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高村光雲 ≪老 猿≫(1893年)) 「近代美術シリーズ初日カバー」
高村光雲 嘉永5年(1852)2月18日東京に生まれる。幼名中島光蔵、明治24年以降光雲と号した。文永3年江戸仏師高村東雲の弟子となり、東雲の姉の養子となって高村姓をついだ。明治維新直後の彫刻哀徴の時期に、苦しい精進をつづけて技法を取得し、明治22年東京美術学校成立と同時に木彫科教授となった。大正15年退官するまでに、永い間同校で後進の指導に当り、米原雲海、山崎朝雲、平櫛田中ら多くの木彫家を育てて、日本の近代彫刻の発展に大きく寄与した。日本美術協会展、東京勧業博覧会などに出品して受賞を重ね、さらに明治24年から30年にかけて、東京美術学校に依頼された「楠公像」「西郷隆盛像」を制作した。今も上野公園に立つ「西郷隆盛像」は特に有名である。また海外の展覧会にもしばしば出品し、明治26年シカゴ万博博覧会で「老猿」が2等賞、33年パリ博覧会で「山霊訶護」「盲人川を渡る」がそれぞれ金賞、銀賞を受賞した。大正8年帝国美術院会員となり、昭和2年老齢を理由に一度しりぞいたが、5年再び復帰した。昭和9年(1934)10月10日死去。 #近代美術シリーズ #切手 #初日カバー #FDC
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横山大観 ≪無 我≫(1897年) 「近代美術シリーズ初日カバー」
横山大観 明治元年(1868)9月18日水戸に生まれる。幼名秀蔵、のちに秀松、秀麿と改める。明治11年一家をあげて上京、東京府立中学校から東京美術学校へ進む。明治26年第一期生として東京美術学校日本画科を卒業、母校の助教授をつとめるとともに、日本絵画協会共進会などに出品し、また日本美術院会員となった。岡倉天心の指導のもとに、新しい時代の日本画の創造を目指してさまざまな試みをつづけ、明治32年ごろみは菱田春草とともに没線描法で描いて「朦朧体」と酷評された。明治39年日本美術院が不振となり、下山観山、木村武山、菱田春草らと茨城県五浦に移住して苦しい生活のなかで研究にはげんだ。明治40年文展開設とともに審査員に迎えられたが、大正3年同志と日本美術院を再興し、以後その中心的画家として活躍し「生々流転」(大正12年)、「四時山水」(昭和22年)など数々の名作を発表した。明治・大正・昭和の三代にわたり、文字通り近代日本画の歴史をつくってきた大画家である。昭和6年帝室技術院、10年帝国美術院会員となり、12年第1回文化勲章を受章した。昭和33年(1958)2月26日死去。 #近代美術シリーズ #切手 #初日カバー #FDC
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伊東深水 ≪吹 雪≫(1932年) 「近代美術シリーズ初日カバー」
伊東深水 明治31年(1898)2月4日東京深川に生まれる。本名一(はじめ)。活字工。図案家見習いなどを経験したのち、明治44年13歳の時、美人画家として知られていた鏑木清方に入門して日本画の勉強を始める。翌明治45年から巽画会、再興院展、文展などに出品して入選を重ねたが、大正11年平和記念東京博覧会展の「指」で銀賞を受賞、さらに13年第9回郷土会展に「湯気」を発表して一躍画名を高めた。早くから鏑木清方門下の逸材として将来を期待されたが、昭和4年第10回帝展の「秋晴」で特選となり、8年同会展審査員に推された。その後も戦前の新文展、青々会、青衿会、戦後の日展、日月社などを中心に活躍し、「麗日」(昭和9年)、「銀河祭り」(昭和21年)「聞香」(昭和52年)、「夢多き頃」(昭和27年)などの秀作を出品、浮世絵の流れをくむ流麗な美人画から、戦後は新感覚によるさわやかな女性風俗画の表現を完成し、高く評価された。昭和33年日本芸術院会員となる。昭和47年(1972)5月8日東京で歿。74歳。 #近代美術シリーズ #切手 #初日カバー #FDC ■伊藤深水画「指」 https://muuseo.com/stamp_collection/items/294
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児島善三郎 ≪雪柳と海芋に波斯の壺≫(1956年) 「近代美術シリーズ初日カバー」
児島善三郎 明治26年(1893)2月13日福岡市に生まれる。福岡県立中学校研猷館在学中から画家を志していたが、実家の紙問屋をつがせようとする父と意見が合わず。明治45年中学卒業後長崎医学専門学校へ進む。だが画家志望を捨てきれず、大正2年長崎医学専門学校を中退して上京、岡田三郎助の本郷洋画研究所に学ぶ。大正5年肺結核を病み、5年間郷里で療養生活を送る。大正9年再度上京、本格的な制作活動に入り、11年第9回二科展で二科賞を受賞して注目された。大正14年ヨーロッパに留学、主としてパリで古典を研究して昭和3年帰国、翌4年二科会会員に推された。しかし昭和5年二科会を大会、日本的感性に基づく油絵表現の確立を目指して、林武、里見勝蔵らと独立美術協会を創立する。以後同会を中心に活動し、「渓流」(昭和12年)、「東風」(昭和14年)、「花」(昭和24年)、「アルプスへの道」(昭和26年)、「婦人座像」(昭和31年)など、力強いフォルムと装飾性豊かな色彩による秀作を数多く発表した。昭和37年(1962)3月22日歿。69歳。 #近代美術シリーズ #切手 #初日カバー #FDC
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東郷青児 ≪サンタンバンク≫(1926年) 「近代美術シリーズ初日カバー」
東郷青児 明治30年(1897)4月27日鹿児島市に生まれる。本名鉄春。大正3年青山学院中等部を卆業。在学中から美術や音楽に強い関心を示す。大正4年日比谷美術館で個展を開催、これを見た有島生馬にすすめられて翌5年の第3回二科展に「パラソルさせる女」を出品。初入選で二科賞を受賞して一躍注目を集めた。大正10年フランスに留学、未来派、立体派(キュピズム)などの革新的美術運動の影響を受けて「サンタンバンク」「ピエロ」を制作する。昭和3年帰国後、6年二科会会員となった。以後二科会を中心に活動し、昭和20年戦後の二科会再建に力をつくし、36年同会会長に就任した。主として女性像を描いたが、繊細な技巧を駆使して、単純化した人体表現に装飾性と抒情性をにじませる、独特のスタイルを生み出した。壁画「創生の歌」によって昭和31年度日本芸術院賞を受けたほか、35年日本芸術院会員、37年サロン・ドートンヌ名誉会員となった。昭和53年(1978)4月25日旅行先の熊本市で急性心不全の為死去。なお昭和51年東京新宿に東郷青児美術館が開館している。 #近代美術シリーズ #切手 #初日カバー #FDC
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棟方志功 ≪弁財天妃の柵≫(1924年) 「近代美術シリーズ初日カバー」
棟方志功 明治36年(1903)9月5日青森市に生まれる。大正5年小学校を卆業し、9年まで実家の鍛冶職を手伝う。大正13年画家を志し上京、昭和3年第9回帝展に油絵「雑園」が初入選そたが、この年版画家平塚運一に会い、その影響を受けて版画の道に入った。昭和5年第5回国画会展に版画4点を出品、以後28年脱退するまで同会への出品を続けた。昭和11年国画展に出品した「大和し美し版画巻」が契機となって柳宗悦、河合寛次郎、浜田庄司らを知り、民芸運動グループとの親交を深めた。昭和13年第2回新文展に31枚の版画「善知鳥」を出品して特選となるが、これは版画として初めての官展での特選であり、近代日本の版画史上記念すべき出来事ともなった。直截で鮮烈なその作風は戦後一層注目を集め、国際的にもロガノ国際版画展、サンパウロ・ビエンバーレ展で受賞したほか、31年ヴェネツィア・ベンナーレ展で国際版画大賞を受けるなど高く評価された。昭和40年朝日文化賞、45年文化勲章を受けた。昭和50年(1975)9月13日東京で歿した。72歳。 #近代美術シリーズ #切手 #初日カバー #FDC
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富岡鉄斎 ≪普陀落山観世音菩薩像≫(1924年) 「近代美術シリーズ初日カバー」
富岡鉄斎 天保7年(1836)12月19日、法衣商十一屋伝兵衛富岡維叙の次男として京都に生まれる。幼い時から国学、漢字、詩文、南画、大和絵などを学ぶ。幕末の混乱期には儒士とし勤王運動に関係、また明治9年大和石上神社および和泉大鳥神社に神官ろして奉仕し、両社の復興に力をつくした。しかい明治14年神官生活をやめて京都に隠栖し、以後40年にわたり、儒教、仏教、神道をさらに深く学び、読書三昧の生活をおくりながら、その余暇に絵を描いた。おおやけの展覧会にはまったく出品しなかったが、明治29年日本南画協会の成立に加わり、30年第1回展から37年第14回展まで、同会に「武陵桃源図」(明治32年)、「十六羅漢図」(明治34年)などを発表、また後素如雲社展にも「蓬菜山図」(明治36年)、「福禄寿図」(明治38年)などを出品している。生涯を通じて画壇との交渉はほとんどなく、また主要作品が展覧会で発表されることもなかったが、その名声はしだに高まり、大正6年帝室技芸員、8年帝国美術院会員に任命された。大正13年(1924)12月31日、89歳で歿した。 #近代美術シリーズ #切手 #初日カバー #FDC
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岡田三郎助 ≪あやめの衣≫(1927年) 「近代美術シリーズ初日カバー」
岡田三郎助 明治2年(1869)1月12日、旧鍋島藩士石尾孝基の4男とすて佐賀に生まれる。明治4年父に伴われて上京、20年岡田正三養嗣子となって岡田姓を名乗る。はじめ曽山幸彦について油絵を勉強したが、明治26年黒田清輝、久米佳一郎の画塾天真道場に入り、印象派風の明るい色彩による表現を学んだ。明治29年黒田、久米、藤島武二らと洋画団体白馬会を創立、また30年フランスに留学してラファエル・コランに師事し、本格的な油絵技術を習得、35年帰国後東京美術学校教授に任ぜられた。主として明治38年までは、白馬会、40年以降は文展、帝展などの官展と光風会を中心に活躍し、「大隅伯夫人像」、「萩」、「ヨネ桃の林」、「志那絹の前」、「夫人半身像」などの優れた作品を発表した、卓越した油彩画の表現技術と洗練された感覚に裏付けられたそれらの作品は、典雅な装飾感に溢れた日本的美を追求したものとして高く評価されている。近代日本洋画壇の重鎮として常に主流を歩き、帝室技芸員、帝国美術院会員に任ぜられるとともに、昭和12年新しく制定された文化勲章の最初の受賞者にも選ばれた。昭和14年(1939)9月23日、70歳で歿した。 #近代美術シリーズ #切手 #初日カバー #FDC ■「夫人像」 https://muuseo.com/stamp_collection/items/165
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前田青邨 ≪洞窟の頼朝≫(1929年) 「近代美術シリーズ初日カバー」
前田青邨 明治18年(1885)1月27日、岐阜県中津川市に生まれる。本名廉造。明治34年上京し、尾崎紅葉の紹介で梶田半吉の門に入る。ここで小林古径を知り、生涯行動を共にした。はじめ日本絵画協会、国画玉成会、文展などに出品。また古径と共に、今村紫紅や安田靫彦らが組織していた紅児会に入会して勉強をつづけた。大正3年再興された院展に参加して第1回展に「竹取物語」「湯治場」を出品、展覧会期中に同人に推sれる。依頼院展を中心に活躍し、「京都所八題」(大正5年)、「西遊記」(昭和2年)、「洞窟の頼朝」(昭和4年)、「罌粟」(昭和5年)、「大同石仏」(昭和13年)、「風神雷神」(昭和24年)、「Y氏像」(昭和26年)など、歴史画、風景画、風俗画、肖像画、静物画のあらゆる分野にわたって、つぎつぎに秀作を発表した。再興日本美術院の中心的存在というだけでなく、近代の日本画を代表する画家の一人であり、その作品は東洋や西洋の古典の研究に裏づけられている。帝国美術院、日本芸術院会員、帝室技芸員、東京芸術大学教授などをつとめ、昭和30年文化勲章を受けた。昭和52年10月27日に歿した。 #近代美術シリーズ #切手 #初日カバー #FDC
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佐伯祐三≪テラスの広告≫(1927年) 「近代美術シリーズ初日カバー」
佐伯雄三 明治31年(1898)4月28日、大阪に生まれる。大正4年17歳ごろから油絵に興味をもち、大阪で赤松麟作の洋画塾に入ってデッサンを習う。大正6年上京して川端画学校に通い、翌7年東京美術学校西洋画科に入学、藤島武二に師事する。大正12年東京美術大学卒業後、家族を伴ってフランスに留学、ヴラマンクの影響を受けて、作風はしだいにフォービズムの様式に向かった。大正15年帰国。里美勝造や前田寛二らと1930年協会を結成し、新しい時代の絵画を目指したが、日本の風景を描くことに悩み、再びフランスへ渡る決意を固める。昭和2年シベリヤ経由でパリに入り、憑かれたようにパリの街や郊外風景を描き、短期間のうちにカフェ・レストランやモラン風景の優れた連作を残したが、3年4月に喀血し、さらに6月には精神異常の兆候も表れ、パリ郊外の精神病院に入院し、同年8月16日病院で歿した。画家として活躍したのはわずか5年間であり。30歳の若さで歿したが、画家自身の生命を燃焼させたかのような激しい描線と色彩による表現は今なお人々に感動を与える。 #近代美術シリーズ #切手 #初日カバー #FDC
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鏑木清方≪一 葉≫(1940年) 「近代美術シリーズ初日カバー」
鏑木清方 明治11年(1878)8月31日、東京日日新聞の創設者の一人條野採菊の子として、東京に生まれる。本名健一。明治24年水野年方も入門し、日本絵画協会展や同志と共に結成した鳥合会に出品、また父採菊が東京日日新聞から分かれて。やまと新聞を創刊した関係で新聞・雑誌の挿絵を多く描いた。明治42年第3回文展に「鏡」が初入選、依頼受賞を重ねるとともに文展・帝展を中心に「墨田河舟遊」(大正3年)、「黒髪」(大正6年)、「ためさるる日」(大正7年)、「朝涼」(大正14年)などを発表、さらに昭和2年第8回帝展の「築地明石町」が手国美術院賞を受賞して、美人画家としての名声を不動のものとした。清方自身、江戸末期の風俗や江戸の面影を残す明治初期の東京下町の風俗こよなく愛したが、作風も優美で艶麗な描線と色彩により、浮世絵の伝統を近代によみがえらせたものといえよう。ほかに「三遊亭円朝像」(昭和5年)、「一葉」(昭和15年)など肖像画の秀作も多い。昭和4年帝国美術院会員となり、昭和29年文化勲章を受章した。昭和47年3月2日、東京で歿した。95歳。 #近代美術シリーズ #切手 #初日カバー #FDC ■築地明石町 https://muuseo.com/stamp_collection/items/207
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岸田劉生≪麗子微笑≫(1921年) 「近代美術シリーズ初日カバー」
岸田劉生 明治24年(1891)6月23日、明治期の先覚者の一人で水目薬などの製造販売を営んでいた精錡水本舗岸田吟香の四男として、東京に生まれる。明治41年白馬会研究所にはいり黒田清輝に師事して油絵を学んだが、同44年雑誌「白樺」でゴッホ、ゴーギャン、ルノワール、セザンヌなどを知り、その影響を受けるとともに、武者小路実篤ら「白樺」同人と親交を結んだ。明治45年新しい時代の絵画を目指すヒョウザン会の結成に参加した。大正3年ごろから一転して「絵画の妻」「南瓜を持てる女」などのように、北欧ルネッサンス風の細密描写を試み、つづいて同4年木村荘八、中川一政らと草土社を結成して、その中心的画家として活躍した。つねに実写の追求しながら独自の作風を展開したが、草土社展を中心に「切通しの写生」(大正5年)、「静物(湯呑と茶碗と林檎三つ)」(大正6年)など近代洋画史上に残る傑作を発表している。大正7年から娘麗子をモデルに数多くの麗子像を描き、晩年は日本画にも手を染めた。大正11年春陽会に客員として参加したが、昭和4年12月20日旅行先の山口県徳山市でわずか38歳で急逝した。 #近代美術シリーズ #切手 #初日カバー #FDC ■岸田劉生画「住吉詣」 https://muuseo.com/stamp_collection/items/261
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小井楢重≪Nの家族≫(1919年) 「近代美術シリーズ初日カバー」
小井楢重 明治20年(1887)10月13日、大阪市南区長堀橋筋1丁目21番地に生まれる。生家は膏薬「天水香」で知られる老舗の薬屋であった。大正3年東京美術学校西洋画科を卆業。大阪へ帰り。文展や院展へ作品を送った。大正8年第6回二科展に「Nの家族」を出品して樗牛賞を受賞、さらに翌9年第7回二科展に「少女於梅図」を出品そて二科賞を受賞し、ようやく世に認められた。大正10年フランスに留学、わずか6か月間の滞在であったが、油絵が西洋の自然や物の考え方を基盤として生まれた、またそれによって支えられている絵画表現であることを実感として知った。そして帰国後は自分自身の体質から生まれる油絵表現の完成を生涯の目標とした。大正12年二科会の会員となり、同会を中心に「帽子を冠れる肖像」(1924)、「裸女結髪」(1927)、「支那寝台の裸女」(1930)などの作品を発表し、上方文化の伝統にもつながる一種濃密な美の領域を独自に開拓した。分筆にもすぐれ、随筆集「楢重雑筆」(1927)、「めでたき風景」(1930)などの著書がある。昭和6年(1931)2月13日、43歳で歿した。 #近代美術シリーズ #切手 #初日カバー #FDC
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福田平八郎≪筍≫(1947年) 「近代美術シリーズ初日カバー」
福田平八郎 明治25年(1892)2月28日、大分市に生まれる。大正7年京都市立絵画専門学校を卆業、翌8年第1回帝展に「雪」を出品して初入選した。つづいて大正10年第3回帝展の「鯉」で特選となって宮内省に買上げられ、さらに大正11年第4回帝展の「鶴」で二度目の特選となった。以後帝展(帝国美術院展覧会)、文展(文部省美術展覧会)、日展を中心に出品し、しばしば審査員をつとめるとともに六潮会、春虹会、清流会、彩交会などのグループにも属して活躍した。生涯を通じて自然のさまざまな様態の観察と徹底した写生をつづけ、生まれながらにそなわった鋭い色彩感覚と卓越した描写力数々の秀作を描いた。とくに戦後の日展に発表した「筍」(1947)、「新雪」(1948)、「雨」(1953)、「水」(1958)、「花の習作」(1961)などの作品は、装飾感にあふれる構図と新鮮な色彩表現によって、現代日本画の展開に大きな影響を与えた。昭和22年日本芸術院会員となり、36年文化勲章を受章した。昭和49年(1974)3月22日、82歳で歿した。 #近代美術シリーズ #切手 #初日カバー #FDC
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安田靫彦≪飛鳥の春の額田王≫(1955年) 「近代美術シリーズ初日カバー」
安田靫彦 明治17年(1884)2月16日東京に生まれる。本名新三郎。生家は江戸時代からつづいた「百尺」という料亭を営んでいた。少年時代から病弱で一人で絵を描いていることが多かったが、当時新しい時代に適応する日本画の表現を追求して熱心な活動を展開していた横山大観。菱田春草らの作品に感激して画家に決意を固め、明治31年故堀鞆音の門に入った。日本美術院、巽画会などに出品するとともに、今村紫紅らと研究団体紅児会を結成、早くからその才能を認められていた。大正3年日本美術院の再興に発起人として参加し、経営者同士となった。以後再興院展を中心に「五合庵の春」(大正9年)、「日食」(大正14年)「黄瀬川陣」(昭和16年)、「王将君」(昭和22年)、などの傑作を発表し、東洋の古典に関する豊かな教養と日本の伝統的技法について深い研究から生まれた、澄明で典雅な格調の高い作風は、近代日本画が到達したひとつの完成された様式であるとさえいわれている。昭和23年文化勲章を受章。昭和53年4月29日94歳で歿した。 #近代美術シリーズ #初日カバー #FDC #切手
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