-
A FAMOUS VICTORY
『アフェイマスビクトリー』は、スペイン継承戦争中のイギリス軍指揮官であり初代マールバラ公爵ジョン・チャーチルが行った有名な戦いをシミュレートしたゲームです。 スペイン継承戦争での有名な2つの戦い、「ブレインハイムの戦い」と「ラミイの戦い」を扱います。 また、システムは同社のグランドタクティカル級戦闘ゲームシリーズのルール、グレートリーダーズグレートバトル(略してGLGB)が採用されています。マールバラ公ジョンチャーチルは不敗の将軍と呼ばれ、「彼が勝たぬ野戦は無く、彼が奪えぬ要塞は無かった」と称えられた名将です。 「ブレンハイムの戦い」 ブレンハイムの戦いは、1704年8月13日、マールバラ公ジョンチャーチル率いるイングランド・オーストリア同盟軍と、バイエルン選帝侯国・フランス連合軍がドナウ川流域のブレニムで戦った戦いです。スペイン継承戦争の中のひとつの会戦です。この戦いに勝利したことにより、イングランドはドナウ川・ライン川流域の領土を奪還しました。 「ラミイの戦い」 ラミイの戦いは、1706年5圧23日、ベルギーのラミイでイングランド・オランダ同盟軍がフランス・バイエルン軍が戦った戦いです。6万人同士の両軍が激突した結果、イングランド側は死傷者3500、フランス側は降伏した兵も合わせ2万もの死傷者が出、イングランド側の圧勝で終わりました。 #スペイン継承戦争 #ブレニムの戦い #ラミリーの戦い #チャーチル
ルール(40P) ユニット720個 22×24インチ両面ソフトマップ2枚 プレイヤーエイドシート4枚 6面体ダイス1個 10面体ダイス1個 2本 グレートリーダーズ、グレートバトルズシリーズ1 作戦級ちょこ大佐
-
DEAD of WINTER SDI
「マーフリーズボロの戦い(ストーンズ・リバーの戦い)」 1862年12月31日、テネシー州マーフリーズボロで発生した北軍と南軍の激突は、両軍ともに約4万人の兵力で戦われましたが、アメリカ南北戦争において両軍ともに最大の損失率を記録してしまった戦いです。結果的に痛み分けでしたが、最終的に南軍が撤退し戦闘が終了したため、東部戦線で敗退していて意気消沈していた北軍の士気を大いに上げた戦いとなりました。 GBACWとは、Great Battle the American Civil Warの略で、1976年にSPI社から発売された『Terrible Swift Sword』を始めとした、アメリカ南北戦争を連隊規模で再現する一連のシリーズを指します。南北戦争を連隊規模の戦術級で扱うこのシステムは人気が高く、SPIを始め、Tass、3W、SDC,SDI、GMTと会社が変わっても綿々と受け継がれていき、今では20以上もの作品が並んでいます。 『Dead of Winter』(ゾンビゲームじゃないよ)は、現在のBGACWシリーズの発売元であるGMT社に移る前の最後の作品で、1989年にSDI社から発売されました。1862年の年末に南北戦争の西部戦線で発生したマーフリーズボロの戦いを再現しています。ちなみに、2006年にGMT社から2nd editionが発売され、これは今どきのはやりを採用してシークエンスがチットプル活性化システムに変わっています。 #南北戦争 #マーフリーズボロの戦い #ストーンズ・リバーの戦い
ベーシックルールブック(34P) ルールブック(40P) ユニット800個 ソフトマップ2枚 1本 GBACWシリーズ 戦術級ちょこ大佐
-
FIRST BLOOD
1861年7月21日、バージニア州マナサスで発生した北軍と南軍の戦いは、第一次ブルランの戦いと呼ばれ、南北戦争最初の大規模陸上戦闘でした。南北戦争初期の戦いのため、両軍とも急遽集められた雑兵同士の戦いとなり、初めは北軍が優勢でしたが、やがて南軍が将軍の指揮により盛り返し、北軍をワシントンD.C.まで押し返し大勝しました。兵力で劣勢の南軍が初期の会戦で勝利したことは、その後に続く南北戦争を長期化させる要因となったのです。 第二次ブルランの戦いは1862年8月28日に南北戦争の東部戦線で発生しました。南軍リー将軍率いる北バージニア軍が、北軍のジョン・ポープ少将率いるバージニア軍に対して攻撃を開始、同じ場所で去年発生した第一次ブルランの戦いを上回る規模、兵数で行われます。南軍は、北軍の鉄道拠点にあった補給場所を占拠し、北軍に対して集中砲火を浴びせます。北軍はブルラン川の後方まで撤退し、今会戦も南軍の勝利で終わりました。 シミュレーションデザインインコーポレッド社(SDI)から発売された『ファーストブラッド』は、南北戦争初期の戦いのマナサス(ブルラン)における2度の戦いをシミュレートしたゲームです。南軍の勝利に終わったふたつの戦いを南北戦争独自のシステム(GBACWシステム)で見事に再現しています。 #南北戦争 #マナサスの戦い #ブルランの戦い
? GBACWシリーズ 作戦級 1Turn=? 1へクス=? 1Unit=?ちょこ大佐
-
BOUDICCA the warrior queen
あなたはイギリスのヒーロー、「ブーディカ」を知っていますか? A.D.60年、まだイギリスがグレートブリテン島と呼ばれていた頃、ブリテンはその大部分がローマ帝国の植民地と化していました。その当時、ブーディカはケルト人イケニ族の王プラスタグスの妻でした。イケニ族の治める東海岸(現在のノーフォーク地方)は、ローマ帝国の支配が及ぶ範囲ではなく、王はローマ帝国と同盟関係を結び、領主としてその地を治めていました。しかし、その当時のローマ帝国の同盟条約は、「王の称号は本人のみで、本人が死亡すれば消滅し、相続できない」という、その武力を背景にした理不尽な条約でした。そのため、プラスタグス王の死後、ローマ軍は条約を盾にイケニ族の領地を奪い、王の妻であったブーディカ及びその2人の子供に対し鞭打ちの刑に処した後領土より追放しました。国を奪われたブーディカは復讐を誓い、近隣部族を諭してローマ帝国への反撃の狼煙を上げます。 ルネサンス時代に発見された歴史書によると、反乱軍のリーダーに推されたブーディカは、勝利の女神として、2人の子供を脇に立たせ、チャリオットに搭乗し23万もの反乱軍の指揮を執っていたと記録されています。ブーディカ率いる反乱軍は、ブリテン各地のローマ帝国植民地に攻め込み、これを開放し、自由を奪われた復讐を叫びつつ各地を転戦しました。ブーディカ反乱軍により都市ロンディニウム(現在のロンドン)が陥落した時、当時のローマ皇帝ネロはブリテンからの軍の撤退を真剣に考えましたが、ロンディニウムとウィロコニウム(現在のシロップシャー州)の間で行われた会戦によりローマ軍が勝利し、ブーディカ軍が壊滅したため、その後もローマ帝国によるブリテン島支配が続きました。会戦後のブーディカの行方は知れず、現在では敗戦の責任を取った服毒自殺説と病死説があります。 ちなみに、このブーディカ伝説は1928年と2003年の2度映画化されています。 『ブーディカ』は、A.D.60年に発生した、ローマ帝国の植民地であったブリテン島でのケルト人の反乱をシミュレートしたゲームです。 ブーディカという単語は、古代ケルト語で”勝利”を意味する単語に由来し、ヴィクトリア女王のヴィクトリアと同じ意味です。彼女の名前は日本ではあまり馴染みは有りませんが、イギリスでは、フランスのジャンヌダルクに比する勝利の女神として知られています。このゲーム自体は1984年にウエストエンドゲームズから発売された『ドルイド:ブーディカズリベリオン61AD』(デザイナーはリチャードバーグ先生)のリメイクとなっています。 #ブーディカ #ケルト #グレードブリテン
ルール(8P) ユニット240個 22×34インチマップ1枚 カード36枚 プレイヤーエイドチャート2枚 ? 無し 作戦級ちょこ大佐
-
The Battle of Waterloo
1815年、囚われていたエルバ島から帰還したナポレオンは、第七次対仏大同盟の態勢が整う前に先んじでこれを打破するために自ら12万の兵を率いて出撃した。英蘭連合軍及びプロイセン軍を倒すためである。1815年6月16日より3日間、両軍は激突した。ナポレオン軍は前哨戦となるリニ―の戦いでプロイセン軍に勝利し、プロイセン軍を追い詰めた。潰走したプロイセン軍はナポレオン軍から逃げおおせ、見失ったナポレオン軍は英蘭連合軍が陣取るワーテルローへと向かった…。 「ザバトルオブワーテルロー」は、ナポレオン最後の戦いとなったワーテルロー会戦を、その前哨戦であるカトルブラ戦、リニー戦、ワーヴル戦を含めて再現するゲームです。1年前のフランス戦役で圧倒的不利を覆して勝利したナポレオンが、なぜワーテルローで負けたのか?部下が無能だったという話もありますが、ナポレオンもこのとき既に47歳、昨年の激戦の余波で気力も衰えていたと言われています。ともあれ、稀代の英雄であることは間違いないでしょう。 #ナポレオン #ワーテルロー
6本 ? 作戦級 1Turn30分 1へクス=336㎞ 1Unit=連隊~旅団ちょこ大佐