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ガイアナ/1994年11月15日発行 (英米の古典的機関車-5)【STEAM LOCOMOTIVE STAMPS OF THE WORLD】
『米ユニオン・パシフィック鉄道のロジャース製4-4-0アメリカン形機関車』 タマス・ロジャーズ、ニュー・ジャージー州の機関車メーカーとしてこれほど有名な人はいない。数年間、他の会社で修業した後、1832年、<ロジャーズ・ケッチャム・グロブナー社>を成立して自ら社長となり、次第に機械メーカーとしての地歩を固め、1835年には、機関車並びに鉄道車両メーカーとしての旗揚げを宣言した。 1837年、1号機関車4-2-0<サンダスキー>を制作。1844年以降は専ら4-4-0アメリカン形を製作した。この切手に描かれているのは、1850~60年頃の同社の標準的4-4-0機関車である。主燃料が木材であることを示す漏斗形の大きな煙突、前面下部のカウキャチャー、駅への接近を知らせ、また牧場の牛を追い散らすための大きなベルなど、典型的なアメリカン形だが、火室を広くするために、ボイラー胴後部の直径を太くしたワゴントップ形ボイラや構造が簡素で作用が確実なリンク式の弁装置など、同社の長年の技術の蓄積を物語る作品である。 ※発行当時の説明です。 #切手
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ガイアナ/1994年11月15日発行 (英米の古典的機関車-4)【STEAM LOCOMOTIVE STAMPS OF THE WORLD】
『米ハドソン運河会社の0-4-0機関車<ストアブリッジ・ライオン>』 1829年1月。イギリスのストアブリッジにあるフォスター・ラストリック社では、ジェット・エンド炭坑の注文で、外形も構造もスチブンソンの<ロコモーション>にそっくりの2軸連結機関車を制作した。 アメリカのデラウェア・ハドソン運河会社の鉄道建設に当たっていたホレイショ・アレンは、これを聞いて早速イギリスに渡り、試運転の成績を見てすっかりこれに惚れ込み、同形の機関車1両を注文した。機関車は5月15日にニューヨーク港に到着した。スチブンソンの機関車<ロケット>がレインヒルの機関車コンテストで、1等賞を獲得するようりも、5か月も前のことである。 機関車の正面に大きなライオンの頭を描いて、<ストアブリッジ・ライオン>と命名した。8月8日カーボンデール~ホーンスデール間で、アレンが自ら運転して、石炭列車を牽引して試運転が行われた。運河を渡る橋梁の前後がかなりきつい勾配になっていたが、時速15kmばかりで、橋梁を何回も行ったり来たりして見せた。彼は得意満面だったがこれが見事な失敗で、橋梁は7トンの機関車の重量に耐えられず。傾いてしまった。機関車はお蔵入りとなり、二度と使用されることはなかった。 ※発行当時の説明です。 #切手
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ガイアナ/1994年11月15日発行 (英米の古典的機関車-3)【STEAM LOCOMOTIVE STAMPS OF THE WORLD】
『米ボルチモア・オハイオ鉄道の0-8-0機関車<カンバーランド>』 1840年代の初め頃、ボルチモア・オハイオ鉄道では、石炭の輸送力増強のため、より強力な機関車導入の必要に迫られていた。ちょうどその頃、ロス・ワイナンス社がマサチューセッツ西部鉄道に、堅形ボイラーの付いた巨大な8輪連結の機関車を納入して好評を得ているとの話を聞き、早速同社にこれと同形の、ただし横型ボイラ式の機関車を発注した。1844年から46年の間に、同形の機関車12両を購入し、それぞれに番号と名称を付けた。切手に描かれているのはNo.37<カンバーランド>である。切手の絵で見られるようにまことに奇妙な設計で、動力は前部の横型シリングから長い連結棒で後部の運転室床下の中間軸に伝達され、歯車装置で第4動輪を駆動する。<マッド・ディガー>(泥堀り機械)という奇妙なあだ名が付いたが、そのあだ名の由来についても、またワイナンスがなぜ車両の最後部、最も温度の高いはずの火室の近くに、複雑な歯車装置を設置したのかはわからない。現代の機関車の常識では、前部のシリンダから長い連結棒で直接第3動輪を駆動した方がはるかに賢明だと思われる。 ※発行当時の説明です。 #切手 ■Twitter https://mobile.twitter.com/nLiqdpKI2RDGIuY/status/1248968505761792001
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ガイアナ/1994年11月15日発行 (英米の古典的機関車-2)【STEAM LOCOMOTIVE STAMPS OF THE WORLD】
『フランスのマルク・サガンが作った送風機付きの機関車』 フランスのサンテチエンヌ・アンドレジュー鉄道のマルク・サガン技師は、スチブンソン社から購入した機関車の蒸気の発生が悪いのに気が付き、自分で新しい構想の機関車を制作することにした。 石炭の燃焼でできた熱気がボイラの中を通り抜ける焔管の数を増やすとともに、ボイラの両側の壁に鉄製の水タンクをちくっつけ、水がボイラに入る前に予熱して、燃料の節約を図ることにした。また、炭水車に車輪の廻転で運転する送風機を取り付け、火床の下から空気を送り込んで。石炭の燃焼を強くする構造とした。 1829年11月の試運転で、19トンの貨車をひいて勾配線を上がったが、速度は4km/h程度しか上がらず、その後も機械的な故障が多く、結局は、スチブンソンがその機関車<ロケット>で試験的に採用した、煙突の下からシリンダの排気を吹き上げ、その勢いで火床の下から空気を吸い上げる「ブラスト」装置には及ばないことが分かり、この送風機方式はその継続研究を断念せざるを得なかった。 ※発行当時の説明です。 #切手
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ガイアナ/1994年11月15日発行 (英米の古典的機関車-1)【STEAM LOCOMOTIVE STAMPS OF THE WORLD】
『イギリスの0-6-0機関車』 1865年頃から20世紀の初頭にかけて、イギリスの各鉄道は、貨物列車の機関車として、ほとんどすべて0-6-0形を愛用し。1913年には0-6-0テンダ機関車だけでその数は7000両に達し、同じ車輪配列のタンク機関車3400両を合わせるると、全国の機関車総数の46%に達した。 $25の切手描かれているのは、1882年、サウスイースタン鉄道が採用した0-6-0テンダ機関車で、貨物列車だけでなく、ロンドン~ドーバー間の険しい線区の旅客列車にも重宝に使用された。 $300の切手には、ハイランド鉄道の機関車技師ウィリアム・ストラウドレーが、ロンドン・ブライトン・サウスコースト鉄道に移籍後まもなくの1882年、前任鉄道での経験を生かして。自社生産の末に誕生したすばらしい0-6-0タンク機関車が描かれている。重量24.6トンの小型ながら、前進・後進を敏速にくり返すことのできる高性能が好評を博し、当時イギリスの紳士がキツネ狩りに愛用した小形の猟犬の名をとって<テリア>形と愛称された。 最初の目的はロンドン郊外線の通勤列車用であったが、次第に用途を広げ、支線区の旅客・貨物両用として便利に使用された。1922年以降は機関車の大型化にともなって不要となり、各地に転売され、一部はワイト島鉄道に移されて活躍した。 ※発行当時の説明です。 #切手
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フランス・スイス・ベルギー/小説家シムノン 1994.10.25【World Topics Stamp Collection】
フランス発行 1994.10.25 スイス発行 1994.10.15 ベルギー発行 1994.10.17 『3国共同発行!!メグレ警視の作者の切手』 フランス・スイス・ベルギーの3国が、作家ジョルジュ・シムノン(1903-1989)の死去5年もあたり、切手を共同発行した。シムノンといえば、あの"メグレ警視"が登場する一連の小説を書いた作者として広く世界に知られている。メグレ・シリーズは80冊におよび、55ヵ国の言語で翻訳され、世界でのべ5億冊が売れたという。日本でも、以前テレビでシリーズ・ドラマ化されたほど人気を集めた。 今回この3国が切手を共同発行することになったのは、シムノンがベルギーで生まれ、フランスに移り、晩年はスイスで過ごしたことによる。切手図案は、パイプをくわえたシムノンの肖像だけが3国共通で、背景は各国のシムノンゆかりの地。フランスはメグレ警視シリーズの舞台となったパリのオルフェーブル河岸、スイスはシムノンが晩年を過ごしたローザンヌ近くのシャトー・デシャダン、ベルギーは生地リエージュの風景が描かれている。各国の色づかいや印刷の微妙な違いなども楽しみながら、3枚の切手を眺めていただきたい。 シムノンの略歴をご参考までに紹介すると、以下のとおり。16歳で新聞記者となり、19歳でパリに移り、大衆小説で文壇にデビュー。以来、およそ10年間に200冊あまりの通俗小説を16種のペンネームで書いた。1931年から本名で推理小説を発表。毎月1冊というハイ・ペースで作品を世に送り続ける。とりわけメグレ警視シリーズが大当たりで、すぐれた心理描写が人気」を博した。40年代終わりの頃から純文学作品も手掛け、これも好評。72年の「メグレ最後の事件」を最後に引退の声明を出し、創作の筆を折ったが、81年に「私的な回想」を出版した。50年間の作品数は400点以上にのぼる。 #切手
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ブラジル/F1レーサー、アイルトン・セナ追悼 1994.10.20【World Topics Stamp Collection】
『神に召された"音速の貴公子"』 1994年5月1日は、世界中が深い悲しみに包まれたような一日だった。あの天才的F1レーサー、アイルトン・セナがサンマリノ・グランプリ(GP)で事故に遭い、突然この世を去ったのだった。サンマリノは、イタリアの中の小さな国。この国の名を冠したサンマリノGPはサンマリノ国内ではなく、お隣のイタリアにあるイモラ・サーキットが会場となっている。悲劇は。5月1日に開催された第3戦で起きた。"タンブレロ"と呼ばれるコーナーにさいかかったとき、セナは300㌔のスピードでカーブを曲がり切れず、そのままコース脇のコンクリートの壁に激突。病院に運ばれたが、即死だったという。 セナは1960年3月21日、ブラジルのサンパウロで生まれた。幼い頃からモータースポーツに魅かれ、81年にはイギリスに渡り、フォーミュラ・フォードにレースに参戦。84年のF1デビュー以来、通算の優勝回数は41回(史上2位)、年間ドライバーチャンピオンを3回獲得している。88年日本GPで、ポールポジションからスタートに失敗したセナは大きく後退してしまったが、先行するライバル、アラン・プロストを28週目のメインストレートで抜き去り、そのままゴールインして初のF1チャンピオン獲得。この信じられないような逆転勝利が日本のファンの心を掴んだ。セナは日本のファンにとって特別な存在だった。ホンダの64年のF1参戦から92年の撤退まで合計71勝のうち32勝は。87年にチームに加わったセナによるものだった。日本にF1ブームを巻き起こしたホンダエンジンと、そのメカニカルと共にチャンピオンにのぼりつめた彼は、日本とホンダをこよなく愛した。セナの死は、本国ブラジルをはじめ世界中を悲しませたが。日本のファンの悲しみもまた格別だ。 ブラジル郵政は。この偉大なドライバー、セナの健闘を称える切手3種を発行。マクラーレン・ホンダに乗って観衆に応えるセナ、チャンピオンに輝いた時のセナ、セナの肖像を掲げてその業績を称えるブラジルの人々などが描かれている。 #切手
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モナコ/フランス画家アンリ・ルソー誕生150年 1994.10.17【World Topics Stamp Collection】
『ル・ドゥアニェ(税関吏)・ルソー』 画家アン・リ・ルソー(1844-1910)は、フランス北西部のマイエンヌ県ラバルに生まれた。ラバルは、市の中心部をマイエンヌ川が流れ、河畔の丘には古い城や15世紀に建てられたラバル大聖堂がそびえる美しい街だ。ルソーの父はブリキ職人、母は陸軍大尉の娘だったが、ルソーが7歳になる頃、父は仕事に失敗し借金を背負う。それでもルソーは寄宿生として学校に通ったが、1860年にはとうとう中退。その後、兵隊生活、法律事務所の見習いを経て、1871年、パリ市の入市税関収税吏の職につき、かたわら趣味として絵を描き始めた。このため、彼は"ル・ドゥアニェ(税関吏)・ルソー"などと呼ばれる。1884年にルーブル美術館の模写許可証を得、この頃から本格的に絵に取り組み、86年以降はほぼ定期的にアンデパンダン展に出品。93年に入市税関を退職し、制作に没頭するようになるが、生活は苦しく、画材屋の借金に追われ。絵や彼が得意とする音楽を教えて生活費を稼いだ。 1906年頃から、同郷の詩人アルフレッド・ジャリを通じて、さまざまな詩人、文学者、画家と知り合うなど、身辺は少しずつにぎわい、絵が多少売れはじめてきた。ピカソが1908年、ブラック、アポリネール、ローランサンなど若い芸術家たちを集めて、ルソーのために宴会を開いたという話もある。65歳を過ぎて、ルソーは54歳の未亡人との恋愛に破れた。そして1910年、悲嘆のうちにこの世を去ったという。 ルソーの誕生150年を記念する切手が、モナコから発行された。図案は、ルソーの代表作「ヘビ使いの女」(1907)。これは、画家ロベート・ドローネの母親の注文によって描かれたもので、この夫人はインド旅行の話をルソーに聞かせており、その話が彼を刺激したらしい。また、女のヘビ使いは、当時パリで人気のあったモリエ・サーカス呼び物でもあった。作品の中に、ルソーの独特の神秘的な世界が広がる。 #切手
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アメリカ、中国共同発行/ツル 1994.10.9【World Topics Stamp Collection】
『絶滅するツルの保護を訴えて共同発行』 ツル類は広大な湿地や草原で生活しているが、近年そうした環境の減少に伴い、どの種も世界的に生息数が少なくなってきている。そこで、アメリカと中国がこの絶滅の危機に瀕るツルを描いた切手を共同発行した。両国とも同図案で2種ずつの発行だが、アメリカは連印になっている。描かれてういるのは、北アメリカに生息するアメリカシロヅルと中国のオグロヅルで、いずれもそれぞれの国で保護種に指定されている鳥。版式は、アメリカが平版(額面数字のみ凹版)、中国が凹版とグラビアのかけ合わせ(額面数字はグラビア)。よく見ると、印刷も微妙に違っていて面白い。 ちなみに。アジアの多くの国々では、ツルはおめでたく神聖な鳥として愛されている。中国では、ツルはその高貴な姿や清らかな鳴き声か神仙に緑のある鳥とされ、ツルに化して故郷に帰った仙人の話もある。日本でも古くから神鳥と考えられており、福をもたらす鳥として尊ばれてきた。日本の各地にはツルにまつわる伝説などがあり、ツルの導きによって発見されたという温泉も数多く点在している。また、西洋でも、古代から縁起の良い鳥とされ、ローマの鳥占いではワシやハゲワシと並んで最も尊重された。キリスト教圏では、ツルが灰色や黒などの地味な体色であり、集団で生活する習慣から。修道院生活や、一般に宗教への帰依(きえ)を象徴している。 #切手
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北朝鮮/金日成追悼 1994.10.8【World Topics Stamp Collection】
『故金日成主席を偲ぶ』 1994年7月8日、突然の事で世界を驚かせた。金日成主席死去。享年82歳のその追悼を記念して、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)より、切手が発行された。 笑顔が印象的な肖像を収めたその小型シートには、「偉大な指導者金日成同志は、常に我々と共にある」の言葉が添えられ、個人とその偉業が称えられている。 1912年4月15日、平壌郊外に生まれ、10代半ばで民族主義者として目覚める。中共主導による反日民族統一戦線に加入、抗日パルチザン活動で頭角を現した。日本敗戦後の45年9月、ソ連軍と共に平壌に凱旋。48年9月の建国で首相に就任し、ソ連の支援を受け社会主義建設に着手。72年12月に憲法改正により国家主席に就いた。 中ソ対立などから67年、「政治の自主、経済の自立、国防の自衛」を柱にした主体(チュチュ)思想に基づく「十大政綱」を発表、同思想を北朝鮮の唯一思想とし、きわめて独特な社会主義体制へと進んでいった。 また朝鮮戦争直後から、国内の敵対する者を次々と粛清。近代国家、社会主義国家としてもまれな、子息、金正日書記への権力後継へと乗り出している。 しかし、現在北朝鮮は、国際的に孤立を深め、経済難に苦しんでおり、第2次世界大戦後の国家指導者として異例の長期執権を重ね、「民族の太陽」「朝鮮人民の偉大な首領」「百戦百勝の鋼鉄の将軍」と、この世で考え得る最大級の尊称を欲しいままにした金日成主席も、その歴史的評価が定まるまで、いま少しの時を待たねばならないのかもしれない。 ※1994年当初の切手に対する説明です。 #切手
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インド/マハトマ・ガンジー誕生125年 1994.10.2【World Topics Stamp Collection】
『非暴力を訴えた、インド孤立の父』 モハンダス・カラムチャンド・ガンジー(1869-1948)は、非暴力革命によるインド独立の実現者。"マハトマ(偉大な魂)"と呼ばれ、インド人大衆に親しまれた。 カーティアーワール半島の小藩国ポールバンダルの大臣の長男として生まれたガンジーは、4年間のロンドン留学で弁護士の資格を取得、1891年に帰国。93年、ある訴訟事件の依頼で南アフリカに渡ったところで、その人生は一変した。ダーバンの町の法廷に初めて出廷したとき、裁判長にターバンをはずすように言い渡され、このことが彼が人種差別の現実を認識する第一のきっかけとなる。第二のきっかけは、ピータマリッツバーグで一等車の座席券を持っているにもかかわらず、白人の車掌に車室から追い払われ、寒くて暗い待合室に置き去りにされたことだ。これはまさに決定的な体験だった。この日以来、ガンジーの積極的非暴力がはじまった。22年間アフリカに滞在し、インド人の人権擁護活動に従事。1915年に帰国してからは、インド国民会議派を足場に独立運動に参加し、これを指導するようになる。19~22年も展開された第1次サティヤーグラハ(非暴力的抵抗運動)闘争は、彼をインド民族運動の最高指導者として位置づけた。47年8月15日に、インドはイギリスの自治領としてついに独立。ガンジーは宗教間の融和を説いたが、48年1月30日、狂言的なヒンズー教徒の手により暗殺された。 ガンジーは、時代を画するような思想を残した数少ない人物の一人だ。「人間には、ものを創造する力が与えられていない。それゆえ、人間はいやしくも生き物を殺す権利などみじんもないのである」と、非暴力を訴え続け、後世の人々に多くの倫理的影響をもたらした偉大な思想家としてその名を残している。 そこで1994年10月2日の彼の誕生日に、母国インドから、誕生125年を記念する切手が発行された。図案は、ガンジーの肖像。英語とヒンディー語で「私の人生は、私のメッセージ」という言葉が記されている。 #切手
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パラオ/独立の日 1994.10.1【World Topics Stamp Collection】
『非核条項凍結をめぐる複雑な独立の舞台裏』 パラオは、太平洋の200余りの小さな島々から成る共和国で、全面積は約500平方キロ。人が住んでいるのは首都があるコロール島など十数島だけで、人口は約1万5千人。観光と小規模な漁業が主な収入源だ。第1次世界大戦で1914年日本に占領され、47年から国連による米国の信託統治領となった。 94年10月1日、国連による世界で最後の信託統治領だったパラオは、信託統治していた米国との「自由連合協定」が発効され、独立した。なお、オアラオは核兵器の使用を禁じた非核憲法を持っているが、経済援助と引き換えに米国に軍事・防衛権を移管することに伴い、非核事項を凍結した。自由連合協定承認をめぐっては、7回の住民投票を行ったが承認されず、わざわざ憲法を改正して、承認の基準を75%から50%に下げ、93年11月の8回目の住民投票でようやく承認された。自由連合協定承認が難航したのは、住民の間に根強く反核、反軍事基地化の意識が残っているからだ。独立後も反対意識は強く、協定反対の訴訟も相次いでいる。住民の間では「この状態は本当の独立ではない」という批判もあり、これに対してパラオの日系人大統領クニオ・ナカムラは「クリストファー国務長官から、有事の時か、パラオが防衛を依頼した時しか、米軍は軍事力を行使しないことを確認している」と説明した。 パラオ郵政から、この独立の日を記念する切手5種横連刷が発行された。これはパラオの美しい島々を背景に、クニオ・ナカムラ大統領とビル・クリントン米大統領が握手を交わしているところや両国の国旗などを描いた連続図案になっている。 #切手
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マカオ/第12回広島アジア大会 1994.9.30【World Topics Stamp Collection】
『大会史上最大規模となった広島アジア大会』 アジア競技大会は、アジアオリンピック評議会(OCA)に加盟する国・地域が参加し、相互理解や友好親善を目的として、4年ごと、オリンピックの中間年に開かれるアジア地区の総合スポーツ大会だ。 第12回アジア競技大会は1994年10月2日から16日までの15日間、「アジアの調和」をテーマに広島で開催された。同競技大会が日本で開催されるのは、1958年の東京大会に次いで2度目。34競技、337種目、参加選手・役員6,824人と、大会史上最大規模となった。総観客数は、目標をやや上回る約111万人。 金メダルレースは、中国が137個を獲得し独走。日本は59個で韓国の63個に及ばず、86年ソウル大会から連続3位に終わった。女子競泳人は、王コーチが率いる中国の「王軍団」が7種目で金メダルをさらうなど、北京大会についで全15種目を制した。陸上は馬コーチ率いる中国の「馬軍団」が期待の世界新こそ出さなかったものの、男子3000メートル障害で孫日鵬が日本勢の大会8連覇をあっさり阻止するなど、脅威を感じさせた。また、ウズベキスタン、カザフスタン、トルクメニスタン、キルギスタン、タジキスタンの、初参加した中央アジア5ヵ国の活躍も目を見はるものがあった。メダル獲得数ではカザフスタンが日本に次いで4位、ウズベキスタンが5位。男子サッカーで韓国・中国を破って金メダルを獲得したウズベキスタンが印象的だ・ ところで、ここで紹介しているのはマカオ郵政から発効された"広島"アジア競技大会"記念切手4種。図案は4種の競技を躍動的に美しく描いたもの。1バタカはフェンシング、2バタカは鞍馬、3バタカは水球、3.5バタカは棒高跳び。 #切手
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