-
KURSK Operation Zitadelle, 4 July 1943
1943年7月4日、ドイツ軍は北部からは中央軍集団第9軍が、南部からは南方軍集団の第48装甲軍団とSS第2装甲軍団がクルスク目指して進撃を開始した。作戦行われた第三次ハリコフ攻防戦の結果、ハリコフを中心に戦線が突出したソ連軍を叩くためである。作戦名はツィタデレ(要塞)作戦。立案自体は4月に行われたが、形勢不利を悟っていたヒトラーは実施命令を下すのを躊躇っていた。倒しても倒しても後方から増援が登場するソ連軍に対し、消耗しきっていた現在のドイツ軍では戦力不足の感は否めず、攻撃前に更に戦車を増強すべきだと考えていたのである。しかし、時間が経過すれば戦力が回復するのはソ連軍も同じだった。 進撃を開始したドイツ軍の目にしたものは、クルスク周辺一帯に張り巡らされた大規模な塹壕地帯、地下壕、鉄条網、地雷地帯、砲兵陣地、機関銃陣であり、そしてそこに控える130万人のソ連兵、3,000両の戦車で要塞と化したクルスクだったのである…。 『クルスク オペレーションツィタデレ1943年7月4日』は、東部戦線においてドイツ軍最後にして最大の攻勢であり、ドイツ軍はティーガーⅠ型重戦車、Ⅴ号パンターD型、フェルディナント重駆逐戦車、フンメルなど最新鋭の戦車を含む2,800両、ソ連軍は3,000両の両軍合わせて6,000両近くの戦車が参戦した史上最大の大戦車戦でした。結果としてドイツ軍は虎の子である戦車を大量に失い、ドニエプル河の西岸まで撤退してしまいます。そして、この戦い以降独ソ戦においては赤軍が主導権を握ることになります。 #ツィタデレ作戦 #クルスク戦車戦
ルール(8P) ユニット255個 22×28インチマップ1枚 ゲームチャートシート1枚 6本 無し 作戦級ちょこ大佐
-
The Ardennes Offensive
ヒトラー最後の賭け 1944年6月に敢行された連合軍のノルマンディー上陸作戦以降、ドイツは窮地に陥っていた。8月にはパリ解放、9月にはベルギーのアントワープ港がイギリス軍によって解放された。東部戦線ではソ連軍の反抗が進み、正にドイツは四面楚歌に立たされていた。 ヒトラーはこの窮地を打破するために、3個軍によってアルデンヌ高地から奇襲、連合軍の重要な兵站港になっていたアントワープを攻撃、イギリス軍を包囲することによって人質とし、連合軍に講和を持ち掛けて西部戦線での休戦を実現し、東部戦線のソ連軍に全力で当たる作戦を立案した。「ラインの守り作戦」である。 1944年12月16日、悪天候の中、ラインの守り作戦は敢行された。アルデンヌ高地は深い森林と山岳で覆われており、連合軍にとっては装甲部隊がこの地方を進撃してくるとは思ってもいなかったため、ドイツ軍の奇襲は成功し、また折からの悪天候によって連合軍の航空戦力が使用できず、ドイツ軍の進撃を止めることができなかった。3年前のフランス陥落の悪夢の再来である。ヒトラーのラストギャンブルは成功するかに見えた。 しかし、23日に天候が回復すると、連合軍は素早い対応を見せ始めた。既に制空権を握っていた連合軍航空部隊は進撃するドイツ軍に痛烈な爆撃を与え、進撃を止めたのであった。以降、ドイツ軍の足は止まり、連合軍の反撃が始まるのである…。 『ザアルデンヌオフェンシブ』は、1943年12月16日から1月2日までの、ドイツ軍のアルデンヌ地方での攻勢、いわゆるバルジの戦いをシミュレートしたゲームです。ドイツ軍最後の攻勢として有名な戦いですが、アメリカでの名称はドイツ軍のその突出した戦線を指して「バルジの戦い」や「バルジ大作戦」、「アルデンヌの戦い」と言われますが、ドイツでの作戦名は「ラインの守り作戦」、または指揮官の名前を取って「ルントシュテット攻勢」とも言われています。
ルール(8P) ユニット255個 22×27.5インチマップ1枚 ターンレコード&増援チャート1枚 6面体ダイス1個 10本 無し 作戦級ちょこ大佐