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1957年 国鉄スワローズ 金田正一 サイン色紙
1957年は『金田正一』の成熟期である。 中央にサインがあることから祝賀会だろうか? SLのイラストも国鉄時代を感じられる。 金田正一(24才) 28勝16敗 防御率1.63 6/19 スタルヒンの奪三振記録(1960)更新 7/15 2000奪三振記録 8/21 完全試合達成 最多勝・最優秀防御率・沢村賞・ベストナイン 西垣徳雄コーチ (初代監督(1950-53)高校2年時の金田を見出した人物である) 箱田淳 宇野光雄 監督 宇佐美一夫コーチ 松田清 町田行彦 飯田徳治(盗塁王) 佐々木重徳 宮地惟友 阿井利治 佐竹一雄 鵜飼勝美 森谷良平コーチ 佐藤孝夫(本塁打王) (6時方向時計回り) 2019年10月没(86才88才?)
野球 1957年 国鉄スワローズふくすけ
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国鉄スワローズ(1959-60)3名サインボール
国鉄スワローズ(1959-60)3名サインボール 金田正一(1950-64) 1950-60までBクラスに低迷。 1964年オフ、球団と1962年業務提携したフジサンケイグループとの間に監督去就問題が発生。 球団ならび金田正一は解任を主張するもFサンケイGが留任を決定。 これを機に金田正一は巨人に移籍。金田正一を失った球団もFサンケイGに完全譲渡した。 翌1965年サンケイスワローズに改称。また金田を失った穴は大きく44勝91敗5分最下位に沈む。 金田正一が在籍期間(1950-64)のチーム成績(833勝1070敗41分) 金田正一の在籍中の勝敗(353勝267敗) チーム成績の勝利数:敗数の割合は42%:25%。 試合数1944試合中814試合の登板割合はか42%と判明。 金田がいなかったら、球団はもっと早くに身売りし、巨人のような常勝球団にいたら500勝も楽に越えていたかもしれない。 岩下守道(1959-60) 1949年巨人が初の入団テストを実施、応募者1300名のトップ合格 1950年投手から野手に転向 1959年国鉄スワローズに移籍 1959年の成績 123試合出場 打率280本塁打2打点38盗塁25 西岡清吉(1957-66) 1958-59-60が全盛期(三塁手) 1959年の成績 105試合出場 打率237本塁打6打点28
野球 国鉄スワローズふくすけ
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国鉄スワローズ(1956年)4名サイン
国鉄スワローズ(1956年)4名サイン 1950年セ・リーグに加盟するも当初プロ経験者1名、有望新人の獲得もできず低迷する。1961年球団初のシーズン勝ち越し3位。 1965/5/9にフジサンケイグループへ経営権を譲渡。その後もチームは低迷を続けるが、1978年(広岡達朗監督)初のリーグ優勝、日本一となる。 1956年チーム成績61勝65敗4分(4位) 田所善治郎(1953-64) 1956年成績 7勝7敗 防御率2.11 1952年に静岡商業で阿井利治とバッテリーを組み第24回選抜高等学校野球大会に出場。全試合完封勝利で選抜初優勝する。 阿井利治(1954-61) 1956年成績 打率220本塁打6打点8 佐々木重徳(1955-61) 1956年成績 打率238本塁打9打点34 田代照勝(1953-58) 1956年成績 2勝3敗 防御率2.89
野球 1956年 国鉄スワローズふくすけ
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『バンビ』佐藤孝夫(国鉄スワローズ) サイン
『バンビ』佐藤孝夫 サイン 1952年国鉄スワローズ入団。 1年目からレギュラーとして活躍(打率265本塁打14本)セ新人王を獲得また同年45盗塁、新人の盗塁日本記録(1996年まで)1957年は22本塁打、本塁打王も獲得。 1956年のシーズン成績 打率220-HR9本-24打点
野球 1956年 国鉄スワローズふくすけ
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長嶋茂雄・高林恒夫 サイン色紙
高林恒夫・・・ 立教大学野球部の長嶋茂雄2年後輩である。 3年生からレギュラーで活躍。 卒業後も社会人野球(熊谷組)で活躍、1961年読売ジャイアンツに入団。オールスター戦ファン選出と活躍するも翌年度は不調。1963年国鉄スワローズにトレード、1965年引退。 トレードに決まった後輩の送別会の意味のひとコマか?
野球 1963年 国鉄スワローズふくすけ
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国鉄スワローズ 球団旗
1955~65年頃のデザイン 国鉄スワローズ(1950-65/5/9) サンケイスワローズ(1965/5/10-同年末) サンケイアトムズ(1966-68) アトムズ(1969) ヤクルトアトムズ(1970-73) ヤクルトスワローズ(1974-2005) 東京ヤクルトスワローズ(2006-現在) リーグ優勝(7)日本一(5) 1978 広岡達朗(日本一) 1992 野村克也 1993 野村克也(日本一) 1995 野村克也(日本一) 1997 野村克也(日本一) 2001 若松勉(日本一) 2015 真中満
野球 1955年 国鉄スワローズふくすけ
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平井三郎・箱田淳 サイン
平井三郎(東京巨人軍・1956) 『踏まれても咲くタンポポに笑顔かな』 1950年2リーグ分裂後、西日本パイレーツが西鉄クリッパーツに合併時巨人と西鉄の有力選手争奪戦に巻き込まれ巨人に入団。 1951年から1953年まで正遊撃手、千葉茂との二遊間コンビで巨人の3年連続日本一に大きく貢献。 1954年に広岡達朗が入団により1956年以降は遊撃手のポジションを広岡に譲って二塁手に回るが1957年に心臓弁膜症を患って引退する。 箱田淳(国鉄スワローズ・1958?) 1956年リーグ最多三塁打(13本) 1958年にリーグ最多単打(114本)を記録 1956年 - 1958年に3年連続でオールスターゲーム出場 好守好打で野手のリーダー格となり球団創成期のスワローズを支えた。
野球 1956年 国鉄スワローズ 読売ジャイアンツふくすけ