【書き起こし】「日本のアートディーラー史:80年代/90年代東京アートシーン」スカイザバスハウス:白石 正美
CADAN Art Channelで配信された「日本のアートディーラー史: 80年代/90年代東京アートシーン」。スカイザバスハウス代表の白石正美さんにフジテレビギャラリーの活動、初期のNICAFの展示の様子などを紹介していただきました。本記事では配信の冒頭15分間の書き起こしをお届けします。
草間彌生さんや宮島達男さん、村上隆さんらをサポートしてきた白石さんは「作家や美術館が海外に出ていく際に資金的なサポートをすること」がギャラリーの仕事の一つだと解説します。
※記事は動画と一部異なる箇所があります。
文/ミューゼオ・スクエア編集部
イヴ・クライン、草間彌生。フジテレビギャラリーの活動
―― 皆さん、おはようございます。5月14日土曜日11時を回りました。本日は「日本のアートディーラー史」シリーズ第二弾をお送りいたします。80年代から90年代の東京アートシーンについて、スカイザバスハウスの白石正美さんにインタビューをします。白石さん、本日はどうぞよろしくお願いします。
白石: はい、おはようございます。
―― 前回は70年代までのお話を東京画廊の山本豊津さんにお伺いしました。今回は白石さんがフジテレビギャラリーでお仕事を始めた70年代から、80年代、90年代の東京または日本のアートシーンの様子をお伺いしたいと思います。
さっそくなんですが、日本のアートディーラー史の中でも、80年代、90年代は海外とのやりとりが盛んで、日本の現代美術のアートシーンの基盤になった時期だと思います。まずはこの時期に重要だったと思われる事柄を教えていただけますか?
白石: 私が仕事を始めたのは1972年です。大学を卒業してすぐフジテレビギャラリーというテレビ会社の子会社に入って、10年ほどいろいろな経験を積ませてもらいました。当時のアートマーケットは海外から印象派を含めた近代ものを入れていました。フジテレビギャラリーは比較的国際的な仕事をすることになっていたので、(マーク)ロスコや(フランシス)ベーコンなど、今でいうモダン・マスターズの展覧会をやっていたんです。タイトルは「20世紀美術のハイライト」なんていうちょっと仰々しい名前ですが。一方でテレビ会社の子会社だったので、メディアと組んで、国立も含めた日本各地の美術館に企画を提供するという仕事もしていました。
―― いまお話に出たフジテレビギャラリーは、誰もが知る、日本のアートシーンでも重要な存在だったと思います。その活動がどんなものだったのか、写真を見ながらご紹介いただけますか?
白石: これは1979年ですね。私が入社してから7、8年経って担当した展覧会でご紹介した作品です。イヴ・クラインは、ご存知のように日本との関係が大変深い作家です。50年代に来日し、60年代には東京画廊でも展覧会をやっています。それをギャラリーサイドとして本格的に取り上げました。
背景として、海外から日本に重要な現代美術を紹介しようというムードがあり、それをフジテレビギャラリーが引き受けました。これを私が担当したのです。作品は、いわき市立美術館や広島市現代美術館など、いろいろな美術館に買ってもらいました。これはおそらくいわきの美術館に入った作品で、今でもコレクションされていると思います。当時の我々の顧客としては、日本の公立の美術館がおもで、個人で現代美術を買うという人はあまりいませんでした。
仕事としてやっていたケースでは、泰西名画を池田20世紀美術館が買ったり、大昭和製紙の斎藤さんがゴッホを買った時代と重なります。そういう中で、こういう現代美術を仕事として私も担当していました。イヴ・クラインは一番最初に私が担当させてもらった展覧会なので、とても思い出深い展覧会です。
―― 次の画像をお願いします。
白石: これは皆さんご存知の草間(彌生)さんの展覧会です。フジテレビギャラリーで開催した一回目の展覧会なんですが、1982年開催と知るとみんな驚くでしょう。草間さんは、アメリカで非常にセンセーショナルに話題を集め、作品も作って、よく知られた存在となっていましたが、いろいろな事情で70年代半ばに日本に帰国しました。たまたまフジテレビのすぐ近くの病院にいたので、フジテレビギャラリーで展覧会をやろうということになりました。
写真からわかると思いますが、億単位の金額の作品がゴロゴロしているんですね。しかもこれがほとんど売れなかったんです。今のマーケットであれば、所蔵先もすぐわかる重要な作品だと思うのですが、当時は個人コレクターが何かを買うという状況ではありませんでした。
いま見ていて気づきましたが、黄色い作品はおそらく原美術館に入ったと思います。この写真はすごいショットだったので、ここで紹介してもらいました。
―― これは草間さんの中ではてんこ盛りな展示ですよね。イヴ・クラインと草間さんの話が出たのに関連して、その当時の70年代や80年代前半に「現代美術」という言葉はどれくらい浸透していたのでしょうか?
白石: 調べてみたところ、芸術は英語で言うと全てアートだけれども、現代美術はコンテンポラリーアートで、そのコンテンポラリーアートという言葉が西洋で市民権を得たのは90年代らしいです。
―― そうだったんですね。
白石: この間のアート・バーゼルのレポートにそう書いてありました。日本の状況では、美術や芸術というものがアートに変わったのが80年代くらいです。これは、アートが大衆化してポップアートにスポットが当たり始めた時期と関係しています。この時、メディアがアートを少しずつ取り上げるようになって、『ぴあ』などの情報誌が出てきました。情報誌の中で芸術や美術という言葉を使うと仰々しいので、アートという使いやすい言葉が定着したのだと思います。
―― そうですね、誌面だと「アート」というくくりでしたね。
「日本の現代美術は面白い」と紹介された80年代
―― 70年代から80年代前半はフジテレビギャラリーの展覧会が重要な位置を占めていました。その後の80年代後半はどのような時代なのでしょうか?
白石: 80年代の日本のアート状況としては、日本のアートが海外に紹介されると同時に、海外から日本に「日本のアートはどうなっているのか」と目が向けられた時期でした。日本がバブル経済だったこともあり、ロックフェラーのビルを買ったりティファニーを買ったりと、日本の起業家が海外にいろいろな投資をした時代でもありました。それがちょうど、日本のコレクターたちがいろいろな作品を買った時期に重なります。
その背景としては、先ほどの草間さんの話のように、「日本の現代美術は面白い」と海外に紹介されたという点が挙げられます。ただ、やはりマーケットとしては、現代美術を国内でコレクションするのは本当に限られた人や美術館だけでした。
また、草間さんを国際的な場に紹介したのは、彼女の作品をニューヨークに持っていったアレクサンドラ・モンローということになっていますが、私たちフジテレビギャラリーが現場で初めて草間さんのバイオグラフィーを編集しました。
―― バイオグラフィーというのは、まとまった資料のようなものですか。
白石: そうです。当時我々のスタッフだった千葉成夫さんや、いまインディペンデントキュレーターをしている飯田高誉さん、それから私の上司のギャラリー五辻の五辻通泰さんなどで全て編集しました。それをアレクサンドラ・モンローに提供したのです。
―― 今回のテーマは「アートディーラー史」ですので、アーティストが外に出て国際的に評価されていく前の段階でギャラリーがどんな仕事をしているかを、ここで白石さんにお話いただければと思います。
白石: ギャラリーの仕事の一つは、例えばいま言った資料作りのような、パブリックになる前の作家たちと非常に近い関わりを持つ仕事です。それからもう一つは、ヴェニス・ビエンナーレに日本作家が出ていくときなど、作家や美術館が海外に出ていく際に資金的なサポートをすることです。これはなかなか表に出てきませんが、ギャラリーの仕事として非常に重要です。
少し話が飛ぶかもしれませんが、2020〜2021年に六本木の森美術館でSTARS展が開催されました。80年代というのはちょうどこのSTARS展の作家たちが国内外でいろんな体験をした時期で、その後90年代以降に彼らは海外に出ていきました。この時期にいろいろな形でギャラリーがサポートをしたのです。STARS展の6人の作家のうち私自身が関わったのは先ほど申し上げた草間さんや宮島達男さんなどでした。宮島さんについては、80年代の後半からギャラリーたかぎがサポートをしていました。彼が海外に出る直接のきっかけは南條(史生)さんの推薦で(ヴェネチア・ビエンナーレの)アペルトに参加したことです。
その後、90年代に入ると、村上(隆)さんや奈良(美智)さん、さらにその少し後には杉本(博司)さん、李(禹煥)さんが出ていきました。さらに、ここで語られた「海外に出ていく」という動きの前に、作家を海外に紹介するために国内でどんな動きがあったのか、ということも重要です。こうした話は必ずしも公の場で語られませんが、ギャラリーの仕事に直接関係している部分だと思います。この辺りを少し探っていくと、アートシーン全体をさらに深みを持って見ることができるのではないでしょうか。
ーおわりー
配信開始から約15分間のトークを記事にしました。
のこり45分は下記のリンクよりアーカイブ配信を購入・視聴いただけます。