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伊賀上野城
伊賀上野城西の丸と後世に呼ばれることとなる丘陵には伊賀の守護大名である仁木氏館(伊賀の守護所)があった。しかし仁木氏は室町時代半ばから衰退が始まり、戦国時代には名ばかりの守護となっていたため領国経営は機能していなかった。 そのような状況の下、豪族らが守護所を襲撃したため、仁木一族は信楽へ逃れ、大名としての仁木氏は一時滅亡した。後に仁木義視が織田信長の援助で守護に返り咲いたが、国人の支持を得られず再び追放され伊賀は反織田の姿勢を明確にした(伊賀惣国一揆)。 天正7年(1579年)9月、伊勢の織田信雄が8千兵を率いて伊賀平定(天正伊賀の乱)に乗り出したが、伊賀衆の前に敗れ、天正9年(1581年)9月に信雄の父織田信長は4万5千の兵で伊賀を平定。信雄の家臣である滝川雄利を伊賀守護とした。雄利は大寺院、丸山城、滝川氏城を改修し伊賀を支配した。本能寺の変後豊臣政権となると、天正12年(1584年)10月に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の家臣脇坂安治が伊賀守護となったが、天正13年(1585年)5月に摂津に移封された。 脇坂安治の移封から3ヶ月後の8月、大和郡山城から羽柴の姓を賜った筒井定次が伊賀へ移り住んだ。定次は天正伊賀の乱で焼け落ちた平楽寺、仁木古館跡に築城することにした。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると定次は東軍の徳川家康方につき会津征伐に参戦し、上野城は筒井玄蕃が留守居役としたが、上野城を西軍の摂津高槻城主新庄直頼・直定父子に攻撃された際、筒井玄蕃は戦わず城を明け渡し高野山に逃亡した。定次は家康の許しを得て直ちに軍を引き返し、城を再奪取し事なきを得た(上野城の戦い)。 関ヶ原の戦い後、新庄直頼父子は改易され定次は本領安堵、伊賀上野藩を立藩した。しかし、家康は大坂城を包囲する必要に迫られ、近江彦根城同様重要な地点である上野城を強固にすべく、家康は定次をかねてから不行状で島清興などの重臣に多く出奔され失策の多いのを理由に、慶長13年(1608年)6月に領地没収、磐城平城主鳥居忠政のもとに預けた(筒井騒動)。一説には、定次がキリシタン大名で棄教を聞き入れなかったためとも言われている。 同年8月、伊予宇和島城から築城の名手とされる藤堂高虎が伊賀に入国した。大坂城に対抗する以外にも、大和・紀伊を抑えるためにも高虎の力が必要となったと思われている。高虎は慶長16年(1611年)正月より、上野城を大幅な改修に着手、大坂方に対抗するために特に西方面の防御に力をそそいだ。当時、「比高塁摂坂の城塁より見事なり」と記されており。この「摂坂の城」とは豊臣時代の大坂城のことを指しており、高石垣の規模の大きさを物語っている。南側を大手とし、堀を深く、南に二ノ丸を構築した。天守の位置を西側に移動し、今治城天守を移築しようとしたが、天下普請となった丹波亀山城に献上したため新規に5層天守を建設した。筒井時代は、上野城は大坂城を守る出城としての機能を持った城であったのに対して、藤堂時代は大坂城を攻めるための城というまったく正反対の立場をとった城とされている。 慶長19年(1614年)、元和元年(1615年)の2度に渡る大坂の陣で家康の勝利となり、豊臣氏の滅亡で堅固な城が必要なくなり天守は再建されなかった。本丸に櫓は建てられなかったが、外堀の土塁上には、二層櫓が二棟、単層櫓が八棟、計十棟の櫓が建てられ、長さ二十一間、両袖に七間の多聞櫓をつけた東大手門、西大手門も建てられた。高虎は大坂の陣が終わった後、交通の便利がいい津城を本城とし、上野城を支城とした。 一国一城令で上野城は伊賀の城として存続が認められると、高虎は弟の藤堂高清を城代とし、高清の死後は藤堂元則が城代となり、文政8年(1825年)に藤堂高猷が最後の城主となるまで藤堂氏の世襲とした。
平山城 300円 三重県(伊賀国)入江 徹也
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関ヶ原(主な西軍の陣所)
宇喜多隊は石原峠を背後に南東の方角に向け山の尾根の先。西軍側から見てその右に戸田・平塚ら。さらにその右、松尾山の麓に大谷・朽木・小川・脇坂・赤座直保ら。松尾山に小早川。石田隊は小関山に本陣を置き、島左近・舞兵庫・蒲生頼郷ら先手は小池村の前に柵を立て陣を敷く。毛利・宍戸元継・長宗我部・鍋島勝茂らは栗原山。吉川・福原広俊・長束・安国寺は南宮山。宇喜多隊の左に小西・島津・織田信高。 先陣の福島隊は宇喜多隊へ向かい、井伊・松平隊は福島隊を出し抜いて島津隊と交戦。石田隊には細川・黒田・加藤・田中・生駒一正・竹中重門の各隊が殺到し大谷隊には織田有楽斎長孝父子・藤堂隊が向かう。辰の時に始まった戦闘は巳午(10~12時)になっても勝敗が決しなかった。 黒田長政の手引きで裏切る手筈であった小早川隊が動かないのを不審に思った家康は様子見のため小早川隊の陣に向け銃撃を行うが、それでも変化は表れない。しかし藤堂高虎に内通していた脇坂とともに小川・朽木・赤座の各隊が大谷隊に攻めかかると小早川隊もこれに続く。吉継は切腹、平塚・戸田は討ち死し、宇喜多隊は敗走。石田隊は大谷隊を突破した織田・藤堂隊をも相手にしてしばらく持ちこたえるが蒲生以外諸士が討ち死にし伊吹山方面へ敗走。西軍全体の潰走で退路を断たれた島津隊は敵中突破を試み、豊久を失い、わずか50名ばかりに兵力を減じながらも戦場を脱出。井伊直政は撤退中の島津隊の銃撃を受け負傷落馬する。毛利秀元は長束正家からの出陣要請に応えようとしたものの、毛利勢先鋒の吉川広家が家康に内通して動かなかったため戦闘に参加出来ず、勝敗が決すると上方へ向け戦場を離脱。西軍の戦死者は約32600名で、戦闘終了は未の刻(午後2時ごろ)。15日夜長束・安国寺・長宗我部・鍋島の各隊も戦わずして山を下り始め、翌16日未明には撤収完了。16日より佐和山攻め。
岐阜県(美濃国) 2021年7月入江 徹也
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佐和山城
佐和山城の歴史は、鎌倉時代、近江守護職・佐々木荘地頭であった佐々木定綱の六男・佐保時綱が築いた砦が始まりとされ、建久年間(1190- 1198年)の文書にその名が見える。 六角政頼・久頼・高頼・氏綱・定頼の代の期間、六角氏が犬上郡を支配し、応仁の乱の後、家臣の小川左近大夫・小川伯耆守を城主として置いた。 しかし戦国時代の後半に入ると、北近江における六角氏勢力は衰退し、それにともなっては新興勢力である浅井氏が伸張した。佐和山城もその支配に入って、城は磯野員吉に引き渡され、小谷城の支城の1つとなった。 元亀年間には時の城主・磯野員昌が織田信長らと8ヶ月におよぶ戦闘を繰り広げた。しかし、1571年(元亀2年)2月に員昌は降伏し、代わって織田氏家臣の丹羽長秀が入城。浅井氏旧領と朝倉氏の旧領南部、すなわち、北近江六郡と若狭国の支配拠点とした。 天正10年(1582年)6月の本能寺の変の後に行われた清洲会議では、明智光秀討伐に功があった堀秀政に与えられ、秀政は翌年に入城した。これ以降は事実上、豊臣政権下の城となってゆく。堀秀政の留守中は弟の多賀秀種が城代を務めた。天正13年(1585年)には、転封となった堀家に替わって堀尾吉晴が入城。さらに石田三成が入城したとされる。三成は、当時荒廃していたという佐和山城に大改修を行って山頂に五層(三層説あり)の天守が高くそびえたつほどの近世城郭を築き、当時の落首に「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と言わしめた。ただし、三成は奉行の任を全うするために伏見城に滞在することが多く、実際に城を任されていたのは父の正継であった。城内の作りは極めて質素で、城の居間なども大抵は板張りで、壁はあら壁のままであった。庭園の樹木もありきたりで、手水鉢も粗末な石で、城内の様子を見た当時の人々もすこぶる案外に感じたと記されている。 慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで三成を破った徳川家康は、小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を攻撃した。城の兵力の大半は関ヶ原の戦いに出陣しており、守備兵力は2800人であった。城主不在にもかかわらず城兵は健闘したが、やがて城内で長谷川守知など一部の兵が裏切り、敵を手引きしたため、同月18日、奮戦空しく落城し、父・正継や正澄、皎月院(三成の妻)など一族は皆、戦死あるいは自害して果てた。 家康に従軍した板坂卜斎は陥落した佐和山城に金銀が少しもなく、三成は殆んど蓄えを持っていなかったと記している。 石田氏滅亡の後、徳川四天王の一人である井伊直政がこの地に封ぜられ、入城した。井伊家が、このまま佐和山城を利用すると、領民は井伊家が石田家を継承したような錯覚を抱き、領民達の前領主への思慕を断ち切ることができないことから、新たに彦根城築城を計画した。しかし、直政は築城に着手できないまま、関ヶ原合戦での戦傷がもとで慶長7年(1602年)に死去。計画は嫡子の直継が引き継ぐこととなり、大津城・佐和山城・小谷城・観音寺城などの築材を利用しつつ、天下普請によって彦根城を完成させている。佐和山城は慶長11年(1606年)、完成した彦根城天守に直継が移ったことにともない、廃城となった。
山城 300円 岐阜県(美濃国)入江 徹也
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蟹江城
永享年間(1429年 - 1440年)、北条時任より築城される。 1555年(弘治元年)、今川方によって攻略された。(蟹江七本槍が有名である)、その後も伊勢国の長島城主だった服部友貞の支配下に入り、織田氏と対立する地域の戦いの場となる。 1567年(永禄10年)、友貞の資金により、織田家家臣滝川一益によって再構築され、その後の北伊勢進攻(1568年 - 1570年)、長島一向一揆(1570年 - 1574年)鎮圧の拠点となる。 1583年(天正11年)、一益は賤ヶ岳の戦いの後に羽柴秀吉に敗れ、織田信雄の家臣、佐久間信栄が城主となる。 1584年(天正12年)、小牧・長久手の戦いにおける蟹江城合戦では秀吉方となった一益に攻略されるも、徳川家康・織田信雄の大軍に包囲され、篭城戦の末、半月後に落城した。 1585年(天正13年)、天正地震により壊滅した。
平城 300円 愛知県(尾張国)入江 徹也
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池田城
池田城は室町時代から戦国時代にかけて、豊島郡(現在の池田市、豊中市、箕面市周辺)を治めていた国人領主・池田氏の居城だった。 築城当初は、主郭部分(本丸に相当する部分)と小さな曲輪が取り付けた小規模な城であった。主郭の中には、枯山水風の庭園が築かれており、戦闘防御施設の中に文化施設が設けられ、この時代から城は生活の場所でもあったとうかがわせる。その後、池田城は何度か落城をしており、その都度防御機能や縄張りを強化していく。 池田城が最初に落城したのは、応仁の乱で東軍について、文明元年(1469年)に西軍の大内政弘の軍に攻められた時である。 次いで永正の錯乱に端を発した細川氏の内紛で細川澄元派に属していた池田貞正は、永正5年(1508年)に反対勢力であった細川高国の攻撃を受けて落城、貞正は自殺して子の信正は逃亡した。その後、享禄4年(1531年)の大物崩れでも高国の攻撃を受け、天文2年(1533年)、享禄・天文の乱で2月に一向一揆に敗れて堺から淡路へ逃れていた細川晴元が4月にこの城に入城、畿内へ戻った。 永禄11年(1568年)、池田勝正は織田信長に抵抗したが織田軍の攻撃を受け落城した。しかし勝正は抵抗したお咎めを受けなかった上に逆に評価され、信長から6万石を賜って家臣となった。池田城は信長の持つ「虎口」などの城郭の技術を取り入れてより拡張した。池田城の虎口は城内に二度曲げ、それ以外に東側に横堀を二条掘削し、大規模な曲輪を設け城域を拡張した。勝正は信長に摂津三守護の1人に任命され、金ヶ崎の退き口では殿を務めるなど活躍したが、三好三人衆についた一族の池田知正や荒木村重に池田城から追放された。 荒木村重は重臣「池田21人衆」の1人として頭角を現し、池田勝正を追放した池田氏内部のクーデターで城内をまとめ、残る摂津三守護の和田惟政、伊丹親興を討ち取って茨木城と高槻城を手中に収め、元亀4年(1573年)3月29日に足利義昭と対立した信長と京都知恩院で対面し信長に忠誠を誓う。この時信長は高槻城攻略に激賞し、村重に摂津の単独守護職を認めた。池田知正は義昭に就いたため没落、池田家を乗っ取った村重の家臣になった(下克上)。摂津は南北朝時代以降分郡支配体制だったが、村重より一国一大名体制になった。 その後伊丹城を手に入れた村重は有岡城と改名し、居城を有岡城に移した。池田城の城主は知正になったという話もある。 天正6年(1578年)に村重は石山合戦の最中に石山本願寺に内通しているという噂が流れ、信長も噂が大きくなるにつれ、真意を探るべく自分の前で申し開きをするように命じた。当初村重は母親を人質に入れ、申し開きをすることを承諾したが、明智光秀や羽柴秀吉などの説得も受け入れず信長のいる安土城には出仕しなかった。ここに至り謀反を明確にした村重は本拠地に有岡城を定め、高槻城、茨木城、尼崎城(近世尼崎城でなく大物城でないかと思われる)、花隈城に兵を配置し織田軍の進攻に備えた。こうして有岡城の戦いが始まる。村重は池田城に軍を配置しておらず、池田城の池田氏は村重に対して協力的でなかった可能性がある。 これに対して信長は11月9日に出陣、高槻城、茨木城を無血開城に成功、同年11月27日に「古池田」、池田城に織田軍は陣を張った。その後有岡城の四方を囲み始め12月8日に攻撃を開始する。まず鉄砲隊が一斉射撃し弓隊の火矢でかく乱し、酉の刻有岡城に突入を開始したが、攻め切ることが出来ず、逆に多くの家臣を失うことになる。 信長は戦術を持久戦に変更、周りに兵を配置しつつ12月11日に池田城に陣を戻し、12月25日に自身は安土城に戻っていた。その後、信長は安土城から池田城、池田城から京都など、池田城に陣を構えたまま各所に出かけ、持久戦の効果が出るのを待ち続けた。村重は翌年9月2日の深夜、家来5、6名をつれて尼崎城へ移り、毛利氏に援軍を要請しに出向いたと思われる。信長はこの時を好機ととらえ再び攻撃を命じ、天正7年(1579年)11月に有岡城は落城した。生き残った妻子や家来は尼崎七松で刑にかけられ命を落とした。村重はその後生き残り、秀吉の茶人となったと言われている。池田知正も妻子を尼崎七松で処刑されたが秀吉の家臣になった。 荒木村重の謀反から始まった戦で池田城は村重に捨てられ信長側が利用した。当時の城主が誰だったかはわからない。有岡城が落城した翌天正8年(1580年)、信長の命により廃城となった。
平山城 300円 大阪府(摂津国)入江 徹也
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尼崎城(大物城)
安土桃山時代の天正6年(1578年)に荒木村重が織田信長に反旗を翻した際、有岡城から逃げ込んだ先である大物城は尼崎城(尼崎古城)とも呼ばれるが、現在の尼崎城趾とは位置が異なる。 元和3年(1617年)、戸田氏鉄(うじかね)が5万石で入封し築いた。3重の堀をもち、本丸には2重の付櫓を2棟付属させた複合式の四重天守と3棟の三重櫓が上げられた。 城主は、築城から廃城まで3氏12代が入れ替わった。戸田氏の後は、青山氏4代、そして正徳元年(1711年)桜井松平家の松平忠喬(ただたか)が4万6千石で入り、以後桜井松平家の支配が7代と続き幕末を迎えた。最後の藩主は松平忠興である。
平城 300円 兵庫県(播磨国)入江 徹也
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三木城
この地に城を築いたのは別所則治で、突然歴史上に登場する。文明15年(1483年)冬、播磨守護赤松政則が山名政豊に大敗し堺に逃亡した。翌文明16年(1484年)2月に政則が家臣団により家督を廃されたが、別所則治は政則を擁して上京し、室町幕府大御所足利義政の助力を得て家督を復活させた。それ以来則治は数々の武功を挙げ政則より8郡が与えられ、その地域に三木城を築城し、別所氏は赤松氏家臣団の中で浦上氏に次ぐ実力者となったようである。 則治の孫・別所就治の時代になると、三木城も戦場の地となる。就治と浦上村宗が内紛状態となり、享禄3年(1530年)夏に就治は柳本賢治に援軍を要請、依藤城を攻城していたが、柳本賢治が就寝中に暗殺されてしまった。それを皮切りに細川高国・村宗連合軍が三木城をはじめ御着城、有田城に攻撃を開始、落城させた。この戦いが三木城の攻城戦の初見ではないかと推定される。就治は一旦国外に脱出したようだが、翌享禄4年(1531年)の中嶋の戦い・大物崩れで村宗が討取られ、高国も自害すると就治も三木城に戻ったようで、東播磨で大きく勢力を伸ばしていった。 その後天文7年・8年(1538年・1539年)の2度に渡って尼子詮久(後の晴久)が三木城を攻撃してきた。この時赤松氏の国人衆はほとんどが尼子軍に下り、三木城のみが東播磨の拠点となった。しかし赤松晴政は2回も国外に脱出したため、守護としての地位が落ちていったが、代わりに就治の東播磨での地位は上がり、赤松氏から細川晴元派へ与していく。 しかし、晴元を京都から追放した三好長慶に目をつけられ、有馬重則と対立していたことを口実に三好軍の攻撃を受ける事態になり、天文23年(1554年)9月、長慶の同族・三好長逸に三木城の支城7つを落城させられてしまった。ついで同年11月に、長慶は援軍として弟の三好実休を送りこみ枝吉城を攻囲、翌天文24年(1555年)に明石氏は三好軍と和議を結び、就治も支えきれず和議を結んだ。ここから就治は三好三人衆軍に組み入れられ大和まで出陣したようである(東大寺大仏殿の戦い)。その後永禄2年(1559年)には宿敵であった依藤氏を滅した。 別所安治に代わった永禄11年(1568年)には三人衆を見限り織田信長方についた。翌永禄12年(1569年)に安治は織田軍として西播磨へ攻め込んだが、逆に三人衆軍として浦上宗景が三木城に来襲してきた。しかし、翌永禄13年(1570年)に再び西播磨に攻め込む。また、当主が別所長治に変わり、北播磨の在田氏も滅ぼすと戦国大名化していった。 天正6年(1578年)3月7日、毛利氏攻めの先鋒を務めると信長に約した長治は突如三木城に立て籠もり、羽柴秀吉に叛旗を翻した。加古川会談で意見対立したのが原因と思われているが、『日本城郭大系』ではその前に毛利輝元と筋書きが整っていたとし、輝元の外交上の勝利であると解説している。 当初織田軍は戸惑ったようであるが、三木城の城下町を焼き払い、監視する番城のみを置き、別所長治軍に与している城を一つ一つ攻め落としていった。翌天正7年(1579年)5月末には完全に三木城を攻囲し兵糧を断つ戦術に出た。羽柴秀吉隊は出る杭を打つというような戦術で自ら討って出ることはなく、同年2月と9月に別所長治軍は合戦を挑んできたが、いずれも敗北している。翌8年(1580年)1月6日から本格的に攻城を開始し、同1月15日に開城を勧告し、長治もこれに応じ一族ともに自害した。長期戦となったものの、三木城への攻城戦は半月で決着がついた。 その後秀吉は姫路城を居城とし、三木城には城代を入れた。天正13年(1585年)8月に中川秀政が入城するが、文禄元年(1592年)に秀政が朝鮮出兵で戦死すると弟の中川秀成が跡を継ぎ、文禄3年(1594年)に豊後へ移封された。その後は豊臣氏の直轄地となり城番が入った。 関ヶ原の戦いの結果、池田輝政が播磨52万石の大名となり、姫路城主となると、三木城も6つの支城の一つとなり、宿老の伊木忠次が3万石を知行し三木城の城主となった。その後伊木忠繁が継ぐが元和元年(1615年)、一国一城令によって破却された。
平山城 300円 兵庫県(播磨国)入江 徹也
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小谷城
日本五大山城の一つに数えられる。標高約495m小谷山(伊部山)から南の尾根筋に築かれ、浅井長政とお市の方との悲劇の舞台として語られる城である。 1525年(大永5年)、六角定頼が江北に侵攻した際、浅井亮政が小谷城にて篭城戦をしたことから、その1,2年前の1523年(大永3年) - 1524年(大永4年)築城説が有力である。この2説以外にも諸説あるが、いずれにせよ大永5年迄に築城されていたと思われる。その後1538年(天文7年)にも六角定頼が攻め込んだが、この時も浅井亮政は小谷城を退城し美濃国に逃亡した。 亮政の孫長政は元亀・天正年間に朝倉義景とともに織田信長と戦ったことで知られる。元亀元年(1570年)6月の小谷城から南に5キロほどの地点で繰り広げられた姉川の戦いでは浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍が激突し、織田軍が勝利したものの、信長は小谷城の堅固さを考慮して城攻めを断念、姉川南岸の横山城を築城、有力部将の木下秀吉(のちの豊臣秀吉)を配置し、浅井氏に対する付城(前線基地)とした。 その後もしばらく小谷城から出る浅井軍と織田軍とで争いがあったが、各拠点を守る磯野員昌(佐和山城)・宮部継潤(宮部城)ら浅井軍の諸将が徐々に寝返っていき、付城も横山城から、小谷城の南側の正面にある虎御前山へと前進した。しかし、一方で小谷城・丁野城・山本山城と小谷城から琵琶湖まで東西に並んだ支城は落城せず、小谷城の包囲へは持ち込めずにいた。 1573年(天正元年)8月8日、山本山城の守将である阿閉貞征が羽柴秀吉(7月ころに名字を木下から羽柴に改める)の調略に乗って織田方に寝返った。この城が手に入ったことで織田方は小谷城の包囲が可能になり、信長はその日の夜半に岐阜城を進発し、10日には越前から小谷城への北国街道のルートを封鎖することに成功した。このため援軍に赴いた朝倉義景の軍勢(2万といわれる)は小谷城に入ることができず、余呉や木ノ本などに布陣した。この混乱の中で焼尾の砦を守る浅見対馬守が降伏した。焼尾は小谷城と峰続きである大嶽の砦の北麓にあるため、信長は小谷城攻略の意思をさらに固めた。 8月12日、畿内一帯に嵐が襲来した(京都などでも被害の記録がある)。この嵐を好機と見て信長はこの日自ら浅見対馬守の手引きで大嶽を攻撃、落城させることに成功した。さらに翌日には形勢不利と見た朝倉軍が撤退するところを一気に強襲し、朝倉軍に壊滅的な打撃を与えた(刀根坂の戦い)。信長は嫡男・織田信忠の手勢などを押さえに残して越前に攻め込んで朝倉氏を滅亡させたのち、8月26日には虎御前山に帰陣した。翌8月27日、羽柴秀吉の軍勢が清水谷の急傾斜から小谷城京極丸を急襲して陥落させ、本丸を守る長政と小丸を守る長政の父・久政を分断させることに成功した。その日のうちに小丸を落城させ、久政は自害した。さらに本丸も落ち、9月1日、長政は本丸の袖曲輪にある赤尾屋敷で自刃し]、ここに浅井氏は滅亡した。
山城 300円 滋賀県(近江国)入江 徹也
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坂本城
元亀2年(1571年)9月比叡山焼き討ちの後、宇佐山城の城主であった光秀に対して信長は滋賀郡の支配を命じ坂本城を築城させた。比叡山延暦寺の監視と琵琶湖の制海権の獲得が目的であったと思われる。坂本城はイエズス会宣教師のルイス・フロイスの『日本史』にも、「明智は、都から4レーグァほど離れ、比叡山に近く、近江国の25レーグァもあるかの大湖のほとりにある坂本と呼ばれる地に、邸宅と城砦を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。」と記されている。この記述はルイス・フロイスの感想ではあるが、名城安土城と並び称される建物として記録さるされている。 その後、光秀は坂本城を拠点に近江国の平定を目指した。1572年(元亀3年)-1573年(天正元年)にかけて木戸城、田中城を落城させ、また湖面より囲船にて湖北の浅井勢に襲撃し打撃を与えた。その後、石山砦、今堅田砦も攻城し湖南はほぼ手中に収めた。その後坂本城は近江国における反信長に対する重要な軍事施設として使用された。黒井城の戦いでほぼ丹波国を手中に収めると、1580年(天正8年)亀山城の城主となったが、坂本城もそのまま城主となっていたようである。 天正10年(1582年)6月2日、光秀は中国攻めには向かわず本能寺の信長軍を急襲し信長を自害させ、次いで二条城を攻城し信長の嫡男・信忠を自害させた(本能寺の変)。だが、同年6月13日山崎の戦いで敗れた光秀は一旦勝竜寺城に退き、その後坂本城を目指している途中、山城国の小栗栖周辺で百姓らに襲われ死去したと言われている。一方、安土城の城主となっていた明智秀満は山崎の戦いでの敗戦を13日の夜に知り、14日未明、安土城から坂本城に移ってきたが、羽柴秀吉方の堀秀政が城を囲む中、6月14日の夜、秀満は光秀の妻子を刺し殺し、自分の妻も刺殺し、自分は腹を切り、煙硝に火を放って自害したとされる]。 その後、秀吉に命じられた丹羽長秀が城を再建し城主となった。その後賤ヶ岳の戦いの軍事上の基地として使用され、後に杉原家次、そして浅野長政が城主となった。この時に城下町が形成されたと思われている。 1586年(天正14年)、秀吉の命を受けた長政が大津城を築城して居城を移したことにより廃城になり、資材は大津城築城に使用された。
平城 300円 滋賀県(近江国)入江 徹也
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長浜城(今浜城)
1573年(天正元年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際に当時今浜(いまはま)と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し長浜に改名した。小谷城で使われていた資材や、1558年に火災に遭った竹生島宝厳寺の復旧資材として浅井長政が寄進した材木などを流用し築城を開始した。その後宝厳寺に対しては1598年に死去した豊臣秀吉の遺命として、大坂城の唐門などが移築されている。 同3・4年頃完成し羽柴秀吉が入城した。いわゆる水城であり湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていた。城下町は小谷城下(滋賀県長浜市湖北町伊部)からそのまま移した。現在でも城下町には羽柴氏当時の面影や名残が残る。のちに天下人となる秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の領国・城下町経営の基礎を醸成した所とされている。 1581(天正9年)、織田氏の中国遠征で不在であった羽柴氏[3]のあと、信長は荒木村重討伐や越前一向宗制圧の功から堀秀政を長浜城主に任じた。しかし羽柴秀吉の親(大政所)と妻(北政所)はそのまま長浜に居住していたらしい。 1582年(天正10年)に本能寺の変が起こり、明智光秀の手により織田信長が殺害されると、明智に加担した山本山城主の阿閉貞征が長浜城を占領した。羽柴氏の妻ら係累は近隣の寺に逃れた。阿閉は山崎の戦いにも明智方として参加するが、明智は信長の仇討を掲げる羽柴方に敗戦し、阿閉は秀吉方に捕縛され阿閉一族全て処刑された。長浜城は羽柴氏の支配下に戻った。 山崎の合戦後に開催された織田家の重臣会議「清洲会議」で羽柴秀吉と意見対立し、結果として長浜の支配権を獲得したのは柴田勝家であった。雪国である越前国を領していた柴田はゆえに畿内方面への橋頭保として北近江を欲していたが、羽柴が縁深い同地を手放すわけがない、と衆目に見られていた中での、まさかの支配権譲渡であった。勝家は一族(甥)の柴田勝豊を長浜城の守将として入城させたが、羽柴と柴田の対立は収まらず、同年末には秀吉が勝手知ったる長浜城を攻めた。柴田は雪に閉ざされた越前近江国境の山を突破し援軍を送ろうとしたが、その前に勝豊は降伏した。1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦いの後は山内一豊が入り、6年間在城した。1586年1月18日(天正13年11月29日)、天正地震により城が全壊し、一豊の一人娘である与祢らが死亡した。 1606年(慶長11年)に内藤信成・信正が城主になるが(長浜藩)、大坂の陣後の1615年(元和元年)に内藤氏は摂津高槻に移封され、長浜城は廃城になった。
平城 300円 滋賀県(近江国)入江 徹也
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安土城
1576年(天正4年) 1月、織田信長は総普請奉行に丹羽長秀を据え、近江守護六角氏の居城観音寺城の支城のあった安土山に築城を開始。 1579年(天正7年)5月、完成した天主に信長が移り住む。同年頃に、落雷により本丸が焼失したと、ルイス・フロイスが著書『日本史』に記している。 1582年(天正10年) 5月15日には明智光秀が饗応役となった徳川家康の接待が行われている。同29日の京都本能寺に信長が光秀の謀反により自害した本能寺の変の際は蒲生賢秀が留守居役として在城していたが、信長の自害後に蒲生賢秀・氏郷父子は本拠地日野城に信長の妻子などを安土城から移動させ退去。その後、明智軍が安土城を占拠した。山崎の戦いで光秀が敗れた後、天主とその周辺の建物(主に本丸)が焼失した。焼失の経緯や理由については諸説あるが不明である。 本能寺の変以降もしばらく織田氏の居城として、信長の嫡孫秀信が清洲会議の後入城するなどと、主に二の丸を中心に機能していた。しかし、秀吉の養子豊臣秀次の八幡山城築城のため、1585年(天正13年)をもって廃城されたと伝わっている。
平山城 滋賀県(近江国) 2021年7月入江 徹也