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郡上八幡城
戦国時代末期、郡上一円は篠脇城を居城とする東氏(とうし)によって支配されていた。その後、東氏は郡上八幡の町を流れる吉田川の対岸にある赤谷山に赤谷山城を構えたが、永禄2年(1559年)牛首山(後の八幡山)の上に砦を築いた遠藤盛数により滅ぼされた。その時、赤谷山城を攻撃した時に砦を築いたのが郡上八幡城の起源である。 その後盛数の長男慶隆が城主となったが、本能寺の変後羽柴秀吉と対立する織田信孝の傘下に属していたため追放された。慶隆追放後、天正16年(1588年)に稲葉貞通が城主となり、郡上八幡城の大改修を行った。その内容は八幡山の麓に新たに濠を掘り、本丸に天守台を設け、塁を高くして、塀を巡らし、武庫と糧庫を増築し、鍛冶屋洞に面して大きな井戸を掘り、二の丸を増築して居館とした。この時、現在見られる近世城郭としての郡上八幡城の基礎が築かれた。 その後、関ヶ原の戦いの功によって再び慶隆が城主となり、城の改修を行った。『慶隆御一世聞書』によると、郡上八幡城は慶長6年(1601年)春から慶長8年(1603年)秋まで普請を行い「惣石垣三塀二重之矢倉松ノ丸桜ノ丸等出来」とある。5代藩主常久まで遠藤氏が城主となり、以後井上氏2代、金森氏2代、青山氏7代と城主が変遷。廃藩置県まで郡上藩の藩庁であった。青山幸宜が藩主の際に明治維新を迎え、廃藩置県によって廃城となる。廃城の翌年の明治3年(1870年)に、石垣だけを残し、取り壊された。現在の天守は、大垣城[3]を参考に1933年(昭和8年)模擬天守としては全国的にも珍しい木造で造られた(本天守は現存する木造再建城としては日本最古となる)。
平山城 300円 岐阜県(美濃国)入江 徹也
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越前大野城
1575年(天正3年)、織田信長より越前一向一揆を平定した恩賞として越前国大野郡の内の3万石を与えられた金森長近がその翌年(1576年)[7][8]、最初に居城とした戌山城の近くの亀山(大野盆地の小孤峰)に城郭を築き始めたのが越前大野城の始まりである。築城に4年間を要し1580年(天正8年)に竣工した。その後、青木一矩時代を経て越前松平家が3代続いた後天領となり、土井氏で定着するまで目まぐるしく城主が替わった。城は1775年(安永4年)に焼失し、1795年(寛政7年)には天守を除いて再建されたが、明治維新後に破却されている。 昭和に再建された越前大野城は、竹田城(兵庫県朝来市)、備中松山城(岡山県高梁市)と並び、城(城跡)が雲海に浮かぶ「天空の城」の異名がある。
平山城 300円 福井県(越前国)入江 徹也
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一条谷城
軍記物である『朝倉始末記』には1471年(文明3年)に戦国初代朝倉敏景(孝景・教景)が黒丸館(福井市黒丸町)から本拠を移したと記されている。しかし、「朝倉家伝記」や「朝倉家記」などの新資料によると、朝倉氏は南北朝時代には、一乗谷を本拠にしていたようである。文明年間には重臣が一乗谷に集住するようになり、また、足利将軍家の分家である鞍谷公方などもいたことから応仁の乱により荒廃した京から、多くの公家や高僧、文人、学者たちが避難してきたため一乗谷は飛躍的に発展し、華やかな京文化が開花した。このため北ノ京とも呼ばれた。戦国4代朝倉孝景の頃から全盛期を迎え、最盛期には人口1万人を超え、越前の中心地として栄えていた。 1499年(明応8年)には足利義稙が朝倉貞景を頼り来訪する。1567年(永禄10年)11月21日には戦国5代朝倉義景が足利義昭(1568年(永禄11年)4月一乗谷で義昭に改名)を安養寺に迎える。義景は義昭を歓待するが、同年7月24日、義昭は上洛を果たすため織田信長を頼って美濃国に出国する。 1573年(天正元年)8月16日、刀禰坂の戦いに大敗した義景は一乗谷を放棄し大野へ逃れる。翌日、信長の軍勢によって火を放たれ一乗谷は灰燼に帰した。
山城 300円 福井県(越前国)入江 徹也