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CHEVROLET CORVETTE C4 70th INDIANAPOLIS 500 OFFICIAL PACE CAR MAY.25-26,1986
DATE: 205 CV SAE NET 5,733cc V8 FRONT 241 KM/H 13.3L/100KM $21,800 #deagostini #chevrolet #シボレー #corvette #コルベット #usa #アメリカ
AMERICAN CAR COLLECTION 1/43 CORVETTE C4 CONVERTIBLE DEAGOSTINIsennakazu
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WILLIAMS HONDA FW11 KELE ROSBERG(FERRARI) RIDING ON NELSON PIQUET “PIQUET’S TAXI” GERMAN GP 1986
ウィリアムズ・FW11は、ウィリアムズが1986年のF1世界選手権参戦用に開発したフォーミュラ1カーで、設計者はパトリック・ヘッド氏です。ドライバーは、ブラバムから移籍したネルソン・ピケ選手と、前年から引き続きのナイジェル・マンセル選手の個性ある2人がステアリングを握った。 FW11は、ウィリアムズ初の完全なカーボンモノコックシャシーとなったFW10の後継モデルとして設計されました。 エンジンはホンダのRA166Eを搭載し、前作RA165Eよりもスモールボア・ロングストローク化がなされ、またFW11から、ホンダによる無線を使用した双方向通信(テレメトリーシステム)が導入されました。 FW11は、1986年シーズン全16戦のうち9勝を挙げる同年の最速マシンとなりました。第14戦ポルトガルGP予選からはターボ用吸入ダクトがそれまでのサイドポンツーンサイド部から、シュノーケルタイプのダクトをサイトポンツーン上に突き出すタイプが投入され、第15戦メキシコGPからは決勝レースでもシュノーケルダクト仕様で出走するようになりました。 FW11によりウィリアムズ・ホンダはコンストラクターズ・チャンピオンを獲得し、ホンダにとってF1での初タイトル獲得車となりました。しかしドライバーズタイトルは、ピケとマンセルのチームメイト同士に、マクラーレンのアラン・プロスト選手を加えた激しい争いが最終戦にまでもつれ込み、結局プロストが漁夫の利をさらう格好になりマンセルがランキング2位、ピケがランキング3位となりました。同年No.1待遇で契約したピケの契約金が日本円にして約7億円、マンセルの契約金は1億円弱だったとされ、契約上はピケの完全No.1待遇でした。しかし開幕前にオーナーのフランク・ウィリアムズ氏が交通事故で下半身不随になる混乱の中、イギリスのチームであるウィリアムズ内部ではイギリス人であるマンセル派と、ホンダがバックアップするピケ派に二分されました。当初の構想ではピケにはチームボスであるフランク氏が付き、マンセルにはヘッド氏が付きシーズンを戦うはずだったのですが、本来ならばボスが抜けた穴にはヘッド氏が移ってピケ車の担当になるのが筋でありましたが、ヘッド氏はそのままマンセルを支える立場を続け、ピケの担当には空力デザイナーのフランク・ダーニー氏を当てがいました。 前年終盤より好成績を続けたことでマンセルも自信を持ち、ピケをサポートせず自らチャンピオン獲得を目指した結果、最強エンジンを有し、チャンピオン最有力チームでありながら2人ともチャンピオンを逃してしまいました。最終戦終了直後にその理由は何故かとメディアに問われたピケは「No.1が二人いたからだ。」と述べ、チーム力が分散してしまったチームのマネージメントを強烈に非難しました。加えて二年後のインタビューでピケは、 「マンセルは1986年のブランズハッチで優勝して、その翌週にフェラーリからマンセルを獲得したいと声がかかると、フランク氏は、急にマンセルに多くのことを約束して、ウィリアムズに残ってくれと懇願した。それから僕には多くの腹の立つ出来事が起こり始めた。No.1のはずの僕はアクティブライド・サスペンションのテストドライバーに成り下がってしまった。サス開発のテスト走行を全てこっちにやらせて、もう一人はレースだけに集中してて良いなんてやり方は承服できなかった。」 と1986年の内情を暴露しています。 翌年1987年も2人は継続してドライバーを務めましたので、チーム内も大変だったと思います。(参照ウィキペディア) さて、このモデルのピケ"タクシー"に乗ったマクラーレンのケケ・ロズベルグ選手ですが、1986年限りで引退を表明、このドイツGPでポールポジションからスタートし、アイルトン・セナ選手、ピケ選手とバトルを繰り返したものの、残り2週でガス欠でストップ、優勝したピケのウィリアムズFW11でピットまで戻る時に"乗車"したようです。仮にマンセルがリタイアして歩いていても絶対に乗せないでしょうね! 今であれば、FIAからペナルティやら罰金やらで「お咎め」を頂戴していたところですが、この古き良き時代は何でもありでしたね。だから良かったんですよね! (現代F1だと乗るところが無いかな⁈) #minichamps #williams #ウィリアムズ #honda #ホンダ #germany #ドイツ #uk #イギリス
6 FORMULA 1 1/43 WILLIAMS HONDAsennakazu
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CHEVROLET CAMARO IROC-Z 1986
シボレー・カマロは、ゼネラルモーターズがシボレーブランドで生産・販売している2ドアハードトップ、クーペおよびオープンカーであり、このモデルは3代目(1982年-1992年)になります。 大型リアゲートを持つ2ドアクーペボディを引き続き採用していますが、ボディ寸法は旧モデルに対し、全長で205mm、全幅で30mm、全高で15mmそれぞれ縮小されてかなり小型になっています。 グレードはスポーツクーペ、ベルリネッタ、RS, Z28、IROC-Zが設定されました。(参照ウィキペディア) この3代目カマロは、84年から89年までIROC(インターナショナル・レース・オブ・チャンピオンズ)と呼ばれるレースシリーズのオフィシャル車両を務めていたこともあり、パフォーマンスパッケージ名にIROCの名称を使用しており、88年から90年型ではZ28に置き換わる形でIROC-Zが正式なモデル名になっています。しかし91年から再びZ28に戻りその後IROCの名称は一切消えてしまいました。 ちょっと小ぶりになってしまったカマロですが、精悍なフロントマスクとスタイリングはどこから見てもカッコいいですね。またリアコンビネーションランプのカラーと配置がなんとも言えません。 DATE: 220 CV 5,733cc V8 FRONT 235 KM/H 15.6L/100KM $11,719 #deagostini #gm #ゼネラルモーターズ #chevrolet #シボレー #camaro #カマロ #usa #アメリカ #
AMERICAN CAR COLLECTION 1/43 CAMARO IROC-Z DEAGOSTINIsennakazu
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FORD SIERRA RS COSWORTH RALLY TEST AYRTON SENNA 1986
私の大好きなアイルトン・セナ・ダ・シルバ選手が、F1ロータスに移籍した年に、この日1日だけ、初めてラリーカーに挑戦した車両です。カラーリングもスタイリングもカッコいいですね。 彼は、何の知識もなく、強大なパワーを持つこのシェラを初ドライブしましたが、ほぼ1コーナーでコースアウト。彼はドライビンググローブも持たず、ロードカーと似たような経験であることを期待していましたが、この日の終わりには手のひらに水ぶくれができ、ルーズグラベルでのドライブでいかに多くのとばっちりを受けるかを理解していたようです。しかし彼はその経験を楽しみ糧としたことにより、その後のF1界で成長して大きな功績を残していったように思えます。数十年後、確かキミ・ライコネンも同じようにラリーの経験をしていましたよね。 #minichamps #ford #フォード #sierra #ayrtonsenna #アイルトンセナ #rally #ラリー #wrc
1 AYRTON SENNA PACKAGE RALLY 1/43sennakazu