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「フリーダ・カーロの日記」 #2
「フリーダ・カーロの日記」 2023年 堀尾 真紀子解説 星野 由美・細野 豊 訳 富山房刊 フリーダ・カーロ(1907~1954)の短い人生の晩年期の36~7歳の頃に始まり、 没年(1954年)の47歳までの人生最後の10年間に綴られた日記だ。 1940年代の終わりごろになるとフリーダの健康状態はさらに悪化し、入退院を繰り返すようになった 1950年には右足の血液の循環が不足して指先が壊死したため、切断手術を行っている。 1951年以降は痛みのため鎮痛剤無しでは生活がままならなくなり、 特徴であった緻密なテクニックを駆使した作品を作り上げる事も難しくなった。 1953年8月には右足の痛みが鎮痛剤では耐えられないほどになったため、 主治医は膝までの切断を取り決めた。 最初のページはそのおりの日記で、 「何のために足がいるの 私には翼があるのに」と綴られている。 また、1954年2月の日記にフリーダは次のようにも綴っている。 「6か月前、脚を切断され、一世紀にもおよぶと感じられるほどの長く、耐えがたい苦痛に見舞われて、私は時々正気を失った」 生涯30数回に及ぶ手術をしたとのこと、 肉体と精神の痛みに抗わず、受容する力を身につけたフリーダの作品の多くは、 レタブロ(奉納絵)の手法を取り入れた土着的な自画像で、 約200点の作品が残された。
フリーダ・カーロ 著 2023年 6月0318
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「フリーダ・カーロの日記」 #1
「フリーダ・カーロの日記」 2023年 堀尾 真紀子解説 星野 由美・細野 豊 訳 富山房刊 フリーダ・カーロ(1907~1954)の短い人生の晩年期の36~7歳の頃に始まり、 没年(1954年)の47歳までの人生最後の10年間に綴られた日記だ。 6歳の頃、小児麻痺にかかった上に、 1925年18歳のとき乗っていた木造バスが路面電車と衝突し、大惨事に見舞われる。 背骨が折れ、右足と骨盤が砕け、壊れたバスの鉄棒が下腹部を貫通、 瀕死の重傷を負った。 後遺症がひどくなって鋼製コルセットを1944年に使い始めると、 皮製、石膏製など、30個近くのコルセットを使用することになった。 肉体と精神の痛みに抗わず、受容する力を身につけたフリーダの作品の多くは、 レタブロ(奉納絵)の手法を取り入れた土着的な自画像で、 約200点の作品が残された。 1946年に国立芸術宮殿全国展絵画部門で《モーゼ》が文部大臣賞を受賞。 1953年現代美術画廊でメキシコ国内で初の個展を開催する。 生涯30数回に及ぶ手術をし、後遺症に苦しんだ。 1953年 壊疽(えそ)になってしまった右足の膝から下を切断した。 1954年7月13日、肺塞栓(そくせん)症のためコヨアカンの「青い館」にて死去。 享年47歳。
フリーダ・カーロ 著 8000円 2023年 6月0318
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皇居東御苑 → 蒲田菖蒲園・あやめ橋
「ガウディとサグラダファミリア展」を観ようと 梅雨空の東京駅を出て、大手門から皇居東御苑~平河門へ向う。 途中、思いもよらぬ菖蒲池に出逢いました。 満開の菖蒲池をゆっくり歩いて20分。 平河門の橋を渡り、お濠沿いに歩くと竹橋・東京近代美術館に至ります。 私の住む蒲田にも、その昔「蒲田菖蒲園」がありました。 蒲田駅から歩いてほんの数分、現在の蒲田小学校のあたりに、 1902(明治35)年、菖蒲園が開設された。敷地は一万坪。 この菖蒲園の見物客のために「蒲田駅」が開業し、 蒲田は行楽地として大いに賑わいを見せていくことになった。 ほかにも、江戸時代に造られた梅屋敷(公園)などもあり、歴史好きを楽しませてくれる。 我家の睡蓮も咲きはじめ、梅雨の鬱陶しい気分が慰められる。
菖蒲池 横浜植木 皇居東御苑0318
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小樽のにしん御殿 「銀鱗荘」
今日の日経に、うれしいニュースが載っていました。 ニトリが挑む北海道・小樽再生 歴史的建造物で街おこし ニトリが小樽市で手掛ける観光施設/旅館「銀鱗荘」が、国の登録有形文化財の指定を受けた。 銀鱗荘は石狩湾を見下ろす高台に立つ温泉旅館。 建物は、小樽市に隣接する余市町で明治時代に建てられたニシン御殿で、 小樽市の歴史的建造物に指定されている。 銀鱗荘を建てたのは明治期にニシン漁や銀行経営などで財をなした「猪俣家」だ。 ニュースを読みながら、なかにし 礼 の歌詞が頭をよぎります 海猫(ごめ)が鳴くから ニシンが来ると 赤い筒袖(つっぽ)の やん衆かさわぐ 雪に埋もれた 番屋の隅で わたしゃ夜通し 飯を炊く あれからニシンは どこへ行ったやら 破れた網は 問い刺し網か 今じゃ浜辺で オンボロロ オンボロボロロー 沖を通るは 笠戸丸 わたしゃ涙で にしん曇りの 空をみる '17年に訪れた、余市の「福原漁場」の画像を付けました
小樽再生 余市の「福原漁場」 余市0318