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蟹江城
永享年間(1429年 - 1440年)、北条時任より築城される。 1555年(弘治元年)、今川方によって攻略された。(蟹江七本槍が有名である)、その後も伊勢国の長島城主だった服部友貞の支配下に入り、織田氏と対立する地域の戦いの場となる。 1567年(永禄10年)、友貞の資金により、織田家家臣滝川一益によって再構築され、その後の北伊勢進攻(1568年 - 1570年)、長島一向一揆(1570年 - 1574年)鎮圧の拠点となる。 1583年(天正11年)、一益は賤ヶ岳の戦いの後に羽柴秀吉に敗れ、織田信雄の家臣、佐久間信栄が城主となる。 1584年(天正12年)、小牧・長久手の戦いにおける蟹江城合戦では秀吉方となった一益に攻略されるも、徳川家康・織田信雄の大軍に包囲され、篭城戦の末、半月後に落城した。 1585年(天正13年)、天正地震により壊滅した。
平城 300円 愛知県(尾張国)入江 徹也
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大垣城
1500年(明応9年)に竹腰尚綱によって揖斐川(牛屋川)東河岸にあった牛屋に築かれたともいわれ、1535年(天文4年) に宮川安定が大尻に築いたともいわれる。この当時は、牛屋城と呼ばれていたとされている。 1544年(天文13年)に織田信秀により落城し、織田信長が5年間城主を務める。その後、1549年(天文18年)、斎藤氏配下の竹越尚光が城主となる。 織田氏、斎藤氏、織田氏と支配権が移った後、この地域の支配権を獲得した豊臣秀吉により、1583年(天正11年)に池田恒興が城主となった。所領は15万石とされる。翌1584年(天正12年)に小牧・長久手の戦いで恒興が戦死すると息子の輝政が継いだが、さらに翌年の1585年(天正13年)に輝政は岐阜城主になる。代わって1585年(天正13年)には田中吉政(秀次近侍)・中村一氏(近江水口岡山城)・堀尾吉晴(近江佐和山城)・山内一豊(近江長浜城)らとともに秀吉の甥・豊臣秀次(近江八幡山城)の宿老に任命された一柳直末が、大垣城に配され3万石を領したが、1586年(天正13年)11月29日(旧暦)(1月18日)の天正地震で城は全壊焼失した。 1588年(天正16年)に一柳直末によって、若しくは 1596年(慶長元年)頃、伊藤祐盛が城主の時に改築が行われ、天守が築かれたとされる。 天正18年(1590年)の小田原征伐で功を挙げたことから伊藤盛景が城主となり、1599年に盛景が死ぬと子の伊藤盛宗があとを継いだ。 1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの際には、城主・伊藤盛宗が西軍に属したため、石田三成らが入城して西軍の根拠地となる。その後、西軍本隊は関ヶ原に移動、城内には福原長堯らが守将となって残るが、関ヶ原の本戦で西軍が敗北すると東軍に攻囲され落城(大垣城の戦い)。そのときの逸話が『おあむ物語』として残っている。 江戸時代に入り、徳川家康は譜代大名として石川康通を城主にし、その後1635年(寛永12年)に戸田氏鉄が城主となって以降、明治に至るまで大垣藩戸田氏の居城となった。
平城 300円 岐阜県(美濃国)入江 徹也
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墨俣城(一夜城)
築城時期は不明である。長良川西岸の洲股(墨俣)の地は交通上・戦略上の要地で、戦国時代以前からしばしば合戦の舞台となっていた(墨俣川の戦い)。斎藤氏側で築いた城は斎藤利為らが城主を務めた。また、1561年(永禄4年)ないし1566年(永禄9年)の織田信長による美濃侵攻にあたって、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)がわずかな期間でこの地に城を築いたと伝えられている。これがいわゆる墨俣一夜城である。信長はこの城を足掛かりとして、美濃攻略に成功し、秀吉も出世の道を開いたとされる。ところが信長にとっても、秀吉にとっても重要なこの事件について、太田牛一の信長公記をはじめとする良質の史料には、全く記載がない。
平城 300円 岐阜県(美濃国)入江 徹也
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尼崎城(大物城)
安土桃山時代の天正6年(1578年)に荒木村重が織田信長に反旗を翻した際、有岡城から逃げ込んだ先である大物城は尼崎城(尼崎古城)とも呼ばれるが、現在の尼崎城趾とは位置が異なる。 元和3年(1617年)、戸田氏鉄(うじかね)が5万石で入封し築いた。3重の堀をもち、本丸には2重の付櫓を2棟付属させた複合式の四重天守と3棟の三重櫓が上げられた。 城主は、築城から廃城まで3氏12代が入れ替わった。戸田氏の後は、青山氏4代、そして正徳元年(1711年)桜井松平家の松平忠喬(ただたか)が4万6千石で入り、以後桜井松平家の支配が7代と続き幕末を迎えた。最後の藩主は松平忠興である。
平城 300円 兵庫県(播磨国)入江 徹也
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勝幡城、末森城
勝幡城は、永正年間頃、清洲三奉行の一家「織田弾正忠家」当主の織田信定(その父・良信ともいう)が、尾張国の海西郡を手中に治めた際、大中臣安長の屋敷跡に築城したといわれる。 この地は元々「塩畑(しおばた)」と呼ばれていたが、縁起が悪いという理由で信定または織田信秀が「勝ち旗」の意で「勝幡」と改名したといわれる。 天文元年(1532年)信定の跡を継いだ信秀は今川氏豊から那古野城を攻め取ると、那古野城に移り、勝幡城に家臣の武藤雄政(武藤掃部)を城代として置いた。 天文2年(1533年)、公卿の山科言継は信秀から勝幡城に招かれ、その際に城の規模と出来栄えに驚いたと日記に記している(『言継卿記』)。このことから商業地の津島を支配下に置いた「織田弾正忠家」の経済力が窺える。 『尾州古城志』によると、天文3年(1534年)に信秀の嫡子・信長は、この勝幡城で産まれたと記されている。那古野城という説もあるが、近年研究家の間では勝幡城説が有力になってきている[2]。 弘治元年(1555年)、信長は主家の大和守家を滅ぼして清洲城を奪取すると、拠点を那古野城から清洲城へと移し、城代の武藤掃部を尾張野府城へと移した。それにより次第に衰退して、やがて勝幡城は廃城となった。 末森城は、天文17年(1548年)、東山丘陵の末端に織田信秀が築城した。三河国松平氏や駿河国今川氏などの侵攻に備えてのもので、実弟織田信光が守る守山城と合わせて東方防御線を構成したものである。信秀は、これまでの居城であった古渡城を放棄し、末森城を居城とした。 天文21年(1552年)に信秀は死去した。信秀の居城である末森城を譲られたのは、織田信勝(達成、信成、あるいは信行とも。織田信長の実弟)であった。 弘治2年(1556年)、信勝は林秀貞、柴田勝家などとともに信長に叛旗を翻すが、稲生の戦いで敗れる。この際、信勝は末森城に籠城しており、信長は末森城下の町に火を放った。このとき、末森城内にいた母・土田御前の介入で、信勝は赦免され、末森城は陥落を免れている。 しかし永禄元年(1558年)、再び謀反を企てたのを柴田勝家が信長に内報し、信勝は清須城で謀殺された。これにより末森城は廃城となったとされるが、後に、小牧・長久手の戦いに際して、織田信雄が再び末森城を使用したという。
平城 300円 愛知県(尾張国)入江 徹也
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長篠城
永正5年(1508年)今川氏親に誼を通じた菅沼元成が築城。元成と、その子孫・長篠菅沼氏が居城とする。 その後、徳川家康に服属するようになった。元亀2年(1571年)、武田信玄による三河侵攻の一端として、天野景貫によって攻められる。攻守双方の払った犠牲は大きかったが、陥落だけは免れた。その後、菅沼総領家・田峯菅沼氏から遣わされた使者の説得を受け、城主であった元成の直系玄孫・菅沼正貞は、心ならずも武田軍の圧力に屈した。 元亀4年(1573年)、武田家の当主であった武田信玄の病が悪化したことにより、前年末から続いていた武田軍の西上作戦が春には切り上げられ、武田軍は本国へ撤退。その途中で信玄は死去。その間隙に徳川家康によって攻められる。城主・正貞は天正元年8月(1573年)には開城退去、城に返り咲くことはなかった。以後、武田軍の再侵攻に備えて、家康により城が拡張される。 天正3年5月21日(1575年6月29日)、父・信玄の跡を継ぐことになった四男・武田勝頼が持てる兵力の大半1万5千の兵を率いて、奥平信昌が約五百の手勢で守る長篠城を攻め囲み、長篠の戦いが始まる。 天正4年(1576年)前年の長篠城の攻防戦で城が大きく損壊したこともあり、奥平信昌は新城城を築城し、長篠城は廃城となった。
平城 300円 愛知県(三河国)入江 徹也
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坂本城
元亀2年(1571年)9月比叡山焼き討ちの後、宇佐山城の城主であった光秀に対して信長は滋賀郡の支配を命じ坂本城を築城させた。比叡山延暦寺の監視と琵琶湖の制海権の獲得が目的であったと思われる。坂本城はイエズス会宣教師のルイス・フロイスの『日本史』にも、「明智は、都から4レーグァほど離れ、比叡山に近く、近江国の25レーグァもあるかの大湖のほとりにある坂本と呼ばれる地に、邸宅と城砦を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。」と記されている。この記述はルイス・フロイスの感想ではあるが、名城安土城と並び称される建物として記録さるされている。 その後、光秀は坂本城を拠点に近江国の平定を目指した。1572年(元亀3年)-1573年(天正元年)にかけて木戸城、田中城を落城させ、また湖面より囲船にて湖北の浅井勢に襲撃し打撃を与えた。その後、石山砦、今堅田砦も攻城し湖南はほぼ手中に収めた。その後坂本城は近江国における反信長に対する重要な軍事施設として使用された。黒井城の戦いでほぼ丹波国を手中に収めると、1580年(天正8年)亀山城の城主となったが、坂本城もそのまま城主となっていたようである。 天正10年(1582年)6月2日、光秀は中国攻めには向かわず本能寺の信長軍を急襲し信長を自害させ、次いで二条城を攻城し信長の嫡男・信忠を自害させた(本能寺の変)。だが、同年6月13日山崎の戦いで敗れた光秀は一旦勝竜寺城に退き、その後坂本城を目指している途中、山城国の小栗栖周辺で百姓らに襲われ死去したと言われている。一方、安土城の城主となっていた明智秀満は山崎の戦いでの敗戦を13日の夜に知り、14日未明、安土城から坂本城に移ってきたが、羽柴秀吉方の堀秀政が城を囲む中、6月14日の夜、秀満は光秀の妻子を刺し殺し、自分の妻も刺殺し、自分は腹を切り、煙硝に火を放って自害したとされる]。 その後、秀吉に命じられた丹羽長秀が城を再建し城主となった。その後賤ヶ岳の戦いの軍事上の基地として使用され、後に杉原家次、そして浅野長政が城主となった。この時に城下町が形成されたと思われている。 1586年(天正14年)、秀吉の命を受けた長政が大津城を築城して居城を移したことにより廃城になり、資材は大津城築城に使用された。
平城 300円 滋賀県(近江国)入江 徹也
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長浜城(今浜城)
1573年(天正元年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際に当時今浜(いまはま)と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し長浜に改名した。小谷城で使われていた資材や、1558年に火災に遭った竹生島宝厳寺の復旧資材として浅井長政が寄進した材木などを流用し築城を開始した。その後宝厳寺に対しては1598年に死去した豊臣秀吉の遺命として、大坂城の唐門などが移築されている。 同3・4年頃完成し羽柴秀吉が入城した。いわゆる水城であり湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていた。城下町は小谷城下(滋賀県長浜市湖北町伊部)からそのまま移した。現在でも城下町には羽柴氏当時の面影や名残が残る。のちに天下人となる秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の領国・城下町経営の基礎を醸成した所とされている。 1581(天正9年)、織田氏の中国遠征で不在であった羽柴氏[3]のあと、信長は荒木村重討伐や越前一向宗制圧の功から堀秀政を長浜城主に任じた。しかし羽柴秀吉の親(大政所)と妻(北政所)はそのまま長浜に居住していたらしい。 1582年(天正10年)に本能寺の変が起こり、明智光秀の手により織田信長が殺害されると、明智に加担した山本山城主の阿閉貞征が長浜城を占領した。羽柴氏の妻ら係累は近隣の寺に逃れた。阿閉は山崎の戦いにも明智方として参加するが、明智は信長の仇討を掲げる羽柴方に敗戦し、阿閉は秀吉方に捕縛され阿閉一族全て処刑された。長浜城は羽柴氏の支配下に戻った。 山崎の合戦後に開催された織田家の重臣会議「清洲会議」で羽柴秀吉と意見対立し、結果として長浜の支配権を獲得したのは柴田勝家であった。雪国である越前国を領していた柴田はゆえに畿内方面への橋頭保として北近江を欲していたが、羽柴が縁深い同地を手放すわけがない、と衆目に見られていた中での、まさかの支配権譲渡であった。勝家は一族(甥)の柴田勝豊を長浜城の守将として入城させたが、羽柴と柴田の対立は収まらず、同年末には秀吉が勝手知ったる長浜城を攻めた。柴田は雪に閉ざされた越前近江国境の山を突破し援軍を送ろうとしたが、その前に勝豊は降伏した。1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦いの後は山内一豊が入り、6年間在城した。1586年1月18日(天正13年11月29日)、天正地震により城が全壊し、一豊の一人娘である与祢らが死亡した。 1606年(慶長11年)に内藤信成・信正が城主になるが(長浜藩)、大坂の陣後の1615年(元和元年)に内藤氏は摂津高槻に移封され、長浜城は廃城になった。
平城 300円 滋賀県(近江国)入江 徹也
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大野城
1584年、蟹江城の支城の一つとして、織田信雄の家臣、佐久間信栄(正勝)によって築城される。 天正12年(1584年)4月、小牧・長久手の戦いでは、徳川家康側の城となる。同年6月、羽柴秀吉は長期化する戦いを決するため、滝川一益、九鬼嘉隆率いる安宅船を動員した水軍で威圧しつつ調略で前田長定(種定)[1]が守る蟹江城を攻略し、長定の弟・前田長俊(利定)の守る下市場城、長男・前田長種の守る前田城をも調略した。しかし、佐久間信栄の家臣で大野城を守っていた山口重政は母親を人質に取られたが調略に応じなかったため、滝川らは大野城を攻めた。山口重政は城を守ったが落城寸前まで追い詰められた。急を知った徳川家康・信雄らが軍を率いて大野城付近に急行したため、攻め手は包囲を解いて引き上げ、大野城は落城を免れた。滝川らは蟹江城に、九鬼勢は下市場城に籠ったが、家康と信雄の軍はこれらの城および蟹江城を次々と攻略していった。この間、大野城に家康の本陣が置かた。 この戦い(蟹江城合戦)が小牧・長久手の戦いの趨勢に決着をつけ、和議への流れが形成されたといわれている。 廃城時期は不明だが、天正13年11月(1586年1月)の天正大地震で大きな損害を被っている事から、そのまま廃城にされた可能性が高い。
平城 300円 愛知県(尾張国)入江 徹也
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大草城
天正2年(1574年)、この地を有していた佐治信方が長島一向一揆で戦死し、跡継ぎの佐治一成が幼少だったためか、織田信長の弟織田長益(有楽斎)が知多郡を与えられ、大野城を与えた。大野城は水利が悪いため大草の地に築城を開始したが、本能寺の変の影響で再び荒廃してしまったとも言われる[要出典]。 小牧・長久手の戦い後、長益が摂津国に移封されたため完成を待たずして廃城となった。
平城 300円 愛知県(尾張国)入江 徹也
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清洲城
応永12年(1405年)、尾張・遠江・越前守護の管領斯波義重によって築城。当初は、尾張守護所である下津城の別郭として建てられたが、文明8年(1476年)に守護代織田家の内紛により下津城が焼失し、文明10年(1478年)に守護所が清洲城に移転することで尾張国の中心地となった。一時期、「織田弾正忠家」の当主織田信秀が清須奉行として居城した以外は常に清洲織田氏(織田大和守家)の居城としてあり、尾張下四郡を支配する守護代織田家の本城として機能した。 織田信秀が古渡城に拠点を移すと守護代織田信友が入城したが、弘治元年(1555年)織田信長と結んだ織田信光によって信友が殺害され、以降信長が那古野城から移って大改修を加えた後、本拠として居城した。信長は、この城から桶狭間の戦いに出陣するなど、約10年間清須を居城とした。1562年(永禄5年)には信長と徳川家康との間で同盟がこの城で結ばれた(清洲同盟)。永禄6年(1563年)には美濃国斎藤氏との戦に備えて小牧山城に移り、以後は番城となった。 天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が斃れると、清洲城にて清洲会議が行われ、城は次男・織田信雄が相続した。天正14年(1586年)に信雄によって2重の堀の普請、大天守・小天守・書院などの造営が行われている。小田原征伐後の豊臣秀吉の国替え命令に信雄が逆らって除封され、豊臣秀次の所領に組み込まれた後、文禄4年(1595年)には福島正則の居城となった。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの折りには、東軍の後方拠点として利用され、戦後は安芸に転封した福島正則に代わり徳川家康の四男・松平忠吉が入るが、忠吉が関ヶ原の戦傷がもとで病死すると慶長12年(1607年)には家康の九男徳川義直が入城し、清洲藩の本拠となった。
平城 300円 愛知県(尾張国)入江 徹也