-
1960 9TH IXO FERRARI 246 P F1 R.GINTHER
リッチー・ギンサー F1デビュー フェラーリ1.2.3フィニッシュ 246 F1 リッチー・ギンザー アメリカ出身 兄の友人が1961年のワールドチャンピオン フィル・ヒルで青年期にドライビングを 教わり メカニックとしても働いた 1960年フィル・ヒル所属のフェラーリから F1デビューを果たし初戦のR6モナコで 予選9位→決勝6位 いきなりの入賞 ギンザーのキャリア入賞回数は28回 R9イタリアGPでは2位表彰台 1位 フィル・ヒル 3位 W・メレス と共にフェラーリ1.2.3フィニッシュを達成 しかしこれはバンクコースが荒れており 危険との判断でイギリス系のチーム ロータス クーパー BRMの 欠場の影響も大きかった ギンザーはフェラーリでスポット参戦した 3戦とも入賞(2位1回 6位2回) 翌1961年はレギュラードライバーに昇格 モデルはIXO(hachette) フェラーリF1コレクション59号 GP表記は無いがCarNo.34より ギンザーのデビューのR2モナコGP仕様 246 Pはミッドシップ試作車で この年2戦のみ使用されたマシン #1960年
240617 R.GINTHER フェラーリF1コレクション 1960FW12C
-
1977 19TH SPARK ATS PNSKE PC4 J.P.JARIER
ATS ペンスキー買収でF1参戦 ジャン・ピエール・ジャリエ PNSKE PC4 ドイツの自動車部品サプライヤーATS 1976年末F1でペンスキーを買収 1977年チームATSとして参戦 マシンはペンスキー製を使用 ドライバーは前年までシャドウに所属した ジャン・ピエール・ジャリエの1台体制 R4アメリカGPより参戦 予選9位→決勝6位 初戦でポイント獲得の活躍をみせたものの 以降の入賞は無くペンスキーは この年限りでF1から撤退 チームATSは翌1978年からは コンストラクター名もATSとして 1984年まで参戦する ジャリエは終盤シャドウとリジェからも 1戦ずつ参戦もポイント獲得はなかった モデルはスパーク R4アメリカWEST GP アメリカの名門PENSKEの車体の 最後のポイント獲得となった
240322 J.P.JARIER 1977 34FW12C
-
1980 NON-CHAMPIONSHIP PMA (BANCO OCCIDENTAL) WILLIAMS FORD FW07 E.DE.VILLOTA
エミリオ・デ・ヴィロタ出場スペインGP FISAとFOCAの組織対立で非選手権レース エミリオ・デ・ヴィロタ スペイン出身 1976年よりプライベーターでスポット参戦 決勝進出は1977年の2レースのみ 1980年地元スペインGP ヴィロタは1978年以来のF1エントリー スペインの銀行 バンコ・オクシデンタルのサポート ウイリアムズの旧型FW07のマシンで参戦 予選17位→決勝は34/80周でリタイア このスペインGPは FISA(国際自動車スポーツ連盟 現在FIA)と FOCO(F1製造者協会)の対立により フェラーリ・ルノー・アルファロメオなどが 参加しなかった為 後に非選手権レースとなり ヴィロタは1980年のF1の成績も取り消された ヴィロタ1981年・1982年もプライベーターで スポット参戦するも決勝進出はならなかった エミリオの娘マリーア・デ・ヴィロタも 女性レーシングドライバー 2011年 F1ロータス・ルノーでテスト参加 2012年 F1マルシャのテストドライバー この年のテスト中に右目を失う事故 翌2013年にこの事故起因と思われる死因で 残念ながら他界している
230725 E.DE.VILLOTA NON-CHAMPIONSHIP 1980FW12C
-
1974 (45TH) SPARK BRABHAM BT42 T.PILETTE
F1史上3組目の親子ドライバ― テディ・ピレット BRABHAM BT42 テディ・ピレット ベルギー出身 父は1950年代にゴルディーニや フェラーリにも在籍した アンドレ・ピレット 1974年開幕戦から参戦した H・J・シュトゥック(マーチ)に続く F1史上3組目親子ドライバ― 1974年R5地元ベルギーGPに ブラバム3RDドライバ―でスポット参戦 マシンは型落ちの BRABHAM BT42 予選は31位までが通過のGPで27位 決勝はトップから4周遅れの17位完走 このGPはスポットスポンサーで 日本のHITACHがブラバムをサポート 同社のロゴが目立つマシンになっている テディ・ピレットはこの後 1977年にBRMから3戦エントリーするも すべて予選落ちで F1での決勝進出は 1974年のベルギーGP 1戦限りであった
230410 T.PILETTE 34 1/43FW12C
-
1964 16TH SPARK (REG PARNELL) LOTUS 25 BRM C.AMON
クリス・エイモン F1初ポイント REG PARNELL LOTUS 25 BRM V8 1963年当時2番目の若さ19歳309日で エントリーしたC・エイモンは 1964年プライベートチーム レッグ・パーネルで LOTUS 25のマシンで参戦 エンジンはBRM チームメイトはマイク・ヘイルウッド ピーター・レブソン 3名での参戦 R2オランダGPで予選13位→ 決勝5位での自身F1初入賞 エイモンの生涯入賞は29回 モデル仕様のR4フランスGPは 予選14位→決勝10位だったが 参戦9戦中完走3 リタイア5 DNQ1 リタイアが多かったものの チームの3人の中では年間順位は最上位16位 1965年・1966年はスポット参戦で 入賞は無かったがその走りが エンツォ・フェラーリの目に留まり 1967年にフェラーリへ加入する #F1-1964年 #F1
C.AMON 34 1/43 REG PARNELLFW12C
-
1983 20TH CP THEODORE N183 J.CECOTTO
ジョニー・チェコット 唯一の入賞 セオドール最後のマシン N183 J・チェコットはベネズエラ出身 現在までにベネズエラ出身ドライバーは パストゥール・マルドナードと2人のみ チェコットは元々は2輪のチャンピオン 1975年当時最年少シリーズチャンピオン 1980年までに世界GPで14度の優勝 1980年以降は4輪に転向 1982年ヨーロッパF2で2位 1983年セオドールよりF1デビュー TMはロベルト・グェレロ(コロンビア) R2アメリカWEST ロングビーチGP 予選17位→混戦生き残り決勝6位 チェコットのF1での唯一の入賞 このGPの優勝はチェコットの5番下 予選22位のJ・ワトソン(マクラーレン) シャドウ エンサインを買収して 参戦を続けたセオドールも 1983年をもってF1から撤退 チェコットは翌1984年は トールマンに移籍 A・セナのチームメイトになります マニアックなモデルを発売の CP MODEL 出来栄えは…ですが 当時の雰囲気は感じることができます
J.CECOTTO 34 1/43 THEODOREFW12C
-
1976 13TH PMA MARCH FORD 761 H.J.STUCK
ハンス=ヨアヒム・シュトゥック ドイツ出身のF1界2番目の親子ドライバ― ヨアヒムの父のH・シュトゥックは 1950年代にF1に数戦スポット参戦 F1開始前の1930年代はアウディの前身 アウトウニオンチームのメンバーで ヒルクライムのレースではほぼ無敵を誇った 息子のシュトゥックは1974年よりF1参戦 1976年は3年目のマーチでフル参戦 開幕戦ブラジルで予選14位→決勝4位入賞 その後は完走が16戦中5回とマシンの 信頼性に苦しんだが3度の入賞を記録 1976年のマーチ参戦者5人中で最多入賞回数 ◆R16日本(富士SW)予選18位→決勝リタイア◆ モデル仕様の地元のR10ドイツGPでは シーズンベストの予選4位を獲得(→決勝R) ドイツリキュールのイエガーマイスターが スポンサーで印象的なオレンジのカラーリング 翌1977年マーチで1戦のみ出場後 カルロス・パーチェ亡き後のブラバムにて参戦
H.J.STUCK 1976 3.744 34FW12C
-
1994 (45TH) ONYX PACIFIC ILMOR PR01 B.GACHOT
1994年コンストラクター数は14チーム この内2人ドライバーが開幕から 変わらなかったのは僅か4チーム ティレル・ミナルディ・フットワーク そしてパシフィック グランプリ 通常パシフィックのような下位のチームは 頻繁に持参金でドライバ―の交代が あるのだが・・それすらなかった B・ガショーでさえ決勝進出は5回 そのいずれもリタイヤで終了 終盤スラントノーズを投入も(画像4) ハイノーズ前提のデザインの為 何かのきっかけを掴みたい努力も 残念ながら 全く効果なく終わる R16オーストラリアGPの予選後 ガショーはインタビューで 『今日は最良の1日さ もう2度と PR01に乗らなくて良いのだから』 このコメントがすべて物語っている パシフィック グランプリは このような状況でも全16戦に参加 翌年1995年も参戦継続された #F1-1994年 #F1
B.GACHOT 34 1/43 PACIFICFW12C
-
1992 (35TH) SPARK ANDOREA MODA S921 R.MORENO
元々は後のシムテック設立のニック・ワースが BMW単独のF1参戦計画にデザインしたマシン イタリア人のアンドレア・サセッティが コローニを買収してこのデザインを買取り参戦 ほとんどまともに走れない中 R6モナコで予備予選通過 そして26位ながら決勝進出 決勝はリタイア(モデル仕様) その後チームはオーナーの逮捕等も ありF1から追放される R・モレノのモナコ 力走が唯一の決勝 シンプルでキレイなデザインで チームがチームなら もう少し活躍できたマシン 決勝は1度のみの短命チームですが アンドレアモーダの名前だけは メジャーマイナーチームとして記憶されました #1992 #F1
R.MORENO 34 1/43 ANDOREA MODAFW12C
-
1989 (37TH) SPARK ZAKSPEED 891 B.SCHNEIDER
ベルント・シュナイダードイツ出身 1987年ドイツF3チャンピオン 1988年ザグスピードでF1デビュー2年目 1989年は参加台数の増加に伴い予選の前に 予備予選が実施 金曜日のフリー走行前の 1時間で4台通過の狭き門を13台で競った 開幕のブラジルGPは予備予選免除の P・ストレイフ(AGS)がケガで欠場の為 通過が4台→5台に増えてこの5台目に シュナイダーが滑り込んだ 予選も25位で通過 決勝は36週目にサスペンションが壊れ E.チーバー(アロウズ)が追突しリタイア 予備予選通過はR15日本GPと2回のみ 鈴鹿は予備予選3位→予選21位→決勝R モデルはなぜか? 予備予選落ち(8位)したR3モナコGP シュナイダーは翌1990年に アロウズで2戦スポット参戦 その後はドイツツーリングカー選手権で 5度のチャンピンを獲得して DTMの顔とも言える存在になりました #1989
B.SCHNEIDER 34 1/43 WESTFW12C
-
1991 (28TH) LS MODENA 291 LAMBORGHINI N.LARIN
元々はメキシコのグラスという チームで参戦予定だった車体を 1991年新規モデナで立ち上げ ドライバ―はN.ラリーニとE.ヴァン.デ.ポール 流麗なサイドポンツーンとエンジンカウルは 元フェラーリのマウロ・フォルギエリが中心に開発 独得な形状で魅了も・・速くはなかった ラリーニは開幕戦を7位(3周遅れ)と健闘も その後は予選突破は4回のみ チームは1年限りで消滅 スポンサー(姫路)Central Parkは 各戦ごとに場所と色が異なった SPARKが発売前にLOOK SMARTのモデルを購入 値段も高かったが 先日久々に開封しましたが 劣化してなくて安心しました #1991 #LAMBORGHINI
N.LARINI 34 1/43 MODENAFW12C