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斜開銅鉱 (clinoclase) 瀬戸田鉱山 南土取場 #0474
斜開銅鉱の細かい結晶が皮膜状に母岩を覆っています。(背景はソフトウエア処理しています。) 瀬戸田鉱山は気成鉱床中のタングステンや、銅、マンガンを採掘していた鉱山で、1941年(昭和16年)に発見、1951年(昭和26年)から稼行され、1960年(昭和35年)頃に閉山しました。鉱山跡に鉱脈の酸化帯が形成され、砒酸塩鉱物など多くの二次鉱物を産出することで鉱物愛好家に有名です。
砒酸塩鉱物 広島県尾道市瀬戸田町林 スモールキャビネットサイズ石泉亭
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鋼玉 (corundum) 勝光山 #0322
乳白色の葉蝋石が青色の鋼玉(corundum)を伴っています。(背景はソフトウエア処理しています。) 庄原市北部にある勝光山(しょうこうざん、947.4 m)の南斜面に胚胎する葉蝋石(pyrophyllite)を中心とする蝋石鉱床では、一部で熱水変質鉱物として青色の鋼玉(corundum)を多く含むコランダム帯が形成されています。勝光山は現役(2024年11月現在)の鉱山で、農薬、耐火物、ガラス繊維、医薬品、自動車部品などの様々な製品に用いられる蝋石やカオリン、耐火粘土などの原料の採掘が行われており、蝋石は日本地質学会により広島県の石に選定されています。
酸化鉱物 広島県庄原市川北町 スモールキャビネットサイズ石泉亭
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方解石 (calcite) 足尾銅山 #0697
犬牙状の方解石結晶が群生する標本です。(背景はソフトウエア処理しています。) 足尾銅山は1550年(天文19年)の発見と伝えられ、1610年(慶長15年)以降、江戸幕府直轄の鉱山として銅山奉行の代官所が設置され、本格的に採掘が開始されました。採掘された銅は日光東照宮や上野寛永寺・芝増上寺の部材などに使われたほか、長崎からオランダなどへも輸出されました。江戸時代における足尾銅山の最盛期は17世紀中頃で、年間1,300トン以上の生産量を維持し、1684年(貞享元年)の生産量は1,500トンに達しましたが、その後寛保~延享期(1741-1748年)には産銅量が減少、このため足尾銅山の山師救済を目的とした鋳銭座が設けられ、寛永通宝一文銭の裏面に「足」の字が印された「足字銭」が鋳造されるなどしましたが、産銅量は減少の一途を辿り、幕末から明治時代初期にかけてはほぼ閉山状態になっていました。1871年(明治4年)に民営化され、1877年(明治10年)に古河市兵衛が足尾銅山の経営に着手、1881年(明治14年)の鷹之巣直利、1884年(明治17年)に横間歩大直利など、探鉱技術の進歩によって次々と有望鉱脈が発見されました。1905年(明治38年)以降は古河鉱業の経営となり、明治政府の富国強兵政策を背景に急速に発展、20世紀初頭には、日本の銅産出量の約40%を生産する大銅山に成長し、1916年(大正5年)には年間産銅量が14,000トンを超え、足尾町の人口も38,428人に達しました。 しかし銅山と金属製錬事業の発展の一方、足尾山地の樹木は坑木・燃料用に伐採され、製錬所が排出する煙が深刻な大気汚染を引き起こしました。また、荒廃した山地を水源とする渡良瀬川では洪水が頻発し、製錬廃棄物が流域の平地に流れ込んで水質・土壌汚染をもたらし、足尾鉱毒事件と呼ばれる広範囲な環境汚染(公害)問題を引き起こしました。 1940~1945年(昭和15~20年)の戦時下に政府による非常時増産運動により足尾銅山も増産を余儀なくされましたが結果的に無計画な乱掘を招き、戦後の産銅量は徐々に増加したものの、最盛期の産銅量には遠く及ばず、最終的に優良鉱脈を掘り尽くして急速に生産が減少、1973年(昭和48年)に採鉱を停止し、閉山しました。製錬部門については閉山後も輸入鉱石を搬入し操業を続けましたが、国鉄足尾線の民有化を機に、1988年(昭和63年)に事実上廃止されました。
炭酸塩鉱物 栃木県日光市足尾町 スモールキャビネットサイズ石泉亭
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黄銅鉱・水晶 (chalcopyrite/quartz) 足尾銅山 #0696
黄銅鉱と水晶が共生する鉱石標本です。裏側に「大正九年」(1920年)と記されている古い標本です(他にも記載があり、鉱脈名など産出場所に関する記述のようですが、解読できていません。背景はソフトウエア処理しています。) 足尾銅山は1550年(天文19年)の発見と伝えられ、1610年(慶長15年)以降、江戸幕府直轄の鉱山として銅山奉行の代官所が設置され、本格的に採掘が開始されました。採掘された銅は日光東照宮や上野寛永寺・芝増上寺の部材などに使われたほか、長崎からオランダなどへも輸出されました。江戸時代における足尾銅山の最盛期は17世紀中頃で、年間1,300トン以上の生産量を維持し、1684年(貞享元年)の生産量は1,500トンに達しましたが、その後寛保~延享期(1741-1748年)には産銅量が減少、このため足尾銅山の山師救済を目的とした鋳銭座が設けられ、寛永通宝一文銭の裏面に「足」の字が印された「足字銭」が鋳造されるなどしましたが、産銅量は減少の一途を辿り、幕末から明治時代初期にかけてはほぼ閉山状態になっていました。1871年(明治4年)に民営化され、1877年(明治10年)に古河市兵衛が足尾銅山の経営に着手、1881年(明治14年)の鷹之巣直利、1884年(明治17年)に横間歩大直利など、探鉱技術の進歩によって次々と有望鉱脈が発見されました。1905年(明治38年)以降は古河鉱業の経営となり、明治政府の富国強兵政策を背景に急速に発展、20世紀初頭には、日本の銅産出量の約40%を生産する大銅山に成長し、1916年(大正5年)には年間産銅量が14,000トンを超え、足尾町の人口も38,428人に達しました。 しかし銅山と金属製錬事業の発展の一方、足尾山地の樹木は坑木・燃料用に伐採され、製錬所が排出する煙が深刻な大気汚染を引き起こしました。また、荒廃した山地を水源とする渡良瀬川では洪水が頻発し、製錬廃棄物が流域の平地に流れ込んで水質・土壌汚染をもたらし、足尾鉱毒事件と呼ばれる広範囲な環境汚染(公害)問題を引き起こしました。 1940~1945年(昭和15~20年)の戦時下に政府による非常時増産運動により足尾銅山も増産を余儀なくされましたが結果的に無計画な乱掘を招き、戦後の産銅量は徐々に増加したものの、最盛期の産銅量には遠く及ばず、最終的に優良鉱脈を掘り尽くして急速に生産が減少、1973年(昭和48年)に採鉱を停止し、閉山しました。製錬部門については閉山後も輸入鉱石を搬入し操業を続けましたが、国鉄足尾線の民有化を機に、1988年(昭和63年)に事実上廃止されました。
硫化鉱物 栃木県日光市足尾町 スモールキャビネットサイズ石泉亭
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方解石 (calcite) 東京石灰鉱山 #0695
黒色石灰岩の空隙に方解石の群晶が成長しており、石灰岩中にはフズリナ、ウミユリ、腕足類等の化石も観察できます。 本産地周辺は古生代ペルム紀に古太平洋の真ん中に位置していた海底火山上のサンゴ礁で形成された大きな石灰岩体で、2009年に日本の地質百選に選定された「葛生石灰岩(鍋山石灰岩)」が分布しています。(1、4、6枚目は背景をソフトウエア処理しています。) 東京石灰鉱山は東京石灰工業によりアスファルト舗装やコンクリートの原料、線路の敷石、宅地造成などに用いられる砕石を生産している現役の鉱山です(2024年11月現在)。
炭酸塩鉱物 栃木県佐野市山菅(やますげ)町 キャビネットサイズ石泉亭
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逸見石 (henmilite) 布賀鉱山 #0692
逸見石は布賀(ふか)鉱山で発見された日本産新鉱物で、硼酸塩鉱物の一種です。結晶系は三斜晶系で、藍色から紫色のガラス光沢を持つ非常に美しい鉱物で、布賀の高温型スカルンを発見した岡山大学の鉱物学者である逸見吉之助と、その娘でやはり鉱物学者の逸見千代子にちなんで逸見石と命名されました。(背景はソフトウエア処理しています。) 布賀(ふか)鉱山は石灰石を採掘する鉱山でしたが、高温型スカルン鉱床から多くの世界もしくは日本新産、あるいは希産の鉱物が発見され著名な産地となりました(現在は立ち入り禁止になっています)。
硼酸塩鉱物 岡山県高梁市備中町布賀 サムネイル石泉亭
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五水灰硼石 (pentahydroborite) 布賀鉱山 #0634
五水灰硼石の模式地はロシアのNovofrolovskoyeで,1962年(昭和37年)に記載されています。布賀鉱山での発見は1982年(昭和57年)で、これは世界で2番目の発見、日本では今のところ唯一の産地になっています。一般には白色~透明でガラス光沢を持ち、硬度2.5と脆く、比重も2.0と見た目よりも軽く感じられます。名前のとおりカルシウム硼酸塩鉱物ですが、当初5水和物とされたためこの名が付けられたものの、その後2水和物であることが判明しました。(背景はソフトウエア処理しています。) 布賀(ふか)鉱山は石灰石を採掘する鉱山でしたが、高温型スカルン鉱床から多くの世界もしくは日本新産、あるいは希産の鉱物が発見され著名な産地となりました(現在は立ち入り禁止になっています)。
硼酸塩鉱物 岡山県高梁市備中町布賀 スモールキャビネットサイズ石泉亭
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五水灰硼石 (pentahydroborite) 布賀鉱山 4番抗 田邊露頭 #0557
五水灰硼石の模式地はロシアのNovofrolovskoyeで,1962年(昭和37年)に記載されています。布賀鉱山での発見は1982年(昭和57年)で、これは世界で2番目の発見、日本では今のところ唯一の産地になっています。一般には白色~透明でガラス光沢を持ち、硬度2.5と脆く、比重も2.0と見た目よりも軽く感じられます。名前のとおりカルシウム硼酸塩鉱物ですが、当初5水和物とされたためこの名が付けられたものの、その後2水和物であることが判明しました。(背景はソフトウエア処理しています。) 布賀(ふか)鉱山は石灰石を採掘する鉱山でしたが、高温型スカルン鉱床から多くの世界もしくは日本新産、あるいは希産の鉱物が発見され著名な産地となりました(現在は立ち入り禁止になっています)。
硼酸塩鉱物 岡山県高梁市備中町布賀 ミニチュアサイズ石泉亭
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硫化鉄鉱 (iron sulphide) 柵原鉱山 #0598
硫化鉄鉱は、鉄の硫化鉱物である黄鉄鉱、白鉄鉱、磁硫鉄鉱など、硫酸や鉄の原料となる鉱石の総称です。硫化鉄鉱は焙焼して生じる亜硫酸ガスを肥料や化学繊維の原料などに用いられる硫酸の製造に用い、その後鉄分を多く含む焼滓(しょうさい)を焼結して製鉄原料としました。柵原鉱山の硫化鉄鉱は黄鉄鉱を中心とし、黄銅鉱、閃亜鉛鉱が少量を含んでいます。本標本は一面が研磨されています。(1~2枚目は背景をソフトウエア処理しています。) 柵原(やなはら)鉱山はかつて日本を代表する硫化鉄鉱の鉱山で、周辺の鉱床を併せた総埋蔵量は3,700万トン以上と云われています。柵原鉱山の主要鉱床は地上に一番近い第一鉱体、続いて第二鉱体、第三鉱体、下部鉱体という4つの鉱体が連なっており、本鉱床の厚さは最大100メートル、幅400メートル、長さは4つの鉱体の合計で約2,000メートルに達し、鉱石の埋蔵量は第一鉱体約540万トン、第二鉱体約310万トン、第三鉱体約780万トン、そして下部鉱体は約1,890万トンという巨大鉱床でした。 柵原集落周辺では1882年(明治15年)に硫化鉄鉱の採掘が始まり、1916年(大正5年)に藤田組(現在のDOWAホールディングスの前身)が柵原一帯の鉱山・鉱区を買収して柵原鉱山と命名し本格的な鉱山経営を開始、1929年(昭和4年)には第三鉱体が発見され、1936年(昭和11年)には硫化鉄鉱の生産高が戦前最高の約50万トンに達しました。第二次世界大戦中は国家統制下に置かれ、乱掘、熟練労働者の不足、鉱石輸送力の低下等により生産が低下しましたが、終戦後1945年(昭和20年)12月に同和鉱業が創立され、戦後の食糧不足解消のための化学肥料の原料として硫化鉄鉱の増産が強く望まれる状況下、柵原鉱山は岩手県の松尾鉱山と共に1947年(昭和22年)4月に政府により最優先の鉱山に指定され、生産力を急速に回復させました。1951年(昭和26年)に最大の鉱体である下部鉱体が発見され、1950年代から1960年代にかけて柵原鉱山は全盛期を迎え、1966年(昭和41年)には年間生産量が80万トンを突破し、最高値を記録しました。しかし、石油精製の副産物として回収硫黄が大量に生産されるようになったこと、また、当時の減反政策の影響で化学肥料の国内需要が減少したことに加え、諸外国で化学肥料の自給が進み輸出も減少するようになり、1972年(昭和47年)には年間生産量が36万トンまで低下しました。1970年代半ばには硫酸の原料としての硫化鉄鉱の利用がほぼ途絶え、柵原鉱山は経営の縮小、合理化によって生き残りを図りましたが、1985年(昭和60年)以降の円高により輸入鉱石の価格が下落した結果、国内鉱山の競争力は著しく低下し、1991年(平成3年)3月に柵原鉱山は採掘可能鉱石約1,000万トンを残したまま閉山となりました。柵原鉱山の坑道の最深部は地下1,000m、坑道の総延長距離は1,400kmに達し、鉱石輸送に利用された片上鉄道の吉ヶ原駅と操車場跡には柵原ふれあい鉱山公園が作られ、柵原鉱山の資料も展示されています。
岡山県久米郡美咲町 スモールキャビネットサイズ 柵原鉱山石泉亭
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磁鉄鉱・黄銅鉱 (magnetite/chalcopyrite) 山宝鉱山 #0241
磁鉄鉱を主体とし、黄銅鉱を伴う鉱石標本です。 山宝鉱山は花崗岩が貫入し、石灰岩に接触変成作用を与えたスカルン鉱床で、磁鉄鉱や黄銅鉱などのスカルン鉱物を産出しました。稼行主対象は磁鉄鉱でしたが、これに伴う黄銅鉱を浮遊選鉱により銅精鉱として回収していました。
酸化鉱物 岡山県高梁市備中町用瀬 スモールキャビネットサイズ石泉亭
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磁鉄鉱 (magnetite) 山宝鉱山 #0099
脈石の方解石と共に磁鉄鉱結晶が見られます。(背景はソフトウエア処理しています。) 山宝(さんぽう)鉱山は花崗岩が貫入して石灰岩に接触変成作用を与えたスカルン鉱床で、磁鉄鉱や黄銅鉱などのスカルン鉱物を産出し、主として磁鉄鉱を採鉱していましたが、1970年(昭和45年)頃に閉山しました。産出鉱物は、磁鉄鉱と黄銅鉱のほか、磁硫鉄鉱、硫砒鉄鉱、蛍石、方解石、灰鉄柘榴石、灰鉄輝石、ヘスティング閃石などで、閉山後の1973(昭和48)年からは(株)カルファインにより生石灰が製造され、1976(昭和51)年には新鉱物として承認されたソーダ魚眼石が見つかっています。
酸化鉱物 岡山県高梁市備中町用瀬 ミニチュアサイズ石泉亭
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大理石 (Marble) 備中町布賀 #0083
布賀の高温型スカルンから産出したホワイト~薄く淡いブルーの大理石(結晶質石灰岩)です。(背景はソフトウエア処理しています。) スカルン(skarn)とは石灰岩や苦灰岩などの炭酸塩岩の中にマグマが貫入した際、接触部付近にできる接触変成岩を指す用語です。通常スカルンば500℃前後で生成されるものが多いとされますが、布賀の高温型スカルンは、通常よりも高温(約1,000℃)のマグマ(深成岩であるせん緑岩,はんれい岩のマグマ)の貫入により、約700℃~900℃の温度帯で生成されたものと考えられ、ほとんど鉱石鉱物を伴わなず、初生鉱物としてゲーレン石、スパー石を産する特徴があります。
スモールキャビネットサイズ 岡山県高梁市備中町布賀 大理石石泉亭
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黒鉱 (kuroko ore) 石見鉱山 2号脈 #0608
新第三紀初期から中期の海底火山活動によって生成したグリーン・タフ地域が北海道、東北地方日本海側、北陸、山陰にかけて分布しており、石見鉱山(いわみこうざん)は山陰地域の代表的な黒鉱鉱床のひとつでした。黒鉱は主に閃亜鉛鉱、方鉛鉱、黄銅鉱などからなり、黒っぽい外見を呈し、その周囲には貴金属(金、銀)も多く含まれます。(1枚目~3枚目は背景をソフトウエア処理しています。) 石見鉱山は有名な石見銀山とは別の鉱山で、太田市五十猛(いそたけ)町に所在し、元は石膏や黒鉱を産出し、その後近年までゼオライトを採掘していました。1919年(大正8年)、松江市の水藤嘉吉が重晶石を採掘したことに始まり、1935年(昭和10年)から1944年(昭和19年)にかけて高丸露頭で露天掘りにて金銀珪酸鉱を採掘、1952年(昭和27年)に日満鉱業により石膏と黒鉱の鉱床が発見されました。1955年(昭和30年)に三井金属鉱業が全工区を買収、1962年(昭和37年)以降は子会社の石見鉱山株式会社が石膏と黒鉱の採掘を行いました。石膏の採掘は1975年(昭和50年)に終了、黒鉱の採掘は鉱量枯渇により1984年(昭和59年)に終了し、1977年(昭和52年)から2020年(令和2年)までは三井金属資源開発によりゼオライトの採掘が行われました。
島根県太田市五十猛町 スモールキャビネットサイズ 石見鉱山石泉亭
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輝水鉛鉱 (molybdenite) 小馬木鉱山 #0110
石英脈中に鉛灰色の金属光沢をもつ鱗片(りんぺん)状の輝水鉛鉱が観察できます。輝水鉛鉱はモリブデンの最も重要な鉱石鉱物です。(背景はソフトウエア処理しています。) 小馬木(こまき)鉱山では、明治後期にタングステンの露頭が見つかり、1911年(明治44年)頃からタングステンが採掘されていました。1943年(昭和18年)にタングステン鉱脈の下部にモリブデン鉱脈があることが判明、途中の開発~休山を経て1984年(昭和59年)まで稼行されました。
硫化鉱物 島根県仁多郡奥出雲町横田 ミニチュアサイズ石泉亭
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クロム鉄鉱 (chromite) 若松鉱山 51号鉱体 #0553
クロム鉄鉱は、鉄、マグネシウム、クロムを主成分とする酸化鉱物で、最も重要なクロムの鉱石鉱物です。ずしりと重い標本で、一面が研磨されています。(背景はソフトウエア処理しています。) 若松鉱山は、同鉱山で発行された『鉱山概説』には「1899年(明治32年)島根県仁多郡八川村の藤原某により発見された。」とあり、他方『日南町史』では1895年(明治28年)松尾鶴太郎が大洪水の復旧工事現場で重い落石を発見し、高所にある鉱床を探し当てたとしています。1905(明治38)年から東洋鉱物商会エスメドースと佐藤百太郎らによる操業が開始され、年3~4万トンのクロム鉱石を生産し、アメリカに輸出していました。1919年(大正8年)に若松鉱山(後の日本クローム工業株式会社)の所有となり、採掘されたクロム鉱石は、製鉄炉の壁となる耐火レンガの原料として使用され、日本の近代製鉄の発展を支えました。1925年(大正14年)から1945年(昭和20年)は全国の生産シェアの47.5%を占める日本最大のクロム鉱山となり、戦後昭和20~40年代にかけて最盛期を迎え、その後も1997(平成9)年に閉山するまで、日本で唯一の国産クロム鉱石の鉱山として操業しました。 2009(平成21)年には若松鉱山を中心とした多里地域のクロム鉱山群が日本の近代化に貢献した産業群の一つとして、経済産業省の「産業遺産群続33」に認定されました。
酸化鉱物 鳥取県日野郡日南町新屋(多里地区) スモールキャビネットサイズ石泉亭