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束沸石 (stilbite) 久万高原町高殿 #0310
束沸石は沸石(ゼオライト)の一種で、束状の集合体をなすことからその名があります。(1枚目~3枚目は背景をソフトウエア処理しています。) 久万高原町高殿(こうどの)に分布する安山岩中には大小の晶洞が発達し,束沸石や輝沸石を中心とする多種類の沸石を産出します。
テクト―アルミノケイ酸塩鉱物 愛媛県上浮穴郡久万高原町高殿 ミニチュアサイズ石泉亭
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緑閃石 (actinolite) 五良津山 #0248
緑閃石は、塩基性の火成岩が変成作用を受けた片岩や角閃石中に生成する珪酸塩鉱物で、透緑閃石、アクチノ閃石と呼ばれることもあります。成分にマグネシウムを多く含むものは灰白色で、鉄が多くなると緑色が強くなるとされます。 本標本では滑石の中に緑閃石の針状結晶が多数埋まっています。(背景はソフトウエア処理しています。) 土居町の東赤石山を源とする関川の流域では、上流の五良津(いらず)山から東赤石山一帯にかけて緑閃石をはじめとする珍しい鉱物が多く産出されます。
イノケイ酸塩鉱物 愛媛県四国中央市土居町 ミニチュアサイズ石泉亭
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黄銅鉱・磁鉄鉱 (chalcopyrite/magnetite) 別子銅山
別子銅山の鉱床は変成岩(三波川変成帯)中の層状含銅硫化鉄鉱床(キースラガー)で、走行長1,800m、厚さ2.5m、約45度から50度傾いて海抜約1,200mから海面下およそ1,000mにわたって広がる世界的にも稀な大鉱床で、別子型鉱床と呼ばれることもあります。鉱石中の銅含有量(銅品位)は平均約2.5%、江戸時代には10%を超え、極めて高品位の銅山でもありました(ちなみに現在チリで採掘されている銅鉱石の品位は1%前後といわれています)。 本標本では黒っぽい磁鉄鉱の中に層状に真鍮色の黄銅鉱が見られます。(1枚目~4枚目は背景をソフトウエア処理しています。) 別子銅山は1691年(元禄4年)に住友家により開坑されてから、1973年(昭和48年)に住友金属鉱山(株)が閉山を決定するまで283年間にわたり住友家/住友系企業により操業されました。総産銅量は足尾銅山に次ぐ日本第二位の65万トンで、足尾銅山、日立鉱山と並び日本の最大銅山の一つに数えられました。(秋田の小坂鉱山を加え四大銅山と呼ぶこともあります。)幕末~明治維新の激動期には、総支配人であった広瀬宰平(後に初代住友総理人に就任)が洋式技術を積極的に導入し近代化を図ってその後の住友財閥発展の礎を築くとともに、近隣の新居浜市には鉱山業から派生した金属製錬業や機械工業、化学工業や電力業、林業などの拠点施設が築かれ、瀬戸内海岸でも有数の産業都市となりました。別子銅山の坑道は全長700キロメートル、最深部は海抜マイナス1,000メートルにも及びましたが、銅品位の低下等による採算悪化に加えて、地熱の影響による坑内温度の上昇、地圧の増大による坑道の崩落現象による作業環境の悪化が顕著となり、1973年(昭和48年)に閉山しました。
硫化鉱物 愛媛県新居浜市 スモールキャビネットサイズ石泉亭
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輝安鉱 (stibnite) 市之川鉱山 #0633
市之川鉱山では石墨片岩が角礫化した部分に生じた富鉱体に石英と輝安鉱からなる空洞(晶洞)が発達していました。母岩の中を通る鉱脈は通常は幅が30~40cmくらいですが、時に1m前後に達し、この鉱脈の中に空洞(晶洞、ガマ)が生じることがあり、その中でマテと呼ばれる輝安鉱の柱状結晶が非常に長い年月をかけて成長し、大きなものは長さが90cmに達するものもあったということです。市之川鉱山産のまるで日本刀のように美しい巨晶は1877年(明治10年)の第1回内国勧業博覧会(東京上野)、1878年(明治11年)のパリ万国博覧会、1893年(明治26年)のシカゴ万国博覧会に出品され世界的に有名になり、ロンドンの大英博物館(自然史)やワシントンD.C.のスミソニアン博物館をはじめ世界各国の有名な博物館や大学で今も展示されています。 本標本では石英質の母岩中の各所に輝安鉱の柱状結晶が放射状に生成しています。(1枚目~4枚目は背景をソフトウエア処理しています。) 市之川鉱山は国内最大級の輝安鉱鉱山で、1875年(明治8年)から1957年(昭和32年)に閉山するまでの間に、精鉱36,700トン、アンチモン19,000トンを産出、1882年~1897年(明治15年~同30年)にかけて国内のアンチモン生産量の約半分を産出していました(500~1,300トン/同期間における年平均900トン)。 本鉱山の発見は江戸時代の1679年(延宝7年)といわれ、更に古くは「続日本紀」に698年(文武天皇2年)に伊豫国から錫とアンチモンの合金を指すシロメ(白目、白錫、白鑞)およびスズカネを朝廷に献上した旨の記載があり、市之川鉱山をその産地とする説もあります。 江戸時代の1841年(天保12年)から1871年(明治4年)は小松藩(一柳氏)により経営され、廃藩置県後は県営、組合事業、藤田組の投資を経て1884年(明治17年)以降は愛媛県直轄となり、1893年(明治26年)に市之川鉱山株式会社が設立されました。アンチモンは鉛に添加されるとその硬度を高めることから砲弾・銃弾の弾芯などに用いられ、日清、日露、第一次世界大戦と戦争のたびに需要が高まり、鉱山は非常な活況を呈しました。 しかし昭和初年以降は生産が振るわなくなり、1946年(昭和21年)に井華鉱業(現在の住友金属鉱山)の所有となりましたが、翌年には休山、1951年(昭和26年)に事業を再開し、1955年(昭和30年)頃にボーリング採鉱を行いましたが採算上の問題等により事業を中止し、1957年(昭和32年に閉山しました。
硫化鉱物 愛媛県西条市市之川 スモールキャビネットサイズ石泉亭
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輝安鉱 (stibnite) 市之川鉱山 #0583
市之川鉱山では石墨片岩が角礫化した部分に生じた富鉱体に石英と輝安鉱からなる空洞(晶洞)が発達していました。母岩の中を通る鉱脈は通常は幅が30~40cmくらいですが、時に1m前後に達し、この鉱脈の中に空洞(晶洞、ガマ)が生じることがあり、その中でマテと呼ばれる輝安鉱の柱状結晶が非常に長い年月をかけて成長し、大きなものは長さが90cmに達するものもあったということです。市之川鉱山産のまるで日本刀のように美しい巨晶は1877年(明治10年)の第1回内国勧業博覧会(東京上野)、1878年(明治11年)のパリ万国博覧会、1893年(明治26年)のシカゴ万国博覧会に出品され世界的に有名になり、ロンドンの大英博物館(自然史)やワシントンD.C.のスミソニアン博物館をはじめ世界各国の有名な博物館や大学で今も展示されています。 本標本は博物館に展示されるような巨晶とは真逆の極小結晶ですが、小晶洞中に輝安鉱の典型的な柱状結晶がひしめきあうように生成しています。(1枚目~3枚目は背景をソフトウエア処理しています。) 市之川鉱山は国内最大級の輝安鉱鉱山で、1875年(明治8年)から1957年(昭和32年)に閉山するまでの間に、精鉱36,700トン、アンチモン19,000トンを産出、1882年~1897年(明治15年~同30年)にかけて国内のアンチモン生産量の約半分を産出していました(500~1,300トン/同期間における年平均900トン)。 本鉱山の発見は江戸時代の1679年(延宝7年)といわれ、更に古くは「続日本紀」に698年(文武天皇2年)に伊豫国から錫とアンチモンの合金を指すシロメ(白目、白錫、白鑞)およびスズカネを朝廷に献上した旨の記載があり、市之川鉱山をその産地とする説もあります。 江戸時代の1841年(天保12年)から1871年(明治4年)は小松藩(一柳氏)により経営され、廃藩置県後は県営、組合事業、藤田組の投資を経て1884年(明治17年)以降は愛媛県直轄となり、1893年(明治26年)に市之川鉱山株式会社が設立されました。アンチモンは鉛に添加されるとその硬度を高めることから砲弾・銃弾の弾芯などに用いられ、日清、日露、第一次世界大戦と戦争のたびに需要が高まり、鉱山は非常な活況を呈しました。 しかし昭和初年以降は生産が振るわなくなり、1946年(昭和21年)に井華鉱業(現在の住友金属鉱山)の所有となりましたが、翌年には休山、1951年(昭和26年)に事業を再開し、1955年(昭和30年)頃にボーリング採鉱を行いましたが採算上の問題等により事業を中止し、1957年(昭和32年に閉山しました。
硫化鉱物 愛媛県西条市市之川 スモールキャビネットサイズ石泉亭
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珪孔雀石・孔雀石 (chrysocolla/malachite) 山上鉱山 #0539B
青緑色の珪孔雀石と、緑色の孔雀石が美しいコントラストをなしています。いずれも銅の二次鉱物です。(1、2、5枚目は背景をソフトウエア処理しています。) 山上鉱山(さんじょうこうざん)はスカルン鉱床で、1888年(明治21)年から銅・タングステンが採掘されました。大和鉱山(株)が経営していましたが、1955年(昭和30年)には既に閉山していたとのことです。灰重石、輝銅鉱、赤銅鉱のほか、様々な銅の二次鉱物を産出しました。
フィロケイ酸塩鉱物 山口県美祢市於福町下 ミニチュアサイズ石泉亭
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珪孔雀石・孔雀石 (chrysocolla/malachite) 山上鉱山 #0539A
青緑色の珪孔雀石と、緑色の孔雀石が美しいコントラストをなしています。いずれも銅の二次鉱物です。(1~2枚目は背景をソフトウエア処理しています。) 山上鉱山(さんじょうこうざん)はスカルン鉱床で、1888年(明治21)年から銅・タングステンが採掘されました。大和鉱山(株)が経営していましたが、1955年(昭和30年)には既に閉山していたとのことです。灰重石、輝銅鉱、赤銅鉱のほか、様々な銅の二次鉱物を産出しました。
フィロケイ酸塩鉱物 山口県美祢市於福町下 ミニチュアサイズ石泉亭
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灰重石 (scheelite) 玖珂鉱山 #0672
スカルン型鉱床中に算出した灰重石です。(1~3枚目は背景をソフトウエア処理しています。) 玖珂(くが)鉱山の発見は1580年(天正8年)頃といわれています。最初は銀鉱が採掘されましたが、1600年(慶長5年)頃には錫鉱が採掘され大阪に出荷されたとのことです。さらに,1850年(嘉永3年)頃からは銅鉱の採鉱と製錬が始まり、その後も1910年(明治43年)頃までは銅山として断続的に稼行されました。1911年(明治44年)に灰重石が発見され、タングステン鉱(灰重石精鉱)の生産が始まり、第一次世界大戦後の需要減退による鉱産物価格下落により1920年(大正9年)に休山するまで操業され、第二次世界大戦後の1953年(昭和28年)に選鉱揚を再建して操業を再開しました。当初は灰重石精鉱だけを採掘していましたが、その後順次回収設備を拡充し、1956年(昭和31年)からは銅精鉱と硫化精鉱、1960年(昭和35年)からは亜鉛精鉱と錫鉱の回収を始め、1953年(昭和28年)から1975年(昭和50年)までの粗鉱生産量は合計410万トンに上り、灰重石精鉱2,800トン、銅精鉱14,000トン、硫化精鉱59,400トン、亜鉛精803トンおよび錫鉱250トンを生産しましたが、1970年代以降のタングステン価格の低迷により経営が悪化し、1987年(昭和62年)に閉山しました。鉱山跡は現在「地底王国 美川ムーバレー」というテーマパークになっています。
タングステン酸塩鉱物 山口県岩国市美川町根笠 スモールキャビネットサイズ石泉亭
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灰重石 (scheelite) 喜和田鉱山 #0247
灰重石は化学的にはタングステン酸カルシウムで、タングステンの主要な鉱石鉱物の一つです。この標本では照りのある薄い橙黄色の不定形の粒状の灰重石が集合しています。(1~2枚目は背景をソフトウエア処理しています。) 喜和田鉱山は1669年(寛文9年)に発見され、 古くは「ニ鹿(ふたしか)鉱山」と呼ばれ、1671年(寛文11年)以降、主に銅や鉛が小規模に採掘されていました。当時は灰重石はまだ有用鉱物として知られておらず、淡黄色の重い鉱石はほとんど谷に捨てられていたということです。しかし1909年(明治42年)に、粟村敏顕、渡辺渡らによりそれまで捨てられていた石(ズリ)の中から大量の灰重石が発見され、タングステンの一大産地として脚光を浴びることになりました。1911年(明治44年)以降、株式会社粟村工業所によりタングステン鉱山として稼行され、最盛期には、粗鉱換算で年間約7,000トンを出荷していました。 市況変動の激しいタングステンの鉱山は操業と休山とを繰り返すことが多く、この鉱山も例外ではありませんでしたが、タングステンの含有率が平均で8~10%、最大約50%にも達したとされる世界有数の高品位鉱体を有していたこともあり、1980年代以降中国製品の流入によるタングステン価格下落に伴って日本のタングステン鉱山の閉山が相次いだ中、本鉱山は1982年(昭和57年)に(株)喜和田鉱山として独立し、操業を継続しました。 喜和田鉱山には選鉱設備がなく、長らく京都府の大谷鉱山に処理を委託していましたが、同鉱山が1982年(昭和57年)に閉山したため、その後は近隣の玖珂鉱山に処理を委託していました。その後玖珂(くが)鉱山が観光坑道化して選鉱作業を停止したために操業継続が困難になり、1992年(平成4年)に操業を休止しました。その後も鉱山長が個人で坑道の維持・管理を行っていましたが、2005年(平成13年)に坑道が完全封鎖されました。
タングステン酸塩鉱物 山口県岩国市二鹿 ミニチュアサイズ石泉亭
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輝コバルト鉱 (cobaltite) 長登鉱山 烏帽子坑 #0418
銀白色の部分が輝コバルト鉱で、一部に真鍮色の黄銅鉱を伴っています。(1~2枚目は背景をソフトウエア処理しています。) 長登鉱山は秋吉台の東南に位置しており、7世紀末ないし8世紀初頭に銅山として操業が始まったと考えられています。律令制下で長門国直営の鉱山として稼行され、産出された銅や鉛は和同開珎など皇朝十二銭の鋳造や東大寺の大仏といった、国家的事業に用いられたと考えられており、「奈良上り」が「長登」の地名の由来だとされています。長登鉱山は12世紀に一旦稼動が休止され、14世紀後半に再開したと考えられており、中世期の銅の製錬遺構が見つかっています。江戸時代初期には長州藩直営の鉱山として栄えましたが、坑内からの出水などにより銅の採掘が困難になったため、江戸時代後半には再び休止状態になりました。但し、岩絵具の材料として緑青の採掘が続けられ、滝ノ下緑青として全国的に知られました。明治時代から昭和時代にかけて長登鉱山は再稼動し、銅に加えて日本では珍しいコバルトが採掘されました。明治後期から大正時代にかけての精錬所である花の山精錬所は日本独自の吹床精錬法の精錬所で、遺構の保存状況も良く、貴重な近代鉱業遺跡になっています。
硫化鉱物 山口県美祢市美東町長登 ミニチュアサイズ石泉亭
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輝コバルト鉱 (cobaltite) 長登鉱山 #0221
かすかにピンク色を帯びた銀白色の鉱物が輝コバルト鉱です。(1枚目は背景をソフトウエア処理しています。) 長登鉱山は秋吉台の東南に位置しており、7世紀末ないし8世紀初頭に銅山として操業が始まったと考えられています。律令制下で長門国直営の鉱山として稼行され、産出された銅や鉛は和同開珎など皇朝十二銭の鋳造や東大寺の大仏といった、国家的事業に用いられたと考えられており、「奈良上り」が「長登」の地名の由来だとされています。長登鉱山は12世紀に一旦稼動が休止され、14世紀後半に再開したと考えられており、中世期の銅の製錬遺構が見つかっています。江戸時代初期には長州藩直営の鉱山として栄えましたが、坑内からの出水などにより銅の採掘が困難になったため、江戸時代後半には再び休止状態になりました。但し、岩絵具の材料として緑青の採掘が続けられ、滝ノ下緑青として全国的に知られました。明治時代から昭和時代にかけて長登鉱山は再稼動し、銅に加えて日本では珍しいコバルトが採掘されました。明治後期から大正時代にかけての精錬所である花の山精錬所は日本独自の吹床精錬法の精錬所で、遺構の保存状況も良く、貴重な近代鉱業遺跡になっています。
硫化鉱物 山口県美祢市美東町長登 スモールキャビネットサイズ石泉亭
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蛍石 (fluorite) 神武鉱山 #0698
白色の母岩上に細粒の蛍石の結晶が無数に見られます。紫色の結晶が目立ちますが、よく観察すると淡緑色や透明のものも含まれています。紫外線に対する蛍光はあまり強くないようです。(背景はソフトウエア処理しています。) 神武鉱山は、この地域に見られる粗粒の黒雲母花崗岩と石灰岩の間にできたスカルン鉱床で、銅、蛍石、柘榴石等を算出しました。1904年(明治37年)頃に開発されましたが間もなく休山、その後1933年(昭和8年)頃から再稼行し、1936(昭和11)年に東京都の山口茂氏が金銀銅の試掘鉱区として鉱業権を買収し、1937年(昭和12年)に神武鉱山株式会社が設立されました。一方、同鉱山産の蛍石を目的とした土石採取権を八幡製鉄所が保有しており(蛍石は製鉄工程で溶剤として用いられる)、1938年(昭和13念)年~1939年(昭和14年)の間、八幡製鉄所の委託を受けて神武鉱山の蛍石を採掘、八幡に送鉱していました。1941年(昭和16年)に法定鉱物に追加された蛍石の採石権を神武鉱山の鉱業権に併合、1945(昭和20)年まで稼行しました。戦後1948年(昭和23年)に採掘を再開し、1954年(昭和29年)には銅鉱石の月産90トンという記録が残っています。また、蛍石の産地としても日本有数といわれ、1951年(昭和26年)~1953年(昭和28年)にかけて年間約500トンを出鉱、品位は平均30~40%、最高では70~80%に達したということです。1964年(昭和39年)に落盤事故が発生し、閉山しました。
ハロゲン化鉱物 広島県三原市宗郷町 ミニチュアサイズ石泉亭
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斜開銅鉱 (clinoclase) 瀬戸田鉱山 南土取場 #0474
斜開銅鉱の細かい結晶が皮膜状に母岩を覆っています。(背景はソフトウエア処理しています。) 瀬戸田鉱山は気成鉱床中のタングステンや、銅、マンガンを採掘していた鉱山で、1941年(昭和16年)に発見、1951年(昭和26年)から稼行され、1960年(昭和35年)頃に閉山しました。鉱山跡に鉱脈の酸化帯が形成され、砒酸塩鉱物など多くの二次鉱物を産出することで鉱物愛好家に有名です。
砒酸塩鉱物 広島県尾道市瀬戸田町林 スモールキャビネットサイズ石泉亭
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鋼玉 (corundum) 勝光山 #0322
乳白色の葉蝋石が青色の鋼玉(corundum)を伴っています。(背景はソフトウエア処理しています。) 庄原市北部にある勝光山(しょうこうざん、947.4 m)の南斜面に胚胎する葉蝋石(pyrophyllite)を中心とする蝋石鉱床では、一部で熱水変質鉱物として青色の鋼玉(corundum)を多く含むコランダム帯が形成されています。勝光山は現役(2024年11月現在)の鉱山で、農薬、耐火物、ガラス繊維、医薬品、自動車部品などの様々な製品に用いられる蝋石やカオリン、耐火粘土などの原料の採掘が行われており、蝋石は日本地質学会により広島県の石に選定されています。
酸化鉱物 広島県庄原市川北町 スモールキャビネットサイズ石泉亭
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方解石 (calcite) 足尾銅山 #0697
犬牙状の方解石結晶が群生する標本です。(背景はソフトウエア処理しています。) 足尾銅山は1550年(天文19年)の発見と伝えられ、1610年(慶長15年)以降、江戸幕府直轄の鉱山として銅山奉行の代官所が設置され、本格的に採掘が開始されました。採掘された銅は日光東照宮や上野寛永寺・芝増上寺の部材などに使われたほか、長崎からオランダなどへも輸出されました。江戸時代における足尾銅山の最盛期は17世紀中頃で、年間1,300トン以上の生産量を維持し、1684年(貞享元年)の生産量は1,500トンに達しましたが、その後寛保~延享期(1741-1748年)には産銅量が減少、このため足尾銅山の山師救済を目的とした鋳銭座が設けられ、寛永通宝一文銭の裏面に「足」の字が印された「足字銭」が鋳造されるなどしましたが、産銅量は減少の一途を辿り、幕末から明治時代初期にかけてはほぼ閉山状態になっていました。1871年(明治4年)に民営化され、1877年(明治10年)に古河市兵衛が足尾銅山の経営に着手、1881年(明治14年)の鷹之巣直利、1884年(明治17年)に横間歩大直利など、探鉱技術の進歩によって次々と有望鉱脈が発見されました。1905年(明治38年)以降は古河鉱業の経営となり、明治政府の富国強兵政策を背景に急速に発展、20世紀初頭には、日本の銅産出量の約40%を生産する大銅山に成長し、1916年(大正5年)には年間産銅量が14,000トンを超え、足尾町の人口も38,428人に達しました。 しかし銅山と金属製錬事業の発展の一方、足尾山地の樹木は坑木・燃料用に伐採され、製錬所が排出する煙が深刻な大気汚染を引き起こしました。また、荒廃した山地を水源とする渡良瀬川では洪水が頻発し、製錬廃棄物が流域の平地に流れ込んで水質・土壌汚染をもたらし、足尾鉱毒事件と呼ばれる広範囲な環境汚染(公害)問題を引き起こしました。 1940~1945年(昭和15~20年)の戦時下に政府による非常時増産運動により足尾銅山も増産を余儀なくされましたが結果的に無計画な乱掘を招き、戦後の産銅量は徐々に増加したものの、最盛期の産銅量には遠く及ばず、最終的に優良鉱脈を掘り尽くして急速に生産が減少、1973年(昭和48年)に採鉱を停止し、閉山しました。製錬部門については閉山後も輸入鉱石を搬入し操業を続けましたが、国鉄足尾線の民有化を機に、1988年(昭和63年)に事実上廃止されました。
炭酸塩鉱物 栃木県日光市足尾町 スモールキャビネットサイズ石泉亭