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国華(20本入)
1904年(明治37年)2月に開戦した日露戦争では、多数の犠牲をはらいながらも日本は勝利をおさめ、多数の「戦争成金」が出現しました。そうした享楽的な世相を背景に、複数の高価格品が発売されました。 中でも「国華」は、古くから銘葉として名高い国分葉と水戸葉のみを使用した最高級品として登場しました。 灰色地に白い小菊、金色の線描で園生の竹を描いた意匠は、それまでの銘柄にない格調の高さをもつものでした。 昭和3年度における製造高は、全口付銘柄の200億本のうち僅かに1600万本、0.008%を占めるにすぎず、「一般にはなじみのない特殊品」とまで謳われた最高級品でしたが、1940年7月7日施行の「奢侈品等製造販売制限規則」(通称-7.7禁令)により店頭から姿を消しました。 1910年1月24日 金15銭で発売開始 1917年12月1日 18銭へ価格改正 1919年8月6日 25銭へ価格改正 1925年11月7日 30銭へ価格改正【画像1】 1936年11月11日 35銭へ価格改正 1938年1月31日 38銭へ価格改正 1939年11月16日 40銭へ価格改正 1940年3月製造中止 [1957 石川] [1963 大熊] [1972 日本専売公社]
縦型打抜包装 本多忠保 1910年1月24日 1940年3月shirotanino
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ベルタ(20本入)
「ベルタ」は、「HABANA」とあるように葉巻の材料となるハバナ葉を用いた銘柄で、本邦初のリトルシガーであるとも言えます。 表面には「Imperial Government Monopoly」の頭文字を組み合わせたロゴを中心に、品名のみを記載する簡素なデザインで、葉巻とも口付と言えないその姿は、大正年間に発売された数少ないタバコのなかでも、ひと際異彩を放つ存在でした。 リトルシガーが受け入れられる余地がまだまだ少なかったこと、また、価格面でも高級品の部類に属することから浸透せず、短命に終わりました。 1920年4月5日~ 30銭で発売開始【画像1】 1921年3月31日 廃止 [1963 大熊] [1972 専売公社]
縦型打抜包装 伏見分工場 1921年3月31日 1920年4月5日shirotanino
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両切敷島(22本入)
専売史上最も短期間で終売した銘柄― 大正時代は、より近代社会化への道を歩むとともに、大きな社会的不安を経験した時代でもありました。第一次世界対戦・米騒動・インフルエンザ(スペイン風邪)の流行です。中でも、インフルエンザの流行はタバコ生産に大きな痛手を与え、各製造工場では職員の欠勤が相次ぎました。 追い打ちをかけるように大正9年2月には、一日800万本の製造高を誇る当時の淀橋工場が火災で全焼し、このことが人気銘柄であった「敷島」の供給に大きな打撃を与えました。そこで専売局は、口付に代わる「両切敷島」を発売することで状況打開を試みましたが、口付の「敷島」にはるかに及ばず不人気で、わずか2週間でその販売を取り止めました。 1920年3月15日~ 22本入15銭で発売開始【画像1】 1920年3月31日 製造中止 [1981 大渓]
縦型打抜包装 「口付」敷島を一部変更 1920年3月31日 1920年3月15日shirotanino
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やよひ (20本入)
ロシア風細巻のタバコ。ロシア風とは、口紙の部分が比較的長いものをそのように称していました。 本邦初の女性向けタバコ、とくに「女学生むけ」として企画されました。当時、喫煙習慣のある女性はいましたが、「人前」で嗜むことが憚られたため、愛用者はさほど広がりませんでした。 ただ、刻みタバコからこの「やよひ」に移行する花柳界の女性が多かったといわれ、細巻の華奢な姿と相まって「芸者タバコ」というあだ名がついたといわれています。 春の草花を盛った花かごを、洋画風に描いたのが特徴。点描式の多色刷りを採用し、印刷色数が多い8色刷。のちに印刷方式を改めたため、終売近くには色数が落ちて当初の彩りをなくしました。 1910年5月25日~ 10銭で発売開始 1917年12月1日~ 12銭へ価格改正【画像1・2】 1919年8月6日~ 15銭へ価格改正 1921年~ ☆デザイン一部改正 1924年11月7日~ 18銭へ価格改正【画像3】 1929年~ ☆デザイン一部改正・色数変更【画像4】 1931年5月20日 製造中止 [1947 清川]
縦型打抜包装 大串喜代治 1910年5月25日 1931年8月20日shirotanino
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かをり (20本入)
かをりは、専売制度創始25周年を記念して販売された記念銘柄の一つで、同時に両切の「サロン」が缶入りで発売されています。スズランを意匠の中心においたもので、それまでの口付銘柄のもつ重厚なイメージから離れた、新しいデザイン様式を採用したものです。 この当時、スズランが流行し、そのことでデザインに選ばれたのではないかという推測が関係者から聞かれます。それであれば、流行に関する事物を取り上げた初期の例でないかと思われます。しかしながら、「女学生趣味」などと評価され、あまり評判の良いものではありませんでした。 同時に記念銘柄として発売された「サロン」が、同時期の他の両切銘柄に比較して高級品であったのと同様に、かをりもその他の「敷島」(15銭)・「朝日」(12銭)より高級品として販売されました。 1922年9月26日~ ・20銭で発売開始【画像1】 ・表面部分拡大 【画像2】 1923年3月31日 製造中止
縦型打抜包装 懸賞入選作品 1922年9月26日 1923年3月31日shirotanino
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八千代 (20本入)
大正という時代は、急速な近代化を経験した明治と、荒廃と復興を経験した昭和に挟まれていささか目立たない印象があります。しかしながら、その短い期間に、政治・文化ともに内外の影響を受けて、新しい思潮が生まれ花開いた時代でもありました。 タバコは、わずかに発売された6種類の内、その半数以上が記念銘柄で、その筆頭にあげられるのがこの「八千代」です。御大典(大正天皇即位)記念として発売され、わが国の記念タバコ第一号でもあります。雅楽の大太鼓に幔幕、松と楓など御大典を象徴させる事物を抑え気味の色調で描き出し、一部に金色を配して荘重さを際立たせています。また、7色の多色刷りであることも特筆されます。 タバコの包装本体に記念を意味する言葉は入れられていませんが、専売局創設以来始めて専用の「販促ポスター」が作られ、記念の趣旨が大きく宣伝されました。初の記念銘柄としての気合いの入れようが窺えます。また本品は、樺太の居留法人向けに一部輸出されていたことが知られています。 1915年10月20日~ 10銭で発売開始【画像1】 ・表面拡大【画像2】 ・裏面拡大【画像3】 1917年3月31日 製造中止 [1961 日本専売公社] [1973 田中]
縦型打抜包装 堀 規矩太郎 1915年10月20日 1917年3月31日shirotanino
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敷島(20本入)-その1
『「敷島」の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花』本居宣長(1730-1801) 専売局発足時の、口付4銘柄の筆頭にあげられる記念すべき銘柄です。その名称は先にもあげた本居宣長の和歌より採られ、デザインは和歌の浦の風景をモチーフにしたと言われています。意匠作成者は本多忠保(1853-1914)。 民営タバコ時代のパッケージデザインには、四面を分割しそれぞれに枠どりをする方式がよく見られましたが、それを改めて、全面に絵模様が展開する仕様を採用しています。このスタイルが後に受けつがれることになります。同時期に発売された他の口付銘柄が角型の包装であったのに対し、「敷島」は一貫して平型包装を用いるなど、差別化されていました。 発売当初は国産の高級タバコとして扱われていましたが、戦費調達のための税収を見込んで発売された、後発の「国華」・「不二」の2銘柄に高級口付煙草の座を明け渡した時期もありました。しかし、専売以来の口付品種としての人気がそれを跳ね返し、大正中期には売上首位を記録し、刻みタバコの退潮にも拍車をかけることになりました。 「煙艸専売局」名にて1904年7月1日より金8銭で発売開始。 1917年12月1日~ 12銭へ価格改正 【画像1】 1925年11月7日~ 18銭へ価格改正 【画像2】 1933年以降~ ☆「賣」書体修正【画像3】 1938年1月31日~ 22銭へ価格改正 【画像4】 【画像5】鞘紙(口紙の厚紙は除去) 1941年11月~ 35銭へ価格改正時に、縦型打ち抜き包装を廃止し横平型に統一する
縦型打抜包装 1941年11月 本多忠保 1904年7月1日shirotanino
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昭和(20本入)
昭和大礼(昭和天皇即位)の記念銘柄として発売されました。 同時期に発売された両切銘柄「グローリー」(10本入)と同様、洋画家の岡田三郎助(1869 - 1939)によって原画が制作されました。儀式に関わる事物をあしらう「御大典模様」を一切用いず、洋画のタッチで乱れ咲く菊花を描き国家と皇室の繁栄を表現しました。それまでの口付タバコとは違い、色遣いがまことに鮮やかであったため、この銘柄が発売された当初、タバコ小売店の店頭が明るくなったといわれました。 この「昭和」まで、記念銘柄はその都度葉組(ブレンド)を変えた新製品を採用していましたが、以降「敷島」や「朝日」などの通常販売品に特別の意匠を用意して発売する形式に改められました。 1928年10月2日~ ・20銭で発売開始【画像1】 ・表面拡大【画像2】 1929年3月31日廃止 [1961 日本専売公社] [1974 田中] [1988 アフィニスクラブ]
縦型打抜包装 岡田三郎助 1929年3月31日 1928年10月2日shirotanino