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1975 (29TH) SPARK HESKETH 308 B.LUNGER
デュポン創業者一族の御曹司 ブレット・ランガー デビュー ブレット・ランガー アメリカ出身 メロン財閥・ロックフェラー財閥と並び アメリカ3大財閥とも言われるデュポン財閥 創業一族の御曹司 デュポンは化学メーカー 1975年ヘスケスの2NDドライバ―で 終盤3戦をスポット参戦 チームメイトはジェームス・ハント 3戦ともハントがポイント獲得したが 13位完走/10位完走/リタイア に終わる 翌1976年はサ―ティスに移籍 R10ドイツGP ニュルブルクリンク 燃え盛るマシンからラウダを救出した 勇気ある英雄ドライバ―4人の1人 (G・エドワーズ H・アートル A・メルツァリオ) ランガーはF1通算決勝出走34回で 残念ながらポイント獲得は無し これはポイント獲得無しドライバ―の 決勝出走回数のワースト3位 (2位 マックス・チルトン 35戦 (1位 ルカ・バドエル 51戦
230710 B.LUNGER 1975 25FW12C
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1978 (29TH) PMA THEODORE WOLF FORD WR3 K.ROSBERG
初代フライング フィン ケケ・ロズベルグ F1デビュー 1978年K・ロズベルグのデビューイヤー セオドールとATSを渡り歩く1年 R3南アフリカGP セオドール(TR1)でデビュー R6スウェーデンGP ATS(HS1)に移籍 R11ドイツGP セオドールに戻り ウルフのマシンWR3 で参戦 (モデル台紙のWR1表記は間違い) このドイツの決勝10位がシーズンベスト R15アメリカEGP 再びATSに戻り ATS(D1)のマシンで終盤2戦を参戦した セオドール9戦 予選落1回 予備予選落4回 予選最高 19位 決勝最高 10位 ATS 5戦すべてで決勝進出 予選最高 15位 決勝最高 15位 デビューイヤーはマシンにも恵まれず 翌1979年はレギュラーシートを失い ウルフ(本体)から途中参戦 #1978年
230112 K.ROSBERG 32 1/43FW12C
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1987 (29TH) SPARK BRABHAM BT56 S.MODENA
寡黙なイタリアン ステファノ・モデナ F1デビュー BRABHAM BMW BT56 1987年国際F3000チャンピオン 同年F1最終戦R16オーストラリアGP ウイリアムズのN・マンセルの欠場に伴い 次年度ウイリアムズシートが確定の R・パトレーゼがブラバムから移籍 空いたブラバムのシートにモデナが起用された チームメイトはアンドレア・デ・チェザリス 予選は15位で通過も決勝は疲労でリタイア 急遽の参戦でマシンになれず 自らリタイアを申し出た このGPをもってブラバムは1年間チームを休業 モデナは翌1988年はユーロブルンで参戦 1989年は再びカムバックしたブラバムへ復帰 #F1-1987年
221111 S.MODENA 7 1/43FW12C
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1982 (29TH) SPARK TYRRELL 011 S.BORGUDD
元ABBAのドラム担当 スウェーデン出身 スリム・ボルグッド 最後のマシン 1981年S・ボルグッドはATSよりデビュー デビュー時は34歳の遅咲きドライバ― 1982年はティレルに移籍 チームメイトはM・アルボレート ティレルでの出走は3戦のみで R2ブラジル予選21位→決勝7位が最高 3戦とも完走したが入賞はならず アルボレートには予選・決勝とも全敗 持ち込み資金が尽きて4戦以降は ブライアン・ヘイトンにシートを譲り ボルグッドはF1からは引退 前年のATS時代に6位入賞を1回果たしている F1デビュー前はプロミュージシャンで 同胞のスウェーデンのPOPグループ ABBAの初期のドラムを担当しており ATS時代はABBAのロゴをマシンに貼っていた #F1-1982年 #ABBA #1982年 🎧ABBAが聴きたくなって貼り付けました https://www.youtube.com/watch?v=xFrGuyw1V8s&pp=ygUEQUJCQQ%3D%3D
220928 S.BORGUDD 4 1/43FW12C
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1976 (29TH) SPARK WILLIAMS FW05 M.LECLERE
もう一人のルクレール フランス出身 ミッシェル・ルクレール WILLIAMS FW05 2018年~活躍中のシャルル・ルクレール その40年以上前に同じルクレールの ミッシェル・ルクレールが参戦しています ただし2人に血縁関係は無し ミッシェルは1975年ティレルで1戦のみ 1976年はウイリアムズよりR2より参戦 TMはジャッキー・イクス ウイリアムズは前年度のヘスケスの308Cを 買取りポスルズウェイトが改修してFW05とし カナダの石油王ウォーターウルフがスポンサーで ウォーターウルフレーシングとした ウイリアムズにはめずらしい Marlboroがスポンサー ミッシェル・ルクレールの 予選最高はR6モナコの18位 決勝最高位R4スペインの10位 予選落ちもあったが6戦中5戦を完走 ◆R16日本(富士SW)未出走◆ R8フランスGPを最後にチームを離脱 ミッシェル・ルクレールはこれがF1ラスト ウイリアムズチームの1976年は資金難もあり 合計9名ものドライバ―が在籍したが 残念ながら入賞は一人もなくシーズン終了 #1976 #F1-1976年 #ルクレール
M.LECLERE 1976 21 1/43FW12C
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1995 (29TH) PMA McLAREN MP4/10 MERCEDES N.MANSELL
荒法師ナイジェル・マンセル 最後のマシン McLAREN MP4/10 1995年契約問題でD・クルーザードが ウイリアムズに残留しマクラーレンの 空席にスポンサーの意向もあり マンセルがシートを獲得する しかしTESTから不振のマクラーレン コックピットの狭さを理由に 開幕1・2戦を欠場(代役はM・ブランデル) 1ケ月という早さでコックピットを作成 R3サンマリノより出場するも 予選決勝ともTM M・ハッキネンに敗れ 予選9位→決勝は10位での完走 R4スペンインは決勝リタイヤで このGPをもってマクラーレンを離脱 結果的にこれがマンセルの 184回目のラストレースとなった 数々の名勝負また物議を醸しだした 大英帝国の愛すべき息子 マンセル 1980年代四天王の最後の1人でもあった ナイジェル・マンセル (イギリス) 決勝出走回数 184回 予選最高位 PP(32回) 決勝最高位 優勝(31回) ファステストLAP(30回) ワールドチャンピオン 1992年 ウイリアムズ 16戦9勝 #F1最後のマシン #1995 #F1
N.MANSELL 7 1/43 McLARENFW12C
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1984 (29TH) PMA TOLEMAN TG 184 J.CECOTTO
2輪王者ジョニー・チェコット 両足骨折 TOLEMAN TG184 前年度セオドールにて6位入賞した ベネズエラ出身 ジョニー・チェコット 1984年はトールマンに移籍 チームメイトは新人アイルトン・セナ トールマンはR4フランスGPより ニューマシンTG184 を投入 タイヤをピレリ→ミシュランに変更 チェコットはR7カナダGPの 予選20位→決勝9位が唯一の完走 R10イギリスGPの予選で大クラッシュ 両足骨折の重傷でF1から引退 引退後は1986年にマカオグランプリ スパ フランコルシャン24時間で優勝 1989年イタリア ツーリングカー 1994年 1997年 ドイツスーパーツーリング でチャンピオンを獲得している https://muuseo.com/FW12C/items/1035 🏁ジョニー・チェコット(ベネズエラ) 【決勝出走数】18回 (入賞1回) 【予選最高位】15位 1984年 TOLEMAN R9 アメリカ 【決勝最高位】6位 1983年 THEODORE R2 アメリカWEST
J.CECOTTO 1984 20 1/43FW12C
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1985 (29TH) SPARK ZAKSPEED 841 JON.PALMER
1985年初参戦の ZAKSPEEDは1台エントリー ジョナサン・パーマーは フライング ドクターの異名をもち 趣味はヘリコプター操縦 医師免許を所持 奥様は看護師さん 2016・2017年 ルノー所属の ジョリオン・パーマーの父 この年唯一の完走のモナコGP (予選19位→決勝11位) タバコWEST仕様
JON.PALMER 30 1/43 WESTFW12C