完走 翌年からの新しい水平対向12気筒エンジンの トラブルも頻発したことで業を煮やし エイモンはフェラーリを途中離脱 皮肉にもこのエンジンが翌1970年後半から フェラーリに勝利をもたらす モデルはBRUMMのFERRARI 312 ラジエータ付エアスポイラー仕様 エイモンのフェラーリでの約2年半の成績は 27戦 予選 PP3回 決勝 2位1回 3位5回 入賞10回
230215 C.AMON 1/43 FERRARIFW12C
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1978 16TH SPARK SHADOW DN8 C.REGAZZONI
クレイ・レガッツォーニ シャドウ移籍 チーム主力離脱の混乱の中 5位入賞2回 1978年シャドウはチームの主力が離脱 新たにアロウズを立ち上げチーム内が混乱 ドライバーはC・レガッツォーニと H・J・シュトックのベテランコンビ 前半は前年A・ジョーンズが初優勝を もたらしたSHADOW DN8で戦い レガッツォーニはR2ブラジルGPで 予選15位→決勝5位入賞(モデル仕様) R4モナコGPより新車DN9を投入も デザイナーのトニー・サウスゲートが アロウズに移籍に伴い熟成進まず 予選落ちを4回(年間で5回)と不振 年間では5位2回 4ポイントで16位 DN9はアロウズA1とデザインが酷似 どちらもサウスゲートのデザイン SHADOW はデザインの盗用であると訴え 法廷闘争に持ちこみ勝訴したが チームの成績は上昇せず 2人のドライバ―ともシャドウを離脱し 翌1979年レガッツォーニはウイリアムズへ移籍 #F1-1978年
230116 C.REGAZZONI 1978 17FW12C
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1997 14TH PMA BENETTON RENAULT B197 A.WURZ
アレクサンダー・ヴルツ オーストリア出身 デビューイヤー 表彰台 BENETTON B197 1996年ル・マン24時間レースの覇者 ル・マン史上最年少総合優勝記録 22歳4カ月 1997年はベネトンのテスト・ドライバー 同郷のG・ベルガーの欠場でチャンスが巡る 3戦出場で内2戦はTMのJ・アレジに予選で勝ち R9イギリスGPでは予選8位から自身初入賞を 3位表彰台で飾る 通算表彰台3回 入賞14回 モデルはそのイギリスGP仕様 この活躍もあり翌1998年から3年間 ベネトンのレギュラーシートを獲得 途中ブランクもあったが2007年までF1で活躍 2014年~GPDA(F1選手会組織)会長に就任 #F1-1997年
221108 A.WURZ 2.222 8FW12C
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1966 12TH SPARK EAGLE CLIMAX T1G D.GURNEY
F1通算4勝 ダン・ガーニー チーム AAR イーグル設立 ダン・ガーニー アメリカ出身 1962年 ポルシェ 1964年 ブラバム それぞれ初勝利をもたらしている 1966年アングロ・アメリカン・レーサーズ 後のオール・アメリカン・レーサーズ設立 F1での登録コンストラクター名はイーグル クライマックス エンジンで R2ベルギーGPでデビュー(モデル仕様) R3フランス R9メキシコ それぞれ5位入賞 1966年参戦初年度 年間順位は12位 翌1967年はウェスレイクのエンジンで R4 ベルギーGPで優勝を飾る 過去のインディアナポリスGPを除くと アメリカ系コンストラクターの初勝利 ガーニーはこの年ル・マン24時間レースで A.J フォイトと共に優勝 この時の表彰台でシャンパンを振りまいたのが スポーツ史における最初のシャンパンファイト と言われている
221005 D.GURNEY 27 1/43FW12C
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1986 12TH SPARK LOLA THL2 A.JONES
1980年ワールドチャンピオン A・ジョーンズ 最後のマシン 1986年ジョーンズは前年度スポット参戦の チームハース ローラから本格復帰 ハースはアメリカのチームであったが ローラ名義でコンストラクターを登録 P・タンベイとのベテランコンビ R3サンマリノよりニューマシンの THL2を導入 デザイナーはマクラーレンの 現開発責任者のニール・オートレイ エンジンもハート→フォードに変更 後半戦にマシンの熟成が進み 予選最高はR12ハンガリーの10位→決勝R R13オーストリアで予選16→決勝4位 TMのタンベイ5位で初入賞をダブルで飾った ジョーンズは続くR14イタリアでも 予選18位→決勝6位入賞 結果これが ジョーンズ生涯最後の39回目の入賞 最終戦地元オーストラリア終了後 F1から(2度目の)引退を表明した チームハース ローラもメインスポンサーの ベアトリス・フーズ(アメリカ総合食品)が 撤退したため 1年半の短命で姿を消した アラン・ジョーンズ(オーストラリア) 決勝出走回数 116回 予選最高位 PP ( 6回) 決勝最高位 優勝 (12回) 表彰台獲得回数 (24回) ファステストラップ(13回) WORLD CHAMPION 1980年 #1986 #F1最後のマシン
A.JONES 15 1/43 LOLAFW12C
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1979 14TH SPARK BRABHAM BT48 N.LAUDA
ニキ・ラウダ1度目の引退 前年度は2度の優勝7度の表彰台獲得 ブラバムのラウダであったが 1979年は一転して不振に陥る 予選最高はR7モナコの4位(モデル仕様) 決勝最高はR13イタリアの4位 シーズン中盤は自身ワーストの9連続リタイア 予選でもTMのN・ピケに負ける事も多かった チームはアルファロメオエンジンから フォードに変更しBT49をR14カナダから導入 しかしこの車体に失望したラウダは フリー走行後に突如引退を表明 レースに対するモチベーションの低下と V12→V8エンジン変更に対する 迫力の不足も理由の1つであった 入賞2回で1973年以来の表彰台なし 年間順位は14位に終わる 引退後ラウダ航空の経営に従事するも 3年後の1982年マクラーレンにてF1に復帰する #F1-1979年
N.LAUDA 5 1/43 BRABHAMFW12C
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1975 15TH PMA MARCH 751 M.DONOHUE
マーク・ダナヒュー アメリカ出身 1973年 インディ500 ウイナー 1974年 Can-Am チャンピオン 愛称はキャプテン・ナイス エンジニア兼ドライバ― 1974年で一度は引退を発表も ペンスキーが説得してF1参戦を継続 当初ペンスキーのシャーシPC1で出場 R10のイギリスより シャーシ変更 MARCH 751で参戦 そのイギリスで予選15位→決勝5位 しかし変更したMARCH751で R12オーストリアGPの日曜ウォームアップ タイヤがパンクしてコースに投げ出され 残念ながら2日後に帰らぬ人となった 享年38歳 F1通算14戦 3位表彰台1回 参戦初戦 マクラーレンで表彰台獲得 🏁マーク・ダナヒュー (アメリカ) 【決勝出走回数】14回(入賞3回-表彰台1回) 【予選最高位】 8位 1971年 マクラーレン R10 カナダGP 【決勝最高位】 3位 1971年 マクラーレン R10 カナダGP #F1-1975年
M.DONOHUE 1975 2.160 28FW12C
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1994 19TH PMA SAUBER MERCEDES C13 K.WENDLINGER
エンジンにメルセデスのエンブレムが付き チーム名もSAUBER MERCEDESとした1994年 K・ベンドリンガーはチーム2年目 TMは新人のH・H・フレンチェン 序盤3戦予選はベンドリンガー全敗 レースではR1ブラジル6位 R3サンマリノで4位と面目を保つ しかしR4のモナコのフリー走行で 大クラッシュを起こし昏睡状態に 2度と意識が戻ることは無いとまで言われたが 奇跡的に事故から25日目に意識が戻った 終盤2戦復帰を望んだが体調が不完全のため J.J.レートが代役で走行 ベンドリンガーの事故後 チームは自主的にコックピット横に サイドプロテクターを装備 1996年から義務化となった 表彰台や優勝を望み事前にテストを重ねて 臨んだサウバーだったが不発に終わり 業を煮やしメルセデスは ザウバーとの契約を解除 1995年はマクラーレンとタッグを組みます #1994
K.WENDLINGER 29 1/43 SAUBERFW12C
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1994 18TH+α SPARK LOTUS 109 E.BERNARD
エリック・ベルナール最後のマシン 資金難のロータスはエースドライバ―の J・ハーバートをブリアトーレに金銭譲渡 それに伴いR14ヨーロッパGPで J・ハーバートとトレードの形で ベルナールはリジェ→ロータスへ移籍 モデルのヨーロッパGPは予選22位→決勝18位 ベルナールのロータスは1戦限りで 終盤2戦はM・サロがドライブ ベルナールは翌1995年 ラルースでエントリー予定も チームがこちらも資金難で消滅 フランスの若手有望ABCDの内 B ベルナール C コマス D ダルマス の3人は奇しくも1994年でF1を去ります #F1
E.BERNARD 11 1/43 LOTUSFW12C