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1975 19TH SPARK HILL GH1 T.BRISE
イギリス期待の星 トニー・ブライズ グラハム・ヒルとともに散る トニー・ブライズ イギリス出身 同年同郷にトム・プライス(シャドウ)がおり 90年代のマーティン・ブランドル マーク・ブランデルに似てアナウンサー泣かせ 1973年イギリスF3チャンピオン 1975年はF2に参戦するJ・ラフィーの代役で R4スペインGPウイリアムズでデビュー(7位完走) R6ベルギーGPよりチームヒルから参戦 予選ではR・シュトルメンや後のチャンピオン A・ジョーンズらを圧倒しチームメイトに全勝 ヒルでの2戦目のR7スウェーデンGPでは 予選17位→決勝6位入賞 GH1のマシン初ポイント ヒル初のオリジナルマシンで熟成の低い中 R12イタリアGPで予選6位を獲得するなど イギリス期待の星となる活躍であった シーズン終了後 翌年のマシンGH2でテストを終えた帰路 チームオーナーのグラハム・ヒルが 操縦する小型飛行機が墜落 同乗していたトニー・ブライズも帰らぬ人となった 享年23歳の早すぎる死であった 前述の同郷トム・プライスも1977年に レース中で事故死しているが 後にブライズの妻とプライスの妻が親しくなり 共同でアンティークショップを経営している
230211 T.BRISE 1975 23FW12C
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1975 (22ND) SPARK HILL GH1 R.STOMMELEN
チーム ヒル 念願の自製シャーシ導入 初戦R・シュトルメン 観客巻き込む事故 ワールドチャンピオン G・ヒルが立ち上げた チーム ヒルは1975年ローラ製のシャーシから 念願の自製シャーシをR4スペインGPより導入 ロルフ・シュトルメンは予選9位と奮闘 しかし決勝は走行中にリアウイングが ウイングステーの破損により突如脱落 コントロールを失い観客席に飛び込み 観客を巻き込む死亡事故が発生 シュトルメンも重傷で戦線離脱した エマーソン・フィッテパルディ(マクラーレン) このスペインGP コースの安全不備を理由に ドライバ―の中で唯一レースを ボイコットしておりそんな中での事故であった シュトルメンは終盤2戦に復帰も成績は低迷 モデルはR13イタリア予選23位→決勝リタイア シーズン終了後 G・ヒルの事故死により チーム ヒルは残念ながら消滅した #F1-1975年
220927 R.STOMMELEN 1975 22FW12C
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1975 17TH SPARK HILL GH1 A.JONES
アラン・ジョーンズ F1初ポイントは チーム ヒル最後のポイントHILL GH1 A・ジョーンズのデビューは1975年 ヘスケスで4戦出場も完走は1回のみ R8オランダGPよりワールドチャンピオン G・ヒルが立ち上げたチーム・ヒルより参戦 TMはトム・ブライズ 予選ではトム・ブライズに全敗も R11ドイツGPでは予選21位→決勝5位入賞 A・ジョーンズのF1初入賞であるが チーム ヒル最後のポイントでもあった ジョーンズの生涯入賞回数は39 ヒルでは4戦出走全て完走も R・シュトルメの復帰に伴いチームを離脱 翌1976年はサーティスより参戦 #F1-1975年 #F1ファーストポイント #F1
A.JONES 1975 22 1/43FW12C
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1975 (28TH) SPARK HILL GH1 G.HILL
2度のワールドチャンピオン グラハム・ヒル 最後のマシン 1975年G・ヒルは自らのチームHILLの 3年目にして念願の自製シャーシ完成 3戦まではローラ製のシャーシで出場 R4スペインGPからHILL GH1を導入し R・シュトルメンが予選9位を獲得(決勝R) R5モナコGPではG・ヒルが自らドライブ 過去5度のモナコGPウイナーであったが 予選落ち(18位までが決勝で21位) G・ヒルはこのGPをもってドライバ―から 引退をしてチームの運営に専念 GP出場176戦は当時の最多決勝出走記録 シーズン終了後次年度に向けたテストの帰路 G・ヒル自らが操縦する小型飛行機の着陸失敗 同乗していたトニー・ブライズらとともに 残念ながら帰らぬ人となってしまい これに伴いチームHILLも解散となった この時息子デイモン・ヒルは15歳 グラハム・ヒル (イギリス) 決勝出走回数 176回 予選最高位 PP(13回) 決勝最高位 優勝(14回) ファステストLAP(10回) ワールドチャンピオン 2回 1962年 BRM 9戦4勝 1969年 ロータス 12戦3勝 #F1-1975年 #F1最後マシン
G.HILL 1975 23 1/43FW12C
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1975 (49TH) SPARK HILL GH1 F.MIGAULT
フランソワ・ミゴール フランス出身 1975年はワールドチャンピオン G.ヒルの チームHILLよりスポット参戦 R4スペインGP チームHILLは それまでのローラの車体から 念願の自製のGH1の車体で出走 しかしTMのR・シュトルメンが決勝 走行中にリアウイング吹っ飛び 観客を巻き込む痛ましい事故が発生 ミゴールは予選22位→決勝 周回不足 その後は R6ベルギーGP 予選22位→決勝リタイア (モデル仕様)の2戦のみの参戦 F1通算16戦でポイント獲得は無し ミゴールはフランスのル・マン出身 ル・マンには1971年~2002年まで参戦 最高は1976年の総合2位 2002年は日本のKONDO Racingより出走 #1975
F.MIGAULT 1975 23 1/43FW12C
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1973 (26TH) SHADOW DN1 (EMBASSY HILL) G.HILL
2度のWC G.ヒルが自らのチーム エンバシー ヒルを立ち上げ参戦 1973年は初参戦SHADOWのマシン購入 R4 スペインGPから出走 1台体制 (モデル仕様 予選22位→決勝 R) 本家SHADOWが2度の表彰台獲得も ヒルは決勝最高位は9位と苦戦 見せ場はR8フランスGPで SHADOWの二人に予選で勝ったくらい (予選16位→決勝10位) EMBASSYはタバコブランド ヒルのチームは1974年はローラ製 1975年はオリジナルのシャーシで参戦 SPARK F1の初期に発売したモデル グラハム・ヒルの名前につられて購入した 記憶があります #F1-1973年
G.HILL 1973 25 1/43FW12C