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ARTA HSV-010 SUPER GT500 #8 武藤英紀 / 小林崇志 RD.2 FUJI 2011
#ebbro #honda #ホンダ #sgt #gt500 ##
8 SUPER GT500 1/43 AUTOBACS RACING TEAM AGURIsennakazu
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TOYOTA TS050 HYBRID TOYOTA GAZOO RACING #8 WINNER 24H LE MANS 2019
トヨタ・TS050 HYBRIDは、トヨタ自動車(トヨタ・モータースポーツ)が2016年のFIA 世界耐久選手権 (WEC) 参戦用に開発したプロトタイプで、トヨタ・TS040 HYBRIDの後継モデルにあたります。 トヨタのル・マン24時間レース初参戦から33年目にして初のル・マン総合優勝車であり、日本車としてもマツダ・787B以来の優勝車となりました。 トヨタは2014年にTS040を投入してWECのチャンピオンに輝きましたが、2015年は資金を大量投入したポルシェ・アウディの競争レベルから取り残されたため、2016年に向けて開発計画の見直しを迫られました。 2015年の第3戦ル・マン24時間レースの頃には新車開発を決断し、開発リーダーの村田久武氏のもと、約10カ月という短い期間でTS050を開発、2016年ル・マン24時間レースの初制覇を目標設定として進めて来ました。 前後輪にモーター・ジェネレーター・ユニット (MGU) を搭載する四輪ハイブリッド方式は変わりませんが、パワートレイン関連は一新され、燃料流量と燃料の総エネルギー量が約7.5パーセント削減される新レギュレーションに対応し、エンジンは3,700 ccのV8自然吸気 (NA) から、2,400 ccのV6直噴ツインターボへ変更されました。 このエンジンはトヨタの東富士研究所で開発され、F1のパワーユニット同様副燃焼室(プレチャンバー)技術が採用されており、蓄電装置は充放電のレスポンスに優れるスーパーキャパシタから、蓄電容量の大きいハイパワー型リチウムイオン電池に変更され、ル・マン1周あたりのエネルギー放出量では4段階のうち最大の8メガジュール (MJ) を選択。本来、これらの技術は2017年以降に順次投入される予定でした。 トヨタは2015年より「TOYOTA GAZOO Racing」の統一ブランドでモータースポーツに参戦することを発表していたため、カラーリングもTS030以来の白×青パターンに代わり、GAZOO Racingの白×赤×黒パターンにイメージチェンジを行いました。 2016年シーズン、第3戦ル・マン24時間レース決勝はトヨタの2台とポルシェ・919(2号車)がスプリントレース並みの接戦を続けましたが、ポルシェより1周分多く周回するトヨタが、最終盤で計算上ピット一回分のマージンを稼いでいましたが、しかし終盤、プッシュしていたトヨタ6号車の小林可夢偉選手がスピンして脱落。最後の30分でポルシェ2号車がピットインし、トヨタ5号車が1分半のリードを保ち栄光のチェッカーを目指しましたが、残り6分、5号車の中嶋一貴選手から“I have no power!”と無線が入り、200 km以上の速度を出すことが出来なくなってしまう。残り4分30秒の時点でポルシェ2号車とのギャップは37.580秒に迫っており、トヨタ陣営はマシンをピットに入れるかコースに残すか迫られ、トヨタはマシンをコースに残すことを決断し、マシンの再起動を試みましたが、ピット前に停車した数秒後にポルシェ2号車が通過し、トヨタ5号車は首位から脱落しました。結果、レースの大半をリードしたにもかかわらずポイントを獲得することは出来ませんでした。 トラブルの原因はエンジン左バンクのコンプレッサーとインタークーラーをつなぐカーボン製のパイプが脱落し、過給圧が低下したためと判明、この部品は17,000 kmのテストをパスし、レース前に新品に交換していたにもかかわらず、問題が発生してしまいました。 2017シーズン、第3戦ル・マンでは練習走行、予選、決勝から優れたペースを見せ、特に予選では小林可夢偉選手が従来のコースレコードを2秒縮めるという成果をあげました。決勝でも前半を1-2体制で走り続けましたが、8時間ほどで2位の8号車はトラブルにより長期ピットイン。1位の7号車は、10時間経過後の夜間のセーフティカー走行中にピット出口の赤信号で待機していたところ、マーシャルと同じ黒・オレンジ色のレーシングスーツを着たアルガルヴェ・プロ・レーシングの地元ドライバー、ヴァンサン・キャピレール(フランス語版)が駆け寄ってきて親指を立ててエールを送った。しかしこれを搭乗していた小林が発進の合図と勘違いし、慌ててピットが無線で小林を制止。この結果想定していない手順で発進してしまい、クラッチを破損。しかもこのトラブルの発生は、セーフティーカー走行が終了したホームストレート上でスローダウンしたことにより発覚、結果ピットには還れずリタイアとなってしまいました。残った9号車も、オープニングラップでバイコレスが落下させたパーツで右カウルを破損したり、ドアが開いてしまうなどのトラブルに見舞われており、それでも7号車のリタイア時にはトヨタ勢最上位となっていたものの、直後にホームストレート上でLMP2の追突を受け、右リアをバースト。ズルズルと這う様に走りながらピットへの帰還を試みましたが、ピット進入口でわずかに届かずリタイアとなってしまいました。 この年のル・マンは結局、先にトラブルに見舞われた8号車が最後まで生き残り、総合9位(クラス2位)で終わりましたが、総合3位でフィニッシュしたネルソン・ピケJr.選手、デイヴィッド・ハイネマイヤー・ハンソン選手、マティアス・ベシェ選手がドライブを担当したLMP2クラスの13号車バイヨン・レベリオンがレース中に違反行為をしたため失格処分となり、総合8位に繰り上がりました。このレース後、現地に訪れていたトヨタ自動車社長の豊田章男氏は、ドライバーに「思い切り走らせてあげられなくてごめん」と謝罪する声明を出す一方、チームを「クルマを速くするだけではルマンには勝てないんだ! 我々には“強さ”がない! 強いチームにはなれていない!」と厳しく叱責しました。 2018年〜2019年の変則的なスケジュールで行ったシーズン、2度のル・マンを行うこととなったが、2018年6月の第2戦ル・マンでは、中嶋一貴選手が2014年以来2度目のポールポジションを獲得。決勝ではトヨタはライバルより1ラップ2秒以上速く走り、終始レースを支配しました。8号車は一時7号車にトップを奪われ、ペナルティで2分以上遅れましたが、その後フェルナンド・アロンソ選手の鬼神のような速さや黄旗のタイミングなどもあり、8号車がトップに返り咲きました。また小林可夢偉選手がピットインし忘れてガス欠の危機に陥いりましたが、徹底した対トラブル訓練により事なきを得ました。最後は中嶋と小林がランデブー走行でチェッカーを受け、トヨタは30年越しの悲願の総合優勝を果たしました。日本車としてのル・マン総合優勝はマツダ・787に次ぐ2例目、日本人は荒聖治選手に次ぐ3例目ですが、日本車と日本人の組み合わせでの総合優勝は史上初で、日本車又は日本人の1-2フィニッシュもまた史上初となりました。 なおレース展開やレギュレーションの違いもあって一概に比較はできないが、8号車の記録した周回数388は、TS050が戦ってきたポルシェ・919ハイブリッドの2016年の384周、2017年の367周を凌ぐ数字であり、トヨタがトヨタ・TS010で参戦した1991年以降では2010年のアウディ・R15 TDIによる397周、2015年のポルシェ・919ハイブリッドの395周に次ぐ三番目に多い周回数になりました。 このモデルである2019年6月の最終戦となる第8戦ル・マンでは、7号車がポールポジションを獲得したが、コース上でスピンしたマシンと衝突してしまい、モノコックの交換を強いられました。 決勝でも7号車が終始トップを走っていたものの、残り1時間で右リヤタイヤがパンク。しかもそのタイヤ交換のためのピットインで、誤って右リヤではなく右フロントタイヤを交換するミスを犯してしまい、これはモノコック交換時の配線ミスが要因でした。そのため再度のピットインが必要となり、結果として大半のリードを築いていたにもかかわらず8号車に逆転を許してしまい、最終的に前年同様に8号車がトップでゴールし2連覇を達成、同時に同車を駆るセバスチャン・ブエミ選手/中嶋一貴選手/フェルナンド・アロンソ選手組が2018 - 2019年のシリーズチャンピオンを獲得しました。これによりブエミは2回目、中嶋とアロンソは初のシリーズチャンピオンとなりました。 2019年〜2020年シーズンは、秋に開幕し翌年夏のル・マンで閉幕することになりました。 しかしコロナ禍のため2020年6月開催が9月に延期され、尚且つ無観客で行われた第7戦ル・マン24時間レースは、7号車がポールポジションを獲得。8号車は3番手からスタートしました。7号車のスタートを担当したマイク・コンウェイ選手は、3番手からスタートした8号車が2番手からスタートした1号車レベリオンとの2位争いをしている間に後続とのマージンを広げていき、8号車は1号車レベリオンをかわし2位へ浮上しましたが、1時間が経過したところで左リアタイヤのパンクに見舞われピットインしたため4位へ後退したものの、その後レベリオン勢をコース上で交わし2位へ復帰しました。 その後、2台のバトルは続き、ピットインロスやセーフティーカーのピットタイミングなどで8号車が首位に立ちますが、7時間が経過したところで8号車がブレーキ温度上昇のトラブルに見舞われ、再び7号車が首位に立ち、8号車は3位でコースに復帰しました。8号車は前を行く1号車レベリオンをオーバーテイクし、再びトヨタが1−2体制を築きましたが、しかし12時間が経過した頃、小林がドライブしていた7号車が排気マニホールドの破損による出力低下に見舞われ修復作業に30分を要し、3位の3号車レベリオンから4周遅れの4位でコースに復帰しました。 そして、2位以下に十分な差を広げた8号車がペースをコントロールしながら周回を重ねていき、最終的には差が5周まで広げていきました。 一方の7号車はレース復帰後追い上げ続け、ライバルの3号車レベリオンが残り1時間でクラッチトラブルによりガレージで修復作業に時間を要したことで3位に浮上、2位の1号車レベリオンから1周遅れでの3位表彰台を獲得しました。 この結果、8号車がル・マン3連覇を達成。これによりTS050で3回目のル・マン優勝となり、同時にTS050にとって最後のル・マンとなりました。また、この優勝により、トヨタが本年度のチームタイトルを獲得しました。 #spark #toyota #トヨタ #lemans #ルマン #france #フランス #
8 LE MANS 1/43 TOYOTA GAZOO RACINGsennakazu
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TOYOTA TS030 HYBRID #8 TOYOTA RACING LE MANS 2012
トヨタ・TS030 HYBRIDは、トヨタ自動車(TMG)が2012年のル・マン24時間レースおよびFIA 世界耐久選手権(WEC)参戦用に開発したプロトタイプです。 TS030 HYBRIDはトヨタF1チームの活動母体であったドイツのTMG(Toyota Motorsport GMbH、現TOYOTA GAZOO Racing Europe)を拠点として開発されました。名称は1990年代にル・マンに参戦していたTS010、TS020の実質的な後継機という位置づけであり「TS」は「TOYOTA Sport」の頭文字であるとされています。 最大のポイントは、トヨタのプロトタイプレーシングカーとしては初のハイブリッドカーとなっている点で、このパワートレインは、トヨタの量産車向けのハイブリッドシステム(Toyota Hybrid System、THS)の開発チームの協力を得てトヨタ東富士研究所のモータースポーツ部が開発したもので、「THS-R (TOYOTA Hybrid System - Racing)」と命名されています。 エンジンはTMGがレベリオン・レーシングに供給しているRV8K-LMとは異なる、新設計の3.4 L・V8自然吸気ガソリンエンジンを搭載し、これにバッテリーではなく、日清紡ホールディングスと共同開発した電気二重層キャパシタ (EDLC) を組み合わせるシステムとなっており、キャパシタはコクピット内部の助手席の位置に搭載されています。 エネルギーの回生と力行(駆動)を行うモーター・ジェネレーター・ユニット (MGU) は、リアのギアボックス内部にデンソー製を搭載しており、また、設計段階では選手権のレギュレーションが確定していなかったため、フロントにもアイシンAW(現:アイシン)製のMGUを搭載していました。 しかしその後「回生は前後いずれかの2輪のみ、放出も回生と同軸で行うこと」と決められたため、後輪での回生/力行を選択しました。同じくハイブリッドプロトタイプで前輪をモーター駆動するアウディ・R18 e-tron クアトロと違い、モーター使用制限速度(120 km/h以上)は定められていませんでした。 シェイクダウン時とレースデビュー時では、フロントライトの形状やフロント周りのエアロデザインが変更されています。また、ボディカラーも赤と白の2色から「トヨタ・ハイブリッドブルー」と呼ばれる青と白の2色へイメージチェンジを行いました。 エアロパッケージはル・マンではロードラッグ仕様で、その他のレースではハイダウンフォース仕様を装備しており、レギュレーションのリアフェンダーの解釈を拡大して、リアウィングの両脇に小型のウィングレットを追加したのが特徴です。 初年度の2012年は、アレクサンダー・ブルツ選手、ニコラ・ラピエール選手、中嶋一貴選手の3名がレギュラードライバーとして起用されるほか、ジュニアドライバーとしてアンドレア・カルダレッリ選手と契約を結びました。ル・マンでは2台目のドライバーとしてアンソニー・デビッドソン選手、石浦宏明選手、セバスチャン・ブエミ選手の3名が加わる予定でしたが、石浦がテスト時に背中を痛めたことからステファン・サラザン選手に交代をしました。チームはフランスのオレカをパートナーにした混合編成となりました。 デビュー戦となったWEC第3戦のル・マン24時間レースでは予選から速さを見せ、決勝も順調に2、3位を走行し一時トップを走行するアウディ1号車をオーバーテイクする健闘を見せるも、直後に8号車が周回遅れのフェラーリ・458イタリアに接触され宙を舞う大クラッシュを喫してリタイア、その際、運転していたデビッドソンが脊柱を損傷してしまいました。 もう一台の7号車は、セーフティーカーラン後のリスタート直後に中嶋のミスにより周回遅れの日産・デルタウイングと接触し、パンクとリアカウルの破損を負い、修復後も走行を続けましたが、スタートから約10時間半にエンジントラブルが発生し、134周を消化したところでリタイアとなってしまいました。 WEC初年度のトヨタ・レーシングは、ル・マンからの6戦中3度の優勝、3回のポールポジションと4回のファステストラップを記録し、ドライバーズチャンピオンシップでは6戦全てに参戦したブルツとラピエールが3位を獲得しました。 (参照ウィキペディア) #spark #toyota #トヨタ #lemans #ルマン #france #フランス #
8 LE MANS 1/43 TOYOTA RACINGsennakazu
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FERRARI 1512 ITALIA GP 1965 JOHN SURTEES
フェラーリ 1512F1は、スクーデリア・フェラーリが1964年から1965年にかけてF1世界選手権で使用したフォーミュラ1カーで、車名の1512は「1,500ccの12気筒エンジン」をあらわします。(158は8気筒) 先に8気筒の158F1は156F1の後継車として、マウロ・フォルギエリを中心に開発されました。エンジンはバンク角90度の1,489ccV型8気筒で、ボッシュ製燃料噴射装置を装備し、210ps / 11,000rpmを発生しました。シャーシは156F1後期型で使用した「アエロ」と呼ばれるセミモノコック方式を継続し、外観ではノーズサイドのNACAダクト、水色に塗られたホイール、エンジンカウルから露出した吸気管などの特徴がありました。 同時期に、フェラーリは平行してバンク角180度のV型12気筒エンジンを搭載する1512F1も開発しました。このモデルの仕様になります。エンジンは1970年代に結実する水平対向12気筒(ボクサー)路線の原点となりました。また、ボディは同チーム初のFRP製で作られました。 1,500ccエンジン規定最終年となる1965年シーズンは1512F1を主戦とする予定でしたが、実際は158F1と併用する形となりました。この年はジム・クラーク選手+ロータス・33の組み合わせが圧勝し、フェラーリ勢は2位2回が最高成績で、シーズン4位でした。なお、ジョン・サーティース選手がスポーツカーレースで脚を負傷したため、終盤2戦はペドロ・ロドリゲス選手に搭乗の機会が与えられました。 (参照ウィキペディア) サーティースのイタリアGOの成績はリタイア、シーズンは5位でした。 #brumm #ferrari #フェラーリ #italy #イタリア ##
8 FORMULA 1 1/43 SCUDERIA FERRARIsennakazu
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BRABHAM BT56 3rd BELGIAN GP 1987
ブラバム・BT56は、ブラバムが1987年のF1世界選手権参戦用に開発したフォーミュラ1カーです。 BT55で失意の1986年シーズンを送ったブラバムチームは、よりコンベンショナルなデザインのマシンを開発しました。 ブラバムで17年間設計を担当した鬼才ゴードン・マレー氏は、マクラーレンチームに移籍し、BT56はブラバムにとって1972年、1973年シーズンに投入されたラルフ・ベラミー作のBT37以来となるマレー作ではないマシンとなりました。 またブラバムは、前シーズン終了後に、メインスポンサー撤退により崩壊したベアトリス・ハース・ローラ(チーム・ハース・ローラ/1986年F1撤退)の開発母体・FORCE (Formula One Race Car Engineering)を買収し、ハース・ローラに供給されていたフォードの120度バンクV6ターボエンジンの獲得を目論んだが、フォードはブラバムより先手を打ったピーター・コリンズ氏の手腕によりベネトンチームとパートナーシップを締結してしまったこともあり、ブラバムは複数年契約を盾に引き続きBMWエンジンの供給を確保しました。 BT56は、前年BT55に搭載されたものと同じ、直列4気筒を左に72度傾けたBMW・M12/13/1エンジンを搭載しましたが、チーム側ではBT54以前で使用していたBMW・M12/13エンジンへ戻すことを希望していました。しかしこれをBMWが同意しなかったため実現しませんでした。なお、BT56はブラバム最後のターボエンジン搭載車となった。 BT55と同じエンジンとギアボックスを使用していたため、「エンジンオイルの循環不良」「リアのシャシー剛性不足」といったBT55の弱点の多くはBT56にも引き継がれており、マシンの信頼性(特にBMWエンジン)は低いものでした。アンドレア・デ・チェザリス選手に至っては16戦中14戦、リカルド・パトレーゼ選手も9回リタイヤとなりました。ただし、デ・チェザリスは、「壊し屋チェザリス」の異名があり、それでのリタイヤもあったかと…。 タイヤはピレリが撤退したことからワンメイク供給となったグッドイヤーへスイッチしました。 1987年シーズンの成績は、デ・チェザリスが第3戦ベルギーGP(このモデル仕様)で、パトレーゼが第14戦メキシコGPで、それぞれ3位表彰台を獲得、チームは合計10ポイントを獲得しコンストラクターズランキング8位でシーズンを終えました。最終戦はパトレーゼが、負傷欠場となったナイジェル・マンセル選手(日本GP予選事故)の代役としてウィリアムズ・ホンダに移籍したため、7号車のドライバーとして国際F3000チャンピオンとなったステファノ・モデナ選手を起用し、彼はBT56でF1デビューをしました。 競争力のある自然吸気エンジン確保の目処が立たなかったことから、ブラバムは翌1988年は参戦を休止して全車ターボエンジン禁止となる1989年にむけて体制を整えることとなりました。しかし、ブラバムのオーナーであるバーニー・エクレストンはF1製造者協会(FOCA)会長職に専念する意向からブラバムの売却相手の選定に入っており、1988年にチームをアルファロメオに売却しました。その後、チームは新オーナーに名乗り出たウォルター・ブルンとスイス人の投資家ヨアヒム・ルーティの手に渡り1989年に参戦復帰(ユーロブルン・レーシング)しました。 (参照ウィキペディア) スポンサー広告がほとんどなく、カラーリングも2色のみ…。 そんなシンプルなマシンがとてもカッコいいんです! #spark #brabham #ブラバム #belgian #ベルギー ###
8 FORMULA 1 1/43 BRABHAMsennakazu
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McLAREN FORD M28 P.TAMBAY 1979
このモデル、マクラーレン・M28は、1979年のF1世界選手権用に製作されたマシンで、デザイナーはゴードン・コパックが手掛けました。 マクラーレン初のグラウンド・エフェクト・カー(車体下面と地面の間を流れる空気流を利用してダウンフォース(下向きの力)を獲得することを目的に設計された車両)であり、そのスタイルはロータス・79とよく似ていました。また、モノコックにはノーメックス・ハニカム(硬性および耐久性が高い構造)を使用していました。 当初は、ロータスから移籍した、ロニー・ピーターソン選手がドライブする予定でしたが、残念ながら事故死(前年1978年9月10日のイタリアGP決勝)により実現はしませんでした。 開幕戦のアルゼンチンGPでジョン・ワトソン選手が3位になりましたが、車体が大型化したことによる重量の増加とグリップ不足が露呈してしまい、第5戦スペインGPで全長と重量を削減したM28B、第7戦モナコGPでM28Cと改良型を登場させましたが、最終的に同シャシーでの改良使用をあきらめ、シーズン途中の第9戦イギリスGPよりM29を投入することになりました。 シーズンの成績は、チーム15戦15ポイントで7位(M28は8戦8ポイント、M29は7戦7ポイント)。パトリック・タンベイ選手は、0ポイントで順位なし。同僚のジョン・ワトソン選手はマクラーレンの全てのポイントを稼ぎ出して15ポイントで9位となりました。(参照ウィキペディア) この頃のマクラーレンモデルは、メインスポンサーの『Marlboro』の表示が無いと、 2色のカラーリングだけの間が抜けた感じで寂しいです。まだデカール貼りをやったことがないので、そろそろトライをしなければ、と撮影のためにケースを開けたところ、ケース底からデカールシールが落ちてきました。スパークモデル製は隠れシールが底に入っていることが多いですが、ミニチャンプス 製にしては珍しいです。展示が落ち着いたら挑戦をしてみます。でも難しそう。。。、 #minichamps #ミニチャンプス #mclaren #マクラーレン #uk #イギリス #ford #フォード
8 McLAREN COLLECTION EDITION 43 NO.179 FORMULA 1 1/43sennakazu
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PEUGEOT 908 HDI FAP #8 2nd LE MANS 2007
2007年からのプロトタイプレーシングカーは、クローズドタイプ(密閉型)のコックピットの開発を促進する規定により、今までのアウディ・R8、R10に代表されるようなオープンタイプ(開放型)からクローズドボディが採用されるようになっていきました。 2007年のル・マン24時間レースでは、予選で、このモデルのLMP1クラスのプジョー8号車を駆るステファン・サラザン選手が最速タイムを記録し、ポールポジションを獲得しました。 決勝では8号車を含むプジョー勢が不安定なハンドリングでペースが伸びず、アウディ勢に交わされ順位を落としてしまいます。中盤7号車が2位、8号車が3位と表彰台圏内を走行しましたが、残り1時間で7号車はリタイア、残った8号車もトラブルを抱え、結局アウディの1号車が優勝し、8号車は、総合、クラスともに2位となりました。(参照ウィキペディア) ixo modelは、割と格安で入手することが出来るので、ル・マンシリーズやラリーのモデルをよく購入しますが、クォリティは年々良くなってきており、細部までよく出来ていますし結構気に入っています。 このmuuseoを始めてから、ミニカーをしっかりと見ながらその魅力を伝えていこうと思っていますが、じっくりと見れば見るほど、どのミニカーメーカーも個性的であり、デフォルメひとつを取っても比較してみると、それぞれ違いがあり、それぞれの魅力を表現しており、楽しいですね。 #ixo #peugeot #プジョー #lemans #ルマン #france #フランス
8 LE MANS 1/43 TEAM PEUGEOT TOTALsennakazu
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McLAREN FORD MP4/8 AYRTON SENNA THE LAST RUNNING IN SUZUKA 1993
今から30年前、私が初めてF1を観戦し、初めてアイルトン・セナのレースを観たのが、この鈴鹿で、このマシンした。 今までフジテレビの放送でしか観たことのない鈴鹿で、憧れのセナが目の前を走っている。信じられないくらいの爆音、F1サウンドを体で感じて、恥ずかしながら自然と涙していたのを思い出します。 まさか、この鈴鹿で彼を見る最後のレースになるとは思わず、全てのことが感動感動感動でいっぱいでした。 レース後、表彰台のトップに立つ彼を見ながら、また来年彼を応援に必ず来ような、と友人たちと話し鈴鹿を後にしましたが、その半年後に、あんなことになるなんて。。。 思い出いっぱいの1台です。 #minichamps #mclaren #マクラーレン #ford #フォード #suzuka #鈴鹿 #ayrtonsenna #アイルトンセナ
8 SUZUKA LEGEND FORMULA 1 1/43sennakazu
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McLAREN MP4/2 TAG TURBO N.LAUDA WORLD CHAMPION 1984
1984年から1986年まで活躍したジョン・バーナードが設計した最強マシンです。エンジンはTAGポルシェ(テクニーク・ダバンギャルドの資金を得てポルシェが開発) 。3年間でコンストラクターズ2回、ドライバーズ3回(ニキ・ラウダ選手1回、アラン・プロスト選手2回)。全48戦出走して22勝を上げてます。 1984年、全16戦12勝のこの二人が優勝争いを繰り広げ、0.5ポイント差でラウダ選手に軍配が上がりました。 (参照ウィキペディア) #minichamps #mclaren #tag #porsche #lauda #uk #イギリス #worldchampion
8 McLAREN COLLECTION EDITION 43 NO.20 FORMULA 1 1/43sennakazu
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FORMULA NIPPON FORUM ENGINEERING ARTA TEAM LE MANS #8 土屋武士 2003
初めてモータースポーツを観戦し始めたのは、このFORMULA NIPPONの前身であるF3000 でした。FORMULA 1 の直下カテゴリーで当時でもかなりの迫力がありました。その後、1996年にこの名称に変わり、1999年には新しい国際F3000の安全基準のみを取り入れ、車両規則は独自のレギュレーションを規定しました。そして、2013年には現在のSUPER FORMULAに再び変更になりました。 このカテゴリーもよく観戦しに行きましたので、これらのミニカーも数台購入しました。今回、久々に奥の棚から引っ張り出してきましたが、とても懐かしく見入ってしまいました。 #ebbro #toyota #トヨタ #formulanippon #フォーミュラニッポン ##
8 FORMULA NIPPON 1/43 FORUM ENGINEERING ARTA TEAM LE MANSsennakazu