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1973 (33RD) SPARK Iso-Marlboro IR T.SCHENKEN
フランク・ウイリアムズ FWシリーズ始祖 Iso-Marlboro IR ティム・シェンケン 1973年ウイリアムズチームは R4スペインGPよりニューマシンで イタリアのスポーツメーカー イソと マールボロのスポンサー名をあしらった イソ-マールボロ・IRを導入 イソ-マールボロ・IRはFW01とは 呼ばれなかったものの 現在まで続くウイリアムズチームの FWシリーズの始祖でもある このマシンは3台製作されFW01~03となり その後1975年に製作されたFW04から 数字が形式を表す命名法を採用 2024年度はFW46となっている ティム・シェンケン(オーストラリア) 前年度1972年でサーティスを離れ 1973年はF1シートは喪失していたが R14カナダGPにスポット参戦 決勝は14位 チームメイトのハウデン・ガンリーが チーム2度目の6位入賞をしている モデルはスパーク シェンケンがシーズン唯一の出走の R14カナダGP仕様 予選24位→決勝14位 タバコブランドMarlboro仕様 資金難であったウイリアムズチームは 2NDシートを資金持込みドライバー用として 8名がドライバーエントリー シェンケンは8人中の7番目のドライバー
240302 T.SCHENKEN 1973 26FW12C
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1974【WORLD CHAMPION】 McLAREN FORD M23 E.FITTIPALDI〖🏆3〗
🔲🔲🔲1974🔲🔲🔲 👑WORLD CHAMPION👑 McLAREN FORD M23 🟥⬜E.FITTIPALDI⬜🟥 🔲🔲🔲全15戦🔲🔲🔲 【出走】15回【PP】2回 【優勝】 3回【FL】0回 エマーソン 2度目のチャンピオン
231120 E.FITTIPALDI 5 1/43FW12C
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1982 5TH SPARK McLAREN MP4/1B N.LAUDA〖🏆2〗
2年ぶり復帰のニキ・ラウダ 混戦の1982年2勝 McLAREN MP4/1B 1979年末に突如引退したラウダ 1982年マクラーレンで電撃復帰 チームメイトはジョン・ワトソン 当初復帰に関してはマクラーレン側も ブランクや怪我の後遺症を考えて 開幕戦から4戦目までのスポット契約 開幕戦南アフリカGPで4位入賞すると R3アメリカWESTで予選2位より優勝 ファステストラップも記録 この年の3番目のウイナー(全11名) その後R10イギリスGPで2勝目をあげ チームもワトソンと合わせ合計4勝 ラウダの復帰と共にマクラーレンも 復活を印象づけるシーズンとなった モデルはスパーク 台座はMP4-1BとなっているがMP4/1Bの間違い ラウダの復帰初勝利となった R3アメリカWEST GP使用 予選2位→決勝WIN Marlboroデカール加工をしてあります 1980年以降のマクラーレンで ミニチャンプス唯一発売していないのが 1982年のマクラーレンMP4/1B
231104 N.LAUDA 1982 1回FW12C
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1973 19TH SPARK (WILLIAMS) ISO-Marlboro FX3B H.GANLEY
ウイリアムズF1の前身Iso-Marlboro ハウデン・ガンレイ F1ラストポイント ウィリアムズF1の前身である フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズは イタリアのスポーツカーメーカーのイソと フィリップ・モリス社がスポンサーとなり 1973年Iso-Marlboroのマシンを投入 ハウデン・ガンレイはニュージーランド出身 1971年・1972年はBRMでF1出場 オートスポーツ誌に掲載する写真撮影のため 許可なく他チーム(ポリトイ)を走行させたことで 原因でBRMを解雇されIso-Marlboroに移籍 Iso-Marlboroはシーズン通して9名の ドライバ―をエントリーしたが ガンレイのみがフル参戦 R14カナダGPでこの年唯一の6位入賞 キャリア最後の5度目の入賞 ガンレイは翌1974年にマーチで2戦エントリー 後半戦で日本のチームMAKIから参戦するも 決勝進出はできなかった モデルはSPARK Marlboroデカールが別で添付で貼り付け 独得な3色のカラーリング Iso-Marlboroの活動は翌1974年まで
231019 H.GANLEY 1973 21FW12C
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1999 5TH HOT WHEELS FERRARI F399 M.SCHUMACHER〖🏆2〗
ミハエル・シューマッハ骨折で欠場も 終盤2戦に驚異の復活 FERRARI F399 1999年ミハエル フェラーリ4年目 チームメイトはエディー・アーバイン R3サンマリノR4モナコで連勝 シーリーズをリードするも M・ハッキネン(マクラーレン)に 逆転され迎えたR8イギリスGP 予選2位より決勝開始直後 赤旗が 出ている中チームによる伝達も遅れる中 リアのブレーキトラブルでタイアバリアに 直角に突っ込み右足を骨折で長期離脱 残りシーズン欠場も噂されたが R15マレーシアGPで予選PPで復活 決勝はチャンピオン争いのアーバインに 譲り自身は2位表彰台で驚異の復活 最終R16日本GPもPP獲得 決勝はアーバインにタイトルは獲得 させることはできなかったが フェラーリの1983年以来の コンストラクターチャンピオン獲得に貢献 モデルは HOT WHEELS 台座をミニチャンプス仕様に載せ替え Marlboro仕様に変更しています こちらはMuuseoでもお馴染みの 大阪なんばにある アダムスキー (当時サイケデリア)で2008年9月に購入
230920 M.SCHUMACHER 1999 1回FW12C
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1975 (38TH) SPARK WILLIAMS FW03 D.MAGEE
F1通算1戦限りの決勝 ダミアン・マギー WILLIAMS FW03 ダミアン・マギー イギリス(北アイルランド)出身 1975年R7スウェーデンGPで 離脱したA・メルッザリオの代わりに 急遽フランク・ウイリアムズから出走 チームメイトもレギュラードライバーの ジャック・ラフィーの欠場の代役で イアン・シェクターがエントリー マギーは予選を22位で通過 決勝はトップから2周遅れの14位完走 翌年1976年にRAMでエントリーも予選落ち マギーがF1での出場はこの1戦限り 当時のフランク・ウイリアムズは資金難で スウェーデンGPでは マギーのマシンのウインドスクリーンを グレーのテープで補強しており モデルでも再現されている
230827 D.MAGEE 1975 20FW12C
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1980 11TH SPARK McLAREN M29 J.WATSON
マクラーレン2年目ジョン・ワトソン チームも不振 McLAREN M29 1980年ワトソンはマクラーレン残留 チームメイトは新人アラン・プロスト 開幕戦・R2とプロストに予選で敗れ 決勝もプロストが連続入賞の中 リタイア・11位と苦戦を強いられる R4アメリカWESTでは決勝4位入賞も R6モナコでは自身初の予選落ち ワトソンの生涯2度の予選落ちは いずれもモナコ(1980年・1983年) しかしながら初入賞もモナコ(1974年) 初のPPもモナコ(1977年)でもある R13カナダでシーズン2度目の4位 プロストに1ポイント差で年間上回り この年6ポイントで並んだ5名の ドライバ―の上から2番目の年間11位 翌1981年プロストがルノーに移籍の中 マクラーレンに残留 チームに久々の勝利をもたらす
230811 J.WATSON 1980 7FW12C
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1975 (31ST) SPARK WILLIAMS FW03 A.MERZARIO
イソ-マールボロから改名 ウイリアムズ・FW メルッザリオ WILLIAMS FW03 1975年前年までイソ-マールボロとして 参戦したマシンをウイリアムズ・FWに改名 厳密には現在のウイリアムズチームとは 異なるものの初めてウイリアムズの 名を付けたマシンであった FWはフランク・ウイリアムズの略 ドライバ―は前年同様の アルトゥーロ・メルツァリオ チームメイトはジャック・ラフィー FW03は既に時代遅れのマシンと なりつつあり資金難で開発も進まなかった メルツァリオは予選最高は11位 決勝は全てリタイア R5モナコGPでは前GPのスペインで 観客を巻き込む大事故があった為 決勝は18位までと急遽決定され ウイリアムズは2台とも予選落ち メルッザリオはR6ベルギーGPをもって ウイリアムズを離れ終盤のR13イタリアGPは フィッテパルディのコパシュカーで 1戦のみスポット参戦で決勝11位完走 #1975年
230727 A.MERZARIO 1975 20FW12C
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1980 18TH SPARK ALFA ROMEO 179 B.GIACOMELLI
ブルーノ・ジャコメリ 初入賞& 唯一のPP獲得 ALFA ROMEO 179 1980年第2期アルファロメオの 本格フル参戦1年目 ドライバーは 開発から携わったB・ジャコメリ チームメイトはパトリック・デュパイエ (後にV・ブランビラ/ A・チェザリス) 開幕戦アルゼンチンGP 予選20位から混戦生き残り5位入賞 2期アルファロメオとジャコメリの初入賞 ジャコメリの生涯F1入賞は6回 主にアルファロメオV12エンジンの 信頼性の不足の起因により決勝は 14戦中 完走僅か3回も5位入賞2回獲得 予選では速さを見せ9回のシングルグリット 最終戦アメリカEAST GPでは 生涯自身唯一となるPPを獲得 PPから31周目までリーダーラップも記録 シーズン途中のテストでチームメイトの パトリック・デュパイエが事故で他界した中 チームに希望と勇気を与える PPと31周のトップ走行であった https://muuseo.com/FW12C/items/1579?theme_id=34513
230624 B.GIACOMELLI 1980 23FW12C
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1986 9TH IXO FERRARI F186 M.ALBORETO
フェラーリ3年目の不振 アルボレート FERRARI F186 1986年フェラーリは前年の156/85を基に 修正を加えたF186を開幕戦から投入 設計にコンピューター支援設計CADを導入 コックピット内をデジタルメーターに変更 頭上のロールバーをエンジンカウルで覆い リアウィングへの整流などを実施 前年度チャンピオン争い最終年間2位の アルボレートは一転不振のシーズン 表彰台はR12オーストリアの2位のみ 入賞も4回で14P 年間順位は9位 チームメイトのステファン・ヨハンソン (23P 年間順位5位)にも敗れた マシンに失望したアルボレートは 当時N・ピケとN・マンセルの不仲が 表面化したウイリアムズ・ホンダに 移籍を企て2人のどちらかが移籍の場合 ウイリアムズに加入が決まっていたが 最終的にどちらも移籍せずに 翌1987年もフェラーリに残留 F186のアルボレート車は量販化が無い為 HACHETTE(IXO)フェラーリF1コレクションの ヨハンソン車→アルボレート車に修正 PMAのチェッカー台紙に載せ替え実施
230616 M.ALBORETO 27 1/43FW12C
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1980 16TH SPARK McLaren M29 A.PROST
4 TIMES WORLD CHAMPION アラン・プロスト デビュー McLaren M29 1979年ヨーロッパF3 13戦9勝 圧倒的勝利でチャンピオン獲得 マルボロの支援もあり マクラーレンのテストを受けて 同時に参加したケビン・コーガンのみならず レギュラードライバーのジョン・ワトソンより 速いタイムを出し1980年のシートを獲得する 1980年開幕戦アルゼンチンGP 予選でワトソンを上回り12位を獲得 決勝はデビュー戦にて6位入賞 プロストの生涯入賞回数は128回 その中で表彰台が106回 4位以下の入賞は22回と少ない 続くR2ブラジルでも決勝5位入賞も R3南アフリカの予選でマシントラブル起因の クラッシュで手首を負傷しR4も欠場 年間では4度の入賞5ポイント年間15位 ワトソン6ポイント 年間11位わずかに及ばず 翌1981年はマクラーレンとの複数年契約が あったが地元ルノーからのオファーを受け移籍
230612 A.PROST 1980 8FW12C
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1998 2ND PMA FERRARI F300 "TOWER WING” M.SCHUMACHER〖🏆6〗
シューマッハの"TOWER WING”仕様は 限定数が9.999個 E・アーバインの3倍 現在では限定数は1.000個以下が通常で 当時のシューマッハとF1モデルカーの 人気が伺えるが現在でもMarlboroデカール 仕様の場合は大きな値崩れも無い このFERRARI F300のモデルを持って ミニチャンプスでの現行フェラーリの 量販F1モデルの販売が終了 以降は1999年よりマテル社の HOT WHEELS ブランドでの発売 また2015年からはBBURAGO並びに LOOK SMARTでの販売となっている 所持しているF1モデルカーで唯一 1998年のモデルだけが全チーム 全ドライバ―ともミニチャンプスのみ モデルカーの台紙の大きさが 揃っているので1998年のルームの アイテムのミテクレは一番良い いつかF1のモデル全ブランドの 統一台紙・台座で撮影の野望があるが 当分先になってしまいそうです
230522 M.SCHUMACHER "TOWER WING″ 6回FW12C
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1980 (32ND) YAXON ALFA ROMEO 179 P.DEPAILLER
パトリック・ドゥパイエ テスト中に散る ALFA ROMEO 179 前年の1979年シーズン途中に ハンググライダーの事故で両足を骨折 リジェを離れ1980年はアルファロメオに移籍 チームメイトはブルーノ・ジャコメリ 序盤2戦の予選で23位・21位と苦戦 その後ドゥパイエの提案もあり 軽量化を含む大幅な改良を実施 R3南アフリカ 予選7位 R4アメリカW 予選3位と大きく進歩を見せたが 決勝は信頼不足もあり全てリタイア 後半戦に向けたドイツでのテスト中 コースアウトでクラッシュ 残念ながら帰らぬ人となった この年同郷フランスのアラン・プロストが F1デビューを果しドゥパイエは パドックなどで面倒をみていた そのアラン・プロストの結婚式当日に ドゥパイエ は帰らぬ人となる 悲しみの事故でもあった モデルはF1モデルで唯一の所持のYAXON F1通算2勝のドゥパイエ 富士スピードウェイで行われた 1976年・1977年の日本グランプリでは いずれも表彰台に上がっている 🏁パトリック・ドゥパイエ(フランス) 【決勝出走回】 95回 入賞36回-表彰台19回 【予選最高位】 PP 1974年 ティレル R7スウェーデン 【決勝最高位】 優勝(2回) 1978年 ティレル R5モナコ 1979年 リジェ R5スペイン 【ファステスト】 4回
230426 P.DEPAILLER 22 1/43FW12C
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1990 5TH LOOK SMART FERRARI 641/2 N.MANSELL〖🏆1〗
美しきフェラーリ FERRARI 641/2 N・マンセル 1990年フェラーリはニューマシン FERRARI 641を開幕戦より投入 R3サンマリノGP マイナーチェンジが E・スカラブローニ S・ニコルズより 施されFERRARI 641/2とされた モデルはR6メキシコGP仕様 予選4位のマンセルは終盤3位を走行 2位走行のG・ベルガー(マクラーレン)を アクセル5速全開で180度旋回する 最終難関コーナー ペラルターダで アウト側から豪快に抜き2位に浮上 チームメイトのA・プロストと フェラーリ1・2フィニッシュを決めた 2015年にメキシコGPが復活した際に ペラルターダは低速コーナーに改修され 〖ナイジェル・マンセル・ターン〗 と命名され現在に至る このメキシコGPのサーキットは エルマノス・ロドリゲス・サーキット 1960年代のメキシコの誇るドライバ― レース中に残念ながら事故死している ペドロとリカルドのロドリゲス兄弟に 対して哀悼の意を込めて命名されている 1965年のホンダとグッドイヤーの ドライバ― リッチ・ギンザーによる F1初勝利のサーキットでもあります #F1-1990年
230402 N.MANSELL 3回 700FW12C
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1998 4TH PMA FERRARI F300 "TOWER WING” E.IRVINE
1998年序盤2戦でマクラーレンに 遅れを取ったフェラーリは毎戦 空力中心にアップグレードを実施 R4サンマリノGPではこの年の トレンドとなりつつあった "TOWER WING”をフェラーリも導入 なりふり構わずの必死さが感じられた フェラーリのタワーウングは ティレル・プロストを同じ1本支柱の オーソドックなタイプで他のチームと 最大の違いはこのミニウイングにまで Marlboroのスポンサーロゴを添付 R4サンマリノGPのリザルトは E・アーバインが3位チームメイトの M・シューマッハが2位で 一定の効果があったと思われる 1998年のアーバインの通常モデルは 所謂チェッカー台紙であるが タワーウイング仕様は赤い台紙で 限定数は3.333 Marlboro加工しています #F1-1998年
230316 E.IRVINE "TOWER WING″ 3.333FW12C