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1976 (45TH) SPARK SURTEES TS19 C.ANDERSSON
F1通算 1戦限りの決勝進出 コニー・アンダーソン SURTEES TS19 コニー・アンダーソン(スウェーデン) 1974年スウェーデンF3チャンピオン 1975年ヨーロッパF3でモナコで1勝 1976年R12オランダGP スポット参戦 サ―ティスにB・ランガーの代役で出場 参戦当時の年齢は36歳の遅咲き 予選は26位でギリギリの通過も 決勝は9周でエンジントラブルでリタイア 車体はタバコブランド チェスター・フィールドがスポットポンサー アンダーソンはこの年1戦限りの出場で 翌1977年はBRMで参戦も4戦全て予選落ち 以後参戦は無くF1通算1戦限り この1976年 サ―ティスのカーNo18は 最終のF1選手権イン・ジャパン(富士SW)で 高原敬武が使用している https://muuseo.com/FW12C/items/1501?theme_id=35914
230615 C.ANDERSSON 1976 18FW12C
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1976 (DNS 47TH) SPARK (OASC Racing Team) TYRRELL 007 O.STUPPACHER
オット・ストゥッパッシャー 予選通過も決勝走行できず オーストリア出身のドライバ― オット・ストゥッパッシャーは プライベートチームOASCで TYRRELL 007を購入してスポット参戦 R12イタリアGP PPから7.2秒落ちで 予選最下位であったが 燃料規定違反で3名のドライバ―が タイム取り消しがあり予選を26位で通過 しかしこの結果が出た時ストゥッパッシャーは 既にオーストリアに帰国しており 決勝に間に合わずにスタートできなかった R13カナダG PPから12.6秒落ち (モデルはカナダGP仕様) R14アメリカ東 PPから27.4秒落ち どちらも予選最下位で決勝進出ならず 結局F1では決勝を走行することは無かった ◆R16日本(富士SW)は未出走◆ そんなストゥッパッシャーですが モデルがTYRRELL 007という事もあり SPARK MINICHAMPSの 両社からモデル化されています #F1-1976年 #F1 #ティレル007 #1976年
220908 O.STUPPACHER 1976 38FW12C
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1976 (DNS 55TH) SPARK WILLIAMS FW05 M.KUWASHIMA
黒い稲妻 桑島正美 無念のF1世界選手権イン・ジャパン R16日本 富士スピードウェイ F1世界選手権イン・ジャパン 4人の日本人ドライバ―がエントリー 桑島正美は1974年にブラバムBT44に乗り 富士SWでデモラン走行の経験を持つ 1976年のF1世界選手権イン・ジャパンでは 当初チームRAMでブラバムのマシンで走行予定も 最終的にウイリアムズでのエントリーとなる 予選初日金曜日 チームメイトの A・メルツァリオから2.62遅れの 予選25位のタイムを出したが チームに支払うスポンサーマネーが 持ち逃げされるというトラブルより 土曜日以降の出場が出来なくなり 決勝出場は幻に終わった 桑島正美は自身のレース開始当初 黒いヘルメットで 黒塗りのフェアレディZ432に乗り トニー・ライザーの映画にちなんで 黒い稲妻と呼ばれていた F1世界選手権イン・ジャパンで ドライブしたマシンも奇しくも 黒いウイリアムズFW05だった #F1-1976年 #F1世界選手権イン・ジャパン
M.KUWASHIMA 1976 750 21FW12C
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1991 23RD SPARK LOTUS 102B J.BAILEY
#1991 #LOTUS #F1-1991年
J.BAILEY 12 1/43 LOTUSFW12C
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1992 (35TH) SPARK ANDOREA MODA S921 R.MORENO
元々は後のシムテック設立のニック・ワースが BMW単独のF1参戦計画にデザインしたマシン イタリア人のアンドレア・サセッティが コローニを買収してこのデザインを買取り参戦 ほとんどまともに走れない中 R6モナコで予備予選通過 そして26位ながら決勝進出 決勝はリタイア(モデル仕様) その後チームはオーナーの逮捕等も ありF1から追放される R・モレノのモナコ 力走が唯一の決勝 シンプルでキレイなデザインで チームがチームなら もう少し活躍できたマシン 決勝は1度のみの短命チームですが アンドレアモーダの名前だけは メジャーマイナーチームとして記憶されました #1992 #F1
R.MORENO 34 1/43 ANDOREA MODAFW12C