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掛川城
室町時代中期の文明(1469年 - 1487年)年間に守護大名・今川義忠が、重臣の朝比奈泰煕に命じて築城したと伝えられている。当初は龍頭山より北東にある子角山に築かれており、龍頭山の城は1513年に新たに築城されたものである。 そのまま朝比奈氏が城代を務め、泰煕の子孫である朝比奈泰能・朝比奈泰朝が代々城を預かった。ところが、1568年(永禄11年)、朝比奈氏の主君の今川氏真が甲斐国の武田信玄・三河国の徳川家康の両大名から挟み撃ちに遭い、本拠地たる駿府館を捨てて泰朝のいる掛川城に逃げ延びた。このため掛川城は徳川勢の包囲に遭ったが、泰朝はよく城を守ったためなかなか落城しなかった。この際、徳川勢はかつて掛川城があった子角山を拠点としたという説がある。しかし、兵数の差もあって和議で氏真の身の無事を家康に認めさせると、泰朝は開城を決断した。 氏真と泰朝は1569年2月8日(永禄12年1月23日)に掛川城を開き、相模国の小田原城へ退去し、掛川城には城代として家康の重臣・石川家成・康通親子が入った。間もなく駿河国に入った武田信玄が徳川家康と敵対し、掛川城に程近い牧之原台地に諏訪原城を築き、さらに掛川城の南方にある高天神城では武田・徳川両氏の激しい攻防戦の舞台となった。しかし掛川城は1582年(天正10年)の武田氏の滅亡まで徳川氏の領有であり続けた。 その後も掛川城は石川氏が城代を務めたが、1590年(天正18年)に家康が東海から関東に移封されると、掛川城には豊臣秀吉の直臣であった山内一豊が5万1千石(のち5万9千石)で入った。一豊は掛川城の大幅な拡張を実施し、石垣・瓦葺の建築物・天守など近世城郭としての体裁を整えた城郭とした。 1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの後、一豊は土佐一国を与えられて高知城に移転した。その後、掛川城には多くの譜代大名が入ったが、最終的には太田氏(太田道灌一族の系統)が入り、何度か城の修築も行われている。ところが、幕末の1854年(安政元年)末に、東海地方一帯を大地震が襲い(安政東海地震)、掛川城も天守を含む大半の建物が倒壊した。この際、政務所である二ノ丸御殿は1861年(文久元年)までに再建されたが、天守は再建されることはなかった。
平山城 300円 静岡県(遠江国)入江 徹也
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伊賀上野城
伊賀上野城西の丸と後世に呼ばれることとなる丘陵には伊賀の守護大名である仁木氏館(伊賀の守護所)があった。しかし仁木氏は室町時代半ばから衰退が始まり、戦国時代には名ばかりの守護となっていたため領国経営は機能していなかった。 そのような状況の下、豪族らが守護所を襲撃したため、仁木一族は信楽へ逃れ、大名としての仁木氏は一時滅亡した。後に仁木義視が織田信長の援助で守護に返り咲いたが、国人の支持を得られず再び追放され伊賀は反織田の姿勢を明確にした(伊賀惣国一揆)。 天正7年(1579年)9月、伊勢の織田信雄が8千兵を率いて伊賀平定(天正伊賀の乱)に乗り出したが、伊賀衆の前に敗れ、天正9年(1581年)9月に信雄の父織田信長は4万5千の兵で伊賀を平定。信雄の家臣である滝川雄利を伊賀守護とした。雄利は大寺院、丸山城、滝川氏城を改修し伊賀を支配した。本能寺の変後豊臣政権となると、天正12年(1584年)10月に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の家臣脇坂安治が伊賀守護となったが、天正13年(1585年)5月に摂津に移封された。 脇坂安治の移封から3ヶ月後の8月、大和郡山城から羽柴の姓を賜った筒井定次が伊賀へ移り住んだ。定次は天正伊賀の乱で焼け落ちた平楽寺、仁木古館跡に築城することにした。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると定次は東軍の徳川家康方につき会津征伐に参戦し、上野城は筒井玄蕃が留守居役としたが、上野城を西軍の摂津高槻城主新庄直頼・直定父子に攻撃された際、筒井玄蕃は戦わず城を明け渡し高野山に逃亡した。定次は家康の許しを得て直ちに軍を引き返し、城を再奪取し事なきを得た(上野城の戦い)。 関ヶ原の戦い後、新庄直頼父子は改易され定次は本領安堵、伊賀上野藩を立藩した。しかし、家康は大坂城を包囲する必要に迫られ、近江彦根城同様重要な地点である上野城を強固にすべく、家康は定次をかねてから不行状で島清興などの重臣に多く出奔され失策の多いのを理由に、慶長13年(1608年)6月に領地没収、磐城平城主鳥居忠政のもとに預けた(筒井騒動)。一説には、定次がキリシタン大名で棄教を聞き入れなかったためとも言われている。 同年8月、伊予宇和島城から築城の名手とされる藤堂高虎が伊賀に入国した。大坂城に対抗する以外にも、大和・紀伊を抑えるためにも高虎の力が必要となったと思われている。高虎は慶長16年(1611年)正月より、上野城を大幅な改修に着手、大坂方に対抗するために特に西方面の防御に力をそそいだ。当時、「比高塁摂坂の城塁より見事なり」と記されており。この「摂坂の城」とは豊臣時代の大坂城のことを指しており、高石垣の規模の大きさを物語っている。南側を大手とし、堀を深く、南に二ノ丸を構築した。天守の位置を西側に移動し、今治城天守を移築しようとしたが、天下普請となった丹波亀山城に献上したため新規に5層天守を建設した。筒井時代は、上野城は大坂城を守る出城としての機能を持った城であったのに対して、藤堂時代は大坂城を攻めるための城というまったく正反対の立場をとった城とされている。 慶長19年(1614年)、元和元年(1615年)の2度に渡る大坂の陣で家康の勝利となり、豊臣氏の滅亡で堅固な城が必要なくなり天守は再建されなかった。本丸に櫓は建てられなかったが、外堀の土塁上には、二層櫓が二棟、単層櫓が八棟、計十棟の櫓が建てられ、長さ二十一間、両袖に七間の多聞櫓をつけた東大手門、西大手門も建てられた。高虎は大坂の陣が終わった後、交通の便利がいい津城を本城とし、上野城を支城とした。 一国一城令で上野城は伊賀の城として存続が認められると、高虎は弟の藤堂高清を城代とし、高清の死後は藤堂元則が城代となり、文政8年(1825年)に藤堂高猷が最後の城主となるまで藤堂氏の世襲とした。
平山城 300円 三重県(伊賀国)入江 徹也
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郡上八幡城
戦国時代末期、郡上一円は篠脇城を居城とする東氏(とうし)によって支配されていた。その後、東氏は郡上八幡の町を流れる吉田川の対岸にある赤谷山に赤谷山城を構えたが、永禄2年(1559年)牛首山(後の八幡山)の上に砦を築いた遠藤盛数により滅ぼされた。その時、赤谷山城を攻撃した時に砦を築いたのが郡上八幡城の起源である。 その後盛数の長男慶隆が城主となったが、本能寺の変後羽柴秀吉と対立する織田信孝の傘下に属していたため追放された。慶隆追放後、天正16年(1588年)に稲葉貞通が城主となり、郡上八幡城の大改修を行った。その内容は八幡山の麓に新たに濠を掘り、本丸に天守台を設け、塁を高くして、塀を巡らし、武庫と糧庫を増築し、鍛冶屋洞に面して大きな井戸を掘り、二の丸を増築して居館とした。この時、現在見られる近世城郭としての郡上八幡城の基礎が築かれた。 その後、関ヶ原の戦いの功によって再び慶隆が城主となり、城の改修を行った。『慶隆御一世聞書』によると、郡上八幡城は慶長6年(1601年)春から慶長8年(1603年)秋まで普請を行い「惣石垣三塀二重之矢倉松ノ丸桜ノ丸等出来」とある。5代藩主常久まで遠藤氏が城主となり、以後井上氏2代、金森氏2代、青山氏7代と城主が変遷。廃藩置県まで郡上藩の藩庁であった。青山幸宜が藩主の際に明治維新を迎え、廃藩置県によって廃城となる。廃城の翌年の明治3年(1870年)に、石垣だけを残し、取り壊された。現在の天守は、大垣城[3]を参考に1933年(昭和8年)模擬天守としては全国的にも珍しい木造で造られた(本天守は現存する木造再建城としては日本最古となる)。
平山城 300円 岐阜県(美濃国)入江 徹也
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越前大野城
1575年(天正3年)、織田信長より越前一向一揆を平定した恩賞として越前国大野郡の内の3万石を与えられた金森長近がその翌年(1576年)[7][8]、最初に居城とした戌山城の近くの亀山(大野盆地の小孤峰)に城郭を築き始めたのが越前大野城の始まりである。築城に4年間を要し1580年(天正8年)に竣工した。その後、青木一矩時代を経て越前松平家が3代続いた後天領となり、土井氏で定着するまで目まぐるしく城主が替わった。城は1775年(安永4年)に焼失し、1795年(寛政7年)には天守を除いて再建されたが、明治維新後に破却されている。 昭和に再建された越前大野城は、竹田城(兵庫県朝来市)、備中松山城(岡山県高梁市)と並び、城(城跡)が雲海に浮かぶ「天空の城」の異名がある。
平山城 300円 福井県(越前国)入江 徹也
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池田城
池田城は室町時代から戦国時代にかけて、豊島郡(現在の池田市、豊中市、箕面市周辺)を治めていた国人領主・池田氏の居城だった。 築城当初は、主郭部分(本丸に相当する部分)と小さな曲輪が取り付けた小規模な城であった。主郭の中には、枯山水風の庭園が築かれており、戦闘防御施設の中に文化施設が設けられ、この時代から城は生活の場所でもあったとうかがわせる。その後、池田城は何度か落城をしており、その都度防御機能や縄張りを強化していく。 池田城が最初に落城したのは、応仁の乱で東軍について、文明元年(1469年)に西軍の大内政弘の軍に攻められた時である。 次いで永正の錯乱に端を発した細川氏の内紛で細川澄元派に属していた池田貞正は、永正5年(1508年)に反対勢力であった細川高国の攻撃を受けて落城、貞正は自殺して子の信正は逃亡した。その後、享禄4年(1531年)の大物崩れでも高国の攻撃を受け、天文2年(1533年)、享禄・天文の乱で2月に一向一揆に敗れて堺から淡路へ逃れていた細川晴元が4月にこの城に入城、畿内へ戻った。 永禄11年(1568年)、池田勝正は織田信長に抵抗したが織田軍の攻撃を受け落城した。しかし勝正は抵抗したお咎めを受けなかった上に逆に評価され、信長から6万石を賜って家臣となった。池田城は信長の持つ「虎口」などの城郭の技術を取り入れてより拡張した。池田城の虎口は城内に二度曲げ、それ以外に東側に横堀を二条掘削し、大規模な曲輪を設け城域を拡張した。勝正は信長に摂津三守護の1人に任命され、金ヶ崎の退き口では殿を務めるなど活躍したが、三好三人衆についた一族の池田知正や荒木村重に池田城から追放された。 荒木村重は重臣「池田21人衆」の1人として頭角を現し、池田勝正を追放した池田氏内部のクーデターで城内をまとめ、残る摂津三守護の和田惟政、伊丹親興を討ち取って茨木城と高槻城を手中に収め、元亀4年(1573年)3月29日に足利義昭と対立した信長と京都知恩院で対面し信長に忠誠を誓う。この時信長は高槻城攻略に激賞し、村重に摂津の単独守護職を認めた。池田知正は義昭に就いたため没落、池田家を乗っ取った村重の家臣になった(下克上)。摂津は南北朝時代以降分郡支配体制だったが、村重より一国一大名体制になった。 その後伊丹城を手に入れた村重は有岡城と改名し、居城を有岡城に移した。池田城の城主は知正になったという話もある。 天正6年(1578年)に村重は石山合戦の最中に石山本願寺に内通しているという噂が流れ、信長も噂が大きくなるにつれ、真意を探るべく自分の前で申し開きをするように命じた。当初村重は母親を人質に入れ、申し開きをすることを承諾したが、明智光秀や羽柴秀吉などの説得も受け入れず信長のいる安土城には出仕しなかった。ここに至り謀反を明確にした村重は本拠地に有岡城を定め、高槻城、茨木城、尼崎城(近世尼崎城でなく大物城でないかと思われる)、花隈城に兵を配置し織田軍の進攻に備えた。こうして有岡城の戦いが始まる。村重は池田城に軍を配置しておらず、池田城の池田氏は村重に対して協力的でなかった可能性がある。 これに対して信長は11月9日に出陣、高槻城、茨木城を無血開城に成功、同年11月27日に「古池田」、池田城に織田軍は陣を張った。その後有岡城の四方を囲み始め12月8日に攻撃を開始する。まず鉄砲隊が一斉射撃し弓隊の火矢でかく乱し、酉の刻有岡城に突入を開始したが、攻め切ることが出来ず、逆に多くの家臣を失うことになる。 信長は戦術を持久戦に変更、周りに兵を配置しつつ12月11日に池田城に陣を戻し、12月25日に自身は安土城に戻っていた。その後、信長は安土城から池田城、池田城から京都など、池田城に陣を構えたまま各所に出かけ、持久戦の効果が出るのを待ち続けた。村重は翌年9月2日の深夜、家来5、6名をつれて尼崎城へ移り、毛利氏に援軍を要請しに出向いたと思われる。信長はこの時を好機ととらえ再び攻撃を命じ、天正7年(1579年)11月に有岡城は落城した。生き残った妻子や家来は尼崎七松で刑にかけられ命を落とした。村重はその後生き残り、秀吉の茶人となったと言われている。池田知正も妻子を尼崎七松で処刑されたが秀吉の家臣になった。 荒木村重の謀反から始まった戦で池田城は村重に捨てられ信長側が利用した。当時の城主が誰だったかはわからない。有岡城が落城した翌天正8年(1580年)、信長の命により廃城となった。
平山城 300円 大阪府(摂津国)入江 徹也
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三木城
この地に城を築いたのは別所則治で、突然歴史上に登場する。文明15年(1483年)冬、播磨守護赤松政則が山名政豊に大敗し堺に逃亡した。翌文明16年(1484年)2月に政則が家臣団により家督を廃されたが、別所則治は政則を擁して上京し、室町幕府大御所足利義政の助力を得て家督を復活させた。それ以来則治は数々の武功を挙げ政則より8郡が与えられ、その地域に三木城を築城し、別所氏は赤松氏家臣団の中で浦上氏に次ぐ実力者となったようである。 則治の孫・別所就治の時代になると、三木城も戦場の地となる。就治と浦上村宗が内紛状態となり、享禄3年(1530年)夏に就治は柳本賢治に援軍を要請、依藤城を攻城していたが、柳本賢治が就寝中に暗殺されてしまった。それを皮切りに細川高国・村宗連合軍が三木城をはじめ御着城、有田城に攻撃を開始、落城させた。この戦いが三木城の攻城戦の初見ではないかと推定される。就治は一旦国外に脱出したようだが、翌享禄4年(1531年)の中嶋の戦い・大物崩れで村宗が討取られ、高国も自害すると就治も三木城に戻ったようで、東播磨で大きく勢力を伸ばしていった。 その後天文7年・8年(1538年・1539年)の2度に渡って尼子詮久(後の晴久)が三木城を攻撃してきた。この時赤松氏の国人衆はほとんどが尼子軍に下り、三木城のみが東播磨の拠点となった。しかし赤松晴政は2回も国外に脱出したため、守護としての地位が落ちていったが、代わりに就治の東播磨での地位は上がり、赤松氏から細川晴元派へ与していく。 しかし、晴元を京都から追放した三好長慶に目をつけられ、有馬重則と対立していたことを口実に三好軍の攻撃を受ける事態になり、天文23年(1554年)9月、長慶の同族・三好長逸に三木城の支城7つを落城させられてしまった。ついで同年11月に、長慶は援軍として弟の三好実休を送りこみ枝吉城を攻囲、翌天文24年(1555年)に明石氏は三好軍と和議を結び、就治も支えきれず和議を結んだ。ここから就治は三好三人衆軍に組み入れられ大和まで出陣したようである(東大寺大仏殿の戦い)。その後永禄2年(1559年)には宿敵であった依藤氏を滅した。 別所安治に代わった永禄11年(1568年)には三人衆を見限り織田信長方についた。翌永禄12年(1569年)に安治は織田軍として西播磨へ攻め込んだが、逆に三人衆軍として浦上宗景が三木城に来襲してきた。しかし、翌永禄13年(1570年)に再び西播磨に攻め込む。また、当主が別所長治に変わり、北播磨の在田氏も滅ぼすと戦国大名化していった。 天正6年(1578年)3月7日、毛利氏攻めの先鋒を務めると信長に約した長治は突如三木城に立て籠もり、羽柴秀吉に叛旗を翻した。加古川会談で意見対立したのが原因と思われているが、『日本城郭大系』ではその前に毛利輝元と筋書きが整っていたとし、輝元の外交上の勝利であると解説している。 当初織田軍は戸惑ったようであるが、三木城の城下町を焼き払い、監視する番城のみを置き、別所長治軍に与している城を一つ一つ攻め落としていった。翌天正7年(1579年)5月末には完全に三木城を攻囲し兵糧を断つ戦術に出た。羽柴秀吉隊は出る杭を打つというような戦術で自ら討って出ることはなく、同年2月と9月に別所長治軍は合戦を挑んできたが、いずれも敗北している。翌8年(1580年)1月6日から本格的に攻城を開始し、同1月15日に開城を勧告し、長治もこれに応じ一族ともに自害した。長期戦となったものの、三木城への攻城戦は半月で決着がついた。 その後秀吉は姫路城を居城とし、三木城には城代を入れた。天正13年(1585年)8月に中川秀政が入城するが、文禄元年(1592年)に秀政が朝鮮出兵で戦死すると弟の中川秀成が跡を継ぎ、文禄3年(1594年)に豊後へ移封された。その後は豊臣氏の直轄地となり城番が入った。 関ヶ原の戦いの結果、池田輝政が播磨52万石の大名となり、姫路城主となると、三木城も6つの支城の一つとなり、宿老の伊木忠次が3万石を知行し三木城の城主となった。その後伊木忠繁が継ぐが元和元年(1615年)、一国一城令によって破却された。
平山城 300円 兵庫県(播磨国)入江 徹也
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安土城
1576年(天正4年) 1月、織田信長は総普請奉行に丹羽長秀を据え、近江守護六角氏の居城観音寺城の支城のあった安土山に築城を開始。 1579年(天正7年)5月、完成した天主に信長が移り住む。同年頃に、落雷により本丸が焼失したと、ルイス・フロイスが著書『日本史』に記している。 1582年(天正10年) 5月15日には明智光秀が饗応役となった徳川家康の接待が行われている。同29日の京都本能寺に信長が光秀の謀反により自害した本能寺の変の際は蒲生賢秀が留守居役として在城していたが、信長の自害後に蒲生賢秀・氏郷父子は本拠地日野城に信長の妻子などを安土城から移動させ退去。その後、明智軍が安土城を占拠した。山崎の戦いで光秀が敗れた後、天主とその周辺の建物(主に本丸)が焼失した。焼失の経緯や理由については諸説あるが不明である。 本能寺の変以降もしばらく織田氏の居城として、信長の嫡孫秀信が清洲会議の後入城するなどと、主に二の丸を中心に機能していた。しかし、秀吉の養子豊臣秀次の八幡山城築城のため、1585年(天正13年)をもって廃城されたと伝わっている。
平山城 滋賀県(近江国) 2021年7月入江 徹也
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大高城
築城年代ははっきりしないが、土岐頼康が尾張守であった南北朝期には池田頼忠が城主を務め、永正年代には花井備中守や、水野為善とその息子の忠守が居城したことが伝えられている(為善については異説もある。また忠守は水野忠政の息子の水野忠守とは別人)。 天文年間も引き続き水野氏が治めたが、織田信秀の支配下にあった。天文17年(1548年)、今川義元の命で野々山政兼がこの城を攻めたが、落とすことができず政兼は戦死する。 しかし信秀の死後、息子の織田信長から離反した鳴海城主山口教継の調略で、大高城は沓掛城とともに今川方の手に落ちる。この脅威に対して信長は「丸根砦」「鷲津砦」を築き、大高城に圧力を加える。永禄2年(1559年)、朝比奈輝勝が義元の命をうけ大高城の守りに入る。 翌永禄3年(1560年)には、大高城の包囲を破りそのまま鵜殿長照が守備についた。5月18日夜には、大高城に松平元康が兵糧を届け、長照に代わり元康が城の守備についた。やがて信長の攻撃による義元の死(桶狭間の戦い)を確認した元康は岡崎城に引き下がったため、大高城は再び織田家の領土となった。 まもなく廃城となったが、尾張藩家老の志水家が、元和2年(1616年)にここに館を設けてから代々住むようになった。この館も明治3年(1870年)に売却された。
平山城 300円 愛知県(尾張国)入江 徹也
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岩崎城
岩崎城(いわさきじょう)は、尾張国山田郡(のち愛知郡)岩崎(現在の愛知県日進市岩崎町)に存在した戦国時代の日本の城(平山城)である。室町時代末期(15世紀末から16世紀前葉ころ)に築城され慶長5年(1600年)に廃城となった。もっとも古い記録によると尾張国勝幡城(現・愛知県愛西市)主・織田信秀(織田信長の父)の支城だった。 享禄2年(1529年)、三河国岡崎城主・松平清康(徳川家康の祖父)が、織田信秀の属将・荒川頼宗の守備する岩崎城を尾張国攻略の足がかりとして兵7000を率い攻め落とした。しかし天文4年(1535年)「森山崩れ」により清康が死去すると松平氏の勢力は岩崎城から後退し、松平氏の案内人として行動していた本郷城(現在の日進市本郷町)主・丹羽氏清が移り住み、4代続けて岩崎城主として戦国時代を生き抜くこととなる。 天正12年(1584年)に起きた岩崎城の戦いとは、小牧・長久手の戦いのうち長久手の戦いの緒戦となった戦いである。両軍の膠着状態を打ち破るため、秀吉方によって実行された「三河中入(なかいり)」作戦を阻止し、池田軍の進軍を止めたという点で大きな功績を残した戦いであった。この時の当主・丹羽氏次はこの戦いで弟の氏重を失ったが、家康からの信頼を得てその後の戦いにも多くの功績を挙げることとなる。 長久手の戦いの後、落城した岩崎城が再建されたかは確かではないが、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで丹羽氏次は徳川方として参戦、その功績を認められ三河国伊保(現在の愛知県豊田市)1万石の大名として栄転し、岩崎城はここで廃城となる。
平山城 300円 愛知県入江 徹也
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小牧山城
小牧山城は織田信長が美濃攻めの拠点として築いた城で、永禄3年5月19日(1560年6月12日)の桶狭間の戦いに勝利した後、念願の美濃国併呑を実現すべく、早くもその3ヶ月後から美濃攻めを開始した。永禄5年1月15日(1562年2月18日)には徳川家康と清須城においていわゆる清洲同盟を結び、尾張国東側の脅威が消滅した。これによって、信長は全力で美濃国を攻める体制を整えるために、美濃国に近い尾張国北方へ本拠地を前進する策が実施可能となった。この新しい本拠地に選ばれたのが、広大な濃尾平野の中に孤峰を保つ小牧山であった。丹羽長秀を奉行として小牧山山頂に城を築き、永禄6年(1563年)7月には主要兵力を小牧山の城に移した。『定光寺年代記』に拠れば城は信長により「火車輪城」と名付けられた。 移転後、織田軍は小牧山城を本拠地として美濃への侵攻と調略を繰り返し、永禄10年8月15日(1567年9月17日)、美濃斎藤氏の本拠地であった稲葉山城は落城。信長は稲葉山城に拠点を移し城下町の機能を全て移転させたため、小牧山城は約4年間で廃城となった。 天正12年(1584年)、羽柴秀吉と徳川家康が戦った小牧・長久手の戦いでは、家康がいち早く小牧山に目を付けて本陣を置き、遅れてきた秀吉を悔しがらせたといわれる。この時、信長の築いた城跡の土塁、空堀などに大規模な改修が施され、「城」とみなせるほど強固な陣地が築かれた。秀吉の大軍も容易に手が出せず、焦った池田恒興や森長可が三河への無謀な長駆攻撃を敢行し、長久手方面へ突出して壊滅する事態となった。急造「小牧山城」は、徳川勝利の一翼を担ったことになる。この一戦は、頼山陽により「家康公の天下を取るは大坂にあらずして関ケ原にあり。関ケ原にあらずして小牧にあり」と称揚された(『日本外史』)。 その後、家康「御勝利御開運の御陣跡」となり、一般の入山は禁止された。山と城跡は、江戸時代を通じて尾張徳川家の領地として保護を受け、管理された。
平山城 300円 愛知県(尾張国)入江 徹也
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稲葉山城(岐阜城)
岐阜城(ぎふじょう)は、美濃国井之口の山(稲葉山(現・岐阜県岐阜市の金華山))にあった城(山城跡)。もとは稲葉山城と言い、鎌倉時代以来の歴史があり、本格的に整備されたのは戦国時代の斎藤道三の時期だと考えられ、織田信長が1567年の稲葉山城の戦いにより斎藤龍興から奪取し、本拠地を小牧山から当城へと移し、その縄張りを破却して新たに造営したものが岐阜城である。『信長公記』に「尾張国小真木山より濃州稲葉山へ御越しなり。井口と申すを今度改めて、岐阜と名付けさせられ」と記載されており、ここから天下布武、天下統一をおこなうという意味をこめて、信長が山頂にある城や麓にある町などを「井口」から「岐阜」へと改名したことにより「岐阜城」と呼ばれることになった。 1201年(建仁元年) - 二階堂行政が井口の山(金華山・稲葉山)に砦を築いたのが始まりとされる。続いて行政の娘婿・佐藤朝光、その子伊賀光宗、光宗の弟・稲葉光資(稲葉氏・美濃安藤氏)が砦主となり支配した為、金華山は稲葉山と呼ばれるようになるが、二階堂行藤の死後、廃城となる。 15世紀中頃 - 美濃守護代・斎藤利永が、この城を修復して居城とする。 1525年(大永5年) - 斎藤氏家臣の長井長弘と長井新左衛門尉が謀反を起こして稲葉山城を攻撃。長井氏の支配下となる。 1533年(天文2年) - 新左衛門尉が没すると、その子、長井新九郎規秀(斎藤利政、後の斎藤道三)が後を継ぎ、城主となる。 1539年(天文8年) - 守護代になっていた斎藤利政が、稲葉山山頂に城作りを始める。 1541年(天文10年) - 利政が守護の土岐頼芸を追放。 1547年(天文16年) - 織田信秀、頼芸派の家臣と稲葉山城下まで攻め入るも大敗(加納口の戦い)。 1554年(天文23年) - 利政、城と家督を嫡子の斎藤義龍に譲り剃髪、道三と号する。 1556年(弘治2年)5月 - 義龍、長良川の戦いにより道三を討ち取る。 1561年(永禄4年)6月 - 義龍の急死により、斎藤龍興が13歳で家督を継ぎ、城主となる。 同年6月 - 十四条の戦いに勝利した織田信長が稲葉山城を攻めるも敗退。 1564年(永禄7年)3月 - 斎藤氏の家臣であった竹中重治と安藤守就が造反して挙兵。稲葉山城を攻める。龍興らは城を捨て鵜飼山城へ逃げ、竹中らが城を半年間占拠する。 1567年(永禄10年) - かねてから美濃攻略を狙っていた織田信長が西美濃三人衆の内応により稲葉山城下に進攻(稲葉山城の戦い)。龍興は城を捨てて長良川を舟で下り、伊勢長島へ逃亡した。 同年 - 信長は、本拠地を小牧山城から稲葉山に移転し、古代中国で周王朝の文王が岐山によって天下を平定したのに因んで、城と町の名を「岐阜」と改めた。この頃から信長は「天下布武」の朱印を用いるようになり、本格的に天下統一を目指すようになった。 1576年(天正4年) - 信長は嫡子織田信忠を岐阜城の城主とし、織田家の家督及び美濃、尾張の2ヶ国を譲る。岐阜城の整備改修は信忠によって更に追加された。 1582年(天正10年)6月21日 - 信忠が本能寺の変で倒れると、留守居であった斎藤利堯が岐阜城を掌握し、美濃瑞龍寺・崇福寺・千手堂・西入寺に禁制を掲げた。しかし、明智光秀が羽柴秀吉に敗れると7月9日頃、不破郡長松に出向き織田信孝らに服した。 同年7月16日 - 清洲会議により信孝が兄・信忠の遺領美濃国を拝領、岐阜城の城主及び、信忠の嫡子三法師の後見となる。 1583年1月13日 - 羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の嫡男・元助らの兵が岐阜城に迫ったため講和し、三法師を引き渡した。 同年(天正11年)6月6日 - 信孝は長島城主の滝川一益と呼応し再度挙兵。しかし美濃返し(賤ヶ岳の戦い)によって柴田勝家が敗れ、兄・信雄によって居城の岐阜城を包囲されると、これに降伏した。城からは逃亡が相次ぎ降伏時の人数は27人であったという。その後、信孝は切腹させられた。 同年5月 - 池田恒興が美濃国にて13万石を拝し大垣城主となると、池田元助が岐阜城主となる。 1584年(天正12年) 小牧・長久手の戦いで池田恒興と元助が討死。 1585年(天正13年)恒興の次男・池田輝政の居城となる。 1591年(天正19年) - 転封により、輝政に代わって豊臣秀勝が岐阜城の城主となる。 1592年(文禄元年) - 10月14日に豊臣秀勝が没すると、織田秀信(幼名・三法師)が美濃国岐阜13万石を領有し岐阜城の城主となる。 1600年(慶長5年) - 織田秀信は、石田三成の挙兵に呼応し西軍につく。関ヶ原の戦いの前哨戦で、岐阜城に立てこもるが、福島正則や池田輝政らに攻められて落城(岐阜城の戦い)。秀信は弟秀則と共に自刃しようとしたが、輝政の説得で降伏する(のち1605年(慶長10年)に死亡した)。 1601年(慶長6年) - 徳川家康は岐阜城の廃城を決め、奥平信昌に10万石を与えて、加納城を築城させる。その際、岐阜城山頂にあった天守、櫓、山中、山麓の石垣などは加納城に、焼け残った御殿建築は大垣市赤坂のお茶屋敷に移されたという。岐阜城が山城であることに加えて、かつて信長が天下取りの意思を込めて命名した「岐阜」という地名を家康が忌み嫌った(徳川氏に代わる天下人の出現を髣髴させる)からだともいわれている。
平山城 300円 岐阜県(美濃国)入江 徹也