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1996 (20TH) ONYX MINARDI FORD M195B P.LAMY
ペドロ・ラミー 初のフル参戦 最後のマシン MINARDI FORD M195B 1996年シーズンはドライバ―の エントリーが複数あったのは ミナルディのみで合計4人 その中でペドロ・ラミーは初のフル参戦 エース格で挑んだシーズンであったが 開幕戦予選で新人のG・フィジケラに敗れ R3アルゼンチンでもT・マルケスにも敗れた 決勝もR4サンマリノGPの9位が最高位 ミナルディのチームとしても 1990年以来6年ぶりのポイント無で終了 ラミーはこの年限りでF1引退 ポルトガル出身のF1ドライバ―は ラミー含め現在まででわずか4人のみ 1991年のペドロ チャベス(コローニ)は 決勝進出していない為 決勝走行は3人 ラミーの次のポルトガル人ドライバーは 2005年のT.モンテイロ(ジョーダン) ラミーは見た目より実際は若く F1 初エントリーは21歳 F1 最終エントリは24歳だった ペドロ・ラミー(ポルトガル) 決勝出走回数 32回 予選最高位 14位 1995年 ミナルディ R15パシフィック 決勝最高位 6位 1995年 ミナルディ R17オーストラリア #F1-1996年 #F1最後のマシン
P.LAMY 20 1/43 MINARDIFW12C
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1995 18TH ONYX MINARDI FORD M195 P.LAMY
ペドロ・ラミー ポルトガル 自身唯一の入賞 MINARDI FORD M195 1995年シーズン前 ラミーは当初 パシフィックからの参戦予定であったが ティレルのシートを画策し交渉 結局ティレルのシートを獲得出来ない だけでなくパシフィックのオーナーの キース・ウィギンスの逆鱗に触れて パシフィックのシートも失った ラミーはR10ハンガリーより 資金難のミナルディに持参金を持ち込み P・マルティニのシートを獲得 結果的にマルティニはこれでF1引退 最終戦のR17オーストラリアGPで 予選17位から完走8台のサバイバルを 生き残り自身初の6位入賞 (7位 P・デニス フォルティ) (8位 B・ガショー パシフィック) これはラミーの生涯唯一の入賞 ポルトガル人の初の入賞でもあり ミナルディの25戦ぶりの 1995年の初ポイントでもあった #1995 #F1 #MINARDI #ONYX #初入賞
P.LAMY 23 1/43 MINARDIFW12C
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1994 (28TH) ONYX LOTUS MUGEN 107C P.LAMY
資金難を象徴する LOTUS 107シリーズは足掛け3年 実に34戦におよび使用されたマシン (その前シリーズの102も37戦) 昨年終盤でシートを得た P・ラミーがレギュラーシート獲得 ラミーの4戦までのカウルのスポンサー R1 LOCTITE R2 右 セデス・ハイ 左 新ポポンS R3 Pepe jeans R4 SHIONOGI(モデル仕様?) とこちらも苦労が見えるスポンサーロゴ ラミーはR4後のシルバーストーンのテストで リアウイングが突如外れるアクシデントで 両ひざと手首を骨折の重傷 一時は意識を失ったが後に回復 前年ケガでA・ザナルディからシートを奪うも 今度は自身のケガでA・ザナルディに シートを奪われます ラミーは1995年にミナルディでF1に再度復帰 #1994
P.LAMY 11 1/43 LOTUSFW12C
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1993 (30TH) ONYX CASTROL LOTUS 107B P.LAMY
ペドロ・ラミーはポルトガル出身 1992年ドイツF3チャンピオン 1993年はロータスのテストドライバー ピンク色のヘルメットが特徴 R13イタリアGPよりザナルディの代役で 初出走 予選最下位→決勝11位 その後は接触・スピンなど 見せ場なく終了したが 次年度は開幕戦よりロータスの レギュラーシート獲得 古館語録では 音速のフランシスコ・ザビエル リスボン特急と表現されていました R15日本GPでは終盤に アクティブサスペンションの影響で 派手にクラッシュ(画像4枚目) 13位完走扱い #1993
P.LAMY 12 1/43 LOTUSFW12C