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大映スターズ 松山冬季練習記念(1949)色紙+観戦チケット
大映スターズ(1949-56) 松山冬季練習記念(1949/2)サイン色紙 1949年成績(藤本定義監督) 67勝65敗2分(3位) V.スタルヒン 27勝17敗 防御率261 最多勝利 高野裕良 1勝1敗 防御率209 渡辺一衛 打率205本塁打1打点3 野田誠二 打率000本塁打0打点0 加藤正二 打率301本塁打14打点76 滝田政治 打率265本塁打1打点17 木場 巌 2勝4敗 防御率414 川畑 博 打率200本塁打0 打点0 金山次郎 打率210本塁打0打点5 大岡虎雄 打率272本塁打26打点92(助監督) 野口正明 12勝13敗 防御率491 山田 潔 打率269本塁打2打点20 伊勢川真澄 打率249本塁打2打点20(正捕手) (スタルヒンから時計回り) ヴィクトル・スタルヒン(1934-55) NPB通算成績 303勝176敗 防御率209奪三振1960 最優秀防御率:1回(1938年秋) 最多勝利:6回(1937年秋 - 1940年、1949年) 最多奪三振:2回(1938年秋、1939年) 最高勝率:2回(1938年秋、1940年) 通算83完封勝利 (プロ野球記録) シーズン42勝 (1939年プロ野球記録タイ(稲尾和久)) 野球殿堂(1960) 1925年日本に亡命(生涯無国籍)。 読売新聞は職業野球団「大日本東京野球倶楽部(現読売巨人)」を結成時、旭川中を強引に中退させ加入させた。 1937年7月3日にはノーヒットノーランを達成 戦時中は「須田 博(すた ひろし)」に改名、無国籍者だったため徴兵はなかった。 白系ロシア人であったため「敵性国民」軟禁。またソ連の日ソ中立条約破棄侵略を開始したことから追放処分にあう。 戦後、パシフィック球団の藤本定義監督に誘われ復帰。 1946年10月に史上初の通算200勝を達成。 1955年7月通算300勝を達成。 1957年1月12日22時40分頃、都内で運転中、電車と衝突し事故死(40歳)した。 長女(ナターシャ・スタルヒン)が2016年6月7日の日本ハム対広島戦(旭川スタルヒン球場)で『スタルヒン生誕100周年記念試合』として始球式に立つ。
野球 1949年 大映スターズふくすけ
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大映スターズ 森口哲夫・坂上惇
大映スターズ(1956) 1946年に千葉ロッテマリーンズの支流にあたる『ゴールドスター』を結成。その後『金星ゴールドスター(1946-48)』に改称。 1948年12月21日に大映が金星スターズを買収⇒『大映スターズ(1949-56)』 1957年2月25日に高橋ユニオンズを吸収合併⇒「大映ユニオンズ(1957)』 1958年3月10日に毎日オリオンズと対等合併⇒『毎日大映オリオンズ(大毎オリオンズ)(1958-)』 1956年の成績 57勝94敗3分(7位) 森口哲夫 大映スターズ(1955-57) 阪急ブレーブス(1958) 1958年3月2日の対巨人オープン戦でルーキー長嶋茂雄に第1号HRを献上。 1956年の成績 5勝18敗防御率297 坂上惇 西鉄ライオンズ(1952-54) 大映スターズ(1954-57) 1956年の成績 1勝4敗防御率348
野球 1956年 大映スターズふくすけ