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2017 102 (FRANCE) GIMMIE THE KEY Bobby Keys
こちらは英国盤と同番号、同カップリングのフランス盤。リリース元はフランスのポリドールでポケットタイプのスリーブが付いています。
Rock, Funk Ring O' Records FRANCEWithout the Beatles
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ABC-12148 AWAY IN A MANGER Colonel Doug Bogie
リング・オー・レコーズの北米でのディストリビューターはキャピトルレコーズのはずなのですが、なぜだかこのタイトルの米国盤レコードは別の大手レーベルのひとつだったABCレコーズから、リング・オーの表記は一切無しでリリースされています(時期を同じくして、翌年1月下旬にEMIとのレコーディング契約が切れるリンゴが、 500万ドル相当、5年間のレコーディング契約でABCレコーズに移籍する、という噂もありました)。 英国盤とはA/B面を逆にしての75年12月8日発売で、もろにクリスマス市場にロックオンしたノベルティ盤としてのリリース。サイドを逆にしただけで両面とも音源は英国盤と同一なのですが、後に少し混乱を招くミス表記がレーベルにあります。 もう一度ABC盤のレーベル画像のタイム表記を見てください。わざわざA面にした「AWAY IN A MANGER」のタイム表記が3分54秒。しかし残念ながらロングヴァージョンということではなく、音源は英国盤に同じくあっさり3分行かずに終わります。単純に2と3の文字打ち間違えがスルーされてしまったようです。 でもまあなんにせよ、ダグ・ボギー大佐はリング・オーとの契約で得た400ポンドのアドバンスで、当時母親と暮らしていたアパートの為に中古のカラーテレビを購入、という成果でリング・オーとの契約は終わります。 その後もダグさんはレコーディングエンジニアの仕事に精進し、翌77年には、元ヤードバーズ(The Yardbirds)のキース・レルフ氏とジム・マッカーティ氏がキース氏の妹さんであるジェーン・レルフ (Jane Relf)嬢をヴォーカリストとして立ち上げたバンド=元祖ルネッサンス=その後ビジネス上のあれこれでルネッサンスは別バンドに生まれ変わり、76年にはキース氏の不慮の事故による夭折などを経て、ジェーン嬢が亡き兄者の遺志を継ぐ形で=イリュージョン(Illusion)と改名しての再デビューアルバム「醒めた炎(Out of the Mist)」に バンドと共にプロデューサーとしてクレジットされ、もちろんエンジニアとしても携わるくらいの存在となっていました。 スタジオワークの空き時間にもせっせと自作曲のデモテープ作りをしていたダグさんは、エジンバラのスタジオでDavid Valentine氏という人物に出会います。 この方は鍵盤奏者で曲も書けヴォーカルも取れたので意気投合し、一年間かけてふたりでデモを完成させ、ロスアンゼルスに飛んで売り込みをかけます。A&Mレコーズに気に入られリリース契約を結び、ベーシストとドラマーを迎えて、ダグさんがギター、David Valentine氏がキーボードとヴォーカルという布陣の「R.A.F.」と名付けたバンドを結成。同名タイトルのアルバムで1980年にデビューします。ダグさんによると、R.A.F.というのは「Rich And Famous」の略だそう。また、売り込みに際して自身が以前クイーンに在籍していたことは、一切言わなかったそうです。 翌81年には、新たなキーボーディストを加え5人編成となり、セカンド・アルバム「The Heat's On」を発表。このアルバムリリースの際、ジャケットのイメージについてアートディレクターと話し合ったとき、ダグさんは自身が気に入っていたシュールレアリスムの画家、ルネ・マグリット(René François Ghislain Magritte)氏の作品「The Pleasure Principle(快楽原則)」について話したところ、そのオリジナルをA&Mレコーズの創業者、ハーブ・アルパート氏が所有していたので、マグリット氏直筆の絵画でセカンド・アルバムのカバーを飾ることが出来たそうです。 ファースト、セカンド共に日本では発売されていません。米国と英国他欧州諸国のいくつかでリリースされ、各々のアルバムから1~2曲のシングル・カットもあったのですが、まったくの鳴かず飛ばず。ダグさんたちは、それでも3枚めに向けてデモ制作をつづけていましたが、A&Mはそれ以上動かずバンドは解散、ダグさんはロックミュージシャンとしての道には見切りをつけ、82年にエジンバラで映像制作を軸とした自分の会社を立ち上げて今に至ります。 R.A.F.のサウンドですが、80年当時全盛だったスーパートランプ(Supertramp)やフォリナー (Foreigner) をスケールダウンした感じと言うか、シンセで彩られたポップ寄りロック、というありきたりな印象で、全体的に楽曲の魅力に乏しいかな、と。両アルバムとも日本のアマゾンでもデジタル配信されているので、興味のある方は聴いてみてください。David Valentine氏が86年にもう一枚、R.A.F.名義でアルバムをリリースしており、アマゾン配信でのアーティスト名義は、3枚とも「RAF and David Valentine」となっています。 現在でもDoug Bogie氏は、@DougBogieでツイッター、@doug.bogieでインスタグラムにて近況を発信されています。 2010年に海外ネット掲示板内のドラマーに関する複数のトピックにHarvey the Roadieと名乗る、1960年代の英国で十代を過ごしたのであろう人物(本人曰くジミー・ペイジ氏より数年歳下、書き込み当時60歳を自称)が現われ、ジミー氏が去った後のヤードバーズとの思い出話などとともに、自身のドラム演奏で唯一リリースされたのは、仲間のDoug Bogieとふたりだけで録音したリング・オーからのシングル盤両面だった、という書き込みをしていました。真偽不明ですが書き添えておきます。 さてここまで、アルバム1タイトルにシングル盤4タイトルを地道にリリースしてきたリング・オーですが、このタイトルを最後に、その後まる一年間以上リリースが途絶えてしまうことになります。
Rock ABC Records USAWithout the Beatles
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2017 104 COKEY COKEY Colonel
1975年11月、カールさんのシングル盤から一週間遅れでリリースされたのがこの作品。この「Colonel」と称するバンド?ユニット?単独アーティスト?が一体何者なのか、日本では長い間謎に包まれていました。後にご紹介する米国盤によってアーティスト名が「Colonel Doug Bogie」であることは知られていましたが、後年インターネットの普及による各国からの情報やご本人からの発信もあり、その正体がつまびらかになりました。 一番決定的だったのは、2010年に英国のAurum Press社から出版されたMark Blake氏著のクイーン(Queen)伝記本「Is This the Real Life?: The Untold Story of Queen」。この著作によってDoug Bogie氏なる人物は、ジョン・ディーコン(John Deacon)氏のひとり前のベーシストであったことが明らかにされました。 この本の記述とネット情報等を統合すると、1971年1月、当時のベーシストに脱退されてしまったクイーンが英国の音楽誌「メロディ・メーカー」のメン募欄に募集をかけたオーディションにダグ・ボギーさんがレスポンスしたことが始まりでした。そのときダグさんは17才で地元スコットランドのセミプロミュージシャン。結果見事採用され、フレディ、ブライアン、ロジャーのラインアップなバンドに迎え入れられます。 バンドのギグに参加したのは2回だけ。最初は71年2月19日、60年代からつづく由緒正しき英国ロックバンド、プリティ・シングス(PrettyThings)の前座として。2回目は翌2月20日、英国プログレ界の雄、イエス(Yes)の前座としてキングストン工科大学でギグを行ないました。 そしてこのギグの後、反省会の楽器車内でダグさんはフレディ氏からNGをくらってしまいます。フレディ氏は、バンドのバランス的にどっしりと構えた落ち着いたベーシストがご所望だったようで、一方ダグさんは当時17才(当時フレディ24才、ブライアン23才、ロジャー21才)、若さに任せて飛んだり跳ねたりの奔放なステージアクションが自身の持ち味だと思っていたのでした。結果フレディ氏から「すべてがひどい」「時間の無駄だ」という評価を下され、ブライアン氏からも良い顔はされずクビとなったのでした。 明けて3月にジョン・ディーコン氏(当時19才)が後釜に座りクイーンの快進撃は始まります。ちなみにクイーンの歴代ベーシスト来歴は、Mike Grose氏、Barry Mitchell氏、 Doug Bogie氏、でJohn Deacon氏となります。 当時大学生だったダグさんは、電話回線の技師見習などのバイトをしつつ、PAミキシングやレコーディング・エンジニアの勉強をつづけ、20才の頃にロンドンの由緒正しきコンサートホール、レインボウ・シアター(Rainbow Theatre)にオーデイションの末PAミキシング担当として採用されます。更に英国のCBSスタジオ等レコーディングスタジオでもエンジニア見習として働き始めます。 有名どころとの仕事としては、英国のシンフォニックなプログレ・バンド、ルネッサンス(Renaissance)74年リリースのアルバム「運命のカード(Turn of the Cards)」にアシスタント・エンジニアとして、また、ジャズロック系プログレ・バンド、ソフト・マシーン(Soft Machine)75年リリースでジャケのイラストが可愛らしい(ちなみに私はバンドのことはよく知らずにこのアルバムを当時ジャケ買いしました)「収束(Bundles)」ではテープ・オペレーターとして、Doug Bogieの名前でクレジットされています。 そんなお仕事の合間に作っていた、SFチックでシリアスなコンセプトアルバムの自作デモテープがリンゴの耳に届き、お遊びでついでに作ってあったこっちの楽曲デモをえらく気に入ってくれたのが、当時リンゴとよくつるんでいた飲み友達でリンゴが最もリング・オー・レコードに引っ張りたがっていたけれどRCAが手放してくれなかった、著名シンガーソングライター、ニルソン(Harry Nilson)氏。そんな経緯でボギーさんは、リング・オーとシングル一枚だけのリリース契約を決めました。アーティスト名である Colonel(カーネル=大佐という意味)もニルソン氏の発案だとか…ベタに「ボギー大佐」という洒落ですね。 この音源も現在までオフィシャルでのCD化、デジタル音源化はされていないと思います。以前はYouTubeで聞けたりもしたのですが今は無いみたい。 A面の「COKEY COKEY」は、もともと欧米キリスト教圏で「Hokey Cokey」やら「Hokey Pokey」と呼ばれている19世紀頃からの英国伝承歌で、「左手入れて、左手出して、入れて出して入れて出して振り回して」という歌詞の通り、振りつけの付いたフォークダンス的楽曲です。伝承歌ゆえメロや歌詞も時代とともに色々変わっていくのですが、1942年に北アイルランド出身のJimmy Kennedy氏が「この歌詞の著作は私だ」と「COKEY COKEY」というタイトルで著作権登録された楽曲のカバーとなるのがこの音源です。 ダグさんのアレンジでは、ゆったりレゲエチックに心地よくレイドバックした感じで料理しています。タイムは約3分20秒。ちなみに79年には英国グラム系パワーポップ・バンド、スレイド(Slade)が同曲を「Okey Cokey」というタイトルで、ほぼ同じ歌詞とメロディをストレートなロックサウンド大騒ぎアレンジにてシングル盤発売していました。 カップリングの「AWAY IN A MANGER」も19世紀発祥のキリスト降誕を歌った、これまた欧米圏で極めてポピュラーなクリスマスキャロル。同じタイトルで二種類のメロディがあるようですが、ダグさんのバージョンは「讃美歌21-269 飼いば桶にすやすやと」というタイトルで知られる方のメロディをパワーポップ全開なノリノリエイトビートでカバーしています。タイムは約2分55秒。こちらの音源は以前、ドラムがリンゴでギターはクラプトン、という噂もありましたが実態は違うようで、その噂に対して、売れ残ったシングル盤を捌くためにレコード会社が流したデマだ、とする言説もありました。 というわけで、このシングル盤はクリスマスシーズンをターゲットにしたトラディショナル楽曲アレンジのワンショット契約なノベルティレコードというのが結論のようです。 画像の4枚めは当時の英国ニュー・ミュージカル・エクスプレス誌かメロディ・メーカー誌に載った、このレコードの宣伝広告。切り抜き済で入手したため掲載誌が定かではありません(蛇足ですが切り抜き裏面はジョニ・ミッチェル(Joni Mitchell)嬢のジャコパス・コラボ直前な傑作アルバム「夏草の誘い(The Hissing of Summer Lawns)」の広告断片です)。 ずいぶんと長くなってしまったので、ダグ氏のその後などのご紹介は次の米国盤紹介の項で。
Rock Ring O' Records UKWithout the Beatles
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2017 103 I'VE HAD IT Carl Groszmann
レーベル第3弾めのシングルは、1975年11月リリース、オーストラリア出身ミュージシャンのこの曲でした。 カール・グロスマンさんは十代の頃から豪州ミュージックシーンで音楽活動を開始し、それなりに名前が売れていたようで、極初期のビージーズ(The Bee Gees)=英国生まれ豪州育ち、に楽曲をカバーされたりもしていたようです。1960年代末に音楽仲間数名とともに英国ロンドンへと移住して音楽活動をつづけます。 移住してすぐの1970年に自身が書いた「ダウン・ザ・ダストパイプ(Down the Dustpipe)」という楽曲が英国のバンド、Status Quo(当時の日本盤リリース元レコード会社の表記に従うと、ステイタス・クオ)に取り上げられ、全英最高位12位のスマッシュヒットとなりました。 1973年には、こちらも英国生まれ豪州育ちなオリビア・ニュートン=ジョン(Olivia Newton-John)嬢に「片想い(Being on the Losing End)」という楽曲も提供。日本では、独自選曲編集のベスト盤で金ピカジャケットの「クリスタル・レイディ(Crystal Lady Golden Double 32)」という二枚組レコードに収録されていました。ちなみにカールさん、楽曲提供のときは名前のスペルが少し違ってCarl Grossmann名義、豪州時代はCarl Keatsという名前でした。 そんな地道な活動の末、リング・オーと契約したカールさんにリンゴの期待も大きかったみたいで、リンゴが76年に発表するポリドール移籍第一弾アルバム「リンゴズ・ロートグラヴィア (Ringo's Rotogravure) 」のA面1曲めにして先行シングルにカールさん作の「ロックは恋の特効薬(A Dose Of Rock'n Roll)」が選ばれています。また、カールさんのこのシングルリリースと同時期にアルバム制作も企画されたらしく、実際にリング・オーのレコード番号までアナウンスされていましたが結局未発表、そのカタログ番号である2320 102は欠番となっています。 この音源もカップリングの「C'MON AND ROLL」共々現在までオフィシャルでのCD化、デジタル音源化はされていないと思います。A面の「I'VE HAD IT」は日本語に訳すと「もうやだ」みたいな常套句ですから、YouTubeで検索すると別アーティストの同名異曲がたくさんヒットします。 プロデュースは、Peter Gage氏という人で、60年代に英国でそこそこ名を馳せたパブ・バンドのギタリストで、70年代には、よりファンキーな別バンドで活動していた人、以上の情報は探せていません。なのでレコーディング参加メンバーも不明です。 サウンドはというと、50~60年代ノスタルジック寄りの陽気でポップでキャッチーなロックという感じ。声質がしゃがれ気味だけれど通る感じに独特で、楽曲の傾向としてはラトルズ(The Rutles)で有名なニール・イネス(Neil Innes)氏の70年代初期ソロ作品に通じるものがあるかな、なんて感じました。 このシングル盤は英国リング・オーのみのリリースで他国では一切リリースされませんでした。更に77年にもう一枚リング・オーからカールさんのシングルのリリースがあるのですが、その際のプロモーション用ライナーノートではそっちのシングルがデビュー盤扱いとされ、こっちのシングルは無かったことにされていました。 なお、カールさんは2018年7月にオーストラリアで亡くなられたそうです。Rest in Peace カールさん絡みでは、ロートルなビートルファンであれば興味深いエピソードがまだあるのですが、それは次作シングルの項で。
Rock Ring O' Records UKWithout the Beatles
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2017 102 GIMMIE THE KEY Bobby Keys
アメリカでのリリースから10日くらい遅れて1975年9月発売となった英国盤。 この他に各々別デザインのピクチャースリーブが付いたフランス盤、ドイツ盤(この頃はまだ西ドイツ)、ベルギー盤がリリースされているようです。
Rock, Funk Ring O' Records UKWithout the Beatles
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P-4129 GIMMIE THE KEY Bobby Keys
こちらはGIMMIE THE KEYのロングバージョン(レギュラー盤は2分34秒、ロングバージョンは4分06秒)を収録したプロモーションオンリー盤(SPRO-8193)でレギュラーでのリリースは無し。A/B面とも同じヴァージョンをステレオで収録。 サックスソロ後の2分過ぎくらいまではずっと同じで、レギュラー盤はそこからド頭のリフに戻ってそのままフェードアウトで終わりますが、ロングヴァージョンは、ソロ後にBメロをもう一度挟んでからひと通りくり返す感じです。おそらくこちらがオリジナル録音でレギュラー盤が編集でしょう。 レーベル面に大きく「DISCO」と書かれていることからもわかるように、当時のディスコ・クラブにプロモ盤を配ってのヒット狙いアイテムと考えられます。
Rock, Funk CAPITOL Ring O' Records USAWithout the Beatles
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4129 GIMMIE THE KEY Bobby Keys
リング・オー・レコーズ・リリース第二弾は、1975年8月全米先行リリース、Bobby Keys(ボビー・キーズ)氏のこの楽曲のシングル盤です。 アメリカでの配給元はキャピトル・レコーズで、専用の黒いスリーブに入っていました。 ロック系のサックス奏者として名を馳せたこの人に関しては、当時の洋楽好きな方々には説明不要と思います。ストーンズ(The Rolling Stones)の「ブラウン・シュガー(Brown Sugar)」やジョンの「真夜中を突っ走れ(Whatever Gets You Thru The Night)」のサックス・ソロでもおなじみの名サックス・プレイヤー、ビートル関係ではジョン、ジョージ、リンゴのいくつかのアルバムでもプレイしている売れっ子セッションマンでした。知らない、という方はWikiで検索どうぞ。 この音源は現在までオフィシャルでのCD化、デジタル音源化はされていないと思いますが、YouTubeでアーティスト名と楽曲名で検索すればA/B面とも容易にヒットするはずです。 プロデュースは、同じサックス仲間で当時ボビーさんとセットで様々なセッションに呼ばれ、ストーンズのツアーも一緒に巡っていたトレヴァー・ローレンス(Trevor Lawrence)氏。 一聴したとき感じたのは、このサウンド、なんか知ってる…という既視感(既聴感?)でした。よくよく考えて、これだ、と思ったのは、このリリースより少し前、前年からヒットし始めて全米ナンバーワンヒットとなったアヴェレイジ・ホワイト・バンド(Average White Band=AWB)の「ピック・アップ・ザ・ピーセズ(Pick Up the Pieces)」という曲。当時ラジオや街中の有線で、おしゃれなインスト曲として頻繁にかかっていましたが、ボビーさんのこの曲の方は日本発売無しでした。 レコーディングメンバーに関しての情報は何もみつけられていないのですが、サウンドはギターもベースもいかにもなジャズ≒フュージョン(当時はクロスオーバーって呼ばれていたっけか)畑ミュージシャン的タイトな演奏で、リンゴ人脈ではない(録音には関わっていない)な、と思わされます。 なので、この当時のボビー氏参加作品を漁っていたところ、ジョー・コッカー(Joe Cocker)氏の75年4月発売のアルバム「ジャマイカ・セイ・ユー・ウィル(Jamaica Say You Will)」に収録の「It's All Over But The Shoutin'」という楽曲にボビーさんとトレヴァーさんが参加、他のメンバーにギター=コーネル・デュプリー(Cornell Dupree)氏、ベース=チャック・レイニー(Chuck Rainey)氏、ドラム=バーナード・パーディ(Bernard Purdie)氏という、いかにもなメンツをみつけて、この辺の方々の参加かな、と妄想しております。 愉しげにリラックスしつつもタイトな演奏なカップリングの「Honky Tonk (Part 1 & 2)」は、1956年にBill Doggett氏というアメリカのジャズ鍵盤奏者が発表したスリーコードブルーススタイルの曲。あのソウルブラザーNo,1ジェームス・ブラウン(James Brown)氏も1972年にシングル盤リリースしています。
Rock, Funk CAPITOL Ring O' Records USAWithout the Beatles
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2017 101 OH MY MY David Hentschel
こちらは、1975年3月発売の英国オリジナル盤
Rock Ring O' Records UKWithout the Beatles
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DW1091 オー・マイ・マイ デヴィッド・ヘンチェル
記念すべきリリース第一弾 詳しくは拙ブログ https://nabe-t.blog.ss-blog.jp/2015-05-05 https://nabe-t.blog.ss-blog.jp/2015-05-11 で
Rock ポリドール リング・オー・レコード 日本Without the Beatles