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1974 11TH IXO McLAREN FORD M23 M.HAILWOOD
マイク・ヘイルウッド F1ラスト YARDLEY McLAREN FORD M23 1974年マクラーレンは新たなスポンサーで タバコの多国籍企業フィリップモリスの マールボロとアメリカ石油のテキサコを獲得 しかしながら前年までの化粧品会社 ヤードレーとの契約も残っており 所謂Bチームとしてプラス1台体制を取り そのチームにマイク・ヘイルウッドを起用 ヘイルウッドは開幕から3戦連続入賞 R3南アフリカGPは自身2度目の表彰台3位 R4以降の入賞はR8オランダの4位のみ R11ドイツGP終盤5位走行中に マシントラブルによりバリアに衝突 長時間閉じ込められて両脚を骨折 そのままF1からは引退となった その後2輪ドライバ―としては復帰し マン島TTレースと2年連続制覇 1981年に交通事故により愛娘とともに 残念ながらこの世を去った 享年40歳 モデルはデアゴスティーニ(IXO) F1マシンコレクションシリーズは その年の主役以外のモデルも リリースしていたのが魅力のひとつ ヘイルウッドの最後の雄姿の YARDLEY McLAREN M23もその1台 🏁マイク・ヘイルウッド (イギリス) 【決勝出走数】50回(入賞10回-表彰台2回) 【予選最高位】 4位(2回) 1972年 SURTEES R2 南アフリカ 1974年 McLAREN R8 オランダ 【決勝最高位】 2位 1972年 SURTEES R10イタリア 【ファステストLAP】1回 1972年 SURTEES R2 南アフリカ
231027 M.HAILWOOD F1マシンコレクション 1974FW12C
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1975 (37TH) QUARTZO (TEAM GUNSTON) LOTUS 72E E.KEIZAN
プライベーター TEAM GUNSTON オレンジのLOTUS 72E E・ケイザン エディー・ケイザン 南アフリカ出身 南アフリカGPのみ出場したドライバ― 1973年1974年プライベーターでティレル004 1975年は南ローデシア(現ジンバブエ)出身 F1で2位表彰台の経験もあるジョン・ラブ 設立のプライベーターTEAM GUNSTONで参戦 マシンはロータス72Eを購入 チームのイメージカラーである オレンジに塗装して参戦 SHELLのオイル提供スポンサーも獲得 ケイザンはR3南アフリカGPに出場 予選は22位で通過決勝は13位完走 同じくガストンで参戦の南アフリカ出身 ガイ・タンマー予選25位→決勝11位 ちなみにこの1975年南アフリカGPは 11位 ガイ・タンマー LOTUS(TEAM GUNSTON) 12位 ジャッキー・イクス LOTUS 13位 エディー・ケイザン LOTUS(TEAM GUNSTON) 14位 ロニー・ピーターソンLOTUS LOTUSのマシンを使用した4名のドライバーが いずれも下位で4人連続のリザルトであった ケイザンとTEAM GUNSTONは このGPがF1でのラストレースとなった モデルはQUARTZO 1995年~1996年頃の発売と思われるが なかなかのマニアックなドライバ―と チームのモデルをリリースしていたのは 個人的には嬉しい所
230921 E.KEIZAN 1975 33FW12C
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1978 (23RD) PMA McLAREN FORD M26 B.GIACOMELLI
ブルーノ・ジャコメリ イタリア出身 1978年マクラーレン サードドライバ― 1977年イギリスGPでF1スポット参戦 1978年8勝でヨーロッパF2チャンピオン 並行してマクラーレンのサードドライバ― ヨーロッパラウンド5戦限りのスポット参戦 マシンはレギュラードライバ―の J・ハント P・タンベイと同じM26 R10イギリスGPでの予選16位→決勝7位が 予選・決勝ともにベストリザルト モデルはそのイギリスGP仕様で コックピット横のドライバー名表記が Bruno ”Jack O malley"となっている MINICHAMPS McLAREN EDTION43 100種目 ジャコメリはマクラーレンを離れて 翌1979年は復帰のアルファロメオの ドライバ―として参戦 #F1-1978年
230113 B.GIACOMELLI 1.440 33FW12C
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1981 19TH SPARK THEODORE TY01 P.TAMBAY
3年ぶりに復帰のセオドール 2年ぶりに復帰パトリック・タンベイ スポンサーとしてF1に関わっていた セオドールは1980年に途中撤退した シャドウを買収して3年ぶりに 1981年コンストラクタ―として復帰 ドライバ―は2年ぶりに復帰の パトリック・タンベイの1台エントリー 開幕戦アメリカWEST ロング・ビーチで 予選17位→決勝6位入賞(モデル仕様) セオドール チーム初の入賞 タンベイも3年ぶりのポイント獲得 しかし入賞はこの1Pのみで以降は低迷 R7よりタンベイはリジェに移籍 セオドールはM・スレールを起用 マシン名のTY01は創立者の テディ・イップの頭文字 イップはインドネシア出身で 日本以外のアジア諸国での 最初のF1チームのオーナー #F1-1981年 #セオドール
220903 P.TAMBAY 33 1/43FW12C
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2021 WORLD CHAMPION SPARK RED BULL RACNG HONDA RB16B M.VERSTAPPEN 〖🏆10〗
We did it together. ~ありがとう~ Honda F1チャンピオン獲得! #HONDA #2021ありがとうHONDA #Worldcampion #2021年
M.VERSTAPPEN 6回 33 1/43FW12C
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1994 (44TH) ONYX PACIFIC ILMOR PR01 P.BELMONDO
フランス名優 ジャン=ポール ベルモンドさんが 2021年9月6日にお亡くなりになりました 1960年「勝手にしやがれ」 1970年「ボルサリーノ」 など数々の映画に出演し人気を博しました 享年88歳 ご冥福をお祈りします ご子息のポール・ベルモンドは 1994年 パシフィックGPより参戦 当初1993年参戦予定の為車体は1年落ち イルモアエンジンは実に2年落ち ベルモンドの決勝進出は16戦中 2回のみ R4モナコ予選24位→決勝R(スピン) R5スペイン予選25位→決勝R(体調不良?) そのスペインGPではフロントウイングを ボルト止め(画像2枚目)など散々な状況 ベルモンドはこの年でF1を離れ 1997年には全日本GT選手権に参戦 1999年にはポールベルモンドレーシングを設立 ル・マンにも参戦 2005年にクラス3位など 精力的に活動を続けました #1994 #ポールベルモンド https://muuseo.com/FW12C/items/399
P.BELMONDO 33 1/43 PACIFICFW12C
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1992 (23RD) PMA JORDAN YAMAHA 192 M.GUGELMIN
マウリシオ・グージェルミン F1ラスト ジョーダンに移籍JORDAN YAMAHA 192 4年間過ごしたレイトンハウス(マーチ)を 離れて前年度好調だったジョーダンに移籍 グージェルミンはフィリップス カーステレオ などのブラジルスポンサーからの援助もあり 中堅チームから多数のオファーがあった模様 初ジョイントとなるヤマハV12エンジンと マシンの相性が悪くチームメイトの ステファノ・モデナと共に苦戦 モデナが4回の予選落ちの中 グージェルミンは全戦予選通過したものの 完走は5回 最高位はR5サンマリノ決勝7位 この年限りでグージェルミンはF1を離れ アメリカのCARTに長年参戦 1997年にはF1で果たせなかった優勝を 手に入れ年間ランキングも4位であった 🏁マウリシオ・グージェルミン(ブラジル) 【決勝出走数】73回(入賞4回-表彰台1回) 【予選最高位】 5位(2回) 1988年 MARCH R8 イギリス 1988年 MARCH R13ポルトガル 【決勝最高位】 3位 1989年 MARCH R1 ブラジル #F1-ラスト
M.GUGELMIN 1.728 33 1/43FW12C
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1990 11TH+α SPARK EUROBRUN ER189 JUDD R.MORENO
コローニから1990年はユーロブルンに R・モレノは移籍 TMはC・ランジェス R1アメリカ 予備予選を1位で通過 予選をなんと16位で通過 (17位はフェラーリ マンセル) 決勝は5週遅れの13位で完走 モデル仕様のR3サンマリノで 予選25位→決勝R 予選通過は2回のみ C.ランジェスは全戦予備予選落ち ユーロブルンは日本GP前に撤退 (全シーズン ノーポイント) 当時ほとんど情報の入らない謎のチーム しかしながらこの撤退が モレノの感動の2位につながります #1990 #F1
R.MORENO 350 33 1/43FW12C
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1989 (DNPQ 47TH) SPARK EUROBRUN ER189 JUDD O.LARRAURI
ユーロブルン 参戦5戦で予備予選落ち オスカー ララウリ EUROBRUN ER189 1989年ユーロブルン 2年目 1台エントリーのグレガー フォイテクが離脱 R12イタリアGPから前年度所属の オスカー ララウリ(アルゼンチン)が 再度エントリー ニューマシンER189 イエガ-マイスターのスポンサーが徹底 マシンがオレンジからブラックに変わり 日本スポンサーのアルファが付いた しかしながら予備予選突破の4台の厚い壁に ぶつかりララウリは5戦全てで予備予選落ち この年限りでF1からは引退 ユーロブルンも撤退が噂されたが 翌1990年は2台体制 ロベルト・モレノ クラウディオ・ランジェスで参戦継続 モデルは日本GP仕様 予備予選14台中9位 マニアックなマシンのリリースが多い ドイツのRACE LAND 別注 #1989
O.LARRAURI 400 33 1/43FW12C
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1989 (DNQ 42ND) SPARK EUROBRUN ER189 JUDD G.FOITEK
グレガー・フォイテク ユーロブルンよりエントリー グレガー・フォイテク スイス出身 1988年 国際F3000 1勝 ランキング7位 イギリスGPは無理な追い越で 多重事故を引き起こし 翌年ベネトンでF1デビューの ジョニー・ハーバートの 右足複雑骨折の重傷を負わせた 1989年チーム2年目のユーロブルンより フォイテクは1台エントリー ユーロブルンはエンジンをジャッド タイヤをこの年復帰のピレリに変更 開幕戦ブラジルGPはブラバムの 2台に次ぐ3位で予備予選通過も 決勝は29位で進出ならず この後は全て予備予選不通過 R9ドイツGPよりニューマシンER189投入 メインスポンサーでドイツのリキュール イエガーマイスターを獲得するも 状況は改善せずにR11ベルギーGPで フォイテクはチームを離脱 イエガーマイスターも短期間で スポンサー支援打ち切った フォイテクはこの後リアルで出場も予選落ち 翌1990年ブラバムとオニクスで決勝進出する モデルはスパーク R9ドイツGP仕様 ドイツのレースランド社別注モデル フォイテクは予備予選11位/13台で不通過 予備予選の12位・13位はザグスピードの 鈴木亜久里とベルトン・シュナイダー
G.FOITEK 400 33 1/43FW12C
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1991 9TH PMA JORDAN FORD 191 A.DE.CESARIS
1991年チェザリスはAGSとの契約撤回 新規ジョーダングランプリで参戦 チームメイトはB.ガショー含む4人 (シューマッハ/モレノ/ザナルディ) 初戦こそ予備予選不通過も モデルのR5カナダGP 予選11位→4位 ここからキャリアハイの 3戦連続含む 5戦中4戦入賞 15戦中10戦完走 完走率60% チェザリスらしからぬ?活躍 チームもコンストラクター5位に躍進 モデルは3種類 PMA CANADA GP仕様(無)LTD 270 PMA 初期版 (FUJI FLIM) ONYX (tic tac) でサイドのスポンサーが異なります 7UPグリーンが美しい 1年で終了がもったいないカラーリングです #F1-1991年 #F1
A.DE.CESARIS 270 33 1/43FW12C