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美濃金山城(鳥峰城)
天文6年(1537年)に尾張国侵攻のため斎藤道三の命令で近辺の14諸将の協力を得て猶子の斎藤正義が築城し、烏峰城と名付けられた。しかし正義は天文17年(1548年)に近隣の久々利城主土岐悪五郎に久々利城へ招待された際に討たれ、城主が一時不在となった。 その後織田信長が美濃国を領地としたことにともない、永禄8年(1565年)に家臣の森可成が城主となり兼山城と改称した。 元亀元年(1570年)に近江宇佐山城の戦いで可成が戦死し、その直前に長男の可隆も天筒山城で討ち死にしたため、次男の長可が跡を継ぎ城主となった。 天正10年(1582年)長可が信濃国川中島に転封されると弟の森成利が入るが成利は同年中に本能寺の変により討死し、また長可も情勢不安の川中島を捨てて戻って来たため、再び長可の領地となる。天正12年(1584年)に長可が小牧・長久手の戦いで戦死すると、可成の六男の忠政が城主となる。 慶長5年(1600年)に森氏が川中島藩に転封されると城は石川貞清の所有となり、建物は解体され石川氏の居城である犬山城の改修に使われたという。
山城 300円 岐阜県(美濃国)入江 徹也
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明智城(長山城)
土岐明智二郎下野守頼兼が、康永元年(1342年)美濃国可児郡明智庄長山に明智城を築城したといわれる。 『美濃国緒旧記』には「明智城は可児郡明智庄長山城のことである。明智城は土岐美濃守光衡により五代目にあたる頼清(民部大輔頼宗)の次男、明智次郎頼兼が康永元年三月、美濃国可児郡明智庄長山に初めて明智城を築城し、光秀の代まで居城した」とある。 弘治2年(1556年)9月19日、稲葉山城主斎藤義龍の攻撃を受け、明智城代明智光安(宗宿)は弟光久と一族の溝尾庄左衛門、三宅弐部之助、藤田藤次郎、肥田玄蕃、池田織部、可児才右衛門、森勘解由ら870余人を集めて籠城したという。しかし義龍軍は3700余の軍勢で2日間にわたり攻撃を行う。光安は弟光久と自刃し、妻妾も落城前に自刃したという。 『明智軍記』には、(落城が迫るなか)光秀は(光安から)明智家再興を託され、明智城から逃れたとある。
山城 300円 岐阜県(美濃国)入江 徹也
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大高城
築城年代ははっきりしないが、土岐頼康が尾張守であった南北朝期には池田頼忠が城主を務め、永正年代には花井備中守や、水野為善とその息子の忠守が居城したことが伝えられている(為善については異説もある。また忠守は水野忠政の息子の水野忠守とは別人)。 天文年間も引き続き水野氏が治めたが、織田信秀の支配下にあった。天文17年(1548年)、今川義元の命で野々山政兼がこの城を攻めたが、落とすことができず政兼は戦死する。 しかし信秀の死後、息子の織田信長から離反した鳴海城主山口教継の調略で、大高城は沓掛城とともに今川方の手に落ちる。この脅威に対して信長は「丸根砦」「鷲津砦」を築き、大高城に圧力を加える。永禄2年(1559年)、朝比奈輝勝が義元の命をうけ大高城の守りに入る。 翌永禄3年(1560年)には、大高城の包囲を破りそのまま鵜殿長照が守備についた。5月18日夜には、大高城に松平元康が兵糧を届け、長照に代わり元康が城の守備についた。やがて信長の攻撃による義元の死(桶狭間の戦い)を確認した元康は岡崎城に引き下がったため、大高城は再び織田家の領土となった。 まもなく廃城となったが、尾張藩家老の志水家が、元和2年(1616年)にここに館を設けてから代々住むようになった。この館も明治3年(1870年)に売却された。
平山城 300円 愛知県(尾張国)入江 徹也
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大草城
天正2年(1574年)、この地を有していた佐治信方が長島一向一揆で戦死し、跡継ぎの佐治一成が幼少だったためか、織田信長の弟織田長益(有楽斎)が知多郡を与えられ、大野城を与えた。大野城は水利が悪いため大草の地に築城を開始したが、本能寺の変の影響で再び荒廃してしまったとも言われる[要出典]。 小牧・長久手の戦い後、長益が摂津国に移封されたため完成を待たずして廃城となった。
平城 300円 愛知県(尾張国)入江 徹也
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小牧山城
小牧山城は織田信長が美濃攻めの拠点として築いた城で、永禄3年5月19日(1560年6月12日)の桶狭間の戦いに勝利した後、念願の美濃国併呑を実現すべく、早くもその3ヶ月後から美濃攻めを開始した。永禄5年1月15日(1562年2月18日)には徳川家康と清須城においていわゆる清洲同盟を結び、尾張国東側の脅威が消滅した。これによって、信長は全力で美濃国を攻める体制を整えるために、美濃国に近い尾張国北方へ本拠地を前進する策が実施可能となった。この新しい本拠地に選ばれたのが、広大な濃尾平野の中に孤峰を保つ小牧山であった。丹羽長秀を奉行として小牧山山頂に城を築き、永禄6年(1563年)7月には主要兵力を小牧山の城に移した。『定光寺年代記』に拠れば城は信長により「火車輪城」と名付けられた。 移転後、織田軍は小牧山城を本拠地として美濃への侵攻と調略を繰り返し、永禄10年8月15日(1567年9月17日)、美濃斎藤氏の本拠地であった稲葉山城は落城。信長は稲葉山城に拠点を移し城下町の機能を全て移転させたため、小牧山城は約4年間で廃城となった。 天正12年(1584年)、羽柴秀吉と徳川家康が戦った小牧・長久手の戦いでは、家康がいち早く小牧山に目を付けて本陣を置き、遅れてきた秀吉を悔しがらせたといわれる。この時、信長の築いた城跡の土塁、空堀などに大規模な改修が施され、「城」とみなせるほど強固な陣地が築かれた。秀吉の大軍も容易に手が出せず、焦った池田恒興や森長可が三河への無謀な長駆攻撃を敢行し、長久手方面へ突出して壊滅する事態となった。急造「小牧山城」は、徳川勝利の一翼を担ったことになる。この一戦は、頼山陽により「家康公の天下を取るは大坂にあらずして関ケ原にあり。関ケ原にあらずして小牧にあり」と称揚された(『日本外史』)。 その後、家康「御勝利御開運の御陣跡」となり、一般の入山は禁止された。山と城跡は、江戸時代を通じて尾張徳川家の領地として保護を受け、管理された。
平山城 300円 愛知県(尾張国)入江 徹也
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犬山城
尾張国と美濃国の境にあり、木曽川沿いの高さ約88メートルほどの丘に築かれた平山城である。別名の白帝城は木曽川沿いの丘上にある城の佇まいを長江流域の丘上にある白帝城を詠った李白の詩「早發白帝城」(早に白帝城を発す)にちなんで荻生徂徠が命名したと伝えられる。 前身となる岩倉織田氏の砦を織田信長の叔父・織田信康が改修して築いた城であり、その後、池田恒興や織田勝長が入城、豊臣政権の時に石川貞清(光吉)が改修し現在のような形となった。また、小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦いにおける西軍の重要拠点となった。
300円 愛知県(尾張国) 2021年5月入江 徹也