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1971 (27TH) SPARK (PENSKE-WHITE RACING) McLaren M19A D.HOBBS
岡山国際サーキット 第11コーナー名称 デビット・ホッブス McLaren M19A デビット・ホッブス イギリス出身 1967年プライベター(車体BRM)でF1初参戦 1968年第1期HONDAでJ・サーティスが HONDA唯一のPPを獲得したイタリアGPで セカンドカーで出走(予選14位→決勝R) 1994・1995年にパシフィックGPとして F1開催された(旧)IT英田サーキット 現在の岡山国際サーキットには 各コーナーに往年の名ドライバーの 名前がついており 第11コーナーの ホッブスは彼から名付けられたもの 1971年ホッブスは最終R11アメリカGPで 急遽ペンスキー(車体マクラーレン)に呼ばれた これは本来出場するはずの マーク・ダンヒューの他のレースが 雨で順延され当該GPとバッティング しかし再度他レースが雨で順延して ダナヒューがアメリアGPに出場の 可能性も残されていたため 予選は2名のドライバーでシェアして出場 (予選 ダナヒュー19位 ホッブス24位) 結局ダナヒューは他レースに出場 ホッブスが決勝を出場して10位完走となった モデルはスパーク R11アメリカGP仕様(予選24→決勝10位) 1971年マクラーレンは アメリカの石油関連会社SUNOCOがスポンサー マクラーレンとして珍し青い車体
240128 D.HOBBS 1971 31FW12C
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2021 11TH SPARK ALPINE A521 E.OCON 〖🏆1〗
エステバン・オコン 混戦を制し 初優勝 ALPINE A521 エステバン・オコン フランス出身 2016年シーズン途中マノーよりデビュー 2021年はルノーから チーム名変更したアルピーヌで参戦 チームメイトはフェルナンド・アロンソ R11ハンガリーGP オコンは予選8位 ウエットコンディションで 1周目に5台がリタイアの波乱の レースを制し初優勝 フランス人ドライバ―としては 14人目のF1ウイナー フランス人最多勝利は言わずと知れた 51勝のアラン・プロスト しかしプロストの後のウイナーは 〇1995年 J.アレジ(フェラーリ) 〇1996年 O.パニス(リジェ) 〇2020年 P.ガスリー(アルファタウリ) 〇2021年 E.オコン(アルピーヌ) 4人とも(現在まで)1勝のドライバ― オコンは年間では11位 チームメイトのアロンソ(10位)とは 予選・決勝ともほぼ互角の成績 モデルはスパーク オコン&アルピーヌが 初優勝したハンガリーGP仕様 P1のピットボードが付属
231108 E.OCON 2021 31FW12C
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1976 (33TH) SPARK COPERSUCAR FD03 I.HOFFMANN
コパーシュカー セカンド・ドライバ― インゴ・ホフマン COPERSUCAR FD03 1976年参戦2年目のコパーシュカーは エマーソン・フィッテパルディがエース 数戦限りセカンド・ドライバ―として 同郷ブラジルのインゴ・ホフマンを起用 下位カテゴリーでは1975年に イギリスF3で1勝を上げランキング6位 開幕戦のブラジルGPは予選20位 決勝はトップから1周遅れの11位完走 その後ヨーロッパで3戦のみ エントリーもいずれも予選落ち F1では翌1977年も同チームで2戦のみ出場 ホフマンはシルエットカーで争われる ストックカー・ブラジル選手権において チャンピオン12回と圧倒的な記録を持ち 通算76勝ももちろん最多勝利数保持者 モデルはスパーク ホフマンがこの年唯一の決勝進出となった 開幕戦ブラジルGP仕様 予選20位→決勝11位 R3までの使用可能であった高い位置の インダクションポットの仕様モデル 台座はCOPERSUCAR FD02となっているが 恐らくCOPERSUCAR FD03の間違い
231030 I.HOFFMANN 1976 31FW12C
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1973 (24TH) SPARK SURTEES TS14 J.MASS
ヨッヘン・マス F1デビュー サ―ティスからスポット参戦 ヨッヘン・マス ドイツ出身 1972年ヨーロッパF2 2位(2勝) またツーリングカーレースを得意としており 1972年ヨーロッパツーリングカー選手権 においては5勝を挙げている ツーリングカーレースを継続しながら 1973年はサーティスよりスポット参戦 R9イギリス R11ドイツ R15アメリカに サードドライバ―として出場 決勝最高は R11ドイツで入賞目前の7位 予選ではレギユラードライバーの M・へイルウッド C・パーチェと 遜色ない結果を残し翌1974年の サ―ティスのレギュラーシート獲得 マシンはスポンサーのロゴが ほとんど無く真っ白なマシン この時のマスのヘルメットも白で こちらもロゴがほとんど付いていない
230717 J.MASS 1973 31FW12C
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1978 (26TH) SPARK MARTINI MK23 R.ARNOUX
ルネ・アルヌー デビューマシン 短命チーム MARTINI MK23 ルネ・アルヌー フランス出身 1975年 フォーミュラルノー チャンピオン 1977年 ヨーロッパF2 チャンピオン 1978年 新規チーム マルティニで参戦 マルティニ(フランス)はヨーロッパF2が主戦 1975年F1参戦を発表 1976年マシン作成開始 1978年に登場させたMARTINI MK23は 時代遅れで頑丈な作り故の重量過多 R3南アフリカGP 登場も予選落ち R5モナコGP 予備予選落ち R6ベルギーで初の予選通過 19位 決勝は9位で完走 ベストリザルトタイ R13オランダGPがチームMARTINI最後 奇しくもMK23マシンと同じ 予選は23位 決勝はリタイア モデルはオランダGP仕様 アルヌーは終盤2戦をサーティスで参戦 こちらもベストリザルトは決勝9位 翌1979年はフランス ルノーに移籍 #F1-1978年
230110 R.ARNOUX 31 1/43FW12C
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1984 (22ND) SPARK ATS D7 BMW TURBO F1 G.BERGER
ゲルハルト・ベルガー F1デビュー 2戦目6位入賞 ATS D7 BMW TURBO F1 オーストリア出身のG・ベルガーは 家業のベルガー運送の拡大の為 父の猛反対もあり一度はレース人生を諦めた 同郷のヘルルート・マルコ(現レットブル顧問)の 父への説得もありレース生活を再開 1983年ヨーロッパF3に参戦 マルコのツテもありBMWとのパイプもできた 1984年そのBMWを登載したATSより R12母国オーストリアGPでF1デビュー 予選20位→決勝12位 モデル仕様 ベルガーのF1参戦2戦目となった R14イタリアGPでは早くも6位入賞 生涯の入賞回数は95回 チームがマーカス・ヴィンケルホックの 1台エントリーだった為ポイントは対象外 翌1985年はBMWのアロウズからフル参戦 引退する1997年まですべての年で入賞する #F1-1984年
221124 G.BERGER 400 31FW12C
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1981 (31ST) SPARK OSELLA FA1B P.GHINZANI
イタリアのいぶし銀 F1デビュー ピエルカルロ・ギンザーニ OSELLA FA1B 1977年ヨーロッパF3チャンピオン 1979年イタリアF3チャンピオン 1981年デビューはイタリアのオッゼラ R5ベルギーGP 予選24位→決勝13位 R6モナコGPは予選落ち この年は2戦のみで その後 1983年~1989年まで オッゼラ トールマン リジェ ザグスピードと 下位チーム中心に参戦 F1通算 76戦出走 入賞は1回(5位) 予備予選落ち12回 歴代ワースト10位 予選落ち15回 歴代ワースト5位 ギンザーニはこのモデルのみ所持 下位チームという事もあり通算76戦参戦も あまり量産化されていないドライバ― #F1-1981年
221025 P.GHINZANI 31 1/43FW12C
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1975 20TH SPARK ENSIGN N175 G.VAN LENNEP
ジィズ・ヴァン・レネップ オランダ出身 最後のF1マシン 1971・1973・1974年とスポットでF1参戦 1975年もエンサインから3戦のみの出走 モデルのR9フランス予選22位→決勝15位 R11ドイツでは予選24位→決勝6位入賞 1973年より参戦のエンサインの初の入賞 レネップは2度目の入賞で最後のGPでもあった このレネップの入賞以降次の オランダン人ドライバ―のポイント獲得は 1994年のJ・フェルスタッペンまで20年かかった レネップは2度のル・マン24時間を優勝 1971年 マルティーニ・ポルシェ・917K TM=ヘルムート・マルコ(現レッドブル顧問) 1976年 ポルシェ・936ターボ TM=ジャッキー・イクス ジィズ・ヴァン・レネップ(オランダ) 決勝出走回数9回 入賞回数2回 予選最高位 20位 1973年 ウイリアムズ R10オランダ 決勝最高位 6位(2回) 1973年 ウイリアムズ R10オランダ 1975年 エンサイン R11ドイツ #F1最後のマシン #1975 #F1 #ヘルムート・マルコ
G.VAN LENNEP 1975 31 1/43FW12C
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1979 (22ND) SPARK LOTUS 79 H.REBAQUE
ヘクター・レバーク メキシコ出身の富豪 莫大な資産を背景にLOTUS79を1台購入 チームレバークとして1979年参戦します ダークブラウンのカラーの車体が特徴 予選最高はR6ベルギーの15位(決勝R) 決勝最高はR12オランダの7位(予選24位) モデルのR8フランスは予選23位→決勝12位 レバークは後半3戦にペンスキーに LOTUS79を改造したオリジナルのマシン レバークHR100を作成させて参戦 結果は3戦中2回の予選落ち オリジナル車体はこの3戦のみで終了 コックピット横とフロントノーズの スポンサーのCARTA BLANCAは メキシコのビールメーカ― LOTUSの車体では珍しく Marlboroのロゴもついています PLANEX COLLECTIONの別注モデル #F1-1979年
H.REBAQUE 31 1/43 MarlboroFW12C
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1994 (31ST) PMA SIMTEK FORD S941 D.BRABHAM
デイビット・ブラバム(オーストラリア) 父は3度のWC ジャック・ブラバム 兄のゲーリー・ブラバムも 1990年 ライフで予備予選出走 デイビットも1990年のブラバムから 4年ぶりのF1参戦 新規シムテック チームメイトが ①ローランド・ラッツェンバーガー ②アンドレア・モンテルミーニ ③ジャンーマルク・グーノン ④ドメニコ・スキャッタレーラ ⑤井上隆智穂 の5人 ローランドの悲劇 モンテルミーニの事故もあったが デビットは全戦参戦 モンテルミーニの事故の R5スペインGP決勝10位がベスト MTVやRUSSELL ATHLETICなどのスポンサー 独得なノーズ形状とカラーリング 当時若干27歳のニック・ワース作の マシンSA194は美しいフォルムで魅了も 残念ながら成績は伴わなかった #F1-1994年 #F1親子鷹
D.BRABHAM 31 1/43 SIMTEKFW12C
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1990 (DNQ 36TH) SPARK COLONI SUBARU C3B B.GACHOT
SUBARU 水平対向12気筒エンジン 僅か8戦のみで撤退 COLONI C3B スバルはイタリアのモトーリ モデルニに 資金提供を実施 水平対向12気筒エンジンを 供給することでF1に参入する計画をたてた 1989年にミナルディでエンジンテストしたが非採用 1990年コローニチームの株式の51%を 約1億円で購入しエンジンを供給することとした チームは既存のシャシーを改造して スバルエンジンを搭載したが 当時の最低重量より100Kgオーバーで 信頼性に欠け 馬力も公称のはるかに下回った ドライバ―のベルトラン・ガショーの力でも 如何ともできず 予備予選落ちを連発して スバルはR7フランスGPで撤退を決定した R8イギリスGPはスバルのバッジを外して使用 R9ドイツGPよりフォードDFZに変更した 雑誌Racing on 30周年企画 モデル化候補の5車種から決戦投票で 選ばれたのがスバル・コローニでモデル化された #F1-1990年
B.GACHOT Racing on Racing on 30th Aniversary 840FW12C
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1980 (27TH) SPARK OSELLA FA1 E.CHEEVER
1980年よりE.チーバーはフル参戦 チームは新規のオッゼラ 1台のみのエントリー 序盤戦は4度の予選落ちと苦戦 完走もチームの地元 R12イタリアGP 12位のわずか1回 モデルはR7フランスGP仕様 予選21位→決勝リタイア スイスの香水関連DENIMと イタリアのタバコ【MS】がスポンサー この年限りでチーバーはチームを離脱 チームオッゼラは1991年途中まで参戦 #1980
E.CHEEVER 31 1/43 MSFW12C
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1986 (32ND) SPARK AGS JH21 I.CAPELLI
フランスチーム AGS イヴァン・カペリでF1初参戦 1986年フランスのAGSが途中2戦のみ参戦 ドライバ―は前年度1985年ティレルで スポット参戦で4位入賞したI・カペリ エンジンはモトリーニ・モデルニ モデル仕様のR13イタリアGP R14ポルトガルGPとも 予選25位→決勝リタイア 予選結果はR13イタリアはPPより約9秒落ち R14ポルトガルは約7秒落ち スポンサーの EL CHARROは アパレルブランド 中々のマニアックなマシンがリリースされ 発売当初はとても個人的に喜びました 翌1987年カペリはマーチで AGSはP・ファブルを擁し それぞれ初のF1フル参戦をしています #F1-1986年
I.CAPELLI 31 1/43 AGSFW12C