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1977 11TH PMA BRABHAM ALFA ROMEO BT45B H.J.STUCK
ハンス・スタック ベストシーズン 自身初&連続表彰台 BRABHAM BT45B 1977年スタックはR3南アフリカGPに ロスマンズのマーチでエントリー R4アメリカWESTからは飛行機事故で他界した カルロス・パーチェの後任として ブラバム・アルファロメオに移籍 チームメイトはジョン・ワトソン 3度の入賞して迎えたR11ドイツGP 予選5位→決勝 自身初の3位表彰台獲得 R12オーストリアGPでも連続の3位 スタックのキャリア表彰台はこの2度のみ R15アメリカEASTでキャリア唯一となる 予選フロントロー獲得 オープニングラップから14周 こちらも唯一となるリードラップを記録も ヘビーウェットコンディション中 単独スピンでリタイア 勝利を逃した 年間では5度の入賞で15ポイント ワトソン(13位)を上回るランキング11位 スタックのベストシーズン しかしニキ・ラウダ加入に伴いシート喪失 スタックは翌1978年はシャドウに移籍 モデルはミニチャンプス GP仕様表記無しのRACE CAR仕様 ゴードン・マレー作の1976年導入した BT45の改良版Bスペック仕様 BT45Cとして翌1978年R2まで使用された マルティニレーシングのスポンサーは この年限りでブラバムは終了
240408 H.J.STUCK 1977 8FW12C
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1974 (27TH) SPARK BRABHAM BT44 R.OPEL
リヒテンシュタイン出身 オペル一族 リッキー・フォン・オペル リッキー・フォン・オペル 出生地はアメリカ 国籍はF1で唯一となるリヒテンシュタイン 曾祖父はドイツ自動車メーカー オペルの創始者アダム・オペル 1972年イギリスF3 チャンピオン 1973年エンサインからF1デビュー 1974年開幕戦のみをエンサイン R4スペインGPより R・ロバーツの代わりに ブラバムのセカンドドライバーとして出場 資金持ち込みでシート獲得 R4スペイン R5ベルギー 連続リタイア R6モナコは予選落ち R7スウェーデンGP予選20位→決勝9位 R8オランダGP予選23位→連続決勝9位 R9フランスGPは予選落ち この後ブラバムのセカンドドライバーは カルロス・パーチェとなり リッキー・フォン・オペルの F1でのキャリアは終了 その後タイの田舎にある仏教僧院で僧侶となり 外界との連絡を絶っている状態と言われている モデルはスパーク R7スウェーデンGP仕様 予選20位→決勝9位 ゴードン・マレー作 三角断面モノコックなど 特徴的なフォルムのBT44 シーズン終了後 富士スピードウェイで F1のデモンストレート・ランに カルロス・ロイテマンがこのマシンで出走 桑島正美もBT44をテスト走行させている 🏁リッキー・フォン・オペル(リヒテンシュタイン) 【決勝出走数】 11回(入賞0回 予選落ち回) 【予選最高位】 10位 1973年 ENSING R10オランダ 【決勝最高位】 9位(2回) 1974年 BRABHAM R7 スウェーデン 1974年 BRABHAM R7 オランダ
240215 R.OPEL 1974 8FW12C
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2000 (17TH) HOT WHEELS JAGUAR R1 J.HERBERT
新生ジャガー・レーシング ジョニー・ハーバート引退 JAGUAR R1 2000年スチュワートグランプリを フォードが買収し当時傘下にあった ジャガーブランドでF1に参戦 往年のブリティッシュグリーンを纏い ビッグキャットのロゴデザインが描かれた 前年度スチュワートに初優勝をもたらした ジョニー・ハーバートが残留 チームメイトはエディ・アーバイン チームは前年の勢いがなく 人事面のゴタゴタもあり低迷 ハーバートは予選8位 決勝7位がベスト 36歳となったこの年でF1からの引退を表明 1989年ベネトン参戦から12年 予選はフロントロー無し 決勝はファステストラップ無しながら F1通算3勝をあげてそのキャリアを終えた 🏁ジョニー・ハーバート (イギリス) 【決勝出走数】159回 (入賞29回-表彰台7回) 【予選最高位】4位(2回) 1995年 ベネトン R1 ブラジル 1995年 ベネトン R11 ベルギー 【決勝最高位】優勝(3回) 1995年 ベネトン R8 イギリス 1995年 ベネトン R12 イタリア 1999年 スチュワート R14 ヨーロッパ
240121 J.HERBERT 2000 8FW12C
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1974 (42ND) SPARK BRABHAM BT44 R.ROBARTS
ゴードン・マレー作 BRABHAM BT44 新人 R・ローバーツ デビュー 1974年ブラバムはカルロス・ロイテマンの チームメイトとしてイギリス出身の 開幕から新人リチャード・ロバーツを起用 ブラバムは資金不足を補う為 ロバーツの持ち込み資金期待 BT44はゴートン・マレー作のBT42の 2分割ラジエター収納のスポーツカーノーズ 三角断面モノコックを継続して採用 ロバーツはR2アルゼンチンの決勝15位が最高 R3終了時で持ち込み資金が不足し代りに オペル一族のリッキー・フォン・オペルに シートを奪われその後複数のドライバ―に交代 ロバーツはイソ・マールボロ(ウイリアムズ)で R7スウェーデンGPエントリーも決勝は未出走 F1の参戦は1974年限りで終了 モデルはスパーク 開幕戦アルゼンチンGP仕様 キャリアベストリザルトの予選23位 決勝は35/53でギアボックスが壊れリタイア スポンサー獲得が難航してマシンは テスト仕様のようにまっ白でカーナンバー⑧と GOODYEAR・CAMPIONプラグのロゴのみ存在
231222 R.ROBARTS 1974 8FW12C
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1999 3RD HOT WHEELS JORDAN MUGEN HONDA199 H.H.FRENTZEN
フレンツェン ベストシーズンの活躍 年間2勝 JORDAN MUGEN HONDA199 1999年 フレンツェンはジョーダンに移籍 チーム・メイトはデーモン・ヒル 前年度加入のマイク・ガスコインが手掛けた ジョーダン199はローダウンサーキット 中心にマシンの威力を発揮 フレンツェンは戦略が決まった R7フランスGPでシーズン初勝利 R13イタリアGPは予選2位から トップのハッキネン(マクラーレン)の ミスにも助けられてシーズン2勝目を上げ この時点ではチャンピオン争いにも加わった 最終チーム61ポイント中54ポイントを フレンツェンが稼ぎ出し ジョーダン史上チームベストの コンストラクタ―3位を獲得 自身も年間3位となり キャリアベストシーズンの活躍であった (ベストリザルトは1997年 年間2位) モデルはHOT WHEELS ジョーダンのチームロゴと 右下には紅白の縁石のある台座で このデザインは1999年モデルのみ ミニチャンプス(画像2)からは チームセットでドライバ―フィギュアと カーナンバー無でリリースされている
231115 H.H.FRENTZEN 1999 8FW12C
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1982 5TH SPARK McLAREN MP4/1B N.LAUDA〖🏆2〗
2年ぶり復帰のニキ・ラウダ 混戦の1982年2勝 McLAREN MP4/1B 1979年末に突如引退したラウダ 1982年マクラーレンで電撃復帰 チームメイトはジョン・ワトソン 当初復帰に関してはマクラーレン側も ブランクや怪我の後遺症を考えて 開幕戦から4戦目までのスポット契約 開幕戦南アフリカGPで4位入賞すると R3アメリカWESTで予選2位より優勝 ファステストラップも記録 この年の3番目のウイナー(全11名) その後R10イギリスGPで2勝目をあげ チームもワトソンと合わせ合計4勝 ラウダの復帰と共にマクラーレンも 復活を印象づけるシーズンとなった モデルはスパーク 台座はMP4-1BとなっているがMP4/1Bの間違い ラウダの復帰初勝利となった R3アメリカWEST GP使用 予選2位→決勝WIN Marlboroデカール加工をしてあります 1980年以降のマクラーレンで ミニチャンプス唯一発売していないのが 1982年のマクラーレンMP4/1B
231104 N.LAUDA 1982 1回FW12C
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2003 PMA 6TH RENAULT R23 F.ALONSO
フェルナンド・アロンソ 初表彰台 初優勝 RENAULT R23 2001年ミナルディでデビューの フェルナンド・アロンソは1年ブランク後 2003年ルノーでF1に復帰 チームメイトはヤルノ・トゥルーリ 開幕戦オーストラリアで初入賞7位 R2マレーシアで初PPから 決勝初表彰台3位獲得 その後も入賞を重ねて R13ハンガリーで2度目のPPより 決勝で初優勝を果たす 現在までのアロンソの優勝は32回 また初表彰台の2003年R2マレーシアGPから 2023年R13オランダでの2位表彰台は ミハエル・シューマッハがもっていた 記録を更新して最初と最後の表彰台の 最長ギャップ20年5ヶ月4日後となった まだまだ更新されそうです 2003年はチームメイトのトゥルーリを 圧倒して年間55ポイントで順位は6位 モデルはミニチャンプス MILD SEVEN仕様に加工しています
230831 F.ALONSO 2003 1回FW12C
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1980 16TH SPARK McLaren M29 A.PROST
4 TIMES WORLD CHAMPION アラン・プロスト デビュー McLaren M29 1979年ヨーロッパF3 13戦9勝 圧倒的勝利でチャンピオン獲得 マルボロの支援もあり マクラーレンのテストを受けて 同時に参加したケビン・コーガンのみならず レギュラードライバーのジョン・ワトソンより 速いタイムを出し1980年のシートを獲得する 1980年開幕戦アルゼンチンGP 予選でワトソンを上回り12位を獲得 決勝はデビュー戦にて6位入賞 プロストの生涯入賞回数は128回 その中で表彰台が106回 4位以下の入賞は22回と少ない 続くR2ブラジルでも決勝5位入賞も R3南アフリカの予選でマシントラブル起因の クラッシュで手首を負傷しR4も欠場 年間では4度の入賞5ポイント年間15位 ワトソン6ポイント 年間11位わずかに及ばず 翌1981年はマクラーレンとの複数年契約が あったが地元ルノーからのオファーを受け移籍
230612 A.PROST 1980 8FW12C
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1999 【WORLD CHAMPION】 PMA McLAREN MERCEDES MP4-13 M.HAKKINEN〖🏆8〗
🔲🔲🔲1999🔲🔲🔲 👑WORLD CHAMPION👑 McLAREN MERCEDES MP4-13 ⬛⬛M.HAKKINEN⬛⬛ 🔲🔲🔲全16戦🔲🔲🔲 【出走】16回【PP】9回 【優勝】 8回【FL】6回 画像1-5 WORLD CHAMPION BOX WEST仕様 画像6-8 PMA通常版
230531 M.HAKKINEN 6回 8FW12C
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1972 (24TH) QUARTZO TYRRELL 004 P.DEPAILLER
パトリック・デュパイエ F1デビュー ティレルの4号車 TYRRELL 004 パトリック・デュパイエ フランス出身 元々は2輪だったが→4輪ドライバーに変更 1971年 フランスF3 チャンピオン 1972年はティレルのサードドライバ―で 地元R6フランスGPにスポット参戦 予選17位→決勝は1周足らず周回不足 最終R12アメリカにも出場 予選11位→決勝は7位完走している この時使用のマシンTYRRELL 004は 001を元に作製された4号機 1972年R3モナコでJ・スチュワートが 使用して予選8位→決勝4位入賞 デュパイエが2戦使用後は 南アフリカのドライバ― エディー・ケイザンに売却されて ケイザンがプライベートチームで 1973年・1974年に1戦ずつ参戦 F1でわずか5戦限りの使用となった https://muuseo.com/FW12C/items/497?theme_id=31775 デュパイエ翌1973年はヨーロッパF2 1974年からはF1に戻りティレルの レギュラードライバ―として参戦する
230524 P.DEPAILLER 1972 8FW12C
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1971 14TH SPARK BRABHAM BT33 T.SCHENKEN
オーストラリア人 2人目の表彰台 ティム・シェンケン BRABHAM BT33 ティム・シェンケン オーストラリア出身 1968年 イギリスF3 チャンピオン 1970年 デトマソでF1デビュー 1971年 ブラバムで本格参戦 チームメイトはグラハム・ヒル ブラバムはジャック・ブラバムが 前年の1970年で引退&チーム売却 新体制での運営もあり不振 車体BT33も開発が進まなかった シェンケンはR7ドイツで初入賞6位 R8オーストリアでは自身唯一の3位表彰台 オーストラリア人ではJ・ブラバムに 続く2人目の入賞&表彰台獲得者 オーストラリア人入賞ドライバ―は A・ジョーンズ M・ウエバー D・リカルドの 現在までに歴代合計5人 後半戦は予選でもグラハム・ヒルに勝ち 年間順位も14位 ヒルは21位 翌1972年はサーティスに移籍
230329 T.SCHENKEN 8 1/43FW12C
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1978 14TH PMA McLAREN FORD M26 P.TAMBAY
パトリック・タンベイ マクラーレンに抜擢 McLAREN FORD M26 前年度 非力なエンサインで3度の入賞 その走りが認められてマクラーレンに 抜擢されたパトリック・タンベイ チームメイトはジェームス・ハント ニューマシンのM27の計画が頓挫したため 旧マシンの前年3勝をあげたM26で参戦も ハント共々苦戦を強いられた タンベイは5度の入賞 表彰台は無し 最高位はR8スウェーデンGPの4位 シーズン終盤アメリカ・カナダGPは フィリップモリス傘下のミラー社が 販売するビールブランド レーベンブロイがスポットスポンサー 2戦のみカラーがブルーに代わった モデルはR15アメリカWEST GP仕様 予選18位→決勝6位入賞 R16カナダGPのみ予選でハントに勝っている タンベイ17位 ハント19位 翌1979年もタンベイはマクラーレン残留 #F1-1978年
221217 P.TAMBAY 1978 1.656FW12C
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1997 5TH PMA BENETTON RENAULT B197 G.BERGER〖🏆1〗
ゲルハルト・ベルガー ラストイヤー 最後の10勝目 BENETTON RENAULT B197 38歳のベルガーは中盤3戦を体調不良で欠場 更に飛行機事故で父親を亡くす傷心の中 R10ドイツGPで復帰 予選でPPを獲得 決勝は2日目のピットストップ後 G・フィジケラ(ジョーダン)を抜いて 再びトップに立ちそのままチェッカー 復帰戦を3年ぶりの通算10勝目で飾る このGPでのPP・FL・優勝 そして48回目の表彰台はいずれも自身最後 14年のF1レースキャリアの幕を閉じた 🏁ゲルハルト・ベルガー (オーストリア) 【決勝出走回数】210回(入賞95回) 【予選最高位】 PP(12回) 【決勝最高位】 優勝(10回) 【ファステストLAP】 (21回) #F1-1997年
221125 G.BERGER 1回 8FW12C
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1997 14TH PMA BENETTON RENAULT B197 A.WURZ
アレクサンダー・ヴルツ オーストリア出身 デビューイヤー 表彰台 BENETTON B197 1996年ル・マン24時間レースの覇者 ル・マン史上最年少総合優勝記録 22歳4カ月 1997年はベネトンのテスト・ドライバー 同郷のG・ベルガーの欠場でチャンスが巡る 3戦出場で内2戦はTMのJ・アレジに予選で勝ち R9イギリスGPでは予選8位から自身初入賞を 3位表彰台で飾る 通算表彰台3回 入賞14回 モデルはそのイギリスGP仕様 この活躍もあり翌1998年から3年間 ベネトンのレギュラーシートを獲得 途中ブランクもあったが2007年までF1で活躍 2014年~GPDA(F1選手会組織)会長に就任 #F1-1997年
221108 A.WURZ 2.222 8FW12C
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1/50 TINY MINI COOPER RACING #8 CLASSIC RACING
1/50 TINY MINI COOPER RACING #8 CLASSIC RACING #MINI
CLASSIC RACING 8 1/50 TINYFW12C