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Anthony Johnson:アンソニー・ジョンソン
アンソニーマークジョンソンは 191cmでポイントガードポジションを務め、プロNBAファイナルに参加する最初のNBA Dリーグ選手になった。サウスカロライナ州チャールストン生まれ、ジョンソンはチャールストン大学でバスケットボールを行い、1997年にサクラメントキングスにNBAでドラフトされた。彼は、サクラメントキングスによってNBAドラフトで選ばれたチャールストン大学の歴史の中で最初の選手である。 参照 Wikipedia https://en.m.wikipedia.org/wiki/ Anthony_Johnson_(basketball)
1997年 2位 SG/PG サクラメント・キングス チャールストン大学ダブルクラッチ
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Mark Anthony Aguirre: マーク・アギレ
アギレーは、デポール大学で3年間プレーした後、ダラス・マーベリックスに1981年のNBAドラフトでドラフト1位で選ばれました。アギレは1981年から1994年までNBAでプレーした。アドリアンダンリーと引き換えにダラスからデトロイトに送られた後、デトロイトピストンズで2回のチャンピオンを獲得した。 参照 Wikipedia https://en.m.wikipedia.org/wiki/ Mark_Aguirre
1984,1987,1988 1989,1990 1981年 1位 SFダブルクラッチ
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Tony Battie:トニー・バディ
テキサス工科大学で中心選手と活躍し、3年生時の1996-97シーズンに平均18,8得点 11,8リバウンド 2,3ブロックショットを記録したバティは、4年生はプレーせず1997年のNBAドラフトへのエントリーを表明。全体5位という高評価を受けてデンバー・ナゲッツから指名された。1シーズンナゲッツでプレーした後、1998年のNBAドラフトでナゲッツが全体3位でレイフ・ラフレンツを指名したのに伴い、ナゲッツはロサンゼルス・レイカーズ、ボストン・セルティックスを相手に三角トレードを敢行。27位で指名したティロン・ルーの権利をレイカーズに譲渡しニック・ヴァン・エクセルを獲得。ナゲッツは更にバティをセルティックスに放出。バティは新天地で奮闘し、2001-02シーズンは、7年振りのプレーオフ出場に貢献した。 マジックでは、2004年のNBAドラフトで全体1位で入団したドワイト・ハワードとフロントラインを形成。2005-06シーズンは、自身初の全82試合スタメン出場。2008-09シーズンはNBAファイナルまで勝ち上がったものの、ファイナルではロサンゼルス・レイカーズに1勝4敗で敗れた。 参照 Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ トニー・バティ
1997年 5位 C/PF オーランド・マジック テキサス工科大学ダブルクラッチ
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Dikembe Mutotbo: ディケンベ・ムトンボ
ディケンベ・ムトンボ・ンポロンド・ムカンバ・ジャン・ジャック・ワムトンボは、コンゴ民主共和国(入団時の国名はザイール)出身で1991年よりNBAのデンバー・ナゲッツに入団して以降2009年に引退するまで数チームでプレーした。 ディフェンスを得意とする好センターである。最優秀守備選手賞を4度受賞、オールスター戦には8度出場。2015年には殿堂入りを果たした。 参照 Wikipedia: https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ ディケンベ・ムトンボ
1994〜1996 2000〜2001 1994,1996,1997,2000 1991年 4位ダブルクラッチ
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Avery Johnson:エイブリー・ジョンソン
エイブリー・ジョンソンは、身長180cm、体重84kg。5フィート11インチの低い身長ながらポイントガードとしてリーダーシップを発揮しチームを率いたため、サンアントニオ・スパーズ在籍時、チームメイトのデビッド・ロビンソン(提督:Admiral)に対して "Little General"(小さな将軍) と呼ばれた。 1988年、彼はドラフトで指名されなかったが、シアトル・スーパーソニックスを皮切りに、デンバー・ナゲッツ、ヒューストン・ロケッツサンアントニオ・スパーズ、ゴールデンステート・ウォリアーズ、ダラス・マーベリックスで16年間NBAでプレイした。ジャニーマンとしていくつものチームを渡り歩いた彼の最も知られた時代は、スパーズ時代で特に1999年のニューヨーク・ニックスとのNBAファイナル第5戦では試合を決める重要なシュートを決めた。 参照 Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ エイブリー・ジョンソン
1999年 2006年 1988年 ドラフト外 PGダブルクラッチ
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John Wallance:ジョン・ウォーレス
ジョン・ウォーレスは1996年のNBAドラフトでニューヨークニックスに入団。 ロチェスターにあるギリシャ・アテーナの高校を卒業したウォレスは、シラキュース大学を1996年のシニアシーズンにシカゴ大学のNCAA男子大学バスケットボール選手権大会に導いた。彼は大学卒業後、ニューヨーク・ニックス、トロント・ラプターズ、デトロイト・ピストンズ、フェニックス・サンズ、マイアミ・ヒートでNBAで7シーズンをプレーした。ジョン・ウォレスは、ニューヨーク州アーモンクに本拠を置く501c-3慈善団体であるヘブンリー・プロダクションズ・ファンデーションの理事会メンバーでもある。彼の息子のJohn Wallace Jr.もギリシャのAthenaに行き、バスケットボールをした。 参照 Wikipedia: https://en.m.wikipedia.org/wiki/ John_Wallace_(basketball)
1996年 18位 SF トロント・ラプターズ シラキュース大学ダブルクラッチ
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Ron Mercer:ロン・マーサー
Ronald Eugene Mercerは、ケンタッキー大学でのキャリアの後、マーサーはボストンセルティックスに入団。その後デンバーナゲッツ、シカゴブルズ、インディアナ・ペイサーズなどのいくつかのチームを渡り歩いてプレーしました。彼は2005年にニュージャージー・ネッツでキャリアを終えました。 参照: Wikipedia https://en.m.wikipedia.org/wiki/ Ron_Mercer
1996年 1997年 6位 SG/SF ボストン・セルティックスダブルクラッチ
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Zydrunas Ilgauskas: ジードルーナス・イルガウスカス
1996年のNBAドラフトでクリーブランド・キャバリアーズより1巡目20位指名を受け、NBAデビューした。以降、キャブス一筋。1996-97シーズンは右足の骨折で全休し、デビューとなった1997-98シーズンはフル出場(82試合)を果たした。うち、81試合で先発出場するなど、即戦力として、同じくルーキーとして加入したブレビン・ナイト、デレック・アンダーソン、セドリック・ヘンダーソンと共にプレイオフ進出の原動力になった。1998年の2月にはルーキーオールスターゲームにも出場。見事、大会MVPにも輝いた。 キャバリアーズはレブロン・ジェームズの加入後にチーム成績が向上。一方で自身はドリュー・グッデンやアンダーソン・ヴァレジャオらの成長に伴い、出場時間は減少し、特にゲーム終盤ではベンチに控えることが多くなっていった。しかしベテランとしての役割を始め、チームにとっても欠かせない存在になっており、2005-06シーズンはルーキーイヤー以来となる8年ぶりのプレイオフ出場も果たした。翌2006-07シーズンには自身初のNBAファイナルに進出した。 221cmという長身をフル活用したテクニックあふれるプレイが特徴的な選手である。リバウンドはもちろん、ブロックも得意とし、ゴール近辺では脅威の存在である。オフェンス能力も長けており、フックシュート、ダンクシュート、ティップイン、ジャンプシュート、ミドルシュート等インサイドの選手としては破格のシュートバリエーションを誇り、「技のデパート」と雑誌ダンクシュートは表現した。シュート成功率もNBA屈指を誇る。また長身選手に苦手な選手が多いフリースローもヤオ・ミンと並んで非常に上手いタイプといえよう。2005-06シーズンには.834の成功率を残し、キャリアハイを記録した。運動能力やフィジカルコンタクトに強い方ではなく、上手さが売りの「柔」のセンターという存在である。 参照:Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ ジードルーナス・イルガウスカス
2003,2005 1998年 1996年 20位 Cダブルクラッチ
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Rod Strickland:ロッド・ストリックランド
デュポール大学で3シーズンプレーした後、1988年のNBAドラフトで、ニューヨーク・ニックスに1順目19位で指名され入団。ルーキーシーズンは81試合に出場し、10試合でスターターを務め、1989年のオールルーキー・セカンドチームに選ばれた。1990年にサンアントニオ・スパーズに移籍し、その後7チームでプレーし、2005年に引退した。1,094試合出場、14,463得点(13.2ppg)、7,987アシスト(7.3rpg)、1,616スティール(1.5spg)を記録した。 2011年のNBAドラフト1位で、NBAオールスターMVP等を獲得したカイリー・アービングの名付け親でもある。 参照 Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ ロッド・ストリックランド
1989年 1998年 1987年 19位 PGダブルクラッチ
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Mark.Jackson:マーク・ジャクソン
1987年にセント・ジョーンズ大学を卒業し、ドラフト1巡目18位でニューヨーク・ニックスに指名されNBA入りした。ルーキーシーズンは平均13.6得点、4.8リバウンド、10.6アシスト、2.5スティールと活躍し、ルーキー・オブ・ザ・イヤー(新人王)を受賞。新人王を受賞した歴代のNBA選手の中で最も指名順位が低い選手だった。2年目にはキャリア唯一のオールスターに出場した。ニックスでは、パトリック・ユーイングらとプレイし、カンファレンスセミファイナルまで進んだ。 1992年には、3チーム間のトレードでロサンゼルス・クリッパーズへ移籍した。クリッパーズには2シーズン在籍し、ダニー・マニング、ロン・ハーパーらと共に、1年目はプレイオフに出場した。 1994年には、マリック・シーリーやエリック・パイカウスキーらとの交換で、インディアナ・ペイサーズへ移籍した。1996年に、一旦デンバー・ナゲッツに放出されるが、再びトレードでペイサーズに復帰した。2000年には、ペイサーズのNBAファイナル進出に貢献した。 2000-01シーズン前、フリーエージェントとなったジャクソンは、トロント・ラプターズと契約した。しかし、シーズン途中にまたもやトレード、古巣のニューヨーク・ニックスで2シーズンプレイすることとなった。 2002年には、ユタ・ジャズと契約し、アシスト数歴代1位のジョン・ストックトンと2位のジャクソンが同じチームに在籍することになる。ジャズ時代に1万アシストを達成。 2003-04シーズンはABAのラスヴェガス・ラットラーズ、ヒューストン・ロケッツに所属した後、引退した。 ポイントガードでありながら、ジャンプシュートはあまり得意ではなく、体の幅を生かしたポストプレイからフックシュート、あるいはパスアウトで味方を生かすことを得意としていた。 リーダーシップがありゲームメイクも上手い、パス優先型のガードとして長年活躍し、アシスト数は歴代3位まで達し10323アシストを記録した。 参照 Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ マーク・ジャクソン
1989年 1997年 1987年 18位 PGダブルクラッチ
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Shawn Bradley:ショーン・ブラッドリー
ブリガムヤング大学での活躍と将来性を高く評価され、1993年のNBAドラフトにおいてフィラデルフィア・セブンティシクサーズから2位指名を受ける。新人ながら1試合あたり10~12得点、平均3.5ブロックを記録し、入団して数年で自分のポジションを確立する。しかし身長は高いが線は細く、同世代のセンターやパワーフォワードと比べてフィジカル面ではかなり劣る。そのためか「ディフェンスは消極的」と批判された。そしてよくポスタライズされる選手としても有名。そのためディフェンシブファウルを取られることが多く、1試合30分以下の出場時間でのファウル数が平均4ファウルを越えた。 参照 Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ ショーン・ブラッドリー
2002年 1993年 2位 1997年 Cダブルクラッチ
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Christian Laettner:クリスチャン・レイトナー
1991年、1992年、名将マイク・シャシェフスキーのもとデューク大学で2年連続NCAAチャンピオンになった。またNBA選手が初めて出場可能となったバルセロナオリンピックで唯一アマチュア選手として出場を果たした。 大学時代 、レイトナーは1992年のNCAAトーナメントにおけるケンタッキー大学との試合で終了間際にバンクショットを決めて104-103で劇的に勝利したことで特に知られている。このゲームで彼は、10本のフィールドゴールを決めて、フリースローも10本全て成功した。 1992年に卒業したレイトナーの背番号32番はデューク大学の永久欠番となった。彼は1試合平均16.6得点、7.7リバウンドの成績を残し3ポイントシュート成功率48.5%は大学記録となった。 レイトナーは4年連続NCAAトーナメントのファイナル4に進んだことのある4人のうちの1人であり、史上唯一の4年間とも先発出場した選手である。レイトナーはトーナメント記録をいくつも作り、その後当分破られることはないと思われる。 1992年のNBAドラフトで、シャキール・オニール、アロンゾ・モーニングに次いで全体3位でミネソタ・ティンバーウルブズに指名された。13年間のキャリアでウルブズ、アトランタ・ホークス、デトロイト・ピストンズ、ダラス・マーベリックス、ワシントン・ウィザーズ、マイアミ・ヒートでプレイした。NBAではセンターやパワーフォワードとしてプレイした。1993年にはオールルーキーチームに選ばれて1997年にはNBAオールスターゲームのメンバーに選ばれた。しかしレイトナーは1992年に先に指名された2人(オニールとモーニング) ほどの期待されたスーパースターにはならなかった。1998-99シーズンの大部分をアキレス腱を断裂する怪我で欠場した後、出場時間は減少した。最後のシーズンとなった2004-05シーズンは、マイアミ・ヒートでオニールとモーニングと共にチームメイトとなった。 参照Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ クリスチャン・レイトナー
1997年 1991,1992 1992年 3位 F/Cダブルクラッチ
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Isaiah Rider:イザヤ・ライダー
ミネソタティンバーウルブス ライダーは、ミネソタティンバーウルブズの1993年のNBAドラフトの第5位で選ばれた。ライダーは、NBAのオールルーキーファーストチームのメンバーとしてプレーした。彼は1994年のNBA Slam Dunkコンテストで優勝しました。彼のダンクは "The East Bay Funk Dunk"と呼ばれた。 ライダーはティンバーウォルフとの3年間で平均19ポイントを獲得していたが、ルーキーシーズン後にはプレー機会を失った。ライダーは1996年にポートランドトレイルブレイザーズに移籍した。 ポートランドトレイルブレイザーズ 1997-98シーズンでは、ブレイザーズをリードするキープレイヤーとして活躍した。ライダーは、1998年2月1日にトロント・ラプターズとの試合で38ポイント(15-25FG)で5リバウンドと4アシストを記録した。 1998-99シーズンでは、ライダーはゲームごとに平均13.9点を獲得し、13得点でチームをリードしました。 その後ライダーはアトランタホークズ、ロサンゼルスレイカーズ、デンバーナゲッツと渡り歩いた。 NBAのキャリア統計 ライダーは、563のNBA試合(424試合)で、平均16.7ポイント、3.8リバウンド、2.7アシスト、1ゲームあたりのフロアタイムの31:42を記録した。ライダーは9年間のNBAキャリアで合計9,405ポイントを獲得した。 参照Wikipedia https://en.m.wikipedia.org/wiki/ Isaiah_Rider
1994年 2001年 1993年 5位 SG/SFダブルクラッチ
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Tim Duncan:ティム・ダンカン
ポジションはパワーフォワード。NBAのサンアントニオ・スパーズ一筋19年にわたり活躍した。 ウェイク・フォレスト大学時代にカレッジバスケの個人賞を総舐めにした後、1997年のNBAドラフトにてサンアントニオ・スパーズから全体1位指名を受けてNBA入り。以後スパーズの黄金期を築き上げ、NBAファイナルを5回制覇。個人としてもNBAルーキー・オブ・ザ・イヤー、シーズンMVP受賞2回、ファイナルMVP受賞3回、デビューしてから2010年まで13シーズン連続で、オールNBAチーム、NBAオールディフェンシブチーム、オールスター(ロックアウトの影響で開催されなかった1999年を除く)に選ばれ続けた。 プレイに華やかさはないため「地味」というイメージが付き纏うが、その圧倒的な実績から史上最高のパワーフォワードとの呼び声も高い。 基本に忠実なプレースタイルからThe Big Fundamentalの愛称で知られる。 一つ一つのプレーの安定感・正確さ、自己犠牲もいとわないチームを第一に考えた献身的な態度、勝者のメンタリティを持つ精神的に浮ついたところのない逞しさなど、現役選手の中では最も信頼された実力の持ち主である。ダンカンより派手で成績も上回っている選手は数多く存在するが、ダンカンより評価されている選手はほとんど存在しない。ダンカンがプレイする時代のNBAはパワーフォワードの層が非常に充実しており、彼がNBA入りした頃にはカール・マローンやチャールズ・バークレー、クリス・ウェバーらが、そして彼の同世代にはケビン・ガーネットやダーク・ノビツキー、ラシード・ウォーレス、ジャーメイン・オニールらが居るが、そんな猛者たちを抑えてルーキーイヤーから8年連続オールNBA1stチームに選出され続けたことは、彼が同時代における最高のパワーフォワードであることを意味している。また優勝5回、シーズンMVP2回、ファイナルMVP3回と、過去これに匹敵するほどの実績を残したパワーフォワードはおらず、カール・マローンを指導したジェリー・スローンHCをしてダンカンを「史上最高のパワーフォワード」と言わしめたほどである。また11回の優勝を誇るビル・ラッセルはダンカンを「同世代において最も有能な選手」と評し、カリーム・アブドゥル=ジャバーも彼の意見を支持した。 身体能力が高いほうではないが、抜群のバスケットIQと無駄を一切排したプレースタイルで今日の地位を築いたダンカンはリーグトップクラスのスコアラーであり、リバウンダーであり、ショットブロッカーであり、ディフェンダーであり、そしてクラッチプレーヤーである。重要な時間帯ほど多用されるダンカンの1on1は、ミドルポストでディフェンダーと正対した状態から開始され、その場からのジャンプシュートやドライブからのフックシュートなどが展開され、それは至極単純なプレーであるが彼を止めることは困難だった。現役では最もバックボードの使い方が上手いとの意見も多く、バンクショットを得意としていることでも知られ、またパスセンスも高く、ディフェンダーに囲まれた際もフリーの味方にパスアウトできる判断力と柔軟性を持ち合わせている。通算ダブル・ダブル達成回数歴代1位という成績が示すように、抜群の安定感を持っていることもダンカンの大きな長所である。スパーズのチームカラーである強力なディフェンスもダンカンの存在が根底にあり、ブルース・ボウエンが現役時にはペリメーターにボウエン、インサイドにダンカンと鉄壁の守備が構築され、多くのスコアラーが袋小路に迷い込んでは彼らの餌食となった。さらにプレーオフに入ると個人成績が軒並み上昇することからも分るように、より重要な試合で真価を発揮できる選手である。彼の唯一の弱点はフリースローと言われているが、キャリア通算で成功率は70%に届いていないが致命的に低いという程度ではない。ただし、シーズンによって59%~79%とバラつきがあると言える。 全試合フル出場の回数こそ少ないものの全てのシーズンで65試合以上出場しており、接触プレーが多いインサイドのポジションを主戦場とするがフィジカルも強い。大黒柱ダンカンの長期欠場が少ないため、チームもダンカンが加入した1997-1998シーズン以降全30チーム唯一の「全てのシーズンで勝率6割以上」を記録している。 勝利への道を最短で行くような彼のプレーはしばしば「退屈である」と指摘され、1999年の優勝時にスポーツ・イラストレイテッド誌はファイナルMVPに輝いたダンカンを「静かで退屈なMVP」と評し、またシャキール・オニールから付けられたニックネーム、"The Big Fundamental"も最初は決してダンカンを賞賛する意味ではなかった(ただし、スポ・イラもシャックもダンカンが築いた実績に対しては賞賛を惜しまない)。このような評価に対してダンカンは「気にならない。好きなように批評すればいい」と泰然自若の態度である。 参照Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ ティム・ダンカン
2000年 1999,2003,2005,2007,2014 1999,2003,2005 2002-2003ダブルクラッチ
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Anthony Mason:アンソニー・メイソン
身長は201cmと決して高くはなかったが、プロレスラーの様な屈強な体格を武器に、主にパワーフォワードとしてプレイし、リーグでも有数のタフなディフェンダーとして恐れられた。またその風貌からは想像し難い程の有能なパサーでもあり、ボールハンドリングも巧みなポイントフォーワードとしても活躍した。坊主頭にロゴや模様などの当時としては奇抜な剃り込みがトレードマークであった。 テネシー州立大学から1988年のNBAドラフトにエントリーし、ポートランド・トレイルブレイザーズに3巡目53位で指名を受けていたが、入団を前に解雇された。その後トルコやベネズエラ、さらにCBAやUSBLのクラブチームを転々しながらNBA入を目指していた。1989年、どうにかニュージャージー・ネッツと契約したものの出場時間は短く、翌年移籍したデンバー・ナゲッツではわずか3試合の出場しか与えられなかった。その後1991年オフにニューヨーク・ニックスと契約した。 新天地ニックスでメイソンは頭角を現わし始めた。当時の指揮官であったパット・ライリーに見出されたメイソンは、パトリック・ユーイング、チャールズ・オークリー、チャールズ・スミスといった面々と共に強固なフロントコートを形成する。プレーオフでは黄金期のシカゴ・ブルズと激闘を繰り広げ、彼らはバッドボーイズⅡと呼ばれるまでになった。そして1994年、ニックスにとっては1973年以来となるNBAファイナル進出を果たしたが、第7戦までもつれた末にアキーム・オラジュワン率いるヒューストン・ロケッツに敗れ優勝には届かなかった。多くの出場機会を得た彼は、1995年にNBAシックスマン賞を受賞している。 1996年、ラリー・ジョンソンとのトレードでシャーロット・ホーネッツへと移籍。1年目の96-97シーズンは、平均16.2得点、11.4リバウンド、さらには5.7アシストと軒並みキャリアハイの成績で、また4度のトリプルダブルも記録している。98-99シーズンには上腕筋の断裂により調子を落としてしまっている。 2000年、9人が絡む大型トレードによりマイアミ・ヒートへと移籍し、再びパット・ライリーの指揮下に入ることとなった。当初はロールプレーヤーとして起用が見込まれていたが、大黒柱であるアロンゾ・モーニングが腎臓の疾患により離脱すると、メイソンはチームの中心メンバーとして活躍するようになり、16.1得点、9.6リバウンドの好成績で、故障者の多かったヒートが50勝を上げプレイオフに進出する原動力となった。またこの年、モーニングやオーランド・マジック所属のグラント・ヒルが故障欠場する中、2001年のNBAオールスターゲームに初選出されている。 参照Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ アンソニー・メイソン
2001年 1995年 1988年 58位 SF/PFダブルクラッチ