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1986 (31ST) SPARK LOLA THL2 E.CHEEVER
シート消失のエディー・チーバー 地元アメリカGP スポット参戦 1986年レギュラーシートを失った チーバーは負傷のP・タンベイに代わり 地元R7アメリカGPにローラでスポット参戦 得意の公道サーキット デトロイト 予選ではレギュラードライバーの アラン・ジョーンズが21位対して チーバーは3秒近い差をつけ10位と奮闘 決勝ではジョーンズが33週目 チーバーが37週目に両者とも 同じ部品が壊れリタイアの終わっています チーバーのヘルメットとカラーリング そしてFORDのロゴがとても合っている1台 チーバーは翌1987年はアロウズに移籍 F1キャリア最後の3年を過ごします #F1-1986年
E.CHEEVER 1986 15 1/43FW12C
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1986 (24TH) PMA BRABHAM BMW BT55 E.DE ANGELIS
アンジェリス 最後のマシン BRABHAM BMW BT55 アンジェリスは6年過ごしたロータスを離れ 1986年は運命のブラバムの移籍 チームメイトはリカルド・パトレーゼ ゴートン・マレー作のBT55は 車高を極限まで低くした特殊な形状 安定性を高めることを狙ったが BMWのエンジン搭載によりホイールベースを 極端に長くするなど扱いにくいシャシー特性 アンジェリスはR4モナコまで完走僅か1回 状況を打破するべく行われたフランスの ポール・リカールでのテスト中 リアウイングが脱落してクラッシュ 出火するマシンに長時間取り残され 救出活動が難航して翌日帰らぬ人となった この事故を契機にテスト実施時においても グランプリ開催時と同等の安全対策や マーシャルの配置が義務付けられる事となった アンジェリスの事故の次の死亡事故は 1994年のサンマリノGPとなる 誠実で他のドライバ―からも人気のあった エリオ・デ・アンジェリス J・アレジは彼を尊敬しヘルメットの デザインのサイドの赤黒ラインを継承し 愛用し続け息子のジュリア―にも引き継がれた 🏁エリオ・デ・アンジェリス (イタリア) 【決勝出走数】106回(入賞43回-表彰台9回) 【予選最高位】 PP(3回) 1983年 LOTUS R14ヨーロッパ 1984年 LOTUS R1 ブラジル 1985年 LOTUS R5 カナダ 【決勝最高位】 優勝(2回) 1982年 LOTUS R13オーストリア 1985年 LOTUS R3 サンマリノ
E.DE.ANGELIS 1986 8 1/43FW12C
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1986 19TH SPARK LIGIER JS27 P.ALLIOT
フィリップ・アリオー F1 初ポイント LIGIER JS27 1984・1985年RAMで2年間所属のアリオー 1986年は国際F3000に参戦中 ジャック・ラフィーのケガにより 急遽リジェでR10ドイツよりエントリー チームメイトはルネ・アルヌー シーズン前半リジェは好調であったが 後半は熟成が進まず中段に沈む アリオーはリジェ参戦7回中 予選で2度アルヌーに勝ち 予選10位で勝ったR15メキシコGPで F1初ポイントとなる6位入賞 アリオーの生涯入賞回数は6回で その内5回が6位となっている アリオーは1年でリジェを去り 翌1987年は新規参戦ラルースに移籍 モデルはスパークで 初入賞のメキシコGP仕様 1980年後半のリジェの2大スポンサー GITANESとLOTOのロゴが目立ち リジェブルーと濃い目のブルーの リジェの中でも珍しいカラーリング
P.ALLIOT 1986 26 1/43FW12C
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1986 8TH SPARK LIGIER JS27 J.LAFFITE
当時のF1最多出走タイ記録で引退 ジャック・ラフィー JS27 J.LAFFITE 1986年リジェ復帰2年目のラフィー チームメイトはルネ・アルヌー ギ・リジェの望むオールフレンチ体制 開幕戦のブラジルGPで予選5位→決勝3位 前年度最終戦から2戦連続となる表彰台 R7アメリカEAST GPで予選6位→2位 42歳で迎えたシーズンも好調を維持 R9イギリスGPは出走176戦目で 当時の最多出走記録(グラハム・ヒル)に並んだ しかし決勝レースで多重クラッシュに 巻き込まれ両足の複雑骨折を負い 以後リハビリを続けたものF1復帰ならなかった ラフィーのキャリア決勝周回数は丁度8000周 1974年のF1デビュー時は30歳 30歳以降にデビューしたドライバーの中では 現在も176戦出走は最多記録となる モデルはスパーク ラフィー最後の32回目の表彰台 R7アメリカEAST 予選6位→決勝2位 お馴染みリジェのGITANESタバコ仕様 🏁ジャック・ラフィー(フランス) 【決勝出走数】176回 (入賞59回-表彰台32回) 【予選最高位】PP (7回) 1976年 LIGIER R13 イタリア 1979年 LIGIER R01 アルゼンチン 1979年 LIGIER R02 ブラジル 1979年 LIGIER R05 スペイン 1979年 LIGIER R06 ベルギー 1980年 LIGIER R07 フランス 1981年 LIGIER R07 スペイン 【決勝最高位】WIN(6回) 1977年 LIGIER R08 スウェーデン 1979年 LIGIER R01 アルゼンチン 1979年 LIGIER R02 ブラジル 1980年 LIGIER R09 ドイツ 1981年 LIGIER R11 オーストリア 1981年 LIGIER R14 カナダ 【ファステストLAP】7回 1976年 LIGIER R17 日本 1977年 LIGIER R05 スペイン 1979年 LIGIER R01 アルゼンチン 1979年 LIGIER R02 ブラジル 1980年 LIGIER R05 ベルギー 1981年 LIGIER R11 オーストリア 1985年 LIGIER R14 ヨーロッパ
J.LAFFITE 1986 26 1/43FW12C
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1986 3RD PMA WILLIAMS HONDA FW11 N.PIQUET〖🏆4〗
ネルソン・ピケ ウイリアムズ移籍 HONDA 初のコンストラクターチャンピオン 1986年ピケはブラバム→ウイリアムズに移籍 チームメイトはナイジェル・マンセル ピケはHONDAの強い要望で獲得 年俸の一部はHONDAが支払っていた ピケはウイリアムズHONDAのデビュー戦 開幕戦地元ブラジルGPで優勝 しかし後チーム内がHONDA中心のピケ派と ウイリアムズ中心のマンセル派に分裂 チーム内での協力体制が整わず ピケが4勝・マンセルが5勝し HONDA初のコンストラクターチャンピオンを 獲得したもののドライバーズタイトルは アラン・プロスト(マクラーレン)に 最終戦で逆転されて奪われた 最終有効ポイントは プロスト 72P マンセル 70P ピケ 69P モデルはミニチャンプス GP表記の無いRACE CAR仕様 ウイリアムズチームのオリジナル台紙 前年度スポンサーとなったCannonが リアウイングにもサポート拡大 白・青・黄の3色のコントラストが映える1台
N.PIQUET 1986 3 6FW12C
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1986 【WORLD CHAMPION】PMA McLAREN TAG TURBO MP4/2C A.PROST〖🏆4〗
プロスト最終戦で逆転 2度目のワールドチャンピオン
A.PROST 1986 2回 1FW12C