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MINARDI FORD M195 #23 PIERLUIGI MARTINI BRASIL GP 1995
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23 FORMULA 1 1/43 MINARDIsennakazu
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FOOTWORK ARROWS HART FA16 #9 GIANNI MORBIDELLI CANADA GP 1995
フットワーク・FA16は、フットワークが1995年のF1世界選手権参戦用に開発し投入したフォーミュラF1カーで、デザイナーはアラン・ジェンキンス氏です。 チームは1994年中からフォード・ゼテックRエンジン獲得を希望し奔走していましたが、フォードはこのエンジンの独占供給先にザウバーを選んだため、アロウズは代替策としてプライベートビルダーであるハートのV8エンジンを搭載することになりました。そのため、アラン・ジェンキンス氏は急遽設計図面の作り直しを迫られました。 しかし、ハートエンジンはコンパクトで軽量で、少ない予算の中で最高の性能を発揮することになりました。 フロントサスペンションには前年も使用されたモノコイルスプリング+ツインダンパーが設置されました。FA16の良さはセットアップが決まった時の軽快性で、ハートエンジンも中速コースにマッチングしていたことで、コース特性が似たタイプであるカナダ/ジル・ヴィルヌーヴ・サーキットとオーストラリア/アデレード市街地コースでジャンニ・モルビデリ選手が好成績を挙げました。 ドライバーは、チーム2年目を迎えるジャンニ・モルビデリ選手と、スポンサーを持ち込んだ井上隆智穂選手がドライブしました。チームの資金不足のため、モルビデリはシーズン中盤第8戦からの7レースではスポンサーを持ち込んだ新人マックス・パピス選手と交代させられまし。 1995年シーズンは、モルビデリの活躍で第6戦のカナダGPで6位に入り1ポイントを、最終戦オーストラリアGPではアロウズにとって1989年アメリカGP以来6年ぶりとなる3位表彰台を獲得し、FA16のポテンシャルを完全に引き出しました。しかし井上隆智穂とパピスはFA16を使いこなせずに終わっています。 井上は、レースでの戦いそのものではない場面で取り上げられるばかりでありました。 ①モナコGPでは、プラクティス後にロープでマシンを牽引されてピットに戻る最中、オフィシャルカーに衝突されて横転するアクシデントに見舞われました。幸運にも彼はまだヘルメットを装着したままだったため怪我すること無く、決勝に参加することができました。 ②ハンガリーGPでは井上自身がレスキューカーに跳ねられました。彼のFA16はエンジントラブルで停止し、消火器を持って火を消そうとした井上にコースカーがぶつかりましたが、このときも彼は大きな怪我をすることはありませんでした。 チームはモルビデリの奮闘により5ポイントを獲得。これはティレルと同ポイントであったが、モルビデリが表彰台に上ったことで最高位でまさり、ティレルより上位となるコンストラクターズランキング8位でシーズンを終えました。ドライバーズランキングは、モルビデリ14位、他の2人はランク外でした。(参照ウィキペディア) このモデルは、カナダGP仕様ですが、この派手な蛍光色のカラーリングが気に入っています。また、前年の鈴鹿でシムテックからF1デビューした井上隆智穂選手ですが、最初は「こいつ誰?」って感じで、テレビでも認知度は低かったと思いますが、この年からアロウズでフル参戦して彼を知り、海外で努力してきた奴なんだと感心したのを記憶しています。それと前述のように、オフィシャルカーに2回も轢かれるなど、笑っちゃいけないのですが、当時大受けでした! 今でもYouTube 上でネタにされていますね(笑) #onyx #footwork #フットワーク #arrows #アロウズ #hart #ハート #canada #カナダ
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PACIFIC FORD PR02 #12 ANDREA MONTERMINI 1995
パシフィック・レーシングは、かつて存在したイギリスのレーシングチームで、1994年から1995年にかけてF1世界選手権に参戦しました。 パシフィック・レーシングは1980年代よりフォーミュラ・フォードやイギリスF3選手権、国際F3000選手権などに参戦し、J.J.レート選手、デビッド・クルサード選手、エディー・アーバイン選手などのドライバーを輩出してきました。1991年にはクリスチャン・フィッティパルディ選手を擁して国際F3000選手権を制覇し、F1へのステップアップを図ってきました。 当初、1993年1月に同年開幕戦からのF1参戦表明がされ、元シェブロン・カーズ氏やザクスピードのデザイナーを歴任したポール・ブラウン氏がPR01のデザインを担当し、エンジンはマーダーチューンのイルモアV10の使用、ドライバーにはミハエル・バルテルス選手と契約が完了しており、もう1人にはジャン=マルク・グーノン選手を希望していると表明していましたが、資金が充分に集められなかったため参戦を1年見合わせることになってしまいました。 1995年は、破綻したロータスの名称権を買収して「パシフィック・チーム・ロータス」として参戦しました。日本の東急グループを率いる五島ファミリーが資本参加し、東京に「パシフィック・アクセス」なる事務所を設立してアジアのスポンサー獲得に動き、また、ベルトラン・ガショー選手も自己資金を投入して共同オーナーになるなど体制強化を図りましたが、相変わらずの資金難が続きました。 ドライバーラインナップはアンドレア・モンテルミーニ選手とペドロ・ラミー選手に決定し、ガショーは共同オーナーとしてマネージメントに専念する意向でしたが、開幕直前になってラミーがティレルとの二重契約未遂でシートを失い、結局スポンサーを持ち込めるドライバーが見つからなかったため、序盤戦と終盤戦ではガショーが自らステアリングを握ることとなってしまいました。マシンはフランク・コパック氏による吊り下げウイングを廃止したオリジナルシャシーに、フォードEDエンジンを搭載したPR02を登場させました。 参戦台数の減少により予選落ち(予備予選)がなくなり、全戦で2台揃って決勝に進みました。開幕戦でモンテルミニが完走するなど、前年からある程度の進化は見せたものの入賞はできず、シーズン途中ではガショーに代わってスポンサーマネーを持ち込んだジョバンニ・ラバッジ選手やジャン=デニス・デレトラズ選手の資金で参戦を継続し、パシフィックGPと1995年日本GPでは日本の若手有望株の一人であった山本勝巳選手を起用しようとしましたが、スーパーライセンスは発給されず断念することになりました。第9戦ドイツGPのモンテルミーニと最終戦オーストラリアGPでガショーが8位で完走したのが最高成績で、結局この年いっぱいでF1を撤退しました。 (参照ウィキペディア) 当時、東急グループがF1チームに資金を提供することが話題となり、マシンのノーズ先端には、当時の東急のロゴマークが見て取れます。 #onyx #pacific #パシフィック #ford #フォード ##
17 FORMULA 1 1/43 PACIFIC TEAM LOTUSsennakazu