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クエイ兄弟 ファントム・ミュージアム 続き
ブラザーズ・クエイは、スティーブン・クエイとティモシー・クエイの一卵性双生児、1947年 アメリカ・ペンシルベニア州ノリスタウン生まれの映像作家。 彼らは主にストップモーション・アニメーションの分野で活躍し、独特で完成度の高い映像作品を生み出している。 クエイ兄弟 ファントム・ミュージアム展は、 2016年7月~10月 神奈川近代美術館葉山 2017年6月~7月 渋谷区立松涛美術館 で開催された。 同展の開催に合わせ、2017年7月 シアター・イメージフォラムにて「ブラザーズ・クエイの世界」が、記念上映された。 不思議で幻想的・陰鬱、しかしどこか軽やかなユーモアも感じられる人形アニメーション、その独特のダークな世界観は「クエイ兄弟の世界」としか言いようがない・・・・
ストップモーション・アニメーション The QUAY Brothers 神奈川県立近代美術館 葉山、 松涛美術館0318
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クエイ兄弟 ファントム・ミュージアム
ブラザーズ・クエイは、スティーブン・クエイとティモシー・クエイの一卵性双生児、アメリカ・ペンシルベニア州ノリスタウン生まれの映像作家。 彼らは主にストップモーション・アニメーションの分野で活躍し、独特で完成度の高い映像作品を生み出している。 彼らの代表作には、1986年に発表された『ストリート・オブ・クロコダイル』がある。 この作品は、ポーランドの作家・芸術家ブルーノ・シュルツの連作短編集『肉桂色の店』の一遍『大鰐通り』を下敷きにしたもので、陰鬱かつ退廃的な幻想的な映像世界が特徴だ。 『ストリート・オブ・クロコダイル』を見た時の衝撃は忘れられない。 ネジやタンポポの種など日常ありふれたものが、映画の中では全く違って見える。 「ファントム・ミュージアム」と副題にあるが、まさに幻や 亡霊 など、 幻想の中の時間と空間のようだ。 独特のダークな世界観は「クエイ兄弟の世界」としか言いようがない・・・・
陰鬱かつ退廃的な幻想的な映像世界 The QUAY Brothers 神奈川近代美術館葉山0318
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Frank Gehry I have an Idea フランク・ゲーリー展 続き
2013年12月 日経「私の履歴書」は、マーケッターのフィリップ・コトラー。 19日付に、まちおこしの相談を持ち掛けられたビルバオ市当局との経緯が述べられている。 「ここは素敵だが、目玉がない。必要なのは素晴らしい美術館、劇場などだ」 彼らの目の色が変わり、特色のある美術館づくりが動き出す。 ある地元の賢人「大切なのは最高の美術品があるだけではなく、美術館そのものが最高の芸術であることだ」と言い出した。 素晴らしい知見だと思う。 そして世界的な建築家、フランク・ゲーリーとの契約にこぎつけて1997年に「ビルバオ・グッゲンハイム美術館」が開館した。 建物自体が傑出したデザインで、世界中から観光客がやってくるようになり、町は映画「007」の舞台にもなった。 ビルバオ フランスとの国境に近いバスク地方の中心都市ではあるが、鉄鋼産業の衰退で、かっての繁栄は消えた。 ところがこの地味な港町が、アートと建築の領域で、世界一ホットな都市に変身したのである。 きっかけは一つの美術館だった。 ニューヨークに本拠を置くグッゲンハイム美術館がその分館をこのビルバオに建設したのである。 鉄鋼業に代わる新たな産業を模索していた市当局と、「美術館ネットワークを世界に築く」というグッゲンハイムの意向が一致し、チタン製の外装を纏った銀色の雲のような巨大な美術館が、スペインの重厚な街並みのど真ん中に突如出現したのである。 隈 研吾 「ビルバオの秘密」 フランク・ゲーリー 1929年カナダ生まれ。 アメリカに移住、夜学で建築を学んだ苦労人。 モダニズム、ポストモダニズムの潮流に乗りながら、やがて脱構築主義建築の旗手として独自のスタイルを確立していく。 テクノロジーの進歩に支えられ、ゲーリー建築が一気に花開いたは60代になってからだ。 I have an Idea フランク・ゲーリー展 21_21 DESIGN INSIGHT 2015.10~ 他に「シドニー工科大学ドクター・チャウ・チャク・ウイング棟」 「ディズニー・コンサートホール」L.A, 「ファンダシオン ルイ・ビトン」パリ の画像をUPしました。
脱構築主義建築 フランク・ゲーリー 21_21 DESIGN INSIGHT0318
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miniature carriage clocks 続き
ミニチュァーを収めたケースです。 煩悩の赴くままの成り行きで、限度を超えていたのです。 コロナ・パンデミック時には、密閉・密集・密接を避ける。 三つの密にならない工夫が出来ずに、時折扉を開き空気を入れ替えること位しかできませんでした・・・・ どうにかしなければ・・・と考えていたところ、 同じ陳列ケースに巡り会い,購めることが出来ました。 新型コロナウイルス感染症は、 5類へ移行ということですが、油断はできません。 最近、インフルエンザが流行りだしたとか?? 用心するに越したことは有りません。 我家のファミリーも 3蜜が解消されて 喜んでいる様子です。 最後の画像が、以前の密集状態でした。
miniature carriage clocks FRANCE0318
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「コートールド美術館展 魅惑の印象派 」 2019年9月~ 東京都美術館 続き
コートールド美術館(Courtauld Gallery)は、ロンドン大学付属コートールド美術研究所の展示施設で、サマセットハウスという新古典主義建築の中に位置する。 1932年にイギリスの実業家サミュエル・コートールドの印象派・後期印象派のコレクションがロンドン大学に寄贈されたことから設立された。 比較的小規模な美術館ですが、そのコレクションの質の高さで知られる。 印象派の研究機関としては世界随一で、その印象派コレクションも世界有数のもの。特にセザンヌ、ゴーギャンはイギリス国内で最大の作品数を保持してる。 現代では数多くのファンを集める印象派だが、コートールドが収集していた1920年当時はまだ注目されていなかったとか・・・・ 今回のコートールド美術館展は、そのコートールド美術館の施設が改修のため2020年まで2年間の休館をするというタイミングで実現した。 コートールドのコレクションが来日するのはおよそ20年ぶり。 この機を逃すと、日本国内でこの印象派コレクションを見られる機会はしばらくないといえる。 さてその内容は、マネ最晩年の傑作「フォリー・ベルジュエールのバー」、 19世紀後半の近代都市パリの風俗を映した、 ルノアールが第1回印象派展に出品した記念碑的作品「桟敷席」、 セザンヌ「カード遊びをする人々」、 ゴーガン「テ・レリオア」、 日本の風景のようだと語られたファン・ゴッホによるアルルの風景「花咲く桃の木々」、 科学調査が作品の秘密を解き明かしたゴーガンの「ネヴァーモア」や モディリアーニの《裸婦》など等、巨匠たちの代表作 60余点がズラリと並ぶ。
印象派、ポスト印象派 コートールド美術館 東京都美術館0318
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「コートールド美術館展 魅惑の印象派 」 2019年9月~ フォリー・ベルジェールのバー
実業家サミュエル・コートールドが収集したコレクションを核に1932年ロンドンに設立されたコートールド美術館。 美術史や保存修復において世界有数の研究機関であるコートールド美術研究所の展示施設です。 コートールド美術館の改装工事に合わせて、印象派・ポスト印象派の逸品が来日しました。 さて、マネ、最晩年の傑作「フォリー・ベルジェールのバー」 フォリー・ベルジェールとはパリにあるミュージックホール(4,5,6の画像) パリ黄金時代といわれる1890年代から1920年代には絶大な人気を誇りました。 内容は歌劇やパントマイムから始まり、次第にサーカスやカンガルーのボクシングなど過激なショーが行われるようになり、1895年には日本の大道芸の公演も行っていたそうです。 マネが元気だった頃、足しげく通っていた場所でもありました。 ホール内にはバーも併設されており、マネはこのバーを描いた。 病気療養中だったマネは手足のマヒや痛みに苦しむ状況で、現地でデッサンした後は家を出ることができず、アトリエにバーカウンターを造り、 フォリー・ベルジェールのバーメイドの「シュゾン」をアトリエへ呼んで描かいた。 シュゾンは流行の黒色のドレスとチョーカーを身に付けている。 この絵を見ていると、背景が消え女性の表情に意識が集中していく。 騒々しい場面にも関わらず音は消え失せ、静寂の中で虚ろなシュゾンの表情だけが印象に残り、ひときわ存在感を放つ。 バーの背後は大きな鏡で、フォリー・ベルジェールの広さが伺えます。 ひげを生やした男性と話をしているシュゾンの目は上の空といった様子。 しかし、この絵画の背景をじっくりとみていくと、なんとなくモノや人の配置に違和感を覚える。 正面に描かれたシュゾンが鏡の右に寄っていたり、遠近感がいびつに感じる。 鏡の男性は普通ならシュゾンのほぼ後ろに来るのでは?とか、 作品の大部分は、鏡の中の世界。 さまざまな解釈を呼び起こしてきた鏡像のずれ、 現実を描いているようで、現実ではない、鏡を使ったトリック的な絵。 (最後の画像が配置を説明している図) マネはさまざまな要素を卓越した技術でひとつの画面に収めた。 1882年に描かれた彼の最晩年の傑作で、翌年マネは51歳で亡くなります。 フォリー・ベルジェールは上記で紹介したとおりミュージックホールでした。 しかしながらフォリー・ベルジェールのバーは単なるバーではなく、売春婦を買うことのできる場所としても有名でした。 急激な経済発展を遂げた1860年代のフランスでは、その代償として経済格差が広がっていた。 当時のフランス女性は、結婚するか娼婦になるか安い給料でお針子をするかしか道がなく、多くの女性が娼婦に流れ、バーメイドも「酒と性の売り子」と呼ばれ、 バーで働きながら売春婦としても生きていたとか・・・・ 賑やかなミュージックホールのバーメイドのアンニュイな表情は、 輝かしい経済発展の裏に隠された当時のパリの陰を映しているのか。 ちなみにフォリー・ベルジェールは時代と共に変化はあるものの現在も当時と同じ場所で営業してる(7枚目の画像) 東京都美術館「コートールド美術館展 魅惑の印象派」より「フォリー・ベルジェールのバー」
サミュエル・コートールド コレクション エドゥアール・マネ 東京都美術館0318
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「モデル二テ パリ・近代の誕生 オルセー美術館展」 1964年 1月~
1848~1914 印象派、カフェ、オペラ座、エッフェル塔、アール・ヌーボー 「19世紀の首都」パリを舞台に、新しい社会と芸術が生まれた。 パリを重苦しく囲んでいた中世以来の城壁や迷路のような路地が消え、代わってオペラ座やエッフェル塔、そして広い並木道が出現し人々を興奮させる。 19世紀後半のパリは、産業の急速な発展を背景に「19世紀の首都」と呼ばれるほど華やかで、活気に満ちた近代都市へと変貌を遂げる。 この街を舞台に、芸術家たちは新しい時代にふさわしい美意識を追求し、それまでにない豊かで革新的な芸術を生み出した。 世界屈指の質と量を誇る印象派絵画で有名なオルセー美術館は、絵画部門はもとより、彫刻、工芸、建築、デザイン、写真などあらゆる分野に及ぶ近代美術の優品を所蔵。 セーヌ川を挟んで対岸に位置するルーブル美術館と人気を二分しています。 近代都市パリ成立の過程の中で、社会生活、文化・芸術のあらゆる相を貫く「モデル二テ(近代性)」に合わせた逸品を・・・・ カタログより さて、モリゾをモデルに描かれたマネの有名な作品として、1869年のサロンで展示された油彩「バルコニー Le Balcon」が代表作として挙げられる。 手前で椅子に腰かけている女性がベルト・モリゾ。隣に立っている女性はヴァイオリニストのファニー・クラウス、後ろの紳士は風景画家のアントワーヌ・ギュメ。 発表当時は、「現代の生活をただ描いただけの絵」、「平面的な絵」として酷評されたという。 後半は、ベルト・モリゾ(1841~1895)の作品。 ベルト・モリゾは「最も人気の高い女性印象派画家」 マリー・ブラックモンやメアリー・カサットと並ぶ 3大女性印象派画家の1人。 1874年から、ポール・セザンヌ、エドガー・ドガ、クロード・モネ、カミーユ・ピサロ、ピエール・オーギュスト・ルノワール、アルフレッド・シスレーなど、 パリ・サロンから拒否された画家たちが主催する印象派展に参加。 なお、彼女はエドゥアール・マネの弟ウジェーヌ・マネの妻であり、 またマネのモデルとしてもよく知られている。 1878年に娘ジュリーを出産。 夫婦仲も良く、夫や娘を題材にした作品を多く描いていた。
モデル二テ パリ・近代の誕生 オルセー美術館 国立西洋美術館0318
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「マネとモダン・パリ」展 三菱一号館美術館 2010. 4~
『すみれの花束をつけたベルト・モリゾ』bouquet de violettes)は、 エドゥアール・マネ(1832~1883)が1872年に描いた油絵。 女流画家としても有名なベルト・モリゾの肖像である。 この絵が完成後の1874年、ベルト・モリゾは、エドゥアール・マネの弟ウジェーヌ・マネと結婚する。 ベルト・モリゾの表情の軽く笑みを浮かべているのが印象的である。 黒に近い暗い色の衣服と帽子そして首に巻かれたチョーカー、 すみれ色の花束が地味に描かれている。 白い室内とのコントラスで浮かび上がる。 さて、三菱一号館美術館に展示された『すみれの花束をつけたベルト・モリゾ』の作品は、とりわけ大きいわけでもなく、強烈な主張をしているわけでもないのに、作品の中からにじみ出る美しさ、品格、そして何よりその力強さには、圧倒されるものがあり感動的でした。 話を戻します、この作品は美術評論家のテオドール・デュレの所有になった後、1894年にデュレがコレクションを売却した時、ベルト・モリゾ自身が購入した。 1966年にモリゾの娘、ジュリー・マネに相続され、さらに孫のクレマン・ルアールへと相続された後、1998年にオルセー美術館が購入、 物語は続く・・・・
「マネとモダン・パリ」展 エドゥアール・マネ + ベルト・モリゾ 三菱一号館美術館0318
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「ヴァニタス 書物と髑髏のある静物」続き 国立西洋美術館
コリールは17世紀後半のオランダの静物画家、肖像画家。 彼は髑髏、地球儀、楽器などからなる、現世のはかなさや虚栄に対する警告としてのヴァニタス画を得意とし、迫真的な写実描写の静物画を多数制作した。 書物=学識も、しばしば現世的なものの象徴と考えられた。 髑髏、火が消えたばかりで煙がのぼる燭台、時計、砂時計 → 過ぎ去った時の無常さを意味する。 髑髏が意味する通り、「最後には死が勝利する。何人も死に勝つことはできない」 財布、倒れたグラス、ショーム(オーボエの前身)などが所狭しと並んでいる。 一見、無造作に放置されたように見えるが、 2本の対角線に沿って慎重に構図が決定されたことがわかる。 画面前景中央の紙片には『詩篇』第26章の一節が引用されており、 この作品のメッセージが端的に要約されている。 過ぎ去った時の無常さ「ポケットウオッチ」をUPしました。
「ヴァニタス 書物と髑髏のある静物」 コリール 国立西洋美術館0318
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N・Y グッゲンハイム美術館
ニューヨーク・セントラルパーク東側にあるグッゲンハイム美術館 近現代美術の殿堂だ。 白亜の螺旋構造の建築で、完成したのは1959年。 設計者のライトは完成直前に亡くなり、竣工を見届けることはできなかった。 「かたつむりの殻」とよく形容される螺旋状の構造をもったこの建築物は、 中央部が巨大な吹き抜け空間 まず最上階までリフトで上がり、螺旋状壁面の作品を鑑賞しながら下っていくという機能的な設計である。 また、この螺旋は下方に従ってすぼまる構造であるため、上から展示全体を俯瞰することが出来る。 そのため、美術館にありがちな閉鎖的な雰囲気が無く、気持ちが良い。 幾度訪れても新鮮に感じるのはこの螺旋構造のためかもしれない。 この螺旋デザインの美術館は、建築自体の存在を際立たせるためのライト一流の秘策だったのだろう。 さて、現在の美術館は1943年にフランク・ロイド・ライトに建築設計が委託され、翌年には設計案を作成したが、着工までには紆余曲折があり、創立者のグッゲンハイムは没年の1949年、死ぬ間際になってようやくライトの設計案を承認した。 そして、建物の竣工までには更に10年間の歳月を要し、完工したのは1959年。 ライトの死後半年後のことであった。 (ここまで時間がかかった原因の一つに、この前例のない建築物に対し、ニューヨーク市当局が建築基準法上の許可を出すのを渋った事情からともいわれている) ライトの代表作に数えられている一方で、建築自体の自己主張が強過ぎ、床が傾斜しているため落ち着かず、美術品の鑑賞をさまたげるという批判もある。 「フランク・ロイド・ライト 20世紀建築作品群」で、世界遺産に登録されている。 最初に私が訪れたのは、2000年1月の、大雪の日でした。 フランク・ゲーリーによる、ビルバオ・グッゲンハイム美術館の画像を最後に付けました、なお詳細は187Fに掲載しています。
近現代美術館 F・L・ライト + グッゲンハイム N・Y マンハッタン 5th AV0318
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柚木 沙弥郎 いのちの旗じるし 続き
柚木沙弥郎 染色家。 柳宗悦の「民藝」と芹沢銈介のカレンダーとの出会いから染色の道に進む。 型染による染布、染絵など多くの作品を制作しながら、女子美術大学で教鞭をとる。 シンプルで力強い造形力の染色作品のほか、絵本や版画、立体作品にも取り組む。 国内外で数多くの個展を開催。 後半の画像は、盛岡の「光原社」です 光原社は宮沢賢治ゆかりの工芸品店で、クラシカルな喫茶店「可否館」を併設。 盛岡を訪れたらなら、この「可否館」と「841」は外せない。 さて、「見聞録」は今どうなっているのかな? 光原社はかつては児童文学の金字塔として今も読み継がれる宮沢賢治の『注文の多い料理店』を出版したことで知られる出版社でした。 創業者・及川四郎が宮沢賢治と同じ盛岡高等農林学校の1年後輩という間柄で、 光原社という社名も賢治が名付けたという、宮沢賢治ゆかりの老舗です。 『注文の多い料理店』は、今ではとても有名な宮沢賢治の作品ですが当時はあまり注目を集めることはなく出版業は失敗に終わったそうです。 その後、岩手を代表する工芸品・南部鉄器の製造販売をはじめ、 民藝運動の提唱者、柳宗悦との交流を深める中で、現在のような形態になっている。
いのちの旗じるし 柚木 沙弥郎 世田谷美術館0318
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フェルナンドボテロ 続き 圧倒的な存在感
思いだしました。 そういえば、埼玉近代美術館のアプローチに巨大な塑像が横たわっていたっけ。 6~7m程あり、圧倒的な存在感。 触ってそのふくよかさを確かめたくなる。 ボテロは、1973年パリに転居してからは経済状態が良くなって、積極的に彫刻に取り組むようになったとか・・・・ 山田五郎「オトナの教養講座」で、国内のあちこちにあるんだよ、と話されていた。 そんなことで、埼玉近代美術館で見かけたふっくらした巨大な塑像を思い出したのでした。
ふくよかな魔法 フェルナンド・ボテロ 埼玉近代美術館0318
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水戸にアダストリア会長が新美術館、衣料から街づくりへ 旧川崎銀行水戸支店
4月25日 日経新聞に以下の記事が掲載されていた。 全く偶然のタイミングなのでしょうが、何か因縁を感じます。 大手アパレル「アダストリア」の福田三千男会長が理事長を務める「哲文化創造一般財団法人」は、水戸市泉町の旧川崎銀行水戸支店の建物を改修し、 美術館やカフェを併設した複合施設「テツ・アートプラザ」を来年秋にオープンすると発表した。 前身の旧川崎銀行水戸支店は、 東京国立博物館表慶館などを手がけた新家孝正の設計で、1909(明治42)年に完成。 外観はルネサンス様式を模した石造りで、アーチ状の縦長窓など、当時の銀行建築らしい重厚な印象を漂わせる。 2019年まで三菱UFJ銀行水戸支店として使用されていた。 美術館には、氏が収集した横山大観や上村松園などのほか、 シルクロードの陶磁器や仏教芸術のコレクションなどが展示される予定。 美術館だけでなく、カフェやコミュニティスペースとし市民に無料で開放する。 福田理事長は、昭和30年代の風景を回想しながら 「旧川崎銀行は街のシンボルだった」「小学生の頃、屋根に登って遊んだ思い出の場所」 「若い人たちが気軽に集まれる、コミュニティの場となれば」と希望を述べていた。 さて、アパレルファション「アダストリア」についてもう少し・・・ 私が知っていた頃は 自由ケ丘「ポイント」や「ローリーズファーム」など。 デザインでかかわった宇都宮「福田屋百貨店」と親戚関係など・・・でした。 が、チェックしましたら、驚くことばかり 渋谷ヒカリエ27Fに本社を構え、1500店舗を運営、ZETONをグループ会社化・・・・ です。
衣料から街づくりへ 旧川崎銀行水戸支店の建物 「アダストリア」福田三千男 会長0318
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千葉市美術館 続き 「さや堂ホール」
さや堂ホール 名前の由来「鞘堂方式」 さや堂ホールは 昭和2(1927)年、建築家 矢部又吉(1888~1941)の設計により建設された、川崎銀行千葉支店が原型です。 昭和18(1943)年、吸収合併により三菱銀行千葉支店となる。 昭和46(1971)年千葉市が所有し、中央地区区民センターとして平成2(1990)年4月まで利用されていた。 千葉市でに現存する数少ない歴史的建造物の一つで、ネオ・ルネッサンス様式を持つ唯一の建物です。 美術館・中央区役所をこの場所に建設するにあたり、 建物の保存を求める市民の声により、古い建物を解体せず覆うようにして新しい建物を建てる「鞘堂(さやどう)方式」という手法が採られました。 旧建物を後方に移し、その間、建物の基礎となる地下工事を行い、 再び元の位置に戻す大工事。 歴史的価値を消滅させまいと願う市民の思いと、当時の日本の技術と経済力により、建物の保存・再生がかないました。 巨大な財閥へと発展した川崎財閥の歴史・・・・ 旧川崎銀行、本店は東京、支店は水戸・佐原・佐倉・千葉にあった。 川崎財閥の基になった川崎家は江戸時代に水戸藩の為替御用達をしていた商家。 川崎八右衛門が興した川崎銀行は、1936(昭和11)年には第百銀行と銀行名を改め、預金額では住友・第一・安田・三井・三菱に次ぐ資本力になるまで発展した。 その後、戦時下の銀行合同政策によって、三菱銀行に合併され、川崎財閥は解体された。 東京川崎財閥(とうきょうかわさきざいばつ)は、川崎八右衛門によって設立された関東の財閥。 単に「川崎財閥」と呼ばれることもあるが、川崎重工業を中心にする神戸川崎財閥とは無関係。 「川崎定徳」は、その資産管理会社。
千葉市美術館「さやホール」 矢部又吉の設計による川崎銀行千葉支店 千葉市美術館0318
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板倉 鼎 須美子 展 続き
1920年代、エコール・ド・パリ全盛期。 独自の表現をつかみながら世を去った、若き夫妻の奇跡の画業。 板倉鼎(1901-29) 1919年(大正8)東京美術学校西洋画科に進み、在学中に早くも帝展への入選を果たす。 1925年(大正14)、ロシア文学者 昇 曙夢の長女須美子(1908-34)と 与謝野 鉄幹・晶子夫妻の媒酌により結婚。 翌年須美子とともにハワイ経由でパリに留学。 須美子は鼎の影響により、1927年(昭和2)頃より油彩画を手がけています。 パリでは斎藤豊作や岡鹿之助と親しみ、アカデミー・ランソンでロジェ・ビシエールに学ぶ。 そして次第に穏やかな写実的スタイルを脱し、簡潔な形と鮮烈な色彩による詩的な構成に新境地を拓き、 1927年、サロン・ドートンヌに初入選した。 一方須美子は、ホノルルの風物を純心な筆致で描き、やはり同展で初入選。 鼎は以後も精力的に制作を続け、須美子をモデルに、あるいは窓辺の静物に取材して多くの佳作を残しますが、1929年(昭和4)に惜しくも28歳で客死しました。 ふたりの娘たちも、須美子も相次いで亡くなっています。 早世したため評価の機会を逸しましたが、パリで確立した斬新・華麗な作風により、近年評価が高まっています。 須美子の油彩画もまた、そのまっすぐで明朗な造形に注目が集まっています。 〈板倉 鼎 須美子 展 /パンフレット〉 2021年(令和3年)7月、鼎と須美子の油絵、水彩画、素描など575点(うち284点が松戸市教育委員会に、248点が千葉県立美術館に、33点が千葉市美術館に、10点が大川美術館に)それぞれ寄贈された。 これらは2020年(令和2年)に111歳で死去した鼎の実妹・板倉弘子が保管し、寄贈は弘子の遺志による。 7枚目の画像が、 東京美術学校在学中に帝展に入選した「マンドリンを弾く 少女(妹弘子)」
夭逝の画家 板倉 鼎 須美子 千葉市美術館0318