-
Liege (ベルギー)
リエージュはベルギー東部、マース川とウルト川の合流地点に位置する町です。 ローマ時代から居住者がいたとみられますが、本格的な発展は985年にリエージュ司教領の首都となったことに始まり、名目上は神聖ローマ帝国領であったものの1794年まで司教領首都としての地位を維持します。 掲載の地図はMatthäus Merian作の「Neuwe Archontologia Cosmica」(1646年初刊)所収のものです。
Neuwe Archontologia Cosmica 銅版画 38.0 cm × 34.5 cm 1646Roku
-
Bad Ems (ドイツ)
バート・エムスはドイツ西部ライン川沿いの温泉保養地です。 ローマ時代には軍の駐屯地が置かれたようです。1324年に都市権が認められました。温泉保養地となったのはナッサウ伯が温泉施設を建設してからで、17~19世紀にかけてはドイツで最も有名な温泉保養地となりました。 掲載の地図はMatthäus Merian作の「Topographia Hassaiae et regionum vicinarum」(1646年初刊)所収のものです。
Topographia Hassaiae et regionum vicinarum 銅版画 *** 1646Roku
-
Troyes & Chalons-en-Champagne (フランス)
トロワはフランス中部シャンパーニュ地方の町で、ローマ時代のいくつかの街道の交差地点であったことから開発されました。4世紀にはキリスト教化され司教座が置かれました。9世紀にはシャンパーニュ伯領の首都となります。また、中世には重要な国際交易として栄え、服飾見本市が毎年開催され、またコインの鋳造なども行われました。貴金属や宝石の計量単位で使われるトロイオンスのトロイはこの町が語源です。 シャロン・アン・シャンパーニュもフランス中部シャンパーニュ地方の町です。ローマ時代から主要街道の交差点であったことから交易の拠点として栄え、特に12世紀に羊毛の交易で繁栄しました。 掲載の地図はMatthäus Merian作の「Neuwe Archontologia Cosmica」(1646年初刊)所収のものです。
Neuwe Archontologia Cosmica 銅版画 37.9cm × 31.6cm 1646Roku
-
Saint Malo & Dieppe (フランス)
サン・マロはフランス西部ランス川河口の町です。紀元前1世頃にガリア人により建設され4世紀後半までローマ統治下にありました。そして5~6世紀の西ローマ帝国の衰退とともにブリテン系ケルト人が多く移住してきました。中世には海賊の活動拠点として発展し、1590年~1593年にかけてはどこの統治下に属さない自治都市の宣言も行いました。 ディエップはフランス北部ドーバー海峡に面した港町でアルク川河口に位置します。11世紀頃は小さな漁村だったようですが、軍事の要衝として14~15世紀の百年戦争においてはイギリスとフランスの争奪の地となりました。また、1694年の英蘭戦争においては徹底的な破壊を受け、その後フランス風の街並みに再建されました。文化的にはフランスで最も重要な地図製作学校が置かれたことから多くの航海士が育ち、アメリカ大陸におけるフランス領獲得の大きな原動力となりました。 掲載の地図はMatthäus Merian作の「Neuwe Archontologia Cosmica」(1646年初刊)所収のものです。
Neuwe Archontologia Cosmica 銅版画 37.9cm × 31.6cm 1646Roku
-
Copenhagen (デンマーク)
コペンハーゲンはデンマークの首都で、ヨーロッパ大陸とスカンジナビア半島の間、バルト海の入り口にあるシェラン島東部に位置します。 町としてのコペンハーゲンの起源は、12世紀にスラブ系海賊に対する城塞として建造されました。1186年に当地はデンマーク王よりロスキレ主教に与えられ、1254年には都市権を得ました。13世紀~14世紀にかけては水産業、特に鰊の交易拠点として栄えますが、一方でハンザ同盟からの攻撃を度々受けます。1397年にデンマーク王国、ノルウェー王国、スウェーデン王国の間でカルマル同盟が締結され、1416年頃にはデンマーク王国の首都となります。17世紀初頭にはクリスチャン四世の下、証券取引所の開設やデンマーク東インド会社が設立されるなどし、大きく飛躍します。 掲載の地図はMatthäus Merian作の「Neuwe Archontologia Cosmica」(1646年初刊)所収のものです。
Neuwe Archontologia Cosmica 銅版画 37.7cm × 31.4cm 1646Roku
-
Avignon (フランス)
アヴィニョンはフランス南部、ローヌ川沿いの町です。 町の起源は、紀元前6世紀半ばにギリシア人が交易の拠点として居住したことに始まります。その後ガリア人の国の首都となりますが、紀元前120年にローマの統治下に入り、紀元前43年にはローマのコロニーとしての地位を得、70年には司教座が置かれます。その後、ゲルマン人の攻撃、フランク王国による支配など目まぐるしく統治者が変わる中で町は衰退していき、1226年にフランス王ルイ八世に占領されます。1309年には、フランス王の後押しで教皇の地位に就いた教皇クレメンス五世が当地を教皇庁所在地とし1377年まで続きました。また、1348年に教皇庁はプロヴァンス伯から当地の譲渡を受け、フランス革命まで、フランス国内の教皇領の飛び地となっていました。 掲載の地図はMatthäus Merian作の「Neuwe Archontologia Cosmica」(1646年初刊)所収のものです。
Neuwe Archontologia Cosmica 銅版画 37.4cm × 31.3cm 1646Roku
-
Tunes (チュニジア)
チュニスはアフリカ大陸北岸、地中海に面したチュニジアの首都です。 チュニスは古代フェニキア人によって拓かれ、カルタゴの衛星都市としてオリーブの交易で繁栄しました。ポエニ戦争でカルタゴが滅亡するとローマ帝国の属州になります。ローマ帝国崩壊後は東ローマ帝国に組み込まれますが、7世紀後半にイスラム国家であるウマイヤ朝が当地域を占領したのち、その地中海世界における地の理から交易・軍事の拠点として発展します。そして1229年に成立したハフス朝がこの町を首都としたことから、多くの外国人・商人が集まる街として大繁栄しました。 掲載の地図はMatthäus Merian作の「Neuwe Archontologia Cosmica」(1646年初刊)所収のものです。
Neuwe Archontologia Cosmica 銅版画 38 cm × 22cm 1646Roku
-
Nancy (フランス)
ナンシーはフランス北東部の町です。 起源は、1050年ごろロレーヌ公が小さな要塞都市をこの地に建設したことに始まります。シャンパーニュ継承戦争中の1218年に灰燼に帰しますが、その後徐々に再建され、ロレーヌ公国の首都として重要な町となります。1736年、カール大帝の娘で後のオーストリアの女帝マリア・テレジアと婚姻したロレーヌ公はカール大帝の命でトスカーナに移封され、この地にはフランス王ルイ十五世の義父である亡命中のポーランド王ストラニラウス一世が封じられ、彼の下で多くのバロック建築が建設されることになります。 掲載の地図はMatthäus Merian作の「Neuwe Archontologia Cosmica」(1646年初刊)所収のものです。
Neuwe Archontologia Cosmica 銅版画 37.4cm × 27.4cm 1646Roku
-
Senlis & Limoges (フランス)
サンリスはフランス北部、パリの北方に位置する町です。 元々軍事的な要衝としての役割を果たし、フランク人の襲撃に備えるために3世紀にはローマによって高さ7mの市壁が建造されました。981年にユーグ・カペーの支配下に入り、987年に彼がこの地でフランス王に選出されてからは、19世紀前半のシャルル十世の時代までフランス王が住む町となりました。また、羊毛、皮革の交易及びワイン生産の発展で、12世紀~13世紀に最盛期を迎えます。 リモージュはフランス中央部に位置し、磁器のリモージュ焼きでも有名な町です。紀元前10世紀頃にローマ人により町の基礎が形作られました。250年頃に聖マルシアルによりキリスト教化されますが、度重なるゲルマン系部族の侵攻により3世紀後半には荒廃します。9世紀に入ると聖マルシアルの墓の上に聖マルシアル修道院が建設され、その修道院が巨大な図書館を持っていたことから、11世紀には文化特に作曲分野での中心地となり繁栄しました。磁器産業は1768年に近郊でカオリナイトという鉱物が発見されたことから、発展しました。 掲載の地図はMatthäus Merian作の「Neuwe Archontologia Cosmica」(1646年初刊)所収のものです。
Neuwe Archontologia Cosmica 銅版画 34.6cm × 31.8cm 1646Roku
-
Calais & Dunkerque (フランス)
カレー、ダンケルクいずれもフランス最北部ドーバー海峡に面した港町です。 カレーはローマ時代にシーザーが英国攻略のための海軍の拠点を置いていました。その後10世紀までの間はアー川河口の漁村でしたが、当時はアー川の河口に位置する交易拠点として栄えていたサントメールが干拓により内陸部に立地するようになると、カレー、ダンケルク、グラヴリーヌまで運河が掘削され、英国との交易の拠点として栄えるよになります。特に997年のフランダース伯による投資により栄えるようになり、1224年には市壁が造られます。百年戦争中の1347年カレーはイギリスの支配下に入り、イギリスの指定港として一部交易物資の独占港となります。その後1558年にフランスが奪還、ユグノー戦争中に一時スペインに占領されますが、1598年に返還されます。経済的には、17世紀まではイギリスとの交易の中心地として栄えますが、18世紀に入るとダンケルク及びブローニュの台頭で繁栄に陰りが見え始めます。 ダンケルクは10世紀後半まではフランダース伯領の村でしたが、960年に市壁の建設、12世紀後半の干拓、サントメールまでの運河開設、交易権の付与により栄えました。さらに、14世紀の百年戦争時には、イギリスとの交易を禁止したフランスとは別にイギリスと和解、交易で繁栄しました。政治的には、1520年にフランドル伯を神聖ローマ皇帝カール5世が継承したため神聖ローマ帝国領になったものの、1658年にイングランド領となり、1662年にフランスに売却されました。 掲載の地図はMatthäus Merian作の「Neuwe Archontologia Cosmica」(1646年初刊)所収のものです。
Neuwe Archontologia Cosmica 銅版画 34.2cm × 31.7cm 1646Roku
-
La Rochelle (フランス)
ラ・ロシェルはフランス南西部の港町です。 元々はガリア人が住んでいましたが、その後ローマ支配下となり塩やワインの生産拠点として発展しました。町自体は10世紀に形作られイギリス、オランダ、スペインなどとの交易港湾拠点として重要度を増し、1130年にライバル港だったシャトライヨンとの戦争に勝ちその地位は決定的なものとなりました。1137年には自由港として認められ、1199年には自治権が認められます。政治的にはこの地(アキテーヌ)の領主だったエレノア女王がイギリス王ヘンリー二世と結婚したためイギリス領となり、この状態は1224年にフランス王ルイ八世がこの地を獲得するまで続きます。その後14世紀に始まる百年戦争中一時的にイギリス領になりますが、15世紀まで大西洋岸のフランス最大の港湾として機能し、ワイン、塩、チーズの輸出拠点して繁栄します。 掲載の地図はMatthäus Merian作の「Neuwe Archontologia Cosmica」(1646年初刊)所収のものです。
Neuwe Archontologia Cosmica 銅版画 37.9cm × 31.8cm 1646Roku
-
Zaltbommel (オランダ)
ザルトボメルはワース川とマース川の中州に位置するオランダ南部の町です。土壌が肥沃なことから果樹・花卉栽培が盛んな町です。 9世紀頃は「Bomela」と言われていました。1231年に都市権を得ました。80年戦争中の1599年にスペイン軍に占領されましたが、オランダ軍が奪還しました。 掲載の地図はMatthäus Merian作の「Neuwe Archontologia Cosmica」(1646年初刊)所収のものです。
Neuwe Archontologia Cosmica 銅版画 36.3cm × 28.8cm 1646Roku
-
Lyon (フランス)
リヨンはフランス南東部の商業都市です。 その起源は、紀元前43年にローマ皇帝シーザーがガリア攻略の拠点として基地を建設したことに始まり、ローマ時代はガリア地方の首都となります。その後フランク王国カロリング朝(7世半~8世紀半ば)の下では司教座がおかれたことから、司教の支配下に置かれることになります。経済的にも地中海と北ヨーロッパ結ぶ交易の拠点として古くから繁栄し、15世紀に入るとイタリア人商人によって定期市が開催されるようになり、16世紀にはフランス最初の金融信用取引市場が開設されます。また、16世紀前半のフランス王フランソワ1世により絹織物産業が殖産され繁栄します。 掲載の地図はMatthäus Merian作の「Neuwe Archontologia Cosmica」(1646年初刊)所収のものです。
Neuwe Archontologia Cosmica 銅版画 38.7cm *× 31.6cm 1646Roku
-
Burgos (スペイン)
ブルゴスはスペイン北部、アルランソン川の合流地点に位置する町です。 884年にカスティリア伯爵家によりレコンキスタの拠点として建設され、すぐに伯爵領の重要都市となりました。11世紀にはカスティリア王国の首都となる一方、経済的には巡礼ポイントとして、さらに大西洋に臨むビルバオとスペイン内陸部を結ぶ交易の中継地点として栄えました。1560年に首都がマドリードに移り、また交易も衰退したことからブルゴスは16世紀半ば以降衰退し、それは18世紀にカルロスⅢ世の下で復活するまで続きました。 掲載の地図はMatthäus Merian作の「Neuwe Archontologia Cosmica」(1646年初刊)所収のものです。
Neuwe Archontologia Cosmica 銅版画 34.2cm × 31.8cm 1646Roku
-
Reims (フランス)
ランスはフランス北部シャンパーニュ地方の町で、今でもシャンパン醸造所が多く所在します。また、歴代フランス王の戴冠式が行われた町でもあります。 町の歴史は古く、元々はがガリア人系のレミ族の町でした。ローマ帝国のシーザーの遠征の際にローマ側につき、以後ローマ帝国の傘下に入ります。その後フランク王国の王クローヴィスが496年にこの町でキリスト教アタナシウス派に改宗したことからフランク王国の下で庇護を受け、10世紀頃までは知的文化の中心地となりました。 掲載の地図はMatthäus Merian作の「Neuwe Archontologia Cosmica」(1646年初刊)所収のものです。
Neuwe Archontologia Cosmica 銅版画 35.7cm × 31.7cm 1646Roku