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LOTUS FORD 72C #6 JOCHEN RINDT WINNER FRENCH GP 1970
#quartzo #lotus #ロータス #ford #フォード #uk #イギリス #france #フランス #
6 FORMULA 1 1/43 TEAM LOTUSsennakazu
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ENEOS SC430 SUPER GT500 #6 伊藤大輔 / BJORN KARL MIKAEL WIRDHEIM 2009
#ebbro #toyota #トヨタ #lexus #レクサス #sgt #gt500 #
6 SUPER GT500 1/43 LEXUS TEAM LEMANS ENEOSsennakazu
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TEAM LOTUS 78 #6 G.NILSSON JAPAN GP FUJI INTERNATIONAL SPEEDWAY 1977
ロータス 78は、チーム・ロータスが開発したフォーミュラ1カーで、1977年・1978年シーズンに使用されました。ピーター・ライト氏、コーリン・チャップマン氏、マーティン・オジルビー(ドイツ語版)、トニー・ラッド氏によって設計され、F1界にグラウンド・エフェクト革命を捲き起こしました。 1977年の開幕戦でデビューした78は5勝を挙げ、そのシーズン最高クラスのマシンであることを証明し、1978年には他のチームも自身のバージョンを設計しようと競い始めました。しかし、このグランドエフェクト効果について、チャップマン氏とロータスの他のメンバーが真の理由を隠すために、数々の言い訳をでっち上げたので、このマシンの何がそれほど特別なのか正確にはわかっていないことでした。加えてマシン下面の外観はスカートに覆い隠されていたので細かいところが分からず、アロウズやシャドウも見よう見まねでマシンをデビューさせましたが、どちらもサイドスカートを持たない複雑なウイング構造のサイドポンツーンで効率が低く、各チームは発生メカニズムを完全に惑わされていたようです。(参照ウィキペディア) さて、このモデルの1977年日本グランプリは、1977年のF1世界選手権第17戦として、1977年10月23日に富士スピードウェイで決勝レースが開催されました。 スタート ポールシッターのアンドレッティはスタートシグナルのタイミングを見誤り、加速が鈍って大きく後退し、予選2位のジェームス・ハント選手(マクラーレン)がトップに立ち、8位に落ちたアンドレッティは2周目の100Rでジャック・ラフィット選手(リジェ)と接触し、コースアウトしてクラッシュ、リタイヤとなりました。 観客死傷事故発生 6周目、14位のジル・ヴィルヌーブ選手(フェラーリ)が1コーナー入口のブレーキングでロニー・ピーターソン選手(ティレル)のインを突いたが、右後輪に追突して宙に舞い、フェラーリのマシンはティレルを飛び越えてノーズから逆さまに落下し、側転しながらエスケープゾーンの奥に突っ込んでいきました。ヴィルヌーブは奇跡的に無傷で脱出しましたが、立ち入り禁止区域で観戦していた観客1名と警備員1名が死亡し、7名が重軽傷を負うという惨事となってしまいました。F1での観客死亡事故は1975年第4戦スペインGP以来1年半ぶり、日本の自動車レース界では初めての出来事でした。 実は、私の従兄弟がカメラマンで、出版社の依頼で1コーナーで撮影中、事故に遭遇してしまい、彼は奇跡的に無傷であったものの隣にいた方は亡くなってしまったそうです。。。従兄弟の撮った宙に舞ったヴィルヌーブのマシンが向かってくる映像が、今でも強烈な印象として私の脳裏に残っています。 結果 レースは続行され、独走するハントは全周回ラップリーダーのまま、2位以下を1分近く離して優勝しました。ハントにとってはこれがF1最後の勝利となりました。 ピットでマシンから降りたハントはやおら私服に着替え、「今夜のフライトで帰国する。渋滞にはまりたくない」と言い残して帰ってしまい、2位のロイテマンも同じ行動をとったため、表彰台には3位のドゥパイエとフェラーリのメカニックしか上がらないという締まらない幕引きとなりました。 日本勢最高位は高橋国光選手(ティレル)の9位。星野一義選手(コジマ)はタイヤのマッチングに苦しみ、2周遅れの11位に終わりました。(参照ウィキペディア) グンナー・ニルソン選手は、63周リタイヤに終わりました。 #spark #lotus #ロータス #japan #日本 #fuji #富士
6 FORMULA 1 1/43 LOTUS FORDsennakazu
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WILLIAMS HONDA FW11 KELE ROSBERG(FERRARI) RIDING ON NELSON PIQUET “PIQUET’S TAXI” GERMAN GP 1986
ウィリアムズ・FW11は、ウィリアムズが1986年のF1世界選手権参戦用に開発したフォーミュラ1カーで、設計者はパトリック・ヘッド氏です。ドライバーは、ブラバムから移籍したネルソン・ピケ選手と、前年から引き続きのナイジェル・マンセル選手の個性ある2人がステアリングを握った。 FW11は、ウィリアムズ初の完全なカーボンモノコックシャシーとなったFW10の後継モデルとして設計されました。 エンジンはホンダのRA166Eを搭載し、前作RA165Eよりもスモールボア・ロングストローク化がなされ、またFW11から、ホンダによる無線を使用した双方向通信(テレメトリーシステム)が導入されました。 FW11は、1986年シーズン全16戦のうち9勝を挙げる同年の最速マシンとなりました。第14戦ポルトガルGP予選からはターボ用吸入ダクトがそれまでのサイドポンツーンサイド部から、シュノーケルタイプのダクトをサイトポンツーン上に突き出すタイプが投入され、第15戦メキシコGPからは決勝レースでもシュノーケルダクト仕様で出走するようになりました。 FW11によりウィリアムズ・ホンダはコンストラクターズ・チャンピオンを獲得し、ホンダにとってF1での初タイトル獲得車となりました。しかしドライバーズタイトルは、ピケとマンセルのチームメイト同士に、マクラーレンのアラン・プロスト選手を加えた激しい争いが最終戦にまでもつれ込み、結局プロストが漁夫の利をさらう格好になりマンセルがランキング2位、ピケがランキング3位となりました。同年No.1待遇で契約したピケの契約金が日本円にして約7億円、マンセルの契約金は1億円弱だったとされ、契約上はピケの完全No.1待遇でした。しかし開幕前にオーナーのフランク・ウィリアムズ氏が交通事故で下半身不随になる混乱の中、イギリスのチームであるウィリアムズ内部ではイギリス人であるマンセル派と、ホンダがバックアップするピケ派に二分されました。当初の構想ではピケにはチームボスであるフランク氏が付き、マンセルにはヘッド氏が付きシーズンを戦うはずだったのですが、本来ならばボスが抜けた穴にはヘッド氏が移ってピケ車の担当になるのが筋でありましたが、ヘッド氏はそのままマンセルを支える立場を続け、ピケの担当には空力デザイナーのフランク・ダーニー氏を当てがいました。 前年終盤より好成績を続けたことでマンセルも自信を持ち、ピケをサポートせず自らチャンピオン獲得を目指した結果、最強エンジンを有し、チャンピオン最有力チームでありながら2人ともチャンピオンを逃してしまいました。最終戦終了直後にその理由は何故かとメディアに問われたピケは「No.1が二人いたからだ。」と述べ、チーム力が分散してしまったチームのマネージメントを強烈に非難しました。加えて二年後のインタビューでピケは、 「マンセルは1986年のブランズハッチで優勝して、その翌週にフェラーリからマンセルを獲得したいと声がかかると、フランク氏は、急にマンセルに多くのことを約束して、ウィリアムズに残ってくれと懇願した。それから僕には多くの腹の立つ出来事が起こり始めた。No.1のはずの僕はアクティブライド・サスペンションのテストドライバーに成り下がってしまった。サス開発のテスト走行を全てこっちにやらせて、もう一人はレースだけに集中してて良いなんてやり方は承服できなかった。」 と1986年の内情を暴露しています。 翌年1987年も2人は継続してドライバーを務めましたので、チーム内も大変だったと思います。(参照ウィキペディア) さて、このモデルのピケ"タクシー"に乗ったマクラーレンのケケ・ロズベルグ選手ですが、1986年限りで引退を表明、このドイツGPでポールポジションからスタートし、アイルトン・セナ選手、ピケ選手とバトルを繰り返したものの、残り2週でガス欠でストップ、優勝したピケのウィリアムズFW11でピットまで戻る時に"乗車"したようです。仮にマンセルがリタイアして歩いていても絶対に乗せないでしょうね! 今であれば、FIAからペナルティやら罰金やらで「お咎め」を頂戴していたところですが、この古き良き時代は何でもありでしたね。だから良かったんですよね! (現代F1だと乗るところが無いかな⁈) #minichamps #williams #ウィリアムズ #honda #ホンダ #germany #ドイツ #uk #イギリス
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MERCEDES AMG PETRONAS MOTORSPORT F1 W07 HYBRID N.ROSBERG ABU DHABI GP WORLD CHAMPION 2016
メルセデス F1 W07 Hybridは、メルセデスが2016年のF1世界選手権参戦用に開発したフォーミュラ1カーです。 2016年は、ニコ・ロズベルグ選手の開幕4連勝から始まり、ルイス・ハミルトン選手とのチーム内での競争が焦点となったシーズンでしたが、第17戦日本GPでロズベルグが勝利をあげ、4戦を残してメルセデスの3年連続のコンストラクターズチャンピオンが決定しました。 ドライバーズチャンピオンは、ハミルトンが、第18戦アメリカGPから最終戦アブダビGPまで4連勝を果たし追い上げましたが、ロズベルグに5ポイント及ばず2位、ロズベルグが初のドライバーズチャンピオンを獲得しました。1982年の王者ケケ・ロズベルグを父に持つロズベルグは、グラハム・ヒル/デイモン・ヒル以来となる、2組目にして20年ぶりの親子2世代F1チャンピオンとなりました。 メルセデスは、21戦19勝で当時の年間最多勝利記録を更新し、ポールポジションを逃したのはモナコGPの1回のみと、この年も圧倒的な強さと速さを見せつけました。 しかし、第5戦スペインGPではオープニングラップに同士討ちを演じ、第9戦オーストリアGPでも最終ラップに両者が接触するなど、またハミルトンがエンジントラブルの集中に不信感を募らすなど、チームは激しいタイトル争いを演じる両者の扱いに神経を使わねばならないシーズンでした。 チャンピオンを決めた5日後の12月2日、ロズベルグは突如引退を発表し、3シーズンに渡るチームメイト同士の戦いに終止符が打たれました。(参照ウィキペディア) 個人的には、過去のF1観戦を通して、もっともつまらないシーズンのひとつでした。 #minichamps #mercedes #メルセデス #amg #germany #ドイツ #worldchampion #abudhabi #アブダビ ##
6 LIMITED EDITION 31/1,002 FORMULA 1 1/43sennakazu
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PORSCHE 911 GT1 BRITISH GT CHAMPIONSHIP 1999
イギリス国内でのGT選手権。GT1とGT2で構成されており、GT1は主にマクラーレンF1とポルシェ911GT1がエントリーされている。全10チーム、全11戦で戦われたが、このモデルの優勝は無しでした。 (参照ウィキペディア) 強いチームではないようですが、カラーリングでは相当目立ったのではないでしょうか。何の情報も知らない、何の縁もゆかりもない私が、このモデルを収集しているのも、何かの縁があるんでしょうね(笑) 先日の『ホビーフォーラム』で4台格安で入手いたしました。 #minichamps #porsche #ポルシェ #uk #イギリス
6 OTHER RACE (FOREIGN) 1/43 G-FORCE MOTORSPORTsennakazu
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FORD FOCUS RS WRC 08 2009 RALLY NORWAY 4th
このモデルもカラーリングとスタイリングに一目惚れ、数年前の『ホビー・フォーラム』で数台まとめて購入しました。 ラリーカーは新旧とも個性豊かなモデルが多いので眺めていてとても楽しいですね。 #ixo #ford #フォード #rally #ラリー #wrc
6 RALLY 1/43 FORDsennakazu