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1980 11TH SPARK McLAREN M29 J.WATSON
マクラーレン2年目ジョン・ワトソン チームも不振 McLAREN M29 1980年ワトソンはマクラーレン残留 チームメイトは新人アラン・プロスト 開幕戦・R2とプロストに予選で敗れ 決勝もプロストが連続入賞の中 リタイア・11位と苦戦を強いられる R4アメリカWESTでは決勝4位入賞も R6モナコでは自身初の予選落ち ワトソンの生涯2度の予選落ちは いずれもモナコ(1980年・1983年) しかしながら初入賞もモナコ(1974年) 初のPPもモナコ(1977年)でもある R13カナダでシーズン2度目の4位 プロストに1ポイント差で年間上回り この年6ポイントで並んだ5名の ドライバ―の上から2番目の年間11位 翌1981年プロストがルノーに移籍の中 マクラーレンに残留 チームに久々の勝利をもたらす
230811 J.WATSON 1980 7FW12C
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1980 12TH SPARK TYRRELL 010 D.DALY
ディレク・デイリー TYRRELL 010 キャリアベストの4位2回入賞 1979年デイリーは終盤 エンサインを離脱後ティレルの サードカーとして3戦出場 1980年はレギュラーシートを獲得する チームメイトはジャン・ピエール・ジャリエ デイリーは開幕戦アルゼンチンGP 旧型マシンのティレル090で 予選22位ながら決勝は4位入賞 R3南アフリカGPで ニューマシン010が投入され R8イギリスGPで再び4位を獲得 4位はデイリーのキャリアベスト 年間で6ポイント獲得したが 5名のドライバ―が同ポイントで並び 順位差などで以下のリザルトとなった 10位 K・ロズベルグ(フィッテパルディ) 11位 J・ワトソン(マクラーレン) 12位 D・デイリー(ティレル) 13位 J・P・ジャリエ(ティレル) 14位 G・ビルヌーブ(フェラーリ) デイリーはティレルを1年で離れ 翌1981年はマーチ・グランプリに移籍 #1980年
230728 D.DALY 1980 4FW12C
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1983 14TH PMA TOLEMAN TG 183B D.WARWICK (DUTCH GP TOLEMAN 1ST POINT)
トールマン/ワーウィック F1初ポイント獲得 TOLEMAN TG 183B 1983年チーム トールマンと ディレク・ワーウィックは参戦3年目 チームメイトはブルーノ・ジャコメリ この年全車フラットボトム規定に変わり ロリー・バーン作の前年マシンを レギュレーションに合わせたTG 183B投入 予選最高5位含むシングルグリット6回も 決勝にはつながらず11戦終了時 完走2回 リタイア9回 課題であった信頼性不足に悩まされた しかし終盤は一気に改善 12戦オランダGPは予選7位 決勝は同一周回での4位入賞 チームトールマンとD・ワーウィックの F1初入賞でポイント獲得 トールマンの通算入賞は11回 ワーウィックの通算入賞は30回 このGPから4位→6位→5位→4位の 4戦連続入賞で年間14位 モデルはそのオランダGP仕様 通序盤と比べるとフロントウイングに カー№が右側しかないのと ドライバ―フィギュアのクオリティがUP ワーウィックはA・セナのトールマン加入が 決まり自身はルノーへ移籍した https://muuseo.com/FW12C/items/239?theme_id=30446
230603 D.WARWICK 1983 504FW12C
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1973 12TH IXO FERRARI 312B3-73 A.MERZARIO
フェラーリ6年ぶりのイタリア人ドライバ― アルトゥーロ・メルヅァリオ 312B3-73 A・メルヅァリオはMarlboroの支援を受けて 1972年にフェラーリからスポット参戦 1973年はレギュラードライバ―に昇格 フェラーリのイタリア人ドライバ―は 1967年途中で事故死したL・バンディーニ以来 フェラーリ初のイギリス製 フルモノコックシャーシである312B3-73は TMのJ・イクス共々苦戦して R11・R12を開発の為に欠場という事態に陥った メルヅァリオは前年度モデルの 312B2でのR2ブラジル・R3南アフリカで 4位を2回入賞したのみ 6Pで 年間12位 イクスのフェラーリ離脱後は一人で出走するも 僅か1年でフェラーリを解雇された しかしその後もフェラーリとの関係は続き メルヅァリオのヘルメットには フェラーリの跳馬が貼られていた #F1-1973年 #F1 https://muuseo.com/FW12C/items/910
A.MERZARIO フェラーリF1コレクション 1973 4FW12C
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1996 12TH PMA SAUBER FORD C15 H.H.FRENTZEN
フレンツェン3年目最後のザウバー 新型ZETEC-R V10 SAUBER FORD C15 フォードは拘りのV8エンジンから 全面新設計の軽量・小型ユニット ZETEC-R V10を新シャーシC15に搭載 しかしシーズン序盤からパワー不足 ドライバビリティの悪さもあり苦戦 フレンツェンは雨のR6モナコGP R7スペインGPの2度の4位が最高位 最終戦は得意の鈴鹿で6位入賞 結局3度の入賞で年間は12位に終わる フレンツェンは翌1997年は チャンピオンチームのウイリアムズに移籍 フォードエンジンも新規参戦チームの スチュワートグランプリに奪われた ザウバーとしては成績もパッせず 挙句エースドライバ―とエンジンを失う 明るい話題に欠いたシーズンとなった 1996年シーズンよりマレーシアの 公営企業 ペトロナスがサポート 単なるスポンサーでなく 共同で新会社を設立して関係を強化 ロゴはバックが鮮やかなミントグリーン #F1-1996年 #F1
H.H.FRENTZEN 15 1/43 SAUBERFW12C
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1996 8TH PMA JORDAN PEUGEOT 196 R.BARRICHELLO
ルーベンス・バリチェロ 4年目シーズン 最後のジョーダン JORDAN PEUGEOT 196 ジョーダンはプジョーエンジン2年目 イギリス大手のタバコメーカー BENSON & HEDGESがスポンサー カンパニーカラーでるゴールドは シーズン途中より色調がリアルになり ミニチャンプスはその後半戦仕様 バリチェロはR2ブラジルGPで 地元の声援の中予選2位獲得も 決勝はスピンでリタイア 1996年はジョーダンはハイノーズを採用 しかしゴールドに輝く車体とは裏腹に 地味なレース運びでバリチェロは 入賞は7回獲得も最高位は4位が2回 チームとしても3年ぶりに表彰台は無し シーズン終了後バリチェロは 4年間過ごしたジョーダンを離れ 新規チームスチュワートグランプに移籍 #F1-1996年 #F1
R.BARRICHELLO 11 1/43 JORDANFW12C
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1976 13TH MARCH FORD 761 H.J.STUCK
ハンス=ヨアヒム・シュトゥック ドイツ出身のF1界2番目の親子ドライバ― ヨアヒムの父のH・シュトゥックは 1950年代にF1に数戦スポット参戦 F1開始前の1930年代はアウディの前身 アウトウニオンチームのメンバーで ヒルクライムのレースではほぼ無敵を誇った 息子のシュトゥックは1974年よりF1参戦 1976年は3年目のマーチでフル参戦 開幕戦ブラジルで予選14位→決勝4位入賞 その後は完走が16戦中5回とマシンの 信頼性に苦しんだが3回の入賞を記録 1976年のマーチ参戦者5人中で最多入賞回数 ◆R16日本(富士SW)予選18位→決勝リタイア◆ モデル仕様の地元のR10ドイツGPでは シーズンベストの予選4位を獲得(→決勝R) ドイツリキュールのイエガーマイスターが スポンサーで印象的なオレンジのカラーリング 翌1977年マーチで1戦のみ出場後 カルロス・パーチェ亡き後のブラバムにて参戦
H.J.STUCK 1976 3.744 34FW12C
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1995 10TH PMA McLAREN MP4/10 MERCEDES M.BLUNDELL
マーク・ブランデルF1最後の車体 McLAREN MP4/10 MERCEDES 1995年ブランデルは急遽 N・マンセルの代役としてR1・R2を マクラーレンで参戦する マンセル用の広いコックピットを 作成する間の暫定であった マンセルがR4モナコで離脱の為 R5スペインGPからもシート獲得 数戦ごとの契約で最終戦まで走行 R16鈴鹿では予選でまともに走れず タイムは16分42秒 1995年は予選落ちが無く これはF1史上でも最も遅い予選通過タイム 年間ではTMのM・ハッキネンを 入賞回数では上回り6度 ポイントでは負けて13P 年間10位 翌1996年はザウバーのシートを 狙うもJ・ハーバートに敗れ獲得ならず 盟友M・ブランドルより1年早く 1995年でF1からは引退した マーク・ブランデル (イギリス) 決勝出走回数 61回 入賞回数 13回 予選最高位 4位 1993年 リジェ R8フランス 決勝最高位 3位(3回) 1993年 リジェ R1南アフリカ 1993年 リジェ R10ドイツ 1994年 ティレル R5スペイン #1995
M.BLUNDELL 7 1/43 McLARENFW12C
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2001 10TH PMA RED BULL SAUBER PETORONAS C20 K.RAIKKONEN
キミ・ライコネンのデビューは異例 F3やF3000の経験もなく4輪のレースは フォーミュラ.ルノーなどわずか23戦のみ オーナーのペーター・ザウバーが 2000年9月のテストに呼び 当時のスポンサーであるレットブルが推す E.ベルノルディを抑えてシート獲得 スパーライセンスも4戦限定の仮で発給 初戦オーストラリアGPは7位フィニッシュも レース後4位のパニス(BAR)が黄旗無視で 25秒のペナルティーで6位入賞果たす その後もコンパクトで扱いやすいC20で 4位2回 5位1回トータル9ポイント獲得 翌年は早くも引退のM.ハッキネンに代わり マクラーレンのシート獲得 この時巨額の移籍金が発生してます 2001年は新人の当たり年(画像5枚目) ライコネン→モントーヤ →アロンソ→ベルノルディ #2021年ライコネン引退 #F1 #ライコネン
K.RAIKKONEN 17 1/43 SAUBERFW12C
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1992 8TH SPARK LOTUS 102D M.HAKKINEN
ONYXモデルはMuuseoではおなじみの 【アダムスキー(当時はサイケデリア)】で購入 2010年1月27日 1980円 なかなか手に入らなかった記憶があります #アダムスキー(サイケデリア) #F1-1992年 #F1
M.HAKKINEN 11 1/43 LOTUSFW12C
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1991 11TH IXO MINARDI M191 P.MARTINI
デアゴスティーニ F1マシンコレクション はじまりの1台 MINARDI M191 P.MARTINI 2017年1月10日に全国発売になった 隔週刊 F1マシンコレクション 創刊号のマクラーレンホンダ MP4/4 アイルトン・セナはお試し購入したが その後はミニチャンプス等で所持している マシンも多く購入はしませんでした 2021年3月2日たまたま本屋に立ち寄り 第109号MINARDI M191 P.マルティニに出会い このモデルは今まで量販化されておらず購入 これがはじまりの1台となりその後 所持していないモデルを中心に F1マシンコレクションを購入するようになりました 魅力はコスパ(SPARKの約1/3の価格)と 冊子は写真が豊富で当館のモデルと できるだけ同時に掲載しています 自社製フェラーリエンジンが他チームに 供給されたのが史上初めてのモデルであり ミナルディ史上最高成績決勝4位を2度 特にR13ポルトガルGPは本家の フェラーリ J・アレジに脅かした末の4位 コンストラクタ―も史上最高の7位を記録 しかし高額のエンジン使用料で 当初パイオニアがメインスポンサーの 予定であったがフェラーリ本家に 横取りの形で持って行かれた事もあり 1年で契約解消され その後もミナルディは このエンジン使用料に悩まされる形となった MINARDI M191はチームメイトの ジャンニ・モリビデリと最終戦のみの ロベルト・モレノは量販化されておらず 発売が待ち遠しい1台でもあります
P.MARTINI F1マシンコレクション 109 1/43FW12C
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1991 10TH PMA BENETTON FORD B191 R.MORENO
#1991 #BENETTON #F1
R.MORENO 1.500 19 1/43FW12C
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1989 9TH SPARK TYRRELL 018 J.ALESI
#F1-1989年
J.ALESI 4 1/43 CAMELFW12C
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1983 14TH PMA TOLEMAN TG 183 D.WARWICK
#1983
D.WARWICK 2.500 35 1/43FW12C
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1983 11TH PMA WILLIAMS FORD FW08C J.LAFFITE
ジャック・ラフィー ウイリアムズ移籍 フル参戦後初の表彰台無し ジャック・ラフィーは設立から 7年間所属したリジェを離れ 1983年ウイリアムズに移籍 チームメイトはケケ・ロズベルク 前半7戦では5度の入賞したものの ターボエンジンが主流となりつつあった シーズンでコスワースDFV(後DFY)では パワーもが足りず後半の入賞は1回 R13イタリア・R14ヨーロッパでは ラフィー自身の気力のムラもあり 自身初の予選落ちを連続でしている ラフィーはスポット参戦の1974年を除き 1975年から8年続いた表彰台も この年で途切れ年間順位は11位 ロズベルグは1勝含む年間5位 チームは最終戦R15南アフリカGPでは 前倒しで次年度投入予定だった HONDA V6ターボエンジンを投入している
J.LAFFITE 1983 1/43 WILLIAMSFW12C