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1981 (34TH) SPARK OSELLA FA1B B.GABBIANI
チーム オゼッラ 2台体制 決勝進出3回 ガビアーニ OSELLA FA1B ベッペ・ガビアーニ イタリア出身 1978年 チームサーティスの最終年 終盤2戦エントリーもいずれも予選落ち 1979年 全日本F2にスポット参戦 開幕戦の鈴鹿で優勝を飾っている 1981年 2台体制となったオゼッラに 多額の資金を持ち込みシートを獲得 チームメイトはMA・グェラなどトータル4名 開幕戦のアメリカWESTで最後方予選24位で 初の決勝進出するも 決勝はリタイア その後2度の決勝進出ともリタイア R6モナコGPから10戦連続の予選落ち 後半7戦チームメイトとなった J.P.ジャリエは全戦予選通過 ガビアーニはこの年でF1終了 キャリア17戦のエントリーで決勝進出3回 予選落ち14回は歴代ワースト11位 予選落ち回数歴代ワースト30位の中で 予選不通過率82.4%はワーストの記録 後1983年はヨーロッパF2にステップダウン F1に進出する前のチームオニキスで 前半だけで4勝 後半失速もランキングは3位 1986年は童夢で全日本耐久選手権にも出場 モデルはスパーク ガビアーニの最後の決勝進出 R5ベルギーGP仕様 予選22位 決勝は22/54周でエンジンが壊れリタイア
240410 B.GABBIANI 1981 1/43FW12C
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2011 (27TH) SPARK HRT F111 D.RICCIARDO
ダニエル・リカルド デビュー レッドブルシート買取り HRT F111 ダニエル・リカルド オーストラリア出身 2009年イギリスF3チャンピオン 6勝/20戦 2010年Fルノー3.5 シリーズ2位 5勝/17戦 2011年 レッドブル傘下トロ・ロッソの サードドライバー金曜日フリー走行参加 R9イギリスGPよりHRTにてF1デビュー これはレッドブルがHRTのシート買取った形 チームメイトはヴィタントニオ・リウッツィ 予選ではリウッツィと互角の勝負 戦闘力の乏しHRTでは如何ともならず 決勝は完走を優先し最高18位が2回 翌2012年はトロ・ロッソのレギュラー獲得 モデルはスパーク R12ベルギーGP 予選23位→決勝リタイア ドイツ人デザイナー ダニエル・サイモンが 担当したF111はチェッカーフラックに 赤をアクセントに入れた独特のデザイン スリーブケースもHRTチェッカー仕様 リアウイング翼端版の〖COOL SPOT〗は スポンサーのロゴでは無く スポンサー募集のキャチフレーズであった 2011年シーズンに参加したドライバーで 2024年エントリーしているのは4人のみ リカルド/アロンソ/ハミルトン/ペレス
240229 D.RICCIARDO 2011 22FW12C
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1974 (27TH) SPARK BRABHAM BT44 R.OPEL
リヒテンシュタイン出身 オペル一族 リッキー・フォン・オペル リッキー・フォン・オペル 出生地はアメリカ 国籍はF1で唯一となるリヒテンシュタイン 曾祖父はドイツ自動車メーカー オペルの創始者アダム・オペル 1972年イギリスF3 チャンピオン 1973年エンサインからF1デビュー 1974年開幕戦のみをエンサイン R4スペインGPより R・ロバーツの代わりに ブラバムのセカンドドライバーとして出場 資金持ち込みでシート獲得 R4スペイン R5ベルギー 連続リタイア R6モナコは予選落ち R7スウェーデンGP予選20位→決勝9位 R8オランダGP予選23位→連続決勝9位 R9フランスGPは予選落ち この後ブラバムのセカンドドライバーは カルロス・パーチェとなり リッキー・フォン・オペルの F1でのキャリアは終了 その後タイの田舎にある仏教僧院で僧侶となり 外界との連絡を絶っている状態と言われている モデルはスパーク R7スウェーデンGP仕様 予選20位→決勝9位 ゴードン・マレー作 三角断面モノコックなど 特徴的なフォルムのBT44 シーズン終了後 富士スピードウェイで F1のデモンストレート・ランに カルロス・ロイテマンがこのマシンで出走 桑島正美もBT44をテスト走行させている 🏁リッキー・フォン・オペル(リヒテンシュタイン) 【決勝出走数】 11回(入賞0回 予選落ち回) 【予選最高位】 10位 1973年 ENSING R10オランダ 【決勝最高位】 9位(2回) 1974年 BRABHAM R7 スウェーデン 1974年 BRABHAM R7 オランダ
240215 R.OPEL 1974 8FW12C
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2000 (21ST) PMA MINARDI FONDOMETAL M02 G.MAZZACANE
黄色いミナルディ MINARDI M02 ガストン・マッツァカーネ デビュー 2000年レギュラードライバーとして F1デビューしたのは3人 ①ジェンソン・バトン(ウイリアムズ) ②ニック・ハイドフェルド(プロスト) ③ガストン・マッツァカーネ(ミナルディ) (※スポット参戦 L・ブルティ(ジャガー)) マッツァカーネはアルゼンチン出身 前年度のテストドライバーから昇格 チームメイトはマルク・ジェネ 全17戦の予選は22台出走の中 22位→12回 21位→4回 20位→1回 決勝は速さはかったものの 12戦で完走 シーズンLAP周回数は 意外にも全体の3番目であった 決勝最高位はR6ヨーロッパGPの8位 ハイライトはR15アメリカGP ウエットレースでタイヤ交換を遅らせ 一時的とは言え3位に順位を上げ ハッキネン(マクラーレン)を抑えて走行 しかしその後ピットクルーを轢いて 最後はエンジンが壊れてリタイア マッツァカーネは翌2001年 チームプロストでの4戦がF1で最後 これ以降アルゼンチンのF1ドライバーは 2023年末現在エントリーされていない モデルはミニチャンプス ミナルディは前年のシルバー/ブルーから 鮮やかなイエローに変更 2000年限り珍しいカラーリング
240127 G.MAZZACANE 2000 21FW12C
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1976 (33TH) SPARK COPERSUCAR FD03 I.HOFFMANN
コパーシュカー セカンド・ドライバ― インゴ・ホフマン COPERSUCAR FD03 1976年参戦2年目のコパーシュカーは エマーソン・フィッテパルディがエース 数戦限りセカンド・ドライバ―として 同郷ブラジルのインゴ・ホフマンを起用 下位カテゴリーでは1975年に イギリスF3で1勝を上げランキング6位 開幕戦のブラジルGPは予選20位 決勝はトップから1周遅れの11位完走 その後ヨーロッパで3戦のみ エントリーもいずれも予選落ち F1では翌1977年も同チームで2戦のみ出場 ホフマンはシルエットカーで争われる ストックカー・ブラジル選手権において チャンピオン12回と圧倒的な記録を持ち 通算76勝ももちろん最多勝利数保持者 モデルはスパーク ホフマンがこの年唯一の決勝進出となった 開幕戦ブラジルGP仕様 予選20位→決勝11位 R3までの使用可能であった高い位置の インダクションポットの仕様モデル 台座はCOPERSUCAR FD02となっているが 恐らくCOPERSUCAR FD03の間違い
231030 I.HOFFMANN 1976 31FW12C
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1991 (30TH) SPARK AGS JH25B G.TARQUINI (GP GERMAN)
AGS 後半戦カラーリング一新 ガブリエル・タルキーニ AGS JH25B 1991年AGSは地元R7フランスGPより 白ベースのカラーリングを変更 AGS発祥の地プロバンス地方の空を イメージしたブルー主体のカラー しかし新たなスポンサーも付かず 成績も振るわず後半戦は予備予選組 モデル仕様のR9ドイツGP タルキーニは予備予選を2位で通過 しかし予選は29位で決勝進出ならず この1991年ドイツGPは 中嶋悟のF1引退が発表 当時は速報誌GPX(山海堂)を購入していたが このGPはF1PRIX(双葉社)も購入 こちらの雑誌にはモデルのAGS JH25B タルキーニ車の写真が珍しく掲載(画像7) タルキーニは新車JH27で R13ポルトガルGPの予備予選3位で通過も 決勝はまたしても予選落ち R14スペインGP~フォンドメタルに移籍 AGSはR14スペインGPでタルキーニと トレードの形でO・グルイヤールを 起用も予備予選落ち このGPをもってF1から撤退した
230609 G.TARQINI 350 18FW12C
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1991 (30TH) SPARK AGS JH25B G.TARQUINI
AGS 3年目ガブリエル・タルキーニ 開幕戦サバイバル 8位完走 資金難で参戦も危ぶまれたAGSであったが チームオーナーも変わり何とかエントリー G・タルキーニはAGS 3年目 AGS初年度の1989年に6位入賞の経験持つ チームメイトはステファン・ヨハンソン 3戦目よりファブリツィオ・バルバッツァ 開幕戦アメリカGP フェニックス市街地 前年の成績(Y・ダルマスの9位)により 予選からのエントリーで22位で通過 決勝は4週遅れながら8位完走 モデル仕様のR4モナコGPで シーズンベストの予選20位で通過 決勝はギアボックストラブルでリタイア このGPが1986年から参戦AGS 最後の49回目の決勝進出となった 数少ないAGS(フランス)スポンサーの中 フロントウイングにイタリアのBBURAGO この時代のモデル発売を狙っていた? このモデルはタルキーニ ヨハンソン車が 販売されたがバルバッツァの リリースのアナウンスが無い SPARKは以前よりマイナードライバ―も しっかりリリースしてきたので 何か版権の問題なのか…不明 #F1-1991年
230308 G.TARQINI 17 1/43FW12C
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1975 (50TH) SPARK TYRRELL 007 M.LECLERE
元祖 ルクレール ミッシェル F1 デビュー TYRRELL 007 ミッシェル・ルクレール (フランス) 現在活躍中のシャルル・ルクレールが モナコ出身に対しミッシェルはフランス トリコロールカラーをモチーフにした トップが赤いヘルメットが特徴 1972年 フランスF2チャンピオン 1975年 ヨーロッパF2 2位 この時のチャンピオンはジャック・ラフィー 1975年 F1最終R14 アメリカGP フランス エルフの後押しもあり ティレルのサードカーとしてデビュー チームメイトはジョディー・シェクター パトリック・ドュパイエ 予選はトップから約4秒落ちの20位で通過 決勝は6周目にエンジンが壊れリタイア ティレルでの出場はこの1戦のみ 翌1976年はウイリアムズで 地元フランスまでの6戦限りの出走 このティレル007の車体は プライベートチームにも販売され 1976年は星野一義 1977年は高橋国光が 日本GP 富士SWに出場している
230306 M.LECLERE 1975 15FW12C
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1978 (34TH) SPARK MERZARIO A1 A.MERZARIO
アルトゥーロ・メルヅァリオ 自チーム設立 MERZARIO A1 1972・1973年のフェラーリドライバー A・メルヅァリオは1977年に自チーム設立 1978年はマーチのマシンを改造して MERZARIO A1としてコンストラクターで参戦 これは1977年でマーチがコンストラクター として一度終了した事が影響している 元々のマシンがマーチ761Bの型落ちで苦戦 16戦中予選落ち6回 予備予選落ち2回 8回出場の決勝も完走は1度もなかった (リタイア7回 周回不足1回) メルヅァリオを長年サポートしている Marlboroのイタリア支社がスポンサーとして ついておりR14イタリアGPではチーム2台目 アルベルト・コロンボを出場させたが こちらも予備予選落ちで終わっている モデルはそのイタリアGP仕様 予選22位→決勝リタイア
221227 A.MERZARIO 37 1/43FW12C
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1981 21ST SPARK ENSING N180B E.SALAZAR
F1で唯一のチリ出身ドライバ― E・サラザール 初ポイントENSING N180B ブラジルF3参戦時にネルソン・ピケと出会い F1でのデビューにつながる 1981年はRAM(マーチグランプリ)より参戦 R7スペインGP以降はエンサインで出走 多額のスポンサー料を持ち込んだ R12オランダGP 予選24位から荒れたレースを走り抜き 見事6位入賞 サラザール初入賞は エンサインとしては最後の11回目の入賞 マシンにはサラザールの持ち込みと思われる TOYOTAのスポンサーロゴも存在 #F1-1981年
221023 E.SALAZAR 14 1/43FW12C
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1975 (27TH) SPARK COPERSUCAR FD01 W.FITTIPALD
追悼 ウィルソン・フィッティパルディ 2024年2月3日にお亡くなりになりました 享年80歳 ご冥福をお祈り申し上げます エマーソンの兄 ウイルソン・フィッテパルディ ブラジル唯一のチーム立ち上げ参戦 2度のワールドチャンピオン エマーソン・フィッテパルディの兄 ウイルソン・フィッテパルディは 1972・1973年ブラバムより参戦 1975年はF1史上唯一のブラジル国籍のチーム コパーシュカーを立ち上げ自らドライブ コパーシュカーはブラジルの複合会社の企業名 モデル仕様である開幕戦 南アフリカGP 予選23位→決勝12周目にクラッシュでリタイア これによりFD01は修理不能で1戦限りとなる 以降FD02・FD03と新車を次々投入も 予選最高20位 決勝最高10位として終わる ウイルソンはこの年限りでドライバ―引退 チームの運営に回り翌1976年はエマーソンが加入する ウイルソンの息子クリスチャン・フィッテパルディは 1992・1993年ミナルディ 1994年はアロウズで参戦 🏁ウイルソン・フィッテパルディ(ブラジル) 【決勝出走数】36回 (入賞2回) 【予選最高位】9位 1973年 BRABHAM R6 モナコ 【決勝最高位】5位 1973年 BRABHAM R11ドイツ https://muuseo.com/FW12C/items/393?theme_id=31218
W.FITTIPALD 1975 30 1/43FW12C
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1973 20TH Iso-Marlboro IR G.VAN LENNEP
ウイリアムズF1の前身Iso-Marlboro ギズ・ファン・レネップ F1初ポイント ウィリアムズF1の前身である フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズは イタリアのスポーツカーメーカーのイソと フィリップ・モリス社がスポンサーとなり 1973年Iso-Marlboro IRのマシンを投入 ギズ・ファン・レネップは 地元R10オランダGPでスポット参戦 予選20位ながら→決勝6位入賞 Iso-Marlboroチームと自身の初ポイント レネップはその後2レースに出場 R12オーストリア予選23位→決勝9位 R14イタリア 予選23位→決勝R レネップは生涯4年間のスポット参戦で 決勝進出した8レース中 リタイアは 上記の1973年R14イタリアGPのみで 他の7レースは全て完走 生涯2度の6位入賞を果たしている #F1-1973年 #Marlboro #Iso-Marlboro
G.VAN LENNEP 1973 26 1/43FW12C
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1996 (23RD) ONYX FORITI FORD FG03 A.MONTERMINI
アンドレア・モンテルミニ F1 3年目 フォルティで参戦も途中撤退 前年度パシフィックからモンテルミニは 自身が1992年に国際F3000でも所属していた フォルティに移籍 TMはL・バドエル 1996年は予選107%ルールが導入され PPのタイムから107%を超える予選タイムの 場合は予選落ちとなりモンテルミニは 開幕戦を含め5度の予選落ち ONYXは2種類のカラーリングがリリースされ R4ヨーロッパGP仕様 前年度に続くイエロー フォルティFG01/96 R7スペインGP仕様 グリーンと白がベース フォルティFG03/96 両マシンとも名称の表記が無い これはアイルランドのシャノンレーシングと 契約によりカラーが変更されたが シャノンとの協力体制が上手くいかず スポンサーマネーが支払われることがなかった 結局チームはR11ドイツGPには現れたものの このGPからFIAへ撤退の申し入れをした モンテルミニは次年度1997年はローラの テストドライバーを務める予定も チームが開幕戦で早々と撤退しF1から引退 所属チームがシムテック→パシフィック →フォルティ→マスターカードローラと ことごとく撤退する不運なドライバ―であった #F1-1996年
A.MONTERMINI 23 1/43 FORTIFW12C
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1975 (28TH) SPARK HILL GH1 G.HILL
2度のワールドチャンピオン グラハム・ヒル 最後のマシン 1975年G・ヒルは自らのチームHILLの 3年目にして念願の自製シャーシ完成 3戦まではローラ製のシャーシで出場 R4スペインGPからHILL GH1を導入し R・シュトルメンが予選9位を獲得(決勝R) R5モナコGPではG・ヒルが自らドライブ 過去5度のモナコGPウイナーであったが 予選落ち(18位までが決勝で21位) G・ヒルはこのGPをもってドライバ―から 引退をしてチームの運営に専念 GP出場176戦は当時の最多決勝出走記録 シーズン終了後次年度に向けたテストの帰路 G・ヒル自らが操縦する小型飛行機の着陸失敗 同乗していたトニー・ブライズらとともに 残念ながら帰らぬ人となってしまい これに伴いチームHILLも解散となった この時息子デイモン・ヒルは15歳 グラハム・ヒル (イギリス) 決勝出走回数 176回 予選最高位 PP(13回) 決勝最高位 優勝(14回) ファステストLAP(10回) ワールドチャンピオン 2回 1962年 BRM 9戦4勝 1969年 ロータス 12戦3勝 #F1-1975年 #F1最後マシン
G.HILL 1975 23 1/43FW12C
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1995 (25TH) ONYX PACIFIC FORD PR02 A.MONTERMINI
アンドレア・モンテルミニ イタリア出身 GPデビューマシン 1994年R・ラッツェンバーガー亡き後 シムテックから参戦するも R5スペインGPのフリー走行で 大クラッシュして骨折 予選を走行することなく欠場 1995年はパシフィックより レギュラーシートを獲得 開幕戦を予選22位→9位完走 R9ドイツは予選23位→8位完走 決勝8位はモンテルミニと チーム・パシフィックにとっても 生涯のベストリザルト パシフィックは1994年で撤退した ロータスの名称権を買収 ロータスのグリーンのラインと ロゴがマシンに小さく貼られていて 日本の企業の仲介もあり おーいお茶のITOENが スポンサーについていたが この年限りでF1から撤退した #1995
A.MONTERMINI 17 1/43 PACIFICFW12C