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千葉市美術館 続き 「さや堂ホール」
さや堂ホール 名前の由来「鞘堂方式」 さや堂ホールは 昭和2(1927)年、建築家 矢部又吉(1888~1941)の設計により建設された、川崎銀行千葉支店が原型です。 昭和18(1943)年、吸収合併により三菱銀行千葉支店となる。 昭和46(1971)年千葉市が所有し、中央地区区民センターとして平成2(1990)年4月まで利用されていた。 千葉市でに現存する数少ない歴史的建造物の一つで、ネオ・ルネッサンス様式を持つ唯一の建物です。 美術館・中央区役所をこの場所に建設するにあたり、 建物の保存を求める市民の声により、古い建物を解体せず覆うようにして新しい建物を建てる「鞘堂(さやどう)方式」という手法が採られました。 旧建物を後方に移し、その間、建物の基礎となる地下工事を行い、 再び元の位置に戻す大工事。 歴史的価値を消滅させまいと願う市民の思いと、当時の日本の技術と経済力により、建物の保存・再生がかないました。 巨大な財閥へと発展した川崎財閥の歴史・・・・ 旧川崎銀行、本店は東京、支店は水戸・佐原・佐倉・千葉にあった。 川崎財閥の基になった川崎家は江戸時代に水戸藩の為替御用達をしていた商家。 川崎八右衛門が興した川崎銀行は、1936(昭和11)年には第百銀行と銀行名を改め、預金額では住友・第一・安田・三井・三菱に次ぐ資本力になるまで発展した。 その後、戦時下の銀行合同政策によって、三菱銀行に合併され、川崎財閥は解体された。 東京川崎財閥(とうきょうかわさきざいばつ)は、川崎八右衛門によって設立された関東の財閥。 単に「川崎財閥」と呼ばれることもあるが、川崎重工業を中心にする神戸川崎財閥とは無関係。 「川崎定徳」は、その資産管理会社。
千葉市美術館「さやホール」 矢部又吉の設計による川崎銀行千葉支店 千葉市美術館0318
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板倉 鼎 須美子 展 続き
1920年代、エコール・ド・パリ全盛期。 独自の表現をつかみながら世を去った、若き夫妻の奇跡の画業。 板倉鼎(1901-29) 1919年(大正8)東京美術学校西洋画科に進み、在学中に早くも帝展への入選を果たす。 1925年(大正14)、ロシア文学者 昇 曙夢の長女須美子(1908-34)と 与謝野 鉄幹・晶子夫妻の媒酌により結婚。 翌年須美子とともにハワイ経由でパリに留学。 須美子は鼎の影響により、1927年(昭和2)頃より油彩画を手がけています。 パリでは斎藤豊作や岡鹿之助と親しみ、アカデミー・ランソンでロジェ・ビシエールに学ぶ。 そして次第に穏やかな写実的スタイルを脱し、簡潔な形と鮮烈な色彩による詩的な構成に新境地を拓き、 1927年、サロン・ドートンヌに初入選した。 一方須美子は、ホノルルの風物を純心な筆致で描き、やはり同展で初入選。 鼎は以後も精力的に制作を続け、須美子をモデルに、あるいは窓辺の静物に取材して多くの佳作を残しますが、1929年(昭和4)に惜しくも28歳で客死しました。 ふたりの娘たちも、須美子も相次いで亡くなっています。 早世したため評価の機会を逸しましたが、パリで確立した斬新・華麗な作風により、近年評価が高まっています。 須美子の油彩画もまた、そのまっすぐで明朗な造形に注目が集まっています。 〈板倉 鼎 須美子 展 /パンフレット〉 2021年(令和3年)7月、鼎と須美子の油絵、水彩画、素描など575点(うち284点が松戸市教育委員会に、248点が千葉県立美術館に、33点が千葉市美術館に、10点が大川美術館に)それぞれ寄贈された。 これらは2020年(令和2年)に111歳で死去した鼎の実妹・板倉弘子が保管し、寄贈は弘子の遺志による。 7枚目の画像が、 東京美術学校在学中に帝展に入選した「マンドリンを弾く 少女(妹弘子)」
夭逝の画家 板倉 鼎 須美子 千葉市美術館0318