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日立鉱山 助川荷扱所/茨城県日立市 PC013-08
「日立鉱山絵葉書」8枚組セット中の「助川荷扱所」です。「助川荷扱所」は現在のJR常磐線日立駅の前身で、1897年(明治30年)に日本鉄道の助川駅として開業しました。1908年(明治41年)に助川駅(助川荷扱所)と日立鉱山(大雄院荷扱所)を結ぶ総延長5.4kmの日立鉱山専用電気鉄道が開設され、鉱山/製錬所との間の物資輸送を担いました。別名を助川専用電気鉄道、略称「助電」ともいうこの電気鉄道の建設は、日立製作所の創設者である小平浪平が指揮したと云われています。この絵葉書には架空電線と貨車が写っています。 日立鉱山は元は赤沢銅山と呼ばれていた小鉱山でしたが、1905年(明治38年)に久原房之助が日立鉱山と改名し本格的な開発を開始して以降大きく発展しました。1905年(明治38年)から1981年(昭和56年)に閉山されるまでの76年間に約3,000万トンの粗鉱を採掘、約44万トンの銅を産出し、足尾銅山(栃木県)、別子銅山(愛媛県)と並び日本三大銅山の一つに数えられています。
茨城県日立市宮田町 日立鉱山石泉亭
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日立鉱山 事務所/茨城県日立市 PC013-07
「日立鉱山絵葉書」8枚組セット中の「日立鉱山事務所」です。日立鉱山の鉱山事務所はもとは採掘現場に近い本山(もとやま)地区にありましたが、1909年(明治42年)に製錬所のある大雄院地区に移転しました。この写真は移転後のもので、事務所の向こう側に製錬所とそれに繋がる煙道の一部が見えます。 日立鉱山は元は赤沢銅山と呼ばれていた小鉱山でしたが、1905年(明治38年)に久原房之助が日立鉱山と改名し本格的な開発を開始して以降大きく発展しました。1905年(明治38年)から1981年(昭和56年)に閉山されるまでの76年間に約3,000万トンの粗鉱を採掘、約44万トンの銅を産出し、足尾銅山(栃木県)、別子銅山(愛媛県)と並び日本三大銅山の一つに数えられています。
茨城県日立市宮田町 日立鉱山石泉亭
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日立鉱山 電錬所/茨城県日立市 #PC013-06
「日立鉱山絵葉書」8枚組セット中の「日立鉱山電錬所」です。日立鉱山では1911年(明治44年)に現在の茨城県北茨城市中郷町に水力発電所「石岡第一発電所」を建設し、同年にその電力を利用して電解精錬を行う芝内電錬所を設けました。「日立市の歴史点描」というWebサイトに、この電錬所を紹介した1912年(明治45年)当時の『中外商業新報』(現在の日本経済新聞)の記事が掲載されていましたので、その一部を転記の上、現代語訳を付けてみました。 「電氣分銅所は助川驛と事務所間の中點にあつて全部コンクリートに依て築かれた荘厳なる建物である、闥を排し手入れば先づ電流發動機の大設置に一驚を喫する、ト見る長さ二百七十尺横五十八尺の一室に二百餘個の電槽が底深く築かれて無数の銅板が今や分解に附せられている、鐵橋の如きクレーンは中空を自由自在に横行する、電解液は絶えず流動していて槽底には金銀が泥色を呈して沈澱する、分解に附すれば純銅は九九、八となる、四百キロの機械二臺で一ヶ月百萬斤を摂取し得るといふ」 (現代語訳)「電気分銅所は助川駅と事務所の間のちょうど中間地点に位置し、全てコンクリートで建てられた荘厳な建物です。門をくぐって内部に入ると、まず電流発動機の大規模な設置に驚かされます。さらに目を向けると、長さ約82メートル、幅約18メートルの一室の中に200個以上の電解槽が深く設置されており、数え切れないほどの銅板が今まさに分解されている様子が見られます。鉄橋のようなクレーンは、空中を自由自在に移動しています。電解液は常に流動し、電解槽の底では金や銀が泥状になって沈殿しています。分解が行われると、銅の純度は99.8%に達します。400キログラムの機械2台によって、1ヶ月で約500トンの銅を得ることができると云われています。」 日立鉱山は元は赤沢銅山と呼ばれていた小鉱山でしたが、1905年(明治38年)に久原房之助が日立鉱山と改名し本格的な開発を開始して以降大きく発展しました。1905年(明治38年)から1981年(昭和56年)に閉山されるまでの76年間に約3,000万トンの粗鉱を採掘、約44万トンの銅を産出し、足尾銅山(栃木県)、別子銅山(愛媛県)と並び日本三大銅山の一つに数えられています。
茨城県日立市宮田町 日立鉱山石泉亭
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日立鉱山 製錬所コンバーター/茨城県日立市 PC013-05
「日立鉱山絵葉書」8枚組セット中の「日立鉱山製錬所コンバター」です。「コンバター」はコンバーター(converter)、日本語で云う転炉のことです。選鉱により銅含有量30%程度にした銅精鉱を自溶炉で加工して銅品位約65%のマットとした後、更に転炉で精錬して銅品位約99%の粗銅を得ます。 日立鉱山は元は赤沢銅山と呼ばれていた小鉱山でしたが、1905年(明治38年)に久原房之助が日立鉱山と改名し本格的な開発を開始して以降大きく発展しました。1905年(明治38年)から1981年(昭和56年)に閉山されるまでの76年間に約3,000万トンの粗鉱を採掘、約44万トンの銅を産出し、足尾銅山(栃木県)、別子銅山(愛媛県)と並び日本三大銅山の一つに数えられています。
茨城県日立市宮田町 日立鉱山石泉亭
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日立鉱山 本山鉄索/茨城県日立市 PC013-04
「日立鉱山絵葉書」8枚組セット中の「日立鉱山本山鉄索」です。「鉄索」は輸送用のロープウェーのことで、この写真は採掘した鉱石を本山(もとやま)の選鉱所に搬入する最終部分のものと思われます。 日立鉱山は元は赤沢銅山と呼ばれていた小鉱山でしたが、1905年(明治38年)に久原房之助が日立鉱山と改名し本格的な開発を開始して以降大きく発展しました。1905年(明治38年)から1981年(昭和56年)に閉山されるまでの76年間に約3,000万トンの粗鉱を採掘、約44万トンの銅を産出し、足尾銅山(栃木県)、別子銅山(愛媛県)と並び日本三大銅山の一つに数えられています。
茨城県日立市宮田町 日立鉱山石泉亭
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日立鉱山 本山選鉱所/茨城県日立市 PC013-03
「日立鉱山絵葉書」8枚組セット中の「日立鉱山本山選鉱所」です。日立鉱山では創業当初には銅鉱石の採鉱から精錬までを本山(もとやま)で行っていましたが、1908年(明治41年)以降大雄院に新精錬所を建設すると、本山では採鉱と選鉱だけを行うようになりました。日立鉱山の鉱石は高品位の含銅硫化鉱(キースラガー)であったため、明治期には手選のあと直接製錬に送られていましたが、大正年代に入ってから間もなく粗鉱品位の低下を受けて機械選鉱場が建設されて比重選鉱を行うようになり、更に1926年(大正15年)には浮遊選鉱場が建設されました。 日立鉱山は元は赤沢銅山と呼ばれていた小鉱山でしたが、1905年(明治38年)に久原房之助が日立鉱山と改名し本格的な開発を開始して以降大きく発展しました。1905年(明治38年)から1981年(昭和56年)に閉山されるまでの76年間に約3,000万トンの粗鉱を採掘、約44万トンの銅を産出し、足尾銅山(栃木県)、別子銅山(愛媛県)と並び日本三大銅山の一つに数えられています。
茨城県日立市宮田町 日立鉱山石泉亭
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日立鉱山 製錬所/茨城県日立市 PC013-02
「日立鉱山絵葉書」8枚組セット中の1枚で、「日立鉱山製錬所」です。黒鉱製錬を成功させ小坂鉱山を再生した久原房之助は、1905年(明治38年)に赤沢銅山を買収し、その名を日立鉱山と改めました。日立鉱山における製錬は当初赤沢銅山時代から引き続いて採鉱所のあった本山(もとやま)地区で行われていましたが、久原は日立鉱山のみならず他鉱山からも鉱石を購入(買鉱)することにより鉱山経営の安定を図るという構想を持ち、常磐線助川駅(現在の「日立駅」)と本山の採鉱所との中間地点にあった曹洞宗の名刹大雄院を移転させ、1908年(明治41年)からその跡地に大規模な中央精錬所(大雄院製錬所)の建設を開始し、大正元年(1912)に計10個の溶鉱炉を持つ大規模な製錬所を完成させました。この絵葉書は大雄院製錬所の全景を写したもので、煙害対策として製錬所裏山に建設された八角トンネル(高さ約19メートル)や神峯煙道(百足煙道)も見えます。 日立鉱山は元は赤沢銅山と呼ばれていた小鉱山でしたが、1905年(明治38年)に久原房之助が日立鉱山と改名し本格的な開発を開始して以降大きく発展しました。1905年(明治38年)から1981年(昭和56年)に閉山されるまでの76年間に約3,000万トンの粗鉱を採掘、約44万トンの銅を産出し、足尾銅山(栃木県)、別子銅山(愛媛県)と並び日本三大銅山の一つに数えられています。
茨城県日立市宮田町 日立鉱山石泉亭
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日立鉱山 絵葉書セット袋/茨城県日立市 PC013-00
「日立鉱山絵葉書」という8枚組のセット袋です。 日立鉱山は元は赤沢銅山と呼ばれていた小鉱山でしたが、1905年(明治38年)に久原房之助が日立鉱山と改名し本格的な開発を開始して以降大きく発展しました。1905年(明治38年)から1981年(昭和56年)に閉山されるまでの76年間に約3,000万トンの粗鉱を採掘、約44万トンの銅を産出し、足尾銅山(栃木県)、別子銅山(愛媛県)と並び日本三大銅山の一つに数えられています。
茨城県日立市宮田町 日立鉱山石泉亭
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水晶 (quartz) 宮田又鉱山 #0722
トッコをなす太目の水晶の表面に、雪が降ったように小さな方解石の結晶が成長し、双晶もそこかしこに見られます。(背景はソフトウエア処理しています。) 宮田又鉱山は、1722年(享保7年)に発見され、1737年(元文2年)に宮田銅山として稼行が開始されました。1800年代初頭の享和年間以降は鍋倉鉱山として久保田藩の直山となりましたが採掘結果は芳しくなく、以後長い間放置されました。明治以降も昭和初年に至るまで複数の鉱山主が経営を試みましたが断層が多く湧水が沸き易い地質であったため、その採掘は多くの困難を伴いました。1939年(昭和14年)に国策会社である帝国鉱業開発株式会社が買収、軍需の増加を背景に最新設備を導入し、近隣の荒川鉱山が1940年(昭和15年)に閉山したことに伴う人員の流入もあり、全盛期を迎えました。1949年(昭和24年)、GHQの財閥解体指令により帝国鉱業開発が解体され新鉱山開発株式会社が宮田又鉱山を継承し、日本の復興と経済発展に貢献しつつ規模を拡大しましたが、1965年(昭和40年)に鉱脈枯渇により閉山となりました。
酸化鉱物 秋田県大仙市協和 キャビネットサイズ石泉亭
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小坂鉱山 事務所/秋田県鹿角郡小坂町 PC016-07
「最近の小坂鉱山」から「事務所」です。小坂鉱山事務所は木造3階建で、延床面積1,854平方メートルの洋館で1905年(明治38年)に建設されました。意匠の基調はルネッサンス風ですが、正面中央のバルコニー付きポーチはイスラム風とも云われています。1997年(平成9年)まで小坂製錬の事務所として使われていましたが、工場増築に伴い解体、建物は小坂町に無償譲渡され、2001年(平成13年)に小坂町の明治百年通り構想に基づき、旧小坂鉱山病院跡地に移転復元され、現在は鉱山資料館として活用されています。2002年(平成14年)には小坂鉱山付属の福利厚生施設(芝居小屋)であった康楽館とともに国の重要文化財に指定されました。 小坂鉱山の発見は1680年代に遡るとされていますが、1861年(文久元年)頃、元山鉱床の露頭が発見され金・銀鉱山として南部藩による開発が始まりました。1869年(明治2年)から明治政府による官営となり、その後1884年(明治17年)には藤田組(当時、現DOWAホールディングス)に払い下げられました。小坂鉱山で当初採掘対象となったのは黒鉱が長い時間をかけて風化した土鉱と呼ばれる鉱石で、1トンあたり数百グラムの銀を含み、1901年(明治34年)には銀の生産高日本一になりましたが、土鉱の枯渇と金本位制の拡大による銀価格の暴落により小坂鉱山は閉山の危機に直面しました。土鉱の下に大量の黒鉱が埋蔵されていることは当時から判っていたものの、黒鉱は精錬が極めて難しく、事業化は不可能とされていました。しかし久原房之助が明治35年(1902年)に「生鉱吹き法」と呼ばれる鉱石中に含まれる硫黄分を熱源として利用する独自の製錬技術を開発、これにより、黒鉱から金・銀・銅・鉛・亜鉛など15種類の有用金属元素を取り出して製品化することに成功し、以後大型の溶鉱炉を建設するなど順次生産規模を拡大し、国内有数の銅製錬所としての地位を確立しました。更に金銀などへ製錬事業を展開しながら1907年(明治40年)には生産額日本一を記録、1905年(明治38年)には旧小坂鉱山事務所、1910年(明治43年)には芝居小屋の康楽館(いずれも国の重要文化財)が竣工しています。第二次世界大戦直後に資源の枯渇等を理由に採掘が中断されましたが、1959年(昭和34年)に内の岱鉱床と呼ばれる新鉱脈が発見され、1962年(昭和37年)に採掘を再開、1990年(平成2年)まで存続しました。なお、小坂鉱山は閉山しましたが、製錬所は今も存続しており、その技術を活かして多様な金属元素のリサイクル事業を展開しています。
秋田県鹿角郡小坂町 小坂鉱山石泉亭
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小坂鉱山 小坂駅/秋田県鹿角市小坂町 PC016-06
「最近の小坂鉱山」から「小坂駅」です。小坂駅は小坂鉱山と秋田県北部の主要都市である大館の間22.3kmを結んだ小坂鉄道の始発駅です。小坂鉄道は1909年(明治42年)に旅客・貨物の営業を開始、1989年(平成元年)に同和鉱業から分離した小坂製錬の小坂線となり、1994年(平成6年)に旅客営業を廃止、その後製錬業の副産物として製造していた濃硫酸の輸送等を行っていましたが、2009年(平成21年)に全線が廃止されました。現在小坂駅は「小坂鉄道レールパーク」に姿を変えて営業しています。 小坂鉱山の発見は1680年代に遡るとされていますが、1861年(文久元年)頃、元山鉱床の露頭が発見され金・銀鉱山として南部藩による開発が始まりました。1869年(明治2年)から明治政府による官営となり、その後1884年(明治17年)には藤田組(当時、現DOWAホールディングス)に払い下げられました。小坂鉱山で当初採掘対象となったのは黒鉱が長い時間をかけて風化した土鉱と呼ばれる鉱石で、1トンあたり数百グラムの銀を含み、1901年(明治34年)には銀の生産高日本一になりましたが、土鉱の枯渇と金本位制の拡大による銀価格の暴落により小坂鉱山は閉山の危機に直面しました。土鉱の下に大量の黒鉱が埋蔵されていることは当時から判っていたものの、黒鉱は精錬が極めて難しく、事業化は不可能とされていました。しかし久原房之助が明治35年(1902年)に「生鉱吹き法」と呼ばれる鉱石中に含まれる硫黄分を熱源として利用する独自の製錬技術を開発、これにより、黒鉱から金・銀・銅・鉛・亜鉛など15種類の有用金属元素を取り出して製品化することに成功し、以後大型の溶鉱炉を建設するなど順次生産規模を拡大し、国内有数の銅製錬所としての地位を確立しました。更に金銀などへ製錬事業を展開しながら1907年(明治40年)には生産額日本一を記録、1905年(明治38年)には旧小坂鉱山事務所、1910年(明治43年)には芝居小屋の康楽館(いずれも国の重要文化財)が竣工しています。第二次世界大戦直後に資源の枯渇等を理由に採掘が中断されましたが、1959年(昭和34年)に内の岱鉱床と呼ばれる新鉱脈が発見され、1962年(昭和37年)に採掘を再開、1990年(平成2年)まで存続しました。なお、小坂鉱山は閉山しましたが、製錬所は今も存続しており、その技術を活かして多様な金属元素のリサイクル事業を展開しています。
秋田県鹿角郡小坂町 小坂鉱山石泉亭
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小坂鉱山 配電所内部/秋田県鹿角郡小坂町 PC016-05
「最近の小坂鉱山」から「配電所内部」です。鉱山では採鉱・製錬・運搬などのために大きなエネルギー源を必要とします。1887年(明治20年)には足尾銅山で本山火力発電所(20㎾)が稼働し、1890年(明治23年)の末には日本最初の鉱山用水力発電所である間藤(まとう)水力発電所(240㎾)が竣工しました。小坂鉱山でも1897年(明治30年)に銚子第一水力発電所(150㎾)が稼働しています。こうした発電所あるいは変電所から送られてきた電力を鉱山内に供給する施設が配電所です。この絵葉書は、おそらく1904年(明治37年)に建設された小坂鉱山工作課原動室(電気室)の内部を写したものと思われます。この建物は現在小坂町の明治百年通りにある国際交流広場に「赤煉瓦倶楽部」として移築・復原され、国登録有形文化財になっています。 小坂鉱山の発見は1680年代に遡るとされていますが、1861年(文久元年)頃、元山鉱床の露頭が発見され金・銀鉱山として南部藩による開発が始まりました。1869年(明治2年)から明治政府による官営となり、その後1884年(明治17年)には藤田組(当時、現DOWAホールディングス)に払い下げられました。小坂鉱山で当初採掘対象となったのは黒鉱が長い時間をかけて風化した土鉱と呼ばれる鉱石で、1トンあたり数百グラムの銀を含み、1901年(明治34年)には銀の生産高日本一になりましたが、土鉱の枯渇と金本位制の拡大による銀価格の暴落により小坂鉱山は閉山の危機に直面しました。土鉱の下に大量の黒鉱が埋蔵されていることは当時から判っていたものの、黒鉱は精錬が極めて難しく、事業化は不可能とされていました。しかし久原房之助が明治35年(1902年)に「生鉱吹き法」と呼ばれる鉱石中に含まれる硫黄分を熱源として利用する独自の製錬技術を開発、これにより、黒鉱から金・銀・銅・鉛・亜鉛など15種類の有用金属元素を取り出して製品化することに成功し、以後大型の溶鉱炉を建設するなど順次生産規模を拡大し、国内有数の銅製錬所としての地位を確立しました。更に金銀などへ製錬事業を展開しながら1907年(明治40年)には生産額日本一を記録、1905年(明治38年)には旧小坂鉱山事務所、1910年(明治43年)には芝居小屋の康楽館(いずれも国の重要文化財)が竣工しています。第二次世界大戦直後に資源の枯渇等を理由に採掘が中断されましたが、1959年(昭和34年)に内の岱鉱床と呼ばれる新鉱脈が発見され、1962年(昭和37年)に採掘を再開、1990年(平成2年)まで存続しました。なお、小坂鉱山は閉山しましたが、製錬所は今も存続しており、その技術を活かして多様な金属元素のリサイクル事業を展開しています。
秋田県鹿角郡小坂町 小坂鉱山石泉亭
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小坂鉱山 電錬内部/秋田県鹿角郡小坂町 PC016-04
「最近の小坂鉱山」から「電錬内部」です。「電錬」は「電解精錬」の略で、転炉で生産した品位約99%の粗銅を純銅(純度99.99%以上)にするプロセスをいいます。硫酸銅水溶液に粗銅から製造された陽極板(アノード)および純銅から製造された「種板」と呼ばれた陰極板(カソード)を入れ、電流を流すと、粗銅(陽極)中の銅イオンが硫酸銅溶液に溶け出し、種板に貼り付く仕組みです。この絵葉書では硫酸銅溶液で満たされた電解槽に多数のアノードとカソードが装填されている様子が判ります。 小坂鉱山の発見は1680年代に遡るとされていますが、1861年(文久元年)頃、元山鉱床の露頭が発見され金・銀鉱山として南部藩による開発が始まりました。1869年(明治2年)から明治政府による官営となり、その後1884年(明治17年)には藤田組(当時、現DOWAホールディングス)に払い下げられました。小坂鉱山で当初採掘対象となったのは黒鉱が長い時間をかけて風化した土鉱と呼ばれる鉱石で、1トンあたり数百グラムの銀を含み、1901年(明治34年)には銀の生産高日本一になりましたが、土鉱の枯渇と金本位制の拡大による銀価格の暴落により小坂鉱山は閉山の危機に直面しました。土鉱の下に大量の黒鉱が埋蔵されていることは当時から判っていたものの、黒鉱は精錬が極めて難しく、事業化は不可能とされていました。しかし久原房之助が明治35年(1902年)に「生鉱吹き法」と呼ばれる鉱石中に含まれる硫黄分を熱源として利用する独自の製錬技術を開発、これにより、黒鉱から金・銀・銅・鉛・亜鉛など15種類の有用金属元素を取り出して製品化することに成功し、以後大型の溶鉱炉を建設するなど順次生産規模を拡大し、国内有数の銅製錬所としての地位を確立しました。更に金銀などへ製錬事業を展開しながら1907年(明治40年)には生産額日本一を記録、1905年(明治38年)には旧小坂鉱山事務所、1910年(明治43年)には芝居小屋の康楽館(いずれも国の重要文化財)が竣工しています。第二次世界大戦直後に資源の枯渇等を理由に採掘が中断されましたが、1959年(昭和34年)に内の岱鉱床と呼ばれる新鉱脈が発見され、1962年(昭和37年)に採掘を再開、1990年(平成2年)まで存続しました。なお、小坂鉱山は閉山しましたが、製錬所は今も存続しており、その技術を活かして多様な金属元素のリサイクル事業を展開しています。
秋田県鹿角郡小坂町 小坂鉱山石泉亭
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小坂鉱山 コンバータ内部/秋田県鹿角郡小坂町 PC016-03
「最近の小坂鉱山」から「コンバータ内部」です。コンバータ(converter)はもともと鉄の製鋼用に開発された金属精錬専用炉の一種ですが、銅の精錬にも応用されています。黄銅鉱等の銅鉱石を浮遊選鉱により銅含有量30%程度にしたものを銅精鉱といい、これを自溶炉に吹き込んで、自身の酸化熱により、銅品位65%のマットと酸化鉄・珪酸などからなるスラグに溶解・分離します。このマットを精錬用の回転可能なコンバータに投入し、底部から酸素富加空気を吹き込んで更に酸化させ、銅品位約99%の粗銅を得ます。コンバータの名前は銑鉄を鋼に転換(convert)することに由来し、日本語では「転炉」と呼ばれます。 小坂鉱山の発見は1680年代に遡るとされていますが、1861年(文久元年)頃、元山鉱床の露頭が発見され金・銀鉱山として南部藩による開発が始まりました。1869年(明治2年)から明治政府による官営となり、その後1884年(明治17年)には藤田組(当時、現DOWAホールディングス)に払い下げられました。小坂鉱山で当初採掘対象となったのは黒鉱が長い時間をかけて風化した土鉱と呼ばれる鉱石で、1トンあたり数百グラムの銀を含み、1901年(明治34年)には銀の生産高日本一になりましたが、土鉱の枯渇と金本位制の拡大による銀価格の暴落により小坂鉱山は閉山の危機に直面しました。土鉱の下に大量の黒鉱が埋蔵されていることは当時から判っていたものの、黒鉱は精錬が極めて難しく、事業化は不可能とされていました。しかし久原房之助が明治35年(1902年)に「生鉱吹き法」と呼ばれる鉱石中に含まれる硫黄分を熱源として利用する独自の製錬技術を開発、これにより、黒鉱から金・銀・銅・鉛・亜鉛など15種類の有用金属元素を取り出して製品化することに成功し、以後大型の溶鉱炉を建設するなど順次生産規模を拡大し、国内有数の銅製錬所としての地位を確立しました。更に金銀などへ製錬事業を展開しながら1907年(明治40年)には生産額日本一を記録、1905年(明治38年)には旧小坂鉱山事務所、1910年(明治43年)には芝居小屋の康楽館(いずれも国の重要文化財)が竣工しています。第二次世界大戦直後に資源の枯渇等を理由に採掘が中断されましたが、1959年(昭和34年)に内の岱鉱床と呼ばれる新鉱脈が発見され、1962年(昭和37年)に採掘を再開、1990年(平成2年)まで存続しました。なお、小坂鉱山は閉山しましたが、製錬所は今も存続しており、その技術を活かして多様な金属元素のリサイクル事業を展開しています。
秋田県鹿角郡小坂町 小坂鉱山石泉亭
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小坂鉱山 露天掘全景/秋田県鹿角郡小坂町 PC016-02
「最近の小坂鉱山」の中の「露天掘全景」です。小坂鉱山の元山鉱床では、1908年(明治41年)から1920年(大正9年)まで、日本初の大規模な露天掘(700メートル×300メートル、深さ150メートル)が行われました。 小坂鉱山の発見は1680年代に遡るとされていますが、1861年(文久元年)頃、元山鉱床の露頭が発見され金・銀鉱山として南部藩による開発が始まりました。1869年(明治2年)から明治政府による官営となり、その後1884年(明治17年)には藤田組(当時、現DOWAホールディングス)に払い下げられました。小坂鉱山で当初採掘対象となったのは黒鉱が長い時間をかけて風化した土鉱と呼ばれる鉱石で、1トンあたり数百グラムの銀を含み、1901年(明治34年)には銀の生産高日本一になりましたが、土鉱の枯渇と金本位制の拡大による銀価格の暴落により小坂鉱山は閉山の危機に直面しました。土鉱の下に大量の黒鉱が埋蔵されていることは当時から判っていたものの、黒鉱は精錬が極めて難しく、事業化は不可能とされていました。しかし久原房之助が明治35年(1902年)に「生鉱吹き法」と呼ばれる鉱石中に含まれる硫黄分を熱源として利用する独自の製錬技術を開発、これにより、黒鉱から金・銀・銅・鉛・亜鉛など15種類の有用金属元素を取り出して製品化することに成功し、以後大型の溶鉱炉を建設するなど順次生産規模を拡大し、国内有数の銅製錬所としての地位を確立しました。更に金銀などへ製錬事業を展開しながら1907年(明治40年)には生産額日本一を記録、1905年(明治38年)には旧小坂鉱山事務所、1910年(明治43年)には芝居小屋の康楽館(いずれも国の重要文化財)が竣工しています。第二次世界大戦直後に資源の枯渇等を理由に採掘が中断されましたが、1959年(昭和34年)に内の岱鉱床と呼ばれる新鉱脈が発見され、1962年(昭和37年)に採掘を再開、1990年(平成2年)まで存続しました。なお、小坂鉱山は閉山しましたが、製錬所は今も存続しており、その技術を活かして多様な金属元素のリサイクル事業を展開しています。
秋田県鹿角郡小坂町 小坂鉱山石泉亭