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AGS JH22 BRITISH GP 1987
AGS・JH22は、AGSチームが1987年のF1世界選手権用に製作したフォーミュラ1カーです。前年用JH21Cの発展型で、エンジンが自然吸気のフォード・DFZへと変更されました。 F2で実績を積んでいたAGSが前年にスポット参戦でF1デビューし、1987年シーズンから念願のフル参戦を開始しました。JH22はそれまでのAGSの車両同様クリスチャン・バンダープレイン氏が設計し、前年のJH21Cの改良型でありました。エンジンを除いてJH22はJH21Cとほぼ同一であり、モノコックは同じ物を使用し、サスペンションやブレーキも同一でありましたが、それはいずれも4年前のルノーの技術をベースとしていたため 、時代遅れでもありました。 前年同様AGSは1台体制でシーズンに臨み、シーズン中に2台のJH22を製作しました。1台目は前年のJH21C(シャシーナンバー031)と同一であり、このJH21Cは自然吸気エンジンを搭載できるよう改造され、新たなシャシーナンバー032が与えられました。メキシコの靴・衣料品会社エル・チャーロが前年に引き続いてメインスポンサーとなり、車体は白で塗装されノーズコーンに大きなバラが描かれています。ドライバーはイヴァン・カペリ選手がレイトンハウス・マーチに移籍、代わって1982年のヨーロッパF2選手権に参戦していたフランスの新人パスカル・ファブル選手が起用されました。 1987年は自然吸気エンジン採用チームを対象としたコーリン・チャップマン・トロフィーが実施され、AGSは通常のコンストラクターズ・タイトルに加えてティレル 、マーチ、ラルース・カルメルとこのタイトルを争いました。また、ドライバーのファブルはジム・クラーク・トロフィーも争いました。 AGSはJH22の1台体制でシーズン全てを戦いましたが、F1ルーキーのファブルを起用しましたが、マシンの戦闘力不足もありまたが、ファブルの能力も「走るシケイン」との異名が付けられるなどワーストレベルのドライバーであり、常に予選最下位でりました。しかしレースでは下位ながら完走を重ねる信頼性を発揮し、前半9戦中8戦で完走を果たしました。最高位は母国フランスGPと、次戦イギリスGPでの9位であり、第10戦オーストリアGPでもレースをフィニッシュしましたが、最低周回数を満たさず完走扱いにはなりませんでした。後半戦では1カーエントリーだったオゼッラとラルースがセカンドカーの出走を決め、コローニもスポット参戦したためJH22での予選の通過は至難の業となりした。ファブル選手は第11戦イタリアGPで予選落ちし、第14戦メキシコGPで3回目の予選落ちを喫した[14]。 シーズン終盤の日本とオーストラリアでのレースに、チームはファブル選手に代えてロベルト・モレノ選手を起用しました。モレノ選手は1982年オランダグランプリにロータスから参戦したが予選落ちしていました。今回はいずれも予選通過し、最終戦オーストラリアGPでは最後列からのスタートにもかかわらず完走9台のサバイバルレースで3周遅れの7位で完走しました。しかしながら、2位のアイルトン・セナがブレーキダクトのサイズ違反で失格となり[16]、モレノは繰り上げで6位入賞、ポイントを獲得しました。これはAGSにとって初のポイントとなりました。 シーズンが終了してAGSはコンストラクターズでランキング11位、コーリン・チャップマン・トロフィーではティレル、ラルースに次いで3位となり、ファブル選手はジム・クラーク・トロフィーで35ポイント、5位となり、モレノ選手は4ポイントで6位となりました。また、モレノ選手はドライバーズランキングでも19位となりました。 (参照ウィキペディア) 日本で初のF1定期的開催となった年、私もF1ファンになったばかりで、その時は知らないチームばっかりでした。その中でも一番目立ったのが、このAGSでした。レッドとホワイトのストライプに、バラの絵。派手でしたね!お菓子メーカーだと勝手に思っていたエル・チャーロがメキシコの靴・衣料品会社とは思いもしませんでした。 #spark #ags #uk #イギリス ##
14 FORMULA 1 1/43 AGSsennakazu
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LOTUS FORD 72D SCUDERIA SCRIBANTE LUCKY STRIKE RACING #29 DAVID CHARLTON BRITISH GP 1972
ロータス・72は、チーム・ロータスのコーリン・チャップマン氏とモーリス・フィリップ氏がデザインしたF1マシンで、1970年スペインGPでデビューし、1970年にはヨッヘン・リント選手が、1972年にはエマーソン・フィッティパルディ選手がドライバーズ・チャンピオンを獲得し、また3回のコンストラクターズ・チャンピオン(1970年、1972年、1973年)を獲得しました。 1970年、デビュー後のマシン性能の不調は何度かの改修(72→72B→72C)で大きく改善され、リント選手は4連勝を収めましたが、イタリアGPの予選を走行中に、部品破損が原因とみられる事故で死亡しました。リント選手の後任となったフィッティパルディ選手の活躍でリント選手が死後のチャンピオンになるのに貢献をしました。 1971年、リア・サスペンションやリア・ウィングのデザインなどが手直しされ「72D」となりましたが、このシーズンは不調に終わりました。 1972年、フィッティパルディ選手の活躍により、「72D」で5勝を挙げ、F1史上最年少のチャンピオンとなりました。 なお、この1972年のシーズンから、ロータスのスポンサーであるインペリアル・タバコ社が、ロータスのカラーリングを、それまでの赤・白・金のゴールド・リーフ・カラーから、黒地に金色のストライプのあの有名なJPSカラーに変更されました。 (参照ウィキペディア) このモデルは、1972年から73年まで、ノンワークスのプライベートチーム(スクーデリア・スクリバンテ・ラッキーストライク・レーシング・チーム/南アフリカ)として参戦していたマシンで、ドライバーは、南アフリカのデイブ・チャールトン選手でした。 1972年シーズンは、4戦のみ出場し、結果はリタイア及び予選不通過でした。 (参考までに翌年1973年は、1戦のみで、リタイアでした。。) カラーリングは、ロータスとしては大変珍しい、赤と白のツートンのラッキーストライクカラーです。JPSカラーのブラックと対比してみると別物のマシンに見えてきますね。 #minichamps #lotus #ロータス #ford #フォード #uk #イギリス #usa #アメリカ
29 FORMULA 1 1/43 SCUDERIA SCRIBANTE LUCKY STRIKE RACINGsennakazu
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LOTUS 109 #11 A.ZANARDI BRITISH GP 1994
1994年のロータスは、無限ホンダV10を獲得するも大口スポンサーのカストロールを前年に失い、小規模なスポンサー(塩野義製薬、ミラービール、日立、小松など)だけと、資金難に陥っていました。5月のセナの事故などでレギュレーション変更が続き、成績も残せず、ついに資金も底を尽き破産宣告を裁判所に申請、翌年F1参戦を断念しました。その後名称権だけ買収され、東急グループが資本参加した『パシフィック・チーム・ロータス』へと代わり、実質何も関係ない名前だけのロータスになってしまいました。 当時、明るいカラーリングと多くのスポンサー広告とで、かなり裕福でにぎやかな名門チームだと思って観戦してましたが、運営の裏側は厳しいものでしたね。。 #spark #lotus #ロータス #uk #イギリス
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ZAKSPEED 891 BRITISH GP 1989 SUZUKI AGURI
鈴木亜久里選手。 前年1988年、F1日本GP鈴鹿でラルースからスポット参戦。 翌年1989年、ザクスピードと契約し初のF1フル参戦を果たした。が、全16戦予備予選不通過の記録を。ちなみに相方のシュナイダーは2戦予備予選通過、決勝へ。 信頼性と非力なYAMAHAエンジンに悩まされたチームでした。 #spark #zakspeed #yamaha #ヤマハ #formula1
35 RACING GEAR FORMULA 1 1/43sennakazu