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2000 (21ST) PMA MINARDI FONDOMETAL M02 G.MAZZACANE
黄色いミナルディ MINARDI M02 ガストン・マッツァカーネ デビュー 2000年レギュラードライバーとして F1デビューしたのは3人 ①ジェンソン・バトン(ウイリアムズ) ②ニック・ハイドフェルド(プロスト) ③ガストン・マッツァカーネ(ミナルディ) (※スポット参戦 L・ブルティ(ジャガー)) マッツァカーネはアルゼンチン出身 前年度のテストドライバーから昇格 チームメイトはマルク・ジェネ 全17戦の予選は22台出走の中 22位→12回 21位→4回 20位→1回 決勝は速さはかったものの 12戦で完走 シーズンLAP周回数は 意外にも全体の3番目であった 決勝最高位はR6ヨーロッパGPの8位 ハイライトはR15アメリカGP ウエットレースでタイヤ交換を遅らせ 一時的とは言え3位に順位を上げ ハッキネン(マクラーレン)を抑えて走行 しかしその後ピットクルーを轢いて 最後はエンジンが壊れてリタイア マッツァカーネは翌2001年 チームプロストでの4戦がF1で最後 これ以降アルゼンチンのF1ドライバーは 2023年末現在エントリーされていない モデルはミニチャンプス ミナルディは前年のシルバー/ブルーから 鮮やかなイエローに変更 2000年限り珍しいカラーリング
240127 G.MAZZACANE 2000 21FW12C
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1999 17TH PMA MINARDI FORD M01 M.GENE
ミナルディ 4年ぶりのポイント 新人マルク・ジェネ MINARDI FORD M01 マルク・ジェネ スペイン出身 1998年当時スペインでのトップフォーミュラ ワールドシリーズ・バイ・ニッサン初代王者 1999年ミナルディからF1デビュー ハイライトはR14ヨーロッパGP チームメイトのルカ・バドエルが 終盤4位走行中にエンジンが壊れリタイア 人目もはばからず涙流す中 ジェネは5位に順位を上げる その後チャンピオン争いの ミカ・ハッキネン(マクラーレン)と エディ・アーバイン(フェラーリ)が猛追 ハッキネンには抜かれたものの アーバインは何とか抑えて6位入賞 ジェネのF1初入賞はミナルディの 1995年最終オーストラリアGP以来 4年ぶり(65戦)ぶりのポイント獲得 コンストラクタ―でBARとの争いに 勝った貴重な1Pを獲得したジェネは 評価も上がり翌2000年もチームに残留 モデルはミニチャンプス 前年度に続くシルバーとブルーを 基調とするカラーリング メインスポンサーのテレフォニカは スペインの大手通信会社 マルク・ジェネの持ち込みスポンサー
231107 M.GENE 1999 21FW12C
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1973 19TH SPARK (WILLIAMS) ISO-Marlboro FX3B H.GANLEY
ウイリアムズF1の前身Iso-Marlboro ハウデン・ガンレイ F1ラストポイント ウィリアムズF1の前身である フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズは イタリアのスポーツカーメーカーのイソと フィリップ・モリス社がスポンサーとなり 1973年Iso-Marlboroのマシンを投入 ハウデン・ガンレイはニュージーランド出身 1971年・1972年はBRMでF1出場 オートスポーツ誌に掲載する写真撮影のため 許可なく他チーム(ポリトイ)を走行させたことで 原因でBRMを解雇されIso-Marlboroに移籍 Iso-Marlboroはシーズン通して9名の ドライバ―をエントリーしたが ガンレイのみがフル参戦 R14カナダGPでこの年唯一の6位入賞 キャリア最後の5度目の入賞 ガンレイは翌1974年にマーチで2戦エントリー 後半戦で日本のチームMAKIから参戦するも 決勝進出はできなかった モデルはSPARK Marlboroデカールが別で添付で貼り付け 独得な3色のカラーリング Iso-Marlboroの活動は翌1974年まで
231019 H.GANLEY 1973 21FW12C
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1998 (21ST) PMA TYRRELL FOAD 026 T.TAKAGI
TORA TAKAGI F1デビューは ティレルの最後 TYRRELL 026 1998年 高木虎之介はテストドライバーから 昇格してティレルのシートを獲得 師である中嶋悟氏のバックアップを受け PIAA brotherなどのスポンサーを持ち込んだ 予選最高は13位 決勝最高は9位 予選決勝ともチームメイトの リカルド・ロセットに圧勝したが ロセットの決勝最高8位のリザルトがあり 年間順位はロセットの下の(21位) 1970年から参戦したティレルは 29年目のこの年をもって活動が終了 最終戦R16日本GP鈴鹿は チームメイトのロセットが予選落ち ティレル最後の814台目の決勝は 高木虎之介の走行であったが E・トゥエロ(ミナルディ)に追突されて 有終の美とはならなかった #F1-1998年
230330 T.TAKAGI 21 1/43FW12C
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1978 (33RD) PMA WOLF FORD WR1 B.RAHAL
アメリカCART 3度チャンピオン ボビー・レイホール 2戦限りのF1参戦 1986年インディー500 優勝 アメリカCART 3度チャンピオン ボビー・レイホール 栄光を掴む前の1978年はF1に2戦限り参戦 チームはWOLFのセカンドカー R15アメリカGP 予選20位→決勝12位 R16カナダGP 予選20位→決勝リタイア モデルはカナダGP仕様 旧型マシンのWR1 ドライバ―としてはF1では2戦限り参戦 2001年はF1ジャガーのチーム代表を務めたが 思うような成績は残せずF1界から去った
230102 B.RAHAL 21 1/43FW12C
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1997 15TH ONYX MINARDI HART M197 J.TRULLI
情熱ファンタジスタ ヤルノ・トゥルーリ F1デビュー 7戦限りのMINARDI HART M197 ヤルノ・トゥルーリ イタリア出身 1996年ドイツF3チャンピオン 1997年ミナルディよりF1デビュー チームメイトは片山右京 開幕戦こそ右京に予選で敗れたが 2戦目以降は速さを見せて予選全勝 ミナルディでの予選最高位は17位 決勝最高位は9位が2回 最初はTMの右京のアドバイスを 聞き流していたトゥルーリであったが 親身に対応する右京に心を開き やがては好タイムを出すと 「右京のアドバイス通りに走った」と コメントすることが多かった R8フランスGPからはケガのO・パニスの 代役としてプロストに移籍 移籍後も右京との良好な関係は続いた
221110 J.TRULLI 21 1/43FW12C
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1977 (36TH) IXO FERRARI 312 T2 G.VILLENEUVE
ジル・ビルヌーブ フェラーリでの デビューマシン FERRARI 312 T2 1977年マクラーレンでデビュー後 エンツォ・フェラーリの目に留まり 1978年のフェラーリでの契約を結ぶ ニキ・ラウダのフェラーリ離脱に伴い 1977年終盤急遽 カーナンバー21で R16カナダGPに出場 予選17位→決勝12位 最終戦R17日本GP 富士SWにも出場 予選20位スタートから5周目に R・ピータソン(ティレル)に追突 ビルヌーブのマシンは宙高く舞い上がり 観客を巻き込む事故を起こしてしまう 痛ましい事故でマシンは大破したが 奇跡的にビルヌーブは無傷であった #F1-1977年 #1977年 #F1 #FERRARI
220926 G.VILLENEUVE フェラーリF1コレクション 21FW12C
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1996 (24TH) ONYX MINARDI FORD M195B T.MARQUES
タルソ・マルケス ブラジル出身 ミナルディよりF1デビュー 1996年資金難のミナルディは南米ラウンドに ブラジル出身のT・マルケスを起用 マルケスのデビューは20歳40日で 当時としては歴代5番目の若さ R2ブラジルGP ピットレーンの信号無視で予選結果は抹消 決勝は1周目にスピンしてリタイア R3アルゼンチンGP 予選はこの年のミナルディのベストの14位 決勝はM・ブランドル(ジョーダン)に 2度も追突して34周目にリタイア 若さが出た結果となりこの2戦のみの出場 マルケスは翌1997年後半と2001年前半戦に 再びミナルディで参戦します 1996年はドライバ―が3人以上のチームは ミナルディのみで T・マルケスの他は P・ラミー G・フィジケラ G・ラバッジの4人 G・ラバッジのみが量販モデルの発売が無いが この年のミナルディの成績(ノーポイント)を 考えると残念ながら今後も発売の期待は薄い #F1-1996年
T.MARQUES 21 1/43 MINARDIFW12C
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1984 (25TH) SPARK SPIRIT 101 M.BALDI
HONDAエンジン喪失のスピリット ハートエンジン M・バルディで参戦 1984年スピリットはHONDAエンジンを 失ったがそのHONDAが用意する形で ハートV4エンジンを4基購入し参戦 HONDAの資金提供はマシンにもあらわれ エンジン供給していないにも関わらず HONDAのロゴがコックピット横下に存在 ドライバ―は二転三転したが開幕戦からは イタリア人のマウロ・バルディがドライブ 前半戦は2度の8位を記録したが資金難で R7よりヒューブ・ロテンガッターに変更 終盤2戦はパスカル・ファブル(フランス)が 参戦予定もスーパーライセンスが下りず 再びバルディがドライブし3度目の8位を記録 レッドカラーはモデル仕様の開幕ブラジルと R2南アフリカの2戦のみで以降は白に変更 スポンサーはF1では珍しいNikonが リアウイングサイドにあり また モデルの発売はSPARKですがマシンには イタリアのBBURAGOのロゴが貼られている #F1-1984年 #スピリット
M.BALDI 21 1/43 MarlboroFW12C
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1996 (19TH) ONYX MINARDI FORD M195B G.FISICHELLA
ジャンカルロ・フィジケラ イタリア出身 愛称フィジコ F1デビューはミナルディ 1996年ミナルディは当初 P・ラミー 井上隆智穂のラインナップであったが 井上のスポンサーが撤退しシート喪失 急遽フィジケラのデビューが決まる 開幕戦オーストラリアで予選16位 TMのP・ラミー(予選17位)を上回る R8カナダGPで再び予選16位→決勝8位 これはフィジケラ ミナルディとも 1996年のシーズンベスト チームは資金難の為シートを R2・3 タルソ・マルケス(ブラジル) R11~ ジョバンニ・ラバッジ(イタリア) に売り渡した為 フィジケラは8戦のみ ONYXのモデルカーからもたくさんの 小スポンサーのデカールと リアウイングのチーム名だけのロゴで ミナルディの苦しい台所事情が覗える ミナルディでの走りが認められた フィジケラは翌1997年 ドライバ―オーディションの 実走テストを経てジョーダンに移籍 #F1-1996年 #F1-デビュー
G.FISICHELLA 21 1/43 MINARDIFW12C
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1976 (DNS 55TH) SPARK WILLIAMS FW05 M.KUWASHIMA
黒い稲妻 桑島正美 無念のF1世界選手権イン・ジャパン R16日本 富士スピードウェイ F1世界選手権イン・ジャパン 4人の日本人ドライバ―がエントリー 桑島正美は1974年にブラバムBT44に乗り 富士SWでデモラン走行の経験を持つ 1976年のF1世界選手権イン・ジャパンでは 当初チームRAMでブラバムのマシンで走行予定も 最終的にウイリアムズでのエントリーとなる 予選初日金曜日 チームメイトの A・メルツァリオから2.62遅れの 予選25位のタイムを出したが チームに支払うスポンサーマネーが 持ち逃げされるというトラブルより 土曜日以降の出場が出来なくなり 決勝出場は幻に終わった 桑島正美は自身のレース開始当初 黒いヘルメットで 黒塗りのフェアレディZ432に乗り トニー・ライザーの映画にちなんで 黒い稲妻と呼ばれていた F1世界選手権イン・ジャパンで ドライブしたマシンも奇しくも 黒いウイリアムズFW05だった #F1-1976年 #F1世界選手権イン・ジャパン
M.KUWASHIMA 1976 750 21FW12C
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1976 (29TH) SPARK WILLIAMS FW05 M.LECLERE
もう一人のルクレール フランス出身 ミッシェル・ルクレール WILLIAMS FW05 2018年~活躍中のシャルル・ルクレール その40年以上前に同じルクレールの ミッシェル・ルクレールが参戦しています ただし2人に血縁関係は無し ミッシェルは1975年ティレルで1戦のみ 1976年はウイリアムズよりR2より参戦 TMはジャッキー・イクス ウイリアムズは前年度のヘスケスの308Cを 買取りポスルズウェイトが改修してFW05とし カナダの石油王ウォーターウルフがスポンサーで ウォーターウルフレーシングとした ウイリアムズにはめずらしい Marlboroがスポンサー ミッシェル・ルクレールの 予選最高はR6モナコの18位 決勝最高位R4スペインの10位 予選落ちもあったが6戦中5戦を完走 ◆R16日本(富士SW)未出走◆ R8フランスGPを最後にチームを離脱 ミッシェル・ルクレールはこれがF1ラスト ウイリアムズチームの1976年は資金難もあり 合計9名ものドライバ―が在籍したが 残念ながら入賞は一人もなくシーズン終了 #1976 #F1-1976年 #ルクレール
M.LECLERE 1976 21 1/43FW12C
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2007 (26TH) PMA SPYKER F8-VⅡM.WINKELHOCK
生涯参戦1戦 タイヤ交換で リードラップ6周を経験ドライバ― マルクス・ヴィンケルホック ドイツ出身 2007年DTMに参戦していたが R10ヨーロッパGPでC.アルバースに代わり スパイカーF1チームで出場 予選は最下位の22位 悪天候を予想してフォーメーションラップ後 ピットインしてレインタイヤに交換 他車がスピンやタイヤ交換の中 PPスタートのK.ライコネン(フェラーリ)を抜き なんとトップを走行 その後セーフティーカー導入もあり 2週目~7週目の6周をラップリーダーで走行 予選最下位からのラップリーダーは F1史上2人目の出来事(最終はリタイヤ) このGP限りの参戦でこの後 スパイカーは山本左近が参戦している マルクスの父マンフレッドも 1980年代にATSやRAMにてF1参戦しています #F1-2007年 #F1親子鷹 https://muuseo.com/FW12C/items/678
M.WINKELHOCK 2.232 21 1/43FW12C
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1975 12TH SPARK WILLIAMS FW04 J.LAFFITE
1975年に初めてウイリアムズの名を冠した 車体WILLIAMS FW04が登場 ドライバ―はJ・ラフィー FW04はR5モナコより登場 思うような結果が出ない中 R11ドイツGP ニュルブルリンク 1週22.8㎞のロングコースで ラフィーが2位表彰台獲得 ウイリアムズの長い歴史の中の 記念すべき初ポイントは2位表彰台 ラフィーも初のポイント獲得 ラフィーは13年のF1生活の中 所属したチームはリジェと ウイリアムズの2チームのみ 画像8枚目はイギリス ヒースロー空港 近くにあった当時のファクトリー #1975 #F1
J.LAFFITE 1975 21 1/43FW12C
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1989 19TH ONYX SCUDERIA ITALIA BMS DALLARA F189 A.CAFFI
走るミラノ・コレクション A・カフィ キャリアベストシーズン DALLARA F189 アレックス・カフィ イタリア出身 スクーデリア・イタリア 2年目 この年2台体制となりチームメイトは アンドレア・デ・チェザリス のイタリアコンビ カッフィは予備予選からの出場となったが R3モナコGPで予備予選2位→予選9位→ 決勝は4位入賞 自身とチーム初入賞 カフィはこの4位がキャリアベストリザルト R5アメリアGPは予選6位から一時決勝2位走行 しかしこともあろうか序盤トラブルで 周回遅れのチームメイト チェザリスが 同一周回に戻そうとカフィを抜きにかかり 接触しウォールにヒットしてリアタイア 後半戦は予備予選回避して R10ハンガリーGPでは予選3位など 若手イタリア人ドライバ―として注目され 後にフェラーリのテストのチャンスも得た 翌1990年は日本のフットワークの スポンサーが決定したアロウズに移籍
A.CAFFI 21 1/43 MarlboroFW12C