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アフリカンギャンビット
北アフリカ戦線とは、1940年9月のイタリア軍によるエジプト侵攻から、43年のチュニジア侵攻による枢軸軍北アフリカ部隊の壊滅、撤退までを言います。そもそも何故東西戦線で手いっぱいのドイツ軍が北アフリカに軍を送ったのか?イタリアは、その領土欲、支配欲を満たすためだけにエジプトに手を出したのでしょうが、ドイツとしては、予想以上に弱かったイタリア軍に危惧し、このままイタリアが負ければ連合軍がイタリア占領後、南からドイツ本国に攻め入ってくるのだけは避けたいためにイタリアに援軍を送ったのでしょうし、イギリスとしてはエジプトを占領されるとその植民地政策の根幹が揺るぎ始めるし、南方からの資源の輸送が停滞するのが怖くて出兵したのでしょう。ドイツ軍も、イギリス軍も本当は本国に関係ない北アフリカに出兵などしたくなかったはずです。運命のなせる業でしょうか、この北アフリカ戦線の趨勢が結局第二次世界大戦の結末の一因となっていくのです…。 「アフリカンギャンビット」は、1983年にアドテクノスが制作、朝日出版社よりゲームブックスシリーズのひとつとして発売されました。1940年9月より1943年6月までの北アフリカ戦線をシミュレートしています。その特徴は、戦いを直接戦闘、戦力ではなく、補給に焦点を当てたデザインです。北アフリカの何もない砂漠が永遠に広がる広大な土地で戦闘に勝つには補給線が一番大事だということをプレイヤーに納得させる画期的なシステムです。 高梨作品にハズレ無し。待望の名作が装い新たに登場です。 #北アフリカ戦線 #クルセーダー作戦 #コンパス作戦 #エルアラメインの戦い #トーチ作戦 #チュニジアの戦い #ガザラの戦い #ハスキー作戦
9本 旧アドテクノス再販企画第四弾 作戦級 1Turn=1ヵ月 1へクス100㎞ 1Unit=師団ちょこ大佐
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東部戦線冬季戦41-42
1941年6月に発動されたバルバロッサ作戦は、ドイツ軍の思惑通りにソ連軍を駆逐して進んでいった。しかし、ヒトラーの鶴の一声によりモスクワを目指していた中央軍集団が、南方軍集団の支援のために資源豊富なウクライナ地方に転身、貴重な数か月を浪費してしまう。ウクライナ地方を制覇して中央軍集団が再びモスクワを目指したのはモスクワの厳寒な冬季を目前とした9月も終わりの頃だった。果たしてこの迂回はどちらの軍に微笑むのか…。 「東部戦線冬季戦41-42」は1941年9月から始まったドイツ軍による東部戦線におけるタイフーン作戦を再現するゲームです。原作は1983年にアドテクノスが制作、シミュレーションゲームブックスのひとつとして朝日出版社から発売されました。早すぎた傑作と言われ、その出版形態からあまり普及したとは言えず、待望の再販です。そのシステムはシンプルながらタイフーン作戦の展開を無理なく再現しており、特に戦力差によりドイツ軍が連隊、ソ連軍が師団のスケールで再現されるゲームが多い中、どちらも師団規模でデザインされ、質のドイツ軍、量のソ連軍という特徴が実感できる点が唯一無二の良ゲームとなっています。 #東部戦線 #バルバロッサ作戦 #タイフーン作戦
2本 旧アドテクノス再販企画第三弾 作戦級 1Turn=1週間 1へクス=28㎞ 1Unit=師団ちょこ大佐
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ファイティングゼネラルパットン
「ファイティングゼネラルパットン」は、1986年にアドテクノスから発売された「走れ!パットン」から、バルジの戦いで最大の激戦地になったバストーニュの攻防を再現した「バストーニュ救出作戦」と、枢軸軍の敗戦がほぼ決定した後、戦後を見据えてチェコスロバキア国境を越えて侵攻したパットン第3軍とソ連軍の激突を描いた架空戦「プラハ侵攻作戦」の2本のシナリオを再録したゲームです。最大の魅力は、砲爆撃、移動、戦闘を繰り返すだけのシンプルなシステムながら事前の砲爆撃で前線の敵軍を混乱または撃破し、混乱した敵部隊が失った支配地域から突破を図るという、実際の戦場の展開を再現し、かつプレイアブルなシステムを両立させている点である。2つのシナリオとも、当時日本よりもアメリカで評価されていた名作。 #パットン #バルジの戦い #架空戦 #アメリカ軍VSソ連軍
2本 旧アドテクノス再販企画第一弾 作戦級 1Turn=半日 1へクス=2㎞ 1Unit=大隊 / 1Turn=1日 1へクス=7.5㎞ 1Unit=連隊~師団ちょこ大佐
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壬申の乱
672年、天智天皇の太子大友皇子の即位を不服として皇弟・大海人皇子が反逆した古代日本最大の内乱である。いわば皇位継承における下克上であり、天皇家が権威、武力双方を掌握していた時代ならではで、今では考えられない戦いでもある。また、反逆側の大海人皇子側が勝利して下克上が成功するなど、日本史上稀な結果になったという意味でも重要な戦いである。 671年、時の天智天皇は、同母の弟である大海人皇子に天皇の位を継がせようとしていたが、大海人皇子自身がこれを断り、天智天皇の実子である大友皇子を推挙し、自身は出家し吉野宮(現在の奈良県吉野)に引き籠った。672年1月、46歳で天智天皇が崩御し、まだ24歳であった大友皇子は、即位して弘文天皇を名乗ったが、時同じくして出家していたはずの大海人皇子は、吉野を出立し、美濃、近江、伊勢、伊賀各地の豪族と会談し反乱を起こすように説得にあたる。これに対し弘文天皇を立てる近江朝廷は吉備や筑紫、はては東国まで動員を命令しこれにあたった。こうして、近畿一帯全てを巻き込んだ皇位を巡る反乱が始まったのである。結果は反乱側の大海人皇子が勝利し、即位して天武天皇を名乗ったのである。 一旦即位を断った大海人皇子が何故心変わりしたのか?いったい何があったのか?今でも日本史上最大の謎である。 「壬申の乱」は、1983年、アドテクノスが制作、朝日出版社が刊行したシミュレーションゲームブックスの5冊目の付録として発表されました。発売当時はそのテーマの地味さから人気がなかったのですが、日本ゲームデザインの鬼才高梨俊一によるそのデザインは、プレイしたらわかるその先鋭的なシステム、僅かな歴史資料を基に深く考察された再現性、テーマの重要さからじわじわと評判になり、2004年発売のゲームジャーナル12号の付録として再録されています。 #壬申の乱 #大友皇子 #大海人皇子
4本 旧アドテクノス再販企画第二弾 作戦級 1Turn=1日 1エリア=? 1Unit=?ちょこ大佐