TEAM MODENA 291 SAN MARINO GP 1991

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メキシコ初のF1チームを参画したメキシコ人実業家のチームとランボルギーニ社の全面支援で1991年にエントリーしたチーム。
しかし、1990年この新マシン291のシェイクダウン中に、メキシコ人実業家が資金を持ち逃げする。ランボルギーニ社は、エントリー後の欠場による多額の罰金を回避するため、イタリア人資産家の協力のもと、イタリア・モデナに本拠地を移設、日本の土井不動産も「Central Park」ブランドでメインスポンサーとして資本参加し、1991年を戦った。12気筒のランボルギーニは、年間を通して、予備予選・予選とも不通過がほとんどで、低調に終わる。その後も紆余曲折するもランボルギーニの撤退、資金不足などからチームはF1を撤退することになった。
この頃の新興チームは、一年で撤退するチームも多く悲惨な結末が多かったですね。
また、バブリー日本企業も最終的に投資失敗に終わり、これまた哀れな最後だったのを覚えています。
このマシンの好きなところは、メタルブルーのカラーリングもそうですが、なんと言っても曲線的に斜めになった三角形のサイドポンツーンがカッコよく、また12気筒の甲高いサウンドも魅力的でした。
#spark
#lamborghini

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  • Bzfddjq

    うえだかずや

    2023/11/30

    スープアグリでも資金不足でF1撤退しましたね。HONDAが支援してたけどね✨

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    sennakazu

    2023/12/01 - 編集済み

    日本オートポリスもバブルに翻弄された悲惨な会社でしたね。
    1990年のバブル全盛期にオープン、F1開催を目指して建設されたサーキット場だけに、積極的にF1誘致活動を行うこととなり、2年間ベネトンチームの大手スポンサーとしてサイドポンツーンに大々的に広告を出して、フラビオ・ブリアトーレやネルソン・ピケを招待したり、FIAのドン、バーニー・エクレストンに対してロビー活動をしたりして、かなりの資金を費やしました。これが身を結び1993年に第3戦の「F1アジアGP」の初開催することになり、新たな投資としてホテル、ピットビル、グランドスタンド、ピケの博物館、美術館、カートコース、ヘリポートなど大型施設を建設・整備をしたりしましたが、バブル崩壊により1992年に日本オートポリスは倒産してしまいました。結局、F1初開催もキャンセルとなり、ホテル、美術館も閉鎖されてしまい、やっと掴んだ夢は脆くも崩れ、このような悲惨な結果になってしまいました。当時、鈴鹿以外の初開催の歓喜、そして急にやってきた驚きと消失感をよく覚えています。
    その後、いくつか経営母体が変わり、オートポリスとして再建されていますが、熊本地震の影響などで大変なようです。(参照ウィキペディア)

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    • Bzfddjq

      うえだかずや

      2023/12/01

      確か高額絵画購入して銀行側が融資停止措置をとった話がありますけど

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    sennakazu

    2023/12/01

    大々的なサイドポンツーン広告。
    当時の話では、F1開催するには知名度を上げるためにも大々的にスポンサーになることも必要と、ドンから言われたとか言われなかったとか。。潤沢な資金があったからできたんでしょうが。。。

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