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自然硫黄 (natural sulfur) 知床硫黄山 #0659
硫黄を熱すると120℃で溶融し、液体の硫黄に変わります。本標本は既に固体化しているため黄色ですが、液体の硫黄は赤茶色になるそうです。1~3枚目は背景をソフトウエア処理しています。 知床硫黄山は、大量の溶融硫黄を噴出することで知られています。1857年(安政4年)に北西側中腹の爆裂火口から噴火し、溶融硫黄が海浜まで流出し、1859年(安政6年)に会津藩によって採掘が試みられたのをきっかけに、硫黄採掘が始まりました。記録に残っている範囲では、標高600mの北西山麓に位置する1号火口(現在の新噴火口)から4回の噴火があり、大量の溶融硫黄を噴出し、そのつど採掘が行われています。最後に噴火したのは1936年(昭和11年)で、当時採掘権を持っていた皆月家から日本特殊鉱業に採掘権が移り、近代的な設備を導入した本格的な採掘が行われました。第二次世界大戦以降は知床硫黄山での硫黄採掘は行われていません。
元素鉱物 北海道斜里郡斜里町遠音別村 スモールキャビネットサイズ石泉亭
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銅藍 (covellite) 加納鉱山 #0657
閃亜鉛鉱、黄銅鉱を交代して二次的な銅藍が生成されています。1~2枚目は背景をソフトウエア処理しています。 加納鉱山は江戸時代には岩尾銀山と呼ばれ、主に銀が採掘されていましたが、操業は寛永年中から明暦(1655年~1658年)頃までで、文化年中(1804年~1818年)には休山になっていました。1905(明治38)年から加納鉱山(株)が黒鉱鉱床として本格的に再開発し、大正にかけて主に銀と銅を採掘、他に金、鉛、亜鉛、石膏、重晶石を産出しました。一時は第二の小坂鉱山とも言われましたが、大正末期には衰退、1943年(昭和18)年に会津鉱業に買収され、近隣の与内畑(よないはた)鉱山に吸収されました。1972年(昭和47年)に与内畑鉱山と共に閉山しました。
硫化鉱物 福島県喜多方市熱塩加納町宮川 スモールキャビネットサイズ石泉亭
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銀鉱石 (silver ore) 谷口銀山 #0655
網状の石英脈からなる銀鉱石です。1~2枚目は背景をソフトウエア処理しています。 谷口銀山は源義経ゆかりの金売吉次の発見との伝承があり、戦国末期の16世紀末に最上義光が採掘したといわれますが、本格的に開発されたのは新庄藩主戸沢政盛が入部してからで、各地から鉱山技術者を招いて開発に尽力、最盛期は寛永から慶安年間(1624年~1652年)だったと言われています。その頃の谷口銀山には坑道が66、鉱夫の屋敷が3,000軒、常時芝居が観られる小屋が7か所あったといいます。その後水抜きが困難となった為、1845年(弘化2年)に廃坑となりました。現在は建物等の遺構はありませんが、当時の名残と思われる地名(ずり山、伝助鋪、まさり鋪、十分一、買石沢)が伝わり、鉱山師の屋敷跡からは鉱石を砕いた石臼やたくさんの鉱滓が発見されています。
山形県最上郡金山町大字飛森 スモールキャビネットサイズ 谷口銀山石泉亭
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パイロクスマンガン石・プロト鉄末野閃石 (pyroxmangite/proto-ferro-suenoite) 日瓢鉱山 #0109
深紅色のパイロクスマンガン石中に放射状のプロト鉄末野閃石が確認できます。パイロクスマンガン石は主に変成マンガン鉱床で産するマンガンを含む珪酸塩鉱物で、準輝石族に属し、透明感のある赤色の結晶が美しい鉱物です。プロト鉄末野閃石はパイロクスマンガン石、石英などに伴い、灰白色繊維状集合体をなして産出します。1986年(昭和61年)に新鉱物として申請された日瓢鉱山のマンガン鉱石中の鉱物がプロトマンガノ鉄直閃石であることが、2002年(平成14年)に国際鉱物学会で公表され、2013年(平成25年)にプロト型角閃石を天然から初めて見出した筑波大学教授であった末野重穂博士 (1937-2001) にちなみプロト鉄末野閃石と再命名されました。(1枚目のみ背景をソフトウエア処理しています。) 日瓢(にっぴょう)鉱山は、瓢産業株式会社(現在の株式会社瓢屋)が自動車用鋳物珪砂の需要増に伴い地質調査を実施、1960年(昭和35年)に入粟野横根山(1,387m)の中腹の沢にSiO2品位96%以上の良質な珪砂の大鉱脈を発見したのを契機に瓢産業株式会社と日立金属株式会社が共同出資により日瓢鉱業(株)を設立し1962年(昭和37年)に採掘を開始、現在に至るまで稼行している現役鉱山です。
イノケイ酸塩鉱物 栃木県鹿沼市入粟野 スモールキャビネットサイズ石泉亭
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満礬柘榴石 (spessartine) 久良沢鉱山 新山神坑 #0108
満礬柘榴石の色はオレンジ色、褐色、赤褐色、赤色などで、菱形十二面体あるいは偏菱二十四面体の自形結晶をつくりやすく、結晶面に条線が発達していることが多いのが特徴です。1枚目は背景をソフトウエア処理しています。 久良沢(きゅうらざわ)鉱山は、足尾山塊にある熱変成を受けた層状マンガン鉱床で、マンガン鉱石と共にバラ輝石や満礬柘榴石を産出します。本鉱山は稀産鉱物である「マンガンパイロスマライト、pyrosmalite-(Mn)」の産出地としても知られています。
ネソケイ酸塩鉱物 栃木県日光市足尾町 ミニチュアサイズ石泉亭
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葉銅鉱 (chalcophyllite) 日光鉱山 晃盛坑 #0452
葉銅鉱は少量のアルミニウムを含む銅の含水塩基性硫酸塩砒酸塩鉱物の一つです。六角板状の晶癖を持ち、雲母のような劈開をすることから雲母銅鉱とも呼ばれています。 日光鉱山は前身となる鉱山が1904年(明治37年)に発見され、1906年(明治39年)に露頭を採掘し天頂鉱山と称しましたが1919年(大正8年)に休山しました。1928年(昭和3年)に久原鉱業が買収し栃木鉱山と改称、更に1932年(昭和7年)には久原鉱業が日本鉱業と改称し、日光街道の北側にあった栃木鉱山と、買収した日光街道南側にあった日光鉱山と合わせて日光鉱業所とし、銅のほか金、銀、鉛、亜鉛を採掘しました。1962年(昭和37年)に日光鉱業所は日本鉱業から分離され日光鉱山となり、1975(昭和50)年に閉山しています。
硫酸塩砒酸塩鉱物 栃木県塩谷郡塩谷町 スモールキャビネットサイズ石泉亭
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水晶 (quartz) 引田鉱山 #0324
透明度の高い針状の水晶が集まり群晶をなしています。 引田(曳田、ひきだ)鉱山は主に亜鉛や鉛などを採掘していた鉱山です。中温熱水鉱床で、鉱石は黄銅鉱、閃亜鉛鉱、黄鉄鉱、方鉛鉱、石英。1938年(昭和13年)から1945年(昭和20年)の間稼行し、出鉱量は亜鉛212トン、鉛5トン、品位は平均銅1.3%、亜鉛14%とされています。
酸化鉱物 栃木県鹿沼市引田 スモールキャビネットサイズ石泉亭
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紫水晶 (amethyst) 野州鉱山 #0612
鉱石の表側に比較的色の濃い紫水晶の結晶が集合しています。裏側は微細な水晶が群晶をなしています。6枚目と8枚目を除き背景をソフトウエア処理しています。 野州鉱山(やしゅうこうざん)は中温熱水鉱床で、1905年(明治38年)には既に採掘が行われていたとのことです。銅のほか金、銀が採掘され、坑口跡では紫水晶、黄銅鉱、黄鉄鉱などが採取されています。
酸化鉱物 栃木県塩谷郡塩谷町船生 ミニチュアサイズ石泉亭
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赤水晶 (red quartz) 万珠鉱山 #0399
万珠鉱山に多く見られる母岩上に微細な水晶の結晶が集まったタイプの標本ですが、母岩と水晶の隙間にある酸化鉄(褐鉄鉱)の影響で赤く発色しているものと考えられます。1枚目のみ背景をソフトウエア処理しています。 万珠(まんじゅ)鉱山は江戸時代中期の1750年代に鉱床が見つかり採掘されたといいますが、近代になってからは1909年(明治42年)頃に採掘されて以降、所有者が何度か変わり、1934年(昭和9年)に万珠鉱業株式会社が鉱業権を取得、金・銀・銅を採掘しました。戦後は1964年(昭和39年)に金の採掘を再開し、翌1965年(昭和40年)の日産鉱量は110 トンを記録、採掘した鉱石は北に隣接する玉船鉱山に送って精錬しました。万珠鉱山一帯は、第3紀凝灰岩や石英粗面岩中の石英脈を伴う中温熱水鉱床で、金を含んだ石英脈、黄鉄鉱、黄銅鉱の鉱脈などがあり、石英脈の一部に紫水晶が生じています。
酸化鉱物 栃木県塩谷郡塩谷町 キャビネットサイズ石泉亭
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紫水晶 (amethyst) 万珠鉱山 #0465
本標本では紫水晶が分厚く生成しています。1~4枚目は背景をソフトウエア処理しています。 万珠(まんじゅ)鉱山は江戸時代中期の1750年代に鉱床が見つかり採掘されたといいますが、近代になってからは1909年(明治42年)頃に採掘されて以降、所有者が何度か変わり、1934年(昭和9年)に万珠鉱業株式会社が鉱業権を取得、金・銀・銅を採掘しました。戦後は1964年(昭和39年)に金の採掘を再開し、翌1965年(昭和40年)の日産鉱量は110 トンを記録、採掘した鉱石は北に隣接する玉船鉱山に送って精錬しました。万珠鉱山一帯は、第3紀凝灰岩や石英粗面岩中の石英脈を伴う中温熱水鉱床で、金を含んだ石英脈、黄鉄鉱、黄銅鉱の鉱脈などがあり、石英脈の一部に紫水晶が生じています。
酸化鉱物 栃木県塩谷郡塩谷町 ミニチュアサイズ石泉亭
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紫水晶 (amethyst) 万珠鉱山 #0405
万珠鉱山の紫水晶というと、このタイプの微細結晶が集まったものが最も有名だと思います。1~2枚目は背景をソフトウエア処理しています。 万珠(まんじゅ)鉱山は江戸時代中期の1750年代に鉱床が見つかり採掘されたといいますが、近代になってからは1909年(明治42年)頃に採掘されて以降、所有者が何度か変わり、1934年(昭和9年)に万珠鉱業株式会社が鉱業権を取得、金・銀・銅を採掘しました。戦後は1964年(昭和39年)に金の採掘を再開し、翌1965年(昭和40年)の日産鉱量は110 トンを記録、採掘した鉱石は北に隣接する玉船鉱山に送って精錬しました。万珠鉱山一帯は、第3紀凝灰岩や石英粗面岩中の石英脈を伴う中温熱水鉱床で、金を含んだ石英脈、黄鉄鉱、黄銅鉱の鉱脈などがあり、石英脈の一部に紫水晶が生じています。
酸化鉱物 栃木県塩谷郡塩谷町 キャビネットサイズ石泉亭
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紫水晶 (amethyst) 万珠鉱山 #0199A
万珠鉱山の紫水晶は、母岩上を微細な群晶が覆うタイプのものが多く見られますが、こちらは比較的大きな結晶です。背景をソフトウエア処理しています。 万珠(まんじゅ)鉱山は江戸時代中期の1750年代に鉱床が見つかり採掘されたといいますが、近代になってからは1909年(明治42年)頃に採掘されて以降、所有者が何度か変わり、1934年(昭和9年)に万珠鉱業株式会社が鉱業権を取得、金・銀・銅を採掘しました。戦後は1964年(昭和39年)に金の採掘を再開し、翌1965年(昭和40年)の日産鉱量は110 トンを記録、採掘した鉱石は北に隣接する玉船鉱山に送って精錬しました。万珠鉱山一帯は、第3紀凝灰岩や石英粗面岩中の石英脈を伴う中温熱水鉱床で、金を含んだ石英脈、黄鉄鉱、黄銅鉱の鉱脈などがあり、石英脈の一部に紫水晶が生じています。
酸化鉱物 栃木県塩谷郡塩谷町 ミニチュアサイズ石泉亭
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紫水晶 (amethyst) 日光市足尾町鉛沢 #0595
淡い紫色の細長い単結晶標本です(長さは38mm)。 鉛沢は足尾銅山の北側に位置し、透明度の高い紫水晶の産地として有名です。
酸化鉱物 ミニチュアサイズ 栃木県日光市足尾町鉛沢石泉亭
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方解石 (calcite) 足尾銅山 #0637
ユニークな形状の方解石結晶です。標本の裏面には黄銅鉱と水晶が見られます。 足尾銅山は1550年(天文19年)の発見と伝えられ、1610年(慶長15年)以降、江戸幕府直轄の鉱山として銅山奉行の代官所が設置され、本格的に採掘が開始されました。採掘された銅は日光東照宮や上野寛永寺・芝増上寺の部材などに使われたほか、長崎からオランダなどへも輸出されました。江戸時代における足尾銅山の最盛期は17世紀中頃で、年間1,300トン以上の生産量を維持し、1684年(貞享元年)の生産量は1,500トンに達しましたが、その後寛保~延享期(1741-1748年)には産銅量が減少、このため足尾銅山の山師救済を目的とした鋳銭座が設けられ、寛永通宝一文銭の裏面に「足」の字が印された「足字銭」が鋳造されるなどしましたが、産銅量は減少の一途を辿り、幕末から明治時代初期にかけてはほぼ閉山状態になっていました。1871年(明治4年)に民営化され、1877年(明治10年)に古河市兵衛が足尾銅山の経営に着手、1881年(明治14年)の鷹之巣直利、1884年(明治17年)に横間歩大直利など、探鉱技術の進歩によって次々と有望鉱脈が発見されました。1905年(明治38年)以降は古河鉱業の経営となり、明治政府の富国強兵政策を背景に急速に発展、20世紀初頭には、日本の銅産出量の約40%を生産する大銅山に成長し、1916年(大正5年)には年間産銅量が14,000トンを超え、足尾町の人口も38,428人に達しました。 しかし銅山と金属製錬事業の発展の一方、足尾山地の樹木は坑木・燃料用に伐採され、製錬所が排出する煙が深刻な大気汚染を引き起こしました。また、荒廃した山地を水源とする渡良瀬川では洪水が頻発し、製錬廃棄物が流域の平地に流れ込んで水質・土壌汚染をもたらし、足尾鉱毒事件と呼ばれる広範囲な環境汚染(公害)問題を引き起こしました。 1940~1945年(昭和15~20年)の戦時下に政府による非常時増産運動により足尾銅山も増産を余儀なくされましたが結果的に無計画な乱掘を招き、戦後の産銅量は徐々に増加したものの、最盛期の産銅量には遠く及ばず、最終的に優良鉱脈を掘り尽くして急速に生産が減少、1973年(昭和48年)に採鉱を停止し、閉山しました。製錬部門については閉山後も輸入鉱石を搬入し操業を続けましたが、国鉄足尾線の民有化を機に、1988年(昭和63年)に事実上廃止されました。
炭酸塩鉱物 栃木県日光市足尾町 スモールキャビネットサイズ石泉亭
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燐灰石 (apatite) 足尾銅山 燐盛河鹿 #0576
銅鉱石中に白色の燐灰石結晶が散在しています。1~3枚目は背景をソフトウエア処理しています。 足尾銅山は1550年(天文19年)の発見と伝えられ、1610年(慶長15年)以降、江戸幕府直轄の鉱山として銅山奉行の代官所が設置され、本格的に採掘が開始されました。採掘された銅は日光東照宮や上野寛永寺・芝増上寺の部材などに使われたほか、長崎からオランダなどへも輸出されました。江戸時代における足尾銅山の最盛期は17世紀中頃で、年間1,300トン以上の生産量を維持し、1684年(貞享元年)の生産量は1,500トンに達しましたが、その後寛保~延享期(1741-1748年)には産銅量が減少、このため足尾銅山の山師救済を目的とした鋳銭座が設けられ、寛永通宝一文銭の裏面に「足」の字が印された「足字銭」が鋳造されるなどしましたが、産銅量は減少の一途を辿り、幕末から明治時代初期にかけてはほぼ閉山状態になっていました。1871年(明治4年)に民営化され、1877年(明治10年)に古河市兵衛が足尾銅山の経営に着手、1881年(明治14年)の鷹之巣直利、1884年(明治17年)に横間歩大直利など、探鉱技術の進歩によって次々と有望鉱脈が発見されました。1905年(明治38年)以降は古河鉱業の経営となり、明治政府の富国強兵政策を背景に急速に発展、20世紀初頭には、日本の銅産出量の約40%を生産する大銅山に成長し、1916年(大正5年)には年間産銅量が14,000トンを超え、足尾町の人口も38,428人に達しました。 しかし銅山と金属製錬事業の発展の一方、足尾山地の樹木は坑木・燃料用に伐採され、製錬所が排出する煙が深刻な大気汚染を引き起こしました。また、荒廃した山地を水源とする渡良瀬川では洪水が頻発し、製錬廃棄物が流域の平地に流れ込んで水質・土壌汚染をもたらし、足尾鉱毒事件と呼ばれる広範囲な環境汚染(公害)問題を引き起こしました。 1940~1945年(昭和15~20年)の戦時下に政府による非常時増産運動により足尾銅山も増産を余儀なくされましたが結果的に無計画な乱掘を招き、戦後の産銅量は徐々に増加したものの、最盛期の産銅量には遠く及ばず、最終的に優良鉱脈を掘り尽くして急速に生産が減少、1973年(昭和48年)に採鉱を停止し、閉山しました。製錬部門については閉山後も輸入鉱石を搬入し操業を続けましたが、国鉄足尾線の民有化を機に、1988年(昭和63年)に事実上廃止されました。
リン酸塩鉱物 栃木県日光市足尾町 スモールキャビネットサイズ石泉亭
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