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小谷城
日本五大山城の一つに数えられる。標高約495m小谷山(伊部山)から南の尾根筋に築かれ、浅井長政とお市の方との悲劇の舞台として語られる城である。 1525年(大永5年)、六角定頼が江北に侵攻した際、浅井亮政が小谷城にて篭城戦をしたことから、その1,2年前の1523年(大永3年) - 1524年(大永4年)築城説が有力である。この2説以外にも諸説あるが、いずれにせよ大永5年迄に築城されていたと思われる。その後1538年(天文7年)にも六角定頼が攻め込んだが、この時も浅井亮政は小谷城を退城し美濃国に逃亡した。 亮政の孫長政は元亀・天正年間に朝倉義景とともに織田信長と戦ったことで知られる。元亀元年(1570年)6月の小谷城から南に5キロほどの地点で繰り広げられた姉川の戦いでは浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍が激突し、織田軍が勝利したものの、信長は小谷城の堅固さを考慮して城攻めを断念、姉川南岸の横山城を築城、有力部将の木下秀吉(のちの豊臣秀吉)を配置し、浅井氏に対する付城(前線基地)とした。 その後もしばらく小谷城から出る浅井軍と織田軍とで争いがあったが、各拠点を守る磯野員昌(佐和山城)・宮部継潤(宮部城)ら浅井軍の諸将が徐々に寝返っていき、付城も横山城から、小谷城の南側の正面にある虎御前山へと前進した。しかし、一方で小谷城・丁野城・山本山城と小谷城から琵琶湖まで東西に並んだ支城は落城せず、小谷城の包囲へは持ち込めずにいた。 1573年(天正元年)8月8日、山本山城の守将である阿閉貞征が羽柴秀吉(7月ころに名字を木下から羽柴に改める)の調略に乗って織田方に寝返った。この城が手に入ったことで織田方は小谷城の包囲が可能になり、信長はその日の夜半に岐阜城を進発し、10日には越前から小谷城への北国街道のルートを封鎖することに成功した。このため援軍に赴いた朝倉義景の軍勢(2万といわれる)は小谷城に入ることができず、余呉や木ノ本などに布陣した。この混乱の中で焼尾の砦を守る浅見対馬守が降伏した。焼尾は小谷城と峰続きである大嶽の砦の北麓にあるため、信長は小谷城攻略の意思をさらに固めた。 8月12日、畿内一帯に嵐が襲来した(京都などでも被害の記録がある)。この嵐を好機と見て信長はこの日自ら浅見対馬守の手引きで大嶽を攻撃、落城させることに成功した。さらに翌日には形勢不利と見た朝倉軍が撤退するところを一気に強襲し、朝倉軍に壊滅的な打撃を与えた(刀根坂の戦い)。信長は嫡男・織田信忠の手勢などを押さえに残して越前に攻め込んで朝倉氏を滅亡させたのち、8月26日には虎御前山に帰陣した。翌8月27日、羽柴秀吉の軍勢が清水谷の急傾斜から小谷城京極丸を急襲して陥落させ、本丸を守る長政と小丸を守る長政の父・久政を分断させることに成功した。その日のうちに小丸を落城させ、久政は自害した。さらに本丸も落ち、9月1日、長政は本丸の袖曲輪にある赤尾屋敷で自刃し]、ここに浅井氏は滅亡した。
山城 300円 滋賀県(近江国)入江 徹也
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坂本城
元亀2年(1571年)9月比叡山焼き討ちの後、宇佐山城の城主であった光秀に対して信長は滋賀郡の支配を命じ坂本城を築城させた。比叡山延暦寺の監視と琵琶湖の制海権の獲得が目的であったと思われる。坂本城はイエズス会宣教師のルイス・フロイスの『日本史』にも、「明智は、都から4レーグァほど離れ、比叡山に近く、近江国の25レーグァもあるかの大湖のほとりにある坂本と呼ばれる地に、邸宅と城砦を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。」と記されている。この記述はルイス・フロイスの感想ではあるが、名城安土城と並び称される建物として記録さるされている。 その後、光秀は坂本城を拠点に近江国の平定を目指した。1572年(元亀3年)-1573年(天正元年)にかけて木戸城、田中城を落城させ、また湖面より囲船にて湖北の浅井勢に襲撃し打撃を与えた。その後、石山砦、今堅田砦も攻城し湖南はほぼ手中に収めた。その後坂本城は近江国における反信長に対する重要な軍事施設として使用された。黒井城の戦いでほぼ丹波国を手中に収めると、1580年(天正8年)亀山城の城主となったが、坂本城もそのまま城主となっていたようである。 天正10年(1582年)6月2日、光秀は中国攻めには向かわず本能寺の信長軍を急襲し信長を自害させ、次いで二条城を攻城し信長の嫡男・信忠を自害させた(本能寺の変)。だが、同年6月13日山崎の戦いで敗れた光秀は一旦勝竜寺城に退き、その後坂本城を目指している途中、山城国の小栗栖周辺で百姓らに襲われ死去したと言われている。一方、安土城の城主となっていた明智秀満は山崎の戦いでの敗戦を13日の夜に知り、14日未明、安土城から坂本城に移ってきたが、羽柴秀吉方の堀秀政が城を囲む中、6月14日の夜、秀満は光秀の妻子を刺し殺し、自分の妻も刺殺し、自分は腹を切り、煙硝に火を放って自害したとされる]。 その後、秀吉に命じられた丹羽長秀が城を再建し城主となった。その後賤ヶ岳の戦いの軍事上の基地として使用され、後に杉原家次、そして浅野長政が城主となった。この時に城下町が形成されたと思われている。 1586年(天正14年)、秀吉の命を受けた長政が大津城を築城して居城を移したことにより廃城になり、資材は大津城築城に使用された。
平城 300円 滋賀県(近江国)入江 徹也
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長浜城(今浜城)
1573年(天正元年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際に当時今浜(いまはま)と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し長浜に改名した。小谷城で使われていた資材や、1558年に火災に遭った竹生島宝厳寺の復旧資材として浅井長政が寄進した材木などを流用し築城を開始した。その後宝厳寺に対しては1598年に死去した豊臣秀吉の遺命として、大坂城の唐門などが移築されている。 同3・4年頃完成し羽柴秀吉が入城した。いわゆる水城であり湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていた。城下町は小谷城下(滋賀県長浜市湖北町伊部)からそのまま移した。現在でも城下町には羽柴氏当時の面影や名残が残る。のちに天下人となる秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の領国・城下町経営の基礎を醸成した所とされている。 1581(天正9年)、織田氏の中国遠征で不在であった羽柴氏[3]のあと、信長は荒木村重討伐や越前一向宗制圧の功から堀秀政を長浜城主に任じた。しかし羽柴秀吉の親(大政所)と妻(北政所)はそのまま長浜に居住していたらしい。 1582年(天正10年)に本能寺の変が起こり、明智光秀の手により織田信長が殺害されると、明智に加担した山本山城主の阿閉貞征が長浜城を占領した。羽柴氏の妻ら係累は近隣の寺に逃れた。阿閉は山崎の戦いにも明智方として参加するが、明智は信長の仇討を掲げる羽柴方に敗戦し、阿閉は秀吉方に捕縛され阿閉一族全て処刑された。長浜城は羽柴氏の支配下に戻った。 山崎の合戦後に開催された織田家の重臣会議「清洲会議」で羽柴秀吉と意見対立し、結果として長浜の支配権を獲得したのは柴田勝家であった。雪国である越前国を領していた柴田はゆえに畿内方面への橋頭保として北近江を欲していたが、羽柴が縁深い同地を手放すわけがない、と衆目に見られていた中での、まさかの支配権譲渡であった。勝家は一族(甥)の柴田勝豊を長浜城の守将として入城させたが、羽柴と柴田の対立は収まらず、同年末には秀吉が勝手知ったる長浜城を攻めた。柴田は雪に閉ざされた越前近江国境の山を突破し援軍を送ろうとしたが、その前に勝豊は降伏した。1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦いの後は山内一豊が入り、6年間在城した。1586年1月18日(天正13年11月29日)、天正地震により城が全壊し、一豊の一人娘である与祢らが死亡した。 1606年(慶長11年)に内藤信成・信正が城主になるが(長浜藩)、大坂の陣後の1615年(元和元年)に内藤氏は摂津高槻に移封され、長浜城は廃城になった。
平城 300円 滋賀県(近江国)入江 徹也
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安土城
1576年(天正4年) 1月、織田信長は総普請奉行に丹羽長秀を据え、近江守護六角氏の居城観音寺城の支城のあった安土山に築城を開始。 1579年(天正7年)5月、完成した天主に信長が移り住む。同年頃に、落雷により本丸が焼失したと、ルイス・フロイスが著書『日本史』に記している。 1582年(天正10年) 5月15日には明智光秀が饗応役となった徳川家康の接待が行われている。同29日の京都本能寺に信長が光秀の謀反により自害した本能寺の変の際は蒲生賢秀が留守居役として在城していたが、信長の自害後に蒲生賢秀・氏郷父子は本拠地日野城に信長の妻子などを安土城から移動させ退去。その後、明智軍が安土城を占拠した。山崎の戦いで光秀が敗れた後、天主とその周辺の建物(主に本丸)が焼失した。焼失の経緯や理由については諸説あるが不明である。 本能寺の変以降もしばらく織田氏の居城として、信長の嫡孫秀信が清洲会議の後入城するなどと、主に二の丸を中心に機能していた。しかし、秀吉の養子豊臣秀次の八幡山城築城のため、1585年(天正13年)をもって廃城されたと伝わっている。
平山城 滋賀県(近江国) 2021年7月入江 徹也