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水晶 (quartz) 荒川鉱山 #0078
トップは緑色、中間部は白色、根元は紫色の3色になっているカテドラル水晶です。(背景はソフトウエア処理しています。) 荒川鉱山は熱水性鉱床の鉱山で、黄銅鉱をメインの鉱物として採掘していました。1700年(元禄13年)に発見され、1738年(元文3年)からは、秋田藩(久保田藩)の直山として開発が進められました。1876年(明治9年)に明治政府から盛岡の瀬川安五郎が払い下げを受け、同年に「嗽沢抗」から大鉱脈が発見され、国内屈指の銅山として栄えました。1896年(明治29年)に三菱合資会社が鉱業権を所有した後は製錬所や中央選鉱所、発電所などの設備の近代化が図られると共に、荒川村役場や郵便局、駐在所、浴場、病院、劇場「共楽館」、大盛小学校などが建設されました。共楽館では、演劇や映画の他、宝塚歌劇団や歌舞伎の公演なども行われていたということです。最盛期には人口約4000人、周辺を含めると8000人に達し、県内有数の都市となりましたが、1935年(昭和10年)に資源枯渇により三菱鉱業尾去沢鉱業所荒川支所に縮小され、その後1940年(昭和15年)に閉山しました。
酸化鉱物 秋田県大仙市協和 スモールキャビネットサイズ石泉亭
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満礬柘榴石 (spessartine) 石塚峠 #0059
母岩上に満礬柘榴石の微細粒がびっしりと貼り付き、一部に自形結晶が観察できます。満礬柘榴石はネソ珪酸塩の柘榴石群に属し、マンガン鉱床中もしくはペグマタイト中に産出します。純粋なものは淡褐色ですが、鉄礬柘榴石あるいは苦礬柘榴石成分を固溶体として含むことにより赤褐色を示すことが多いとされています。(背景はソフトウエア処理しています。) 石塚峠は西尾市幡豆(はず)町と吉良町の境にあります。付近にはかつて三河鉱山(西幡豆)マンガン鉱山があり、古くから満礬柘榴石の産地として知られています。
ネソケイ酸塩鉱物 愛知県西尾市幡豆町 ミニチュアサイズ石泉亭
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リチア電気石・リチア雲母 (elbaite/lepidolite) 妙見山 #0021
淡いピンクのリチア電気石とキラキラと光る鱗片状のリシア雲母が共生しているのが観察できます。(背景はソフトウエア処理しています。) 日本ではリチウムペグマタイトは妙見山のほかに福岡県の長垂 、岩手県の崎浜の3カ所にほぼ限られており、リチア電気石を多く産する妙見山の露頭は,常陸太田市指定の天然記念物として保護されています。また、リチア電気石は茨城県の鉱物にもなっています。
サイクロケイ酸塩鉱物 茨城県常陸太田市小妻町 ミニチュアサイズ石泉亭
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リチア電気石・リチア雲母 (elbaite/lepidolite) 妙見山 #0021
淡いピンクのリチア電気石とキラキラと光る鱗片状のリシア雲母が共生しているのが観察できます。 (背景はソフトウエア処理しています。) 日本ではリチウムペグマタイトは妙見山のほかに福岡県の長垂 、岩手県の崎浜の3カ所にほぼ限られており、リチア電気石を多く産する妙見山の露頭は,常陸太田市指定の天然記念物として保護されています。また、リチア電気石は茨城県の鉱物にもなっています。
サイクロケイ酸塩鉱物 茨城県常陸太田市小妻町 ミニチュアサイズ石泉亭
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白雲母 (muscovite) 桜川市真壁町山尾 #0032
白雲母は、ケイ酸塩鉱物の一種(フィロケイ酸塩鉱物)で、ペグマタイト鉱床等に広く見られる鉱物です。他の雲母と同様劈開が著しく、薄く剥がれる性質を持ちます。(1枚目と3枚目は背景をソフトウエア処理しています。) 筑波山北方に位置する山ノ尾は花崗岩ペグマタイトの鉱物産地として有名で、鉄礬石榴石や緑柱石の良結晶を産出したことで知られています。
フィロケイ酸塩鉱物 ミニチュアサイズ 茨城県桜川市真壁町山尾石泉亭
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雪花石膏 (alabaster) 朝日鉱山 #0017
粘土層中から果球状で産した淡いオレンジ色をした雪花石膏です。雪花石膏は細かい結晶が集まってできた塊状の石膏で、軟らかくて粘りが強く、古来彫刻材に用いられています。(背景はいずれもソフトウエア処理しています。) 朝日鉱山は浅熱水性交代鉱床で金、銀、石膏、銅、鉛、亜鉛、硫化鉄を産出しました。1590年(天正18年)、蒲生氏郷の頃に金山として開発されたと言われ、1600年(慶長5年)、氏郷の子秀行の頃には会津三大金山(朝日鉱山、高玉鉱山、石ケ森鉱山)の一つと言われ戸数1,700を数え、一説には1610年(慶長15年)頃には総産金量280万両、1627年(寛永4年)頃には戸数数千戸、総産金量600万両に及んだともいわれますが、1672年(寛文12年)頃には衰退し休山状態になりました。 1932年(昭和7年)に雨屋石膏(株)が石膏を採掘、1935年(昭和10年)には金属鉱石(金・銀・銅)を採掘し、その後1939年(昭和14年)に石膏鉱床が発見され、1941年(昭和16年)~1943年(昭和18年)の3年間には石膏に付随し金鉱155トン(金品位20g/t)を産出しました。1957年(昭和32年)から本格的に石膏を採掘しましたが、1969年~1970年(昭和44年~45年)頃に操業が中止されました。
硫酸塩鉱物 福島県会津若松市大戸町 ミニチュアサイズ石泉亭
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鉄斧石 (axinite-(Fe)) 尾平鉱山 #0026
斧石はマグマ固結の終末期に放出されるホウ素を含むガスと母岩との反応により生成されたスカルン鉱物の一種で、結晶の形状が斧を思わせることからその名があります。斧石グループの中で鉄成分の多いものを鉄斧石と呼び、斧石の中では最も一般的ですが、斧石自体は比較的稀な鉱物で、尾平鉱山の斧石は日本地質学会により「大分県の鉱物」に選定されています。(1~2枚目は背景をソフトウエア処理しています。) 尾平鉱山は大分・宮崎の県境近く祖母山麓の奥岳川上流にあり、古生代のペルム紀付加体や結晶片岩、蛇紋岩などとそれを覆う中新世の火山岩類に中新世の花崗岩類が貫入して生成された気成スカルン鉱床で、古生層および各種火成岩中の錫鉱脈と鉛・亜鉛の接触交代鉱床からなります。1547年(天文16年)に銀が採掘されたという記録が残っていますが、公式には1617年(元和3年)に岡藩(中川氏)の直轄事業として蒸籠山(こしきやま)坑での錫の採掘が始まったのが開山とされています。岡藩は1635年(寛永13年)に江戸幕府の命により、城下町(古町)に銭座を設けて1636年(寛永13年)から1639年(寛永16年)の4年間にわたって「寛永通宝」を鋳造、尾平鉱山産出の錫が通貨の鋳造に使用されていました。江戸時代を代表する通貨である「寛永通宝」には尾平鉱山産の錫が使われていました。その後は明治、大正期に至るまで動力が水力以外に無いなど、採掘技術の進歩がなく産出量が低下しましたが、1935年(昭和10年)に上田鉱業から鉱山を譲り受けた三菱鉱業が三菱尾平鉱山として鉱山設備を近代化し、積極的な探鉱を行って三菱本・昭和等錫鉱の新鉱脈を発見し産出量が飛躍的に増加させ最盛期を迎えました。1941年(昭和16年)には金属錫390.84t、総出鉱量53,222tの年産量を記録しています。昭和10年代から20年代にかけて鉱山街には最大3,500人近い人口があったと云われ、長屋が立ち並び、小中学校、病院、飲食店、カフエ、映画館、ダンスホール、テニスコートなどを備えた市街が形成されていました。しかし1944年(昭和19年)の錫鉱業整備令で休山し、朝鮮戦争時の1950年(昭和25年)に再開しますが高品位の錫鉱脈を掘りつくし、出鉱量が激減、1954年(昭和29年)に閉山となりました。近代の尾平鉱山は三菱尾平鉱山以外にも複数存在しており、このうち蔵内金属鉱業が稼行した蔵内尾平鉱山は、1897年(明治30年)に薑谷(はじかみだに)一帯の借区権を入手して錫鉱採掘を始め、戦時中一時休山したものの1946年(昭和21年)に稼行を再開、1959年(昭和34年)に鉱脈枯渇により閉山するまで錫・鉛・亜鉛を採掘しました。
サイクロケイ酸塩鉱物 大分県豊後大野市緒方町 スモールキャビネットサイズ石泉亭
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方解石 (calcite) 足尾銅山 #0010
マンガンを含んでかすかにピンク色を帯びた方解石が連晶を形成している美しい標本です。(背景はソフトウエア処理しています。) 足尾銅山は1550年(天文19年)の発見と伝えられ、1610年(慶長15年)以降、江戸幕府直轄の鉱山として銅山奉行の代官所が設置され、本格的に採掘が開始されました。採掘された銅は日光東照宮や上野寛永寺・芝増上寺の部材などに使われたほか、長崎からオランダなどへも輸出されました。江戸時代における足尾銅山の最盛期は17世紀中頃で、年間1,300トン以上の生産量を維持し、1684年(貞享元年)の生産量は1,500トンに達しましたが、その後寛保~延享期(1741-1748年)には産銅量が減少、このため足尾銅山の山師救済を目的とした鋳銭座が設けられ、寛永通宝一文銭の裏面に「足」の字が印された「足字銭」が鋳造されるなどしましたが、産銅量は減少の一途を辿り、幕末から明治時代初期にかけてはほぼ閉山状態になっていました。1871年(明治4年)に民営化され、1877年(明治10年)に古河市兵衛が足尾銅山の経営に着手、1881年(明治14年)の鷹之巣直利、1884年(明治17年)に横間歩大直利など、探鉱技術の進歩によって次々と有望鉱脈が発見されました。1905年(明治38年)以降は古河鉱業の経営となり、明治政府の富国強兵政策を背景に急速に発展、20世紀初頭には、日本の銅産出量の約40%を生産する大銅山に成長し、1916年(大正5年)には年間産銅量が14,000トンを超え、足尾町の人口も38,428人に達しました。 しかし銅山と金属製錬事業の発展の一方、足尾山地の樹木は坑木・燃料用に伐採され、製錬所が排出する煙が深刻な大気汚染を引き起こしました。また、荒廃した山地を水源とする渡良瀬川では洪水が頻発し、製錬廃棄物が流域の平地に流れ込んで水質・土壌汚染をもたらし、足尾鉱毒事件と呼ばれる広範囲な環境汚染(公害)問題を引き起こしました。 1940~1945年(昭和15~20年)の戦時下に政府による非常時増産運動により足尾銅山も増産を余儀なくされましたが結果的に無計画な乱掘を招き、戦後の産銅量は徐々に増加したものの、最盛期の産銅量には遠く及ばず、最終的に優良鉱脈を掘り尽くして急速に生産が減少、1973年(昭和48年)に採鉱を停止し、閉山しました。製錬部門については閉山後も輸入鉱石を搬入し操業を続けましたが、国鉄足尾線の民有化を機に、1988年(昭和63年)に事実上廃止されました。
炭酸塩鉱物 栃木県日光市足尾町 ミニチュアサイズ石泉亭
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大隅石 (osumilite) 薩摩川内市入来町 #0165
最初に鹿児島県垂水市の早崎台地(咲花平)の牛根流紋岩中から見つかり、1956年(昭和31年)に新鉱物として記載されました。大隅石の名称は大隅半島で発見されたことにちなんでいます。結晶は六角短柱状で、濃青色~黒色を示します。(本標本の産地は薩摩半島側です。1枚目と4枚目は背景をソフトウエア処理しています。)
サイクロケイ酸塩鉱物 スモールキャビネットサイズ 鹿児島県薩摩川内市入来町山之口石泉亭
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小坂鉱山 露天掘全景/秋田県鹿角郡小坂町 PC015-01
小坂鉱山の元山鉱床では江戸時代末期に露頭が発見されて以来、1920年(大正9年)の規模縮小を経て1939年(昭和14年)に全廃されるまで露天掘が行われていました。(なお、元山鉱床の全てが露天掘であったわけではなく、複数の坑道が開削され、坑内堀も実施されていました。)この絵葉書には擂鉢型の露天採掘場に螺旋状に軌道が設けられ、人力で鉱石がトロッコ運搬される様子が写っています。 小坂鉱山の発見は1680年代に遡るとされていますが、1861年(文久元年)頃、元山鉱床の露頭が発見され金・銀鉱山として南部藩による開発が始まりました。1869年(明治2年)から明治政府による官営となり、その後1884年(明治17年)には藤田組(当時、現DOWAホールディングス)に払い下げられました。小坂鉱山で当初採掘対象となったのは黒鉱が長い時間をかけて風化した土鉱と呼ばれる鉱石で、1トンあたり数百グラムの銀を含み、1901年(明治34年)には銀の生産高日本一になりましたが、土鉱の枯渇と金本位制の拡大による銀価格の暴落により小坂鉱山は閉山の危機に直面しました。土鉱の下に大量の黒鉱が埋蔵されていることは当時から判っていたものの、黒鉱は精錬が極めて難しく、事業化は不可能とされていました。しかし久原房之助が明治35年(1902年)に「生鉱吹き法」と呼ばれる鉱石中に含まれる硫黄分を熱源として利用する独自の製錬技術を開発、これにより、黒鉱から金・銀・銅・鉛・亜鉛など15種類の有用金属元素を取り出して製品化することに成功し、以後大型の溶鉱炉を建設するなど順次生産規模を拡大し、国内有数の銅製錬所としての地位を確立しました。更に金銀などへ製錬事業を展開しながら1907年(明治40年)には生産額日本一を記録、1905年(明治38年)には旧小坂鉱山事務所、1910年(明治43年)には芝居小屋の康楽館(いずれも国の重要文化財)が竣工しています。第二次世界大戦直後に資源の枯渇等を理由に採掘が中断されましたが、1959年(昭和34年)に内の岱鉱床と呼ばれる新鉱脈が発見され、1962年(昭和37年)に採掘を再開、1990年(平成2年)まで存続しました。なお、小坂鉱山は閉山しましたが、製錬所は今も存続しており、その技術を活かして多様な金属元素のリサイクル事業を展開しています。
秋田県鹿角郡小坂町 小坂鉱山石泉亭
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小坂鉱山 元山全景/秋田県鹿角郡小坂町 PC005-01
「山神社より元山全景を望む」と題された絵葉書です。小坂鉱山の山神社は江戸時代の慶応年間(1865年~1868年)に初めて建立されたと言われ、現存する山神社は1906年(明治39年)に鉱山のほぼ中央の丘の頂に建てられました。この絵葉書は山神社の狛犬の台座に腰かけたカンカン帽をかぶった白い和服の人物が元山地区にある坑業所の全景を眺めている構図になっており、画面中央下部にはかすかに鳥居の上部が見えます。元山地区は大字小坂鉱山の中部北寄りにあり、坑業所のほか住宅、学校等の様々な施設が集まって市街地を形成していました。 小坂鉱山の発見は1680年代に遡るとされていますが、1861年(文久元年)頃、元山鉱床の露頭が発見され金・銀鉱山として南部藩による開発が始まりました。1869年(明治2年)から明治政府による官営となり、その後1884年(明治17年)には藤田組(当時、現DOWAホールディングス)に払い下げられました。小坂鉱山で当初採掘対象となったのは黒鉱が長い時間をかけて風化した土鉱と呼ばれる鉱石で、1トンあたり数百グラムの銀を含み、1901年(明治34年)には銀の生産高日本一になりましたが、土鉱の枯渇と金本位制の拡大による銀価格の暴落により小坂鉱山は閉山の危機に直面しました。土鉱の下に大量の黒鉱が埋蔵されていることは当時から判っていたものの、黒鉱は精錬が極めて難しく、事業化は不可能とされていました。しかし久原房之助が明治35年(1902年)に「生鉱吹き法」と呼ばれる鉱石中に含まれる硫黄分を熱源として利用する独自の製錬技術を開発、これにより、黒鉱から金・銀・銅・鉛・亜鉛など15種類の有用金属元素を取り出して製品化することに成功し、以後大型の溶鉱炉を建設するなど順次生産規模を拡大し、国内有数の銅製錬所としての地位を確立しました。更に金銀などへ製錬事業を展開しながら1907年(明治40年)には生産額日本一を記録、1905年(明治38年)には旧小坂鉱山事務所、1910年(明治43年)には芝居小屋の康楽館(いずれも国の重要文化財)が竣工しています。第二次世界大戦直後に資源の枯渇等を理由に採掘が中断されましたが、1959年(昭和34年)に内の岱鉱床と呼ばれる新鉱脈が発見され、1962年(昭和37年)に採掘を再開、1990年(平成2年)まで存続しました。なお、小坂鉱山は閉山しましたが、製錬所は今も存続しており、その技術を活かして多様な金属元素のリサイクル事業を展開しています。
秋田県鹿角郡小坂町 小坂鉱山石泉亭
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尾去沢鉱山 全景/秋田県鹿角市 PC018-01
「秋田県尾去沢鉱山全景」とありますが、製錬所に繋がっている煙道は中央左端部にかろうじて見えるものの、その先にある高さ60メートルの大煙突(現存)までは写っていません。中央右側の複層式の屋根が白っぽく見える大きな建物は、現在も土台部分が遺構として残っている選鉱場の建屋です。中央左側の煙を出している建物は恐らく焼鉱鉱舎、その左側の煙道に繋がる建物が溶鉱炉建屋と思われます。 尾去沢鉱山の発見は伝承によれば708年(和銅元年)に遡り、ここで採られた金が奈良の大仏や平泉中尊寺で用いられたとも云われています。本格的に開発されたのは1598年(慶長3年)に南部藩の北十左衛門が白根金山を発見してからで、金が枯渇してきた1695年(元禄8年)には銅鉱が発見され、1765年(明和2年)に南部藩の直営となり、別子銅山、阿仁銅山と並ぶ日本の主力銅山の一つとなりました。典型的な中温熱水鉱床で、1889年(明治22年)以降三菱財閥により近代化が推し進められ、深さ30メートルごとに水平坑道が展開され、坑道の総延長は800キロメートルに達しました。銅のほか、金、銀、鉛、亜鉛が採掘され、特に産銅量は足尾、別子、小坂、日立に次ぐ日本第5位を誇りました。1978年(昭和53年)に閉山するまでの産出量は、銅30万トン、金4.4トン、銀155トンと推定されています。
秋田県鹿角市尾去沢 尾去沢鉱山石泉亭
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日立鉱山 製錬所/茨城県日立市 PC002-01
「日立鉱山製錬所」と、その裏山に建設された神峯煙道、第3煙突、中央煙突の全容を写した絵葉書です。日立鉱山製錬所は、大雄院製錬所とも云い、1908年(明治41年)に第一号炉が操業を開始し、以降も溶鉱炉の増設・規模拡大を続けました。日立鉱山のオーナーであった久原房之助は、将来的な資源の枯渇に備え、日立鉱山のみならず他の鉱山からも鉱石を購入(買鉱)することを前提として、大規模な製錬所の建設を行いました。このため、製錬所の排煙から生じる煙害対策に非常に大きな投資を行ったのです。写真の左側にも神峯煙道が伸び、ところどころに排煙孔が開いているのが判りますが、この部分は1915年(大正4年)の中央煙突稼働後は使用されておらず、1917年(大正6年)から翌1918年(大正7年)にかけて大部分が取り壊され、鉄筋が回収されました。 日立鉱山は、元は赤沢銅山と呼ばれていた小鉱山でしたが、1905年(明治38年)に久原房之助が日立鉱山と改名し本格的な開発を開始して以降大きく発展しました。1905年(明治38年)から1981年(昭和56年)に閉山されるまでの76年間に約3,000万トンの粗鉱を採掘、約44万トンの銅を産出し、足尾銅山(栃木県)、別子銅山(愛媛県)と並び日本三大銅山の一つに数えられています。
茨城県日立市宮田町 日立鉱山石泉亭
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別子銅山 鉱石運搬曳船/愛媛県新居浜市 PC003-04
「別子銅山 鉱石運搬曳船」と記されています。 江戸時代には別子銅山の鉱石は別子山中で製錬され、産銅は基本的に人力で搬出されていましたが、1888年(明治21年)からは惣開精錬所が本格的に操業するようになり、1893年(明治26年)には住友別子鉱山鉄道の下部鉄道、上部鉄道が相次いで開通し鉱石輸送量は飛躍的に増大しました。この年以降亜硫酸ガスによる煙害が悪化し水稲が大きな被害を受けるようになり、当時別子銅山の支配人であった伊庭貞剛は新居浜市北方沖合20kmの四つの無人島からなる四阪島(しさかじま)に精錬所を移転することを決意、1895年(明治28年)には四阪島を買収し、1905年(明治38年)に新精錬所の操業を開始しました。この絵葉書は鉱石運搬のため新居浜と四阪島の間を往復していた曳船を写したもので、タグボートが何艘もの帆船を連ねて曳航しています。なお、精錬所の移転によっても煙害問題は解消せず、むしろ煙害が東予地方ほぼ全域に拡がる結果となってしまい、住友はその後も損害賠償、精錬所の操業制限、脱硫のための技術改良、排煙拡散のための6本の煙突の建築等、苦闘を重ねることになりました。最終的に煙害が解消されたのはペテルゼン式と呼ばれる硝酸を使用して亜硫酸ガスを硫酸にする方式による硫酸工場の設置を経て、残存する希薄な亜硫酸ガスをアンモニア水で中和する中和工場が完成した1939年(昭和14年)のことでした。 別子銅山は1691年(元禄4年)に住友家により開坑されてから、1973年(昭和48年)に住友金属鉱山(株)が閉山を決定するまで283年間にわたり住友家/住友系企業により操業されました。総出鉱量は推定約30百万トン、総産銅量は足尾銅山に次ぐ日本第二位の65万トンで、足尾銅山、日立鉱山と並び日本の三大銅山の一つに数えられました。
愛媛県新居浜市 別子銅山石泉亭
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別子銅山 東平黒石間索道/愛媛県新居浜市 PC003-03
この絵葉書は「別子銅山 東平黒石間索道」と題されています。 索道は空中に張りわたしたワイヤロープにバケットと呼ばれる搬器を吊るして建設工事資材などを運搬する設備のことで、東平(とうなる)と黒石を結ぶ全長3,575メートルの複式索道はドイツ人の索道技師ブライヘルトの指導により1905年(明治38年)に完成しました。東平は標高750m前後に位置し、大正5年(1916)から昭和5(1930)まで別子銅山の採鉱本部が置かれた地域です。貯鉱庫等の鉱山関連施設や生活に必要な施設が整備され、最盛期には5,000人余りの銅山関係者とその家族が住んでいました。黒石は索道の完成に合わせて住友別子鉱山鉄道の下部鉄道(惣開(そうびらき)~端出場(はでば)間10.3km)に新設された駅で、端出場から約1km下った場所にありました。搬器(バケット)1基は約600kgの鉱石を積むことができ、573メートルの高低差により、自重を利用して秒速およそ2.5メートルで自動運転され、途中3か所の中継所で押し出し作業による中継ぎがされていました。この索道と下部鉄道により、鉱山内の中心地東平から惣開に至る輸送ルートが確保され、鉱石のみならず、木材や生活用品も輸送されました。 別子銅山は1691年(元禄4年)に住友家により開坑されてから、1973年(昭和48年)に住友金属鉱山(株)が閉山を決定するまで283年間にわたり住友家/住友系企業により操業されました。総出鉱量は推定約30百万トン、総産銅量は足尾銅山に次ぐ日本第二位の65万トンで、足尾銅山、日立鉱山と並び日本の三大銅山の一つに数えられました。
愛媛県新居浜市 別子銅山石泉亭