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写真乾板用ステレオカメラとステレオスコープ@明治後期の写真器材カタログ
20世紀初期の写真器材綜合カタログでは、まだ乾板を使う器械の方が幅を利かせていて、フィルムカメラの方はやっと関連製品が増えつつある途上だったようだ。 100年以上も前の写真のことについてよくご存知の方には説明するまでのことでないだろうが、この当時はレンズはもちろんのこと、暗箱・シャッタ・ファインダなどがそれぞれ別々の器械で、撮影するにもまずそれらを択んで買いそろえて組み立てて使う必要があったし(セットになっている商品もあるにはあったが)、現像・焼付などおこなうにも危ないものを含む色々な薬品や周辺器材を調達して自ら調合し、必要があれば手作業でレタッチし、鍍金をほどこし、仕上げに艶出しローラをかけ……という具合に、非常に手間とお金とがかかる、趣味としてはもっぱら「ゆとりある階級向け」のものだった。 そうした乾板用の器械で、立体視ができる撮像が得られるいわゆる「ステレオカメラ」と、それからそれを焼き付けた作品を鑑賞するための「ステレオスコープ」のところをみてみよう。 1・2枚目は同じ焦点距離の鏡玉(レンズ)2本と、双眼ファインダのついた「携帯用」暗箱、つまり野外撮影などに使うカメラ本体。 3・4枚目はステレオ撮影用シャッタ単体。管の先についているゴム球を握ると、当然ながら二つとも同時に動作する。左側のものには、レンズを取り付けるための「前板」がついている。 5・6枚目はステレオカメラで撮影した写真を焼き付けたものをレンズの向こう側の枠へ挿し込んで、立体視するためのステレオスコープ。当時は「双眼寫眞覗」とも呼んだようだ。顔の大きさ……というか両目の離れ具合に合わせて、左右のレンズの位置を細かく調整できるものらしい。 7・8枚目はこれの簡易版で、片手で持ち支えて見る「實體鏡」。これが今回のうちでは、最も実物を目にする機会があるシロモノだろう。 現代では考えにくいだろうが、こうした器械の筐体はだいたいが金属製ではなくて、綺麗に表面仕上げされた木の箱だった。もちろん、プラスティック製のパーツなどは使われていない。あってもセルロイドとか、だったろうか。暗箱の蛇腹部分は革製だ。 当時のカメラ関係器材などは、ほとんどが輸入品だったこともあって、図版も輸出元のカタログから持ってきたものが多いのだが、今回取り上げたカタログをよぉく見ると中には「S. KUWADA」と添えてある絵もあって、これはカタログを編む際に新たに彫刻した、日本製の細密版画であることがわかる。 なお国会図書館デジタルコレクションには、このカタログの明治34年(1901年)版が公開されているのだが、これにはまた別のステレオカメラがいくつか出てくる。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/853871/84 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/853871/92 かつてのデジタルライブラリー時代のスキャニング画像は画質がひどく粗いものが多く、図版の細かいところが潰れてしまっていてよくわからない。こうした稀少資料の現物が覧られないのは残念なことだ。
桑田寫眞要鑑 明治四十一年 明治41年(1908年) 銅版+活版刷り 洋紙図版研レトロ図版博物館
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20世紀初期のビーカーいろいろ@明治末期の理化学実験用品カタログ
少し前に、戦前まではビーカーはセット売りだった、当時のカタログをみるとわかる、などと書いた https://muuseo.com/lab-4-retroimage.jp/items/149 のに、名前を出したカタログをご覧に入れないわけにもいかないよね、ということで今回はそれを取り上げようと改めて開いてみたら、あららちゃんと1個売りの単価も載っていた……ということで、先に以前の記事の方を書き直しておいた。だいぶ前に調べたことを再確認せずにうろおぼえで書いてしまったのがまずかった。イケマセンね〜。 というわけで、少なくとも20世紀に入ってからはばら売りもされていたけれども、しかしやはりここに掲げた図版にみられるように、複数のサイズを入れ子にしたセット売りが相変わらずおこなわれていたことは間違いない。どうしてそういう売り方が引き続いていたのかはわからないが、何かしらそういう需要があったからなのか、それとも単なる商習慣なのか……どの本だったか忘れてしまったが、戦後に理化学ガラス業界のお方がお出しになった回顧録にも戦前は組で売っていた、という記述を読んだことがあるのだけれども、そこにもたしかその理由は言及されていなかったようにおもう。 さておき1・2枚目にある、今日もっとも普通に使われる、高さが底面直径のおよそ1.4倍の比率のビーカーを「グリフィンビーカー」と呼ぶのだが、これはあの想像上の生き物のくちばしを連想したわけではなくて、考案者のジョン・ジョセフ・グリフィンの名を冠してあるのだ。で、3・4枚目をみると、これとは別に「普通形」という、もっと縦長のものがあったことがわかる。現在「トールビーカー」と呼ばれる、高さが底面直径の倍くらいのものに似ているが、これよりもさらに細長〜い「長形ビーカー」というものもあったのがご覧いただけるだろう。そのほかにも6枚目にみられるように、磁器製の「煮沸ビーカー」、注ぎ口のない「厚壁硝子ビーカー」、それに「銅製ビーカー」など今では全くみられなくなったものも出てくる。このようにやたらと種類が多いのはなにもビーカーに限ったことではなく、それがまた図版を眺めて喜んでいる口にはたのしい限りなのだが、現場で実験を重ねながら改良や取捨選択を試行錯誤していた時代ならではのヴァリエーションの多さなのではないかと考えている。
理化學機械藥品類目録 明治44年(1911年) 明治35年(1902年) 銅版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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欧州大戦期の業務用リトグラフ印刷器械@大正初期の化学工業解説書
大正3年(1914年)に勃発した欧州大戦によってヨーロッパからの物資供給が滞るようになり、当時尖端技術を使った化学工業製品の多くを輸入に頼っていた我が国は、戦火からは地理的にはるか遠くにあったにもかかわらず非常に困ったことになった。国内工業は盛んになりつつあったとはいえ、まだまだ技術的にはおくれていて、もちろん熟練工も十分に育ってはおらず、その教育を施そうにもぴったりくる日本語の参考書がなかった。今回はそうした状況で企画された実務家向けの解説書の中から、石版印刷、すなわちリトグラフによる平板印刷に当時用いていた印刷機や色々な道具類の図版を拾ってみよう。 リトグラフは、今日ではアルミニウムなどの金属板を使うことが多く、また石版を使うにしてもその産地はあちらこちらにあるようだが、かつてはドイツ特産の石灰石でしか刷れない印刷法だった(なお当時も、金属版としてアルミニウム版と亜鉛版はおこなわれており、この本にも石版に引き続いてそれぞれ解説されている)。当時すでに石版印刷による美麗な印刷物が国内でも作られて人気を博するようになっていたが、それに用いる印刷機にしても、それから製版に使う描画用品なども輸入品が多かったため、戦争で物流が停まってしまって鉄鋼材料の価格がいきなり上がり、それにつられて器械類の値段もはね上がったらしい。例えば1枚目の手刷印刷機は当時「第三號機」と呼ばれる、四六判四つ切りを刷る最も普通に印刷工場で使われていたものだそうだが、この本によれば戦前は25〜26圓だったものがこの当時には45〜46圓に、となんと1.8倍にも高騰していたことが解説されている。大正4年(1915年)の大卒初任給が35圓ほどだったという http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/J077.htm から、その程度がしれよう。なお手動印刷機の「第二號機」は菊判半截、「第一號機」は菊全判が刷れるものだったが、これらはたいてい製版のために使われ、印刷は専ら「第三號機」でおこなわれていたという。 2枚目の大型機は「動力使用印刷機」で、当時のドイツ製最新鋭機。四六判四截、四六判二截、四六全判、菊判半截などのヴァリエーションがあり、電動機のほか石油エンジンや石油ガスエンジンを動力源としていた。印刷能力は職工が手刷りで1日10時間に600枚刷るところを、これらの動力機を使えばその10倍は確実に刷れたそうだ。ただし初期投資額はもちろん比較にならないほどで、導入できる工場は限られていたようだ。 3枚目の卓上機は印刷工場では使われない小型機で、石版印刷を発明したプラハ生まれのドイツ人劇作家兼俳優のヨーハン・アロイス・ゼーネフェルダーのが自ら使う台本を刷った http://www.joshibi.net/hanga/history/1700.html ように、自費出版や商店の広告宣伝などに使われたのだろうし、もちろん美術家の版画作品も生まれたことだろう。その下の 「ルーラ」は「印肉」、つまりインクを版面につけ伸ばすのに使う、今でいう「革ローラー」で、木製の円柱のまわりに舶来の「紋羽(起毛加工を施した綿布の一種。フランネルに似ているそうだ)」かフランネルを重ならないように巻きつけ、その上に上等の牛革をかぶせて縁と縁とを毛抜き合わせで縫い付けて覆ってある。「墨ルーラ」と「色ルーラ」の2種類があって、前者は革の裏側の粗い面、後者は反対に毛の生えていた表側の滑らかな面を外側にしてある。これは買ってきてすぐに印刷に使えるものではなく、ワニスを塗ってはインクの上で日に1、2度ころころやるのを5、6日も繰り返したあとに余分のワニスを拭き取って日に2、3回インクを塗ってはころころやるのを2、3日やってからインクをへらでこそげ落としてからまた同じことをやるとおよそ2週間後には表面がつるつるになる、という「ルーラ平〈なら〉し」をやらないといけなかったそうだ。ただしこれは「墨ルーラ」のならし方で、「色ルーラ」の場合はワニスの後のインクを拭き取らずに揮発油で洗い落としてから布で十分に拭きこすってから10日ばかりおいておくと、元々滑らかな表面がさらにつやつやになってようやく使えるようになるのだそうだ。なお「色ルーラ」は表面のインクが乾いて固まってしまうと次に刷るときに綺麗に仕上がらなくなるので、使いおわるたびに揮発油か石油で洗って布で拭き取る作業が欠かせなかったらしい(「墨ルーラ」は前日のインクをこそげ取りさえればすぐ使えるそうだ)。いずれにしても手間暇がかかる話だ。当時はまだゴムローラーはなかったらしい。ここでご参考までに、武蔵野美術大学「造形ファイル」サイトに公開されている現代のリトグラフ用具をご覧いただいておこう。 http://zokeifile.musabi.ac.jp/%e3%83%aa%e3%83%88%e3%82%b0%e3%83%a9%e3%83%95%e7%94%a8%e5%85%b7/ ↑の下の方の「関連項目」のところに、個別解説のある道具もある。 4〜6枚目は石版の製版に用いる道具いろいろ。6枚目左側にある「第十七圖」はキャプションに「クライオン挼」とあるのだが、本文には「クライオン挾〈はさみ〉」とあって、「挼〈おさえ〉」というのは出てこない。こんな滅多に使わないような活字をわざわざ間違って拾うだろうか? という疑問は涌くのだが、8枚目の図版キャプションも「研磨機」が「研麿機」とあからさまに誤植をやらかしているので、多分ここも間違いなのだろうと想像している。この「クライオン」というのはリトグラフで砂目立てした石版面に絵を描くときに使う、脂肪分の多い特殊なクレヨン。今では「リトクレヨン」と呼んだりするらしい。 http://zokeifile.musabi.ac.jp/%E3%83%AA%E3%83%88%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%A8%E3%83%B3/ 今日の市販品はメーカーによって硬さの呼び方がばらばららしいが、当時は硬質な方から順に「號外」「一號」「二號」「三號」 の4種類だったそうだ。なおこの本には「クライオン」の作り方も載っていて、シェラックの多い「シエラツク、クライオン」、羊脂を使いシェラックを含まない「エンゲルマ氏クライオン」、シェラックが少なく鯨油から作った蝋と白蝋(晒し蜜蝋)を使う「デレー氏クライオン」の3法が紹介されている。石版用の石材は先にも書いたように、現在も最上とされるドイツ・ゾーレンホーフェン産のものに当時は限られるとされていて、濃鼠色、淡鼠色、黄色の3種があった。鼠色の方は緻密で細密画に適し、黄色のものはそれよりも硬度が低く表面がやや粗いため直描きや細密でない転写などに用いたそうだ。大きさは用途別に作られていて、「美濃版石」とも呼んだ原版用の「原版石」、印刷用として最もよく使われる四六判四截大の「柾版石」、その名のとおり菊判半截を印刷する「菊半石」、菊全判を印刷する「菊全判石(この本には「菊金判石」とあるがこれも誤植だろう)」、同じく「四六半截石」「四六全判大石」の6種類が主に市販されていたという。 7枚目の「鑄鐵製研磨具」は円い穴の中に金剛砂 http://zokeifile.musabi.ac.jp/%E9%87%91%E5%89%9B%E7%A0%82/ を入れて石版石面を研磨するのに使う。この道具が砂目立てには最適、と書いてある。8枚目の「研磨機」は大規模工場で使う業務用で、当時この図版にある器械が最も一般的だったそうだ。
實驗化學工業 第三卷 大正06年(1917年) 大正06年(1917年) 銅版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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婦人和装向け懐中時計用のおしゃれチェーン@大正期ごろの宝飾品カタログ
我が国に懐中時計が輸入されはじめたのは文久4年(1864年)、国内製造が始まったのはその四半世紀後の明治22年(1889年)だそうだが、精工舎が初めてひげぜんまいに至るまですべて国産化することに成功したのは明治43年(1910年)、とセイコーミュージアムサイトに誇らかに書かれている。 https://museum.seiko.co.jp/knowledge/relation_08/ 明治25年(1892年)の創業から量産化成功にいたるまで、ずーっと赤字だったというから「よくぞご無事で……」とおもってしまう。 女性向けに開発された12型の懐中時計は1890年代が最初らしいが、日本でひろまり始めたのは多分国産品が出まわるようになってからなのではないかしらん(時計については詳しい方が大勢いらっしゃるとおもうので、ご教示いただければ幸い☆)。とにかく、明治後期あたりから時計を身につける日本女性が現われたようだ。しかし和装の場合、ボタンホールのような時計の鎖を留めるところがない。当初はネックレスのようにくびにかけたり、あるいは衿に取り付けたりする細身の長いチェーン、「首懸式時計鎖」「衿懸式時計鎖」が用いられたそうだけれども、根付のような小さな飾りがぶら下がっているものはあるものの、基本的にはシンプルなデザインだったらしい。 http://www.soushingu.com/collection/japan02/japan_sub13.html 大正期に入って、帯にクリップで留めるショートチェーン、その名も「短鎖」が新たに考案された。最初からそうだったのかどうかわからないが、これは金銀白金の繊細な細工に宝石や真珠をちりばめたペンダントが取り付けられた、派手におしゃれ度の増したデザインで、これはおそらく着物や帯の色柄にまけないように意匠を凝らしたためではないかとおもう。資産階級のステイタスとして珍重された懐中時計をうっかりなくさないよう身に繋ぎ留めておく鎖を、和装に合わせるためのおしゃれアクセサリ要素も兼ねての工夫のなかで生まれた装身具だから、もちろん日本独特のものということになる。今回ご覧に入れるデザイン画は35種ものヴァリエーションがあって、ちょうどそういう装飾品が流行していた時期のものではないかと想像するのだが、モノクロームながら見るからにきらびやかな感じで、色味や輝きが目に浮かんでくるようだ。きっと当時の富裕層の婦人たちの心を鷲づかみにしたことだろう。 残念ながら刊記がないので、実際いつのものなのかははっきりしないが、大正から昭和の初めであることは間違いない。表紙に書かれている情報から第四版であること、東京「下谷仲御徒士町三丁目」の「手島製作所」という会社の製品であることはわかる。これを手がかりにちょっと調べてみることにしよう。まず地名について、「仲御徒士町」は「なかおかちまち」で、正式には「仲御徒町」なのだがひとにより「仲徒士町」と書いたり「仲徒町」と書いたり、表記が揺れていたようだ。 https://furigana.info/r/%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%8A%E3%81%8B%E3%81%A1%E3%81%BE%E3%81%A1 昭和39年(1964年)に上野に呑みこまれてしまっていて、現在では都営地下鉄大江戸線の駅に名残のようにつけられているばかりだけれども、明治11年(1878年)に東京十五區が制定されたときに下谷區下谷仲御徒町として成立して以来、明治44年(1911年)に町名のアタマについている「下谷」が取っ払われただけで関東大震災後の復興期にも手が加えられることなく、昭和22年(1947年)に下谷區が淺草區と合併されて台東区になるまでずーっと変わらなかった町名だ。だからこれは判断材料にならない……ということで、次に会社の方を国会図書館デジタルコレクションにたくさん公開されている商工信用録のたぐいで探してみる。東京の貴金属・宝石装身具関係を古い方から順に追っていくと、大日本商工會『公認大日本商工録』大正六年調査版第一輯に錺〈かざり〉職人として載っている「手島本三郎」というのがまず引っかかる。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/956898/63 ただし、所在は「仲御徒町二ノ二九」になっている。博信社『大日本帝國商工信用録』大正拾年改訂增補第參拾貳版には「合資會社手島製作所」が出てくる。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980865/148 こちらは所在地が「下谷區仲徒士町三ノ二二」、電話が「下谷四二二二」で電信略号の「ダイヤ」も振替番号もカタログと一致するので、代表社員の「手島知三」がメインで経営しておられることがわかる。「本三郎」と姓が同じで業種も場所も近いから、息子か誰かわからないがその身内の可能性が考えられる。そこで東京興信所『商工興信録』をみていくと、大正十一年十一月第四十七版に同名の「手島本三郎」が載っていて、その下に「通稱知三」と添えてある。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970697/293 職業が「(資)貴金屬品」所在地が「下、仲徒、三ノ二二」だから同一人物に違いなく、息子とかじゃなくてなんとご本人だったと判明。「取調年月」が同年7月で開業がその「7年前」とあるから、大正4年(1915年)前後に仕事をはじめられたことになるが、会社組織化したのがいつなのかはわからない。商工録は紳士録同様、掲載料を払って載せてもらうのが通例のはずだから、博信社のもののように業者により掲載スペースが違う本で段ぶち抜きになっていないというのは、それほど大手ではなかったことを示しているとおもう。専属工場を「數ヶ所所有」といっても、それは恐らく合資に加わった同業者何名かの仕事場のことだったのだろう。 この装身具カタログは口絵にかかげられた南アフリカ・トランスヴァールダイアモンド選鉱工場の図や原石見本、そして指輪や帯留め、髪留め、櫛などすべてが細密銅版画で描かれている、なかなか凝ったものだ。扉は3色刷り、墨淡色の口絵4ページ+本文56ページ、巻末に朱刷りの印鑑図案が1ページついている。職人が一枚一枚彫りあげる銅版で全ページ揃えるとなると版を拵えるのにそれなりに時間がかかるから、改版は年に1回できるかどうか、といったところだろう。さりとて流行りはあるし、新製品も継続的に出していかないとお客に逃げられるから、2年も間が空いたりはしないのではないかしらん。ご創業年にカタログの「No.1」が刊行され、以後毎年改訂とすればこの版は大正7年(1918年)ごろのもの、という勘定になる。移転前は個人経営で、何年か後に合資会社になって諸々のゆとりができてから作りはじめた、というパターンも考えられるが、だとしても遅くも昭和改元前のものだろうと(勝手に)推定しておこう。 余談だが、震災後に「京濱復興之卷」として出された『大日本帝國商工信用録』昭和貳年改訂增補第四拾五版に「(資)手島製作所支店」が、かの丸ビルに出店しているのが載っている https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1136078/21 が、これが同じ会社だとすればこのころはかなりの勢いがあったのだろう。日本商工社『日本商工信用録』昭和七年度改訂增補版にも「手島知三」が載っていることは確認できた https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1145535/33 が、同社がいつまで続いたのかははっきりしない。東京興信所『商工信用録』昭和五年五月第六十版で「手島」姓のところをみてもそれらしい人物は見当たらなくなっている https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1241730/253 し、その後の商工録を何年分か眺めてみても同社の名は見つからなかったから、少なくとも右肩上がりに発展したりはしなかったのだろう。NDLに収録されている資料は各年のものが揃っているわけではないし、今日ちょこちょこっと眺めただけから何ともいえないが、あるいは1930年代の世界恐慌による不況の荒波のうちに消えたのかもしれない。
裝身具時報 不詳(おそらく大正後期) 不詳(おそらく大正前期〜半ばあたり) 銅版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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包帯の巻き方図解@昭和初期の看護教科書
最近、割と身近で外科手術を受けた方があった。そろそろやらねばならない時期で、ご商売もCOVID-19パンデミックのあおりでお休み中、ということもあってちょうどよいタイミングでの施術、ということだったようだが、でも夏至も前から30℃超えの暑さに見舞われている最中に包帯ぐるぐる巻きだなんて、考えただけで気が遠くなる。 さて、今回は日本赤十字社傘下の病院などで働く看護師のために編まれた、昭和10年代の看護法の本に載っている包帯の巻き方図解をちょこっと眺めてみることにしよう。ひと口に「包帯」といっても円柱状に巻いてある細長いヤツだけじゃなくて三角巾とか、副え木やギプスなどを使ったのとかいろいろあるわけだが、最も基本の「卷軸帶」、つまりガーゼや木綿布を細く切って巻いたものについて解説した章の中からいくつか拾ってみた。巻軸包帯は患部を固定するのが目的だから伸縮性のある材料は使えず、巻き方がまずいと血行が停まってしまったり、緩んできてしまったりしてたちまち困ったことになる。きちんと巻けるようになるのに習熟を要するのは今も昔もかわりない。しかし当時は伸縮包帯とか網包帯とか粘着テープとかはなかったから、はるかに限られた材料でいかにそのときの状況にあわせて巻くか、という判断も含めて、今以上に難しい部分があったに違いない。 現在使われている巻き方やその呼び名などと見較べてみると、ほぼ変わっていないことがわかる。 https://www.kango-roo.com/learning/5601/ http://www.jhpia.or.jp/pdf/news69.pdf こうした巻く順番などの細かい要領は、今でこそ誰にでも容易にアクセスできるけれども、かつてはこうした医療関係者向けの専門書でもなければ見られなかった。それはさておき、この手の教科書で最も早いものは明治22年(1889年)初版の看護教程書だが、巻き方は違わないように見えるもののここまで細かくは解説されていない。そしてモデルになっている実演さん方にしても、いかにも当時の洋書にあった挿し絵を引き写してきたような西洋人(の男性)ばかりなのだが、この本ではモダンな日本人男女風に変わっている。日赤のはじまりは西南戦争の傷痍兵の惨状をみるにみかねて、という経緯だったから当初は近代戦にかかわる軍人だけが対象だったのが、だんだんと一般人へも間口がひろがっていった、という移り替わりを端的にあらわしているようにもおもえる。
看護教程草案(救護看護婦用) 第二卷 昭和16年(1941年) 昭和12年(1937年) 銅版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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雨風を受け流す植物たち@明治後期の博物教科書
今朝の東京はからっとした青空におおわれていてさわやかだったが、おひるあたりからだんだん蒸し蒸ししてきて、夕方が近づくにつれ雲もひろがってきた。どうやら予報どおり、そろそろ梅雨入りらしい。 今回は雨の季節らしい細密銅版画をご覧に入れることにしよう。降りしきる雨の中の水辺の風景だが、よ〜くみてみるといろいろな生き物が描かれている。画面の上の方は主に陸棲の、そして下の方には水棲のが、顕花植物・隠花植物とりまぜてたくさん生えていて、それぞれのやり方で落ちかかる水を受け流している。そして立ち木の葉蔭では小鳥たちが雨宿りをしているし、水際には嬉しそうにはい出してきたカエルがいる。水の中には魚影もみえる。自然科学の教科書らしくそれぞれの姿形の描写に精確を期しながらも、躍動感とある種の静謐感とがなかよく同居した情趣が丁寧な仕事を通して伝わってくるようにおもう。モノクロなのに、次第にそこに鮮やかな緑が見えはじめ、ついで雨風の物音や匂いまでもが感じられるような気がしてくる。 むりやりはぎ合わせて4ページを3枚にまとめた本文を読んでいただければおわかりになるだろうが、これは雨の季節ならではの身近な自然観察をする際の着目点をわかってもらうために、模式的に1枚の絵に集約した図だ。ヘタをすればごちゃごちゃになるだけで何が何だかわからなくなりそうな要旨を的確に配置しながら、綺麗で味わいある風景画として仕立て上げている。画面を4つに分けて拡大してみると、細かな描き込みによって絵の中の世界に没入させられてしまいそうな奥行きを感じさせつつも、 それぞれの構図はちゃんと巧い塩梅にまとまっていて破綻がないし、しかし眺めているうちにどことなく頬が弛んでくるようなほんのりとしたユーモラスさも漂わせている。原画をお描きになったのが著者なのかどうかはわからないのだが、かなりの描写力と表現力の持ち主だし、それを再現している彫師の腕も相当なものではないかしらん。 しばらく眺めていると、都会であろうとも20世紀初頭あたりにはまだコンクリートで四角く固められた護岸などもなく、水辺には現代では想像もできないくらいさまざまな生き物で溢れていて、日常生活の中でもこうした観察に親しめる環境があったのだろうな、などという考えにふけってしまう。
近世博物教科書 明治37年(1904年) 明治29年(1896年) 銅版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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哺乳類博物画のヴァリエーション@明治後期の女学校用動物学教科書
1900年代の女学校向け動物教科書に載っている哺乳類の博物画の中から、細密銅版画のものをご紹介。順に、「おつとせい」「むささび」「やまあらし」「となかい」「じやかうじか(=ジャコウジカ)」「ざとうくぢら」「かんがる」「かものはし」。どれも身近にはいなさそうなものばかりなのは、女の子たちの興味を惹くためなのかもしれない。反対に、(当時は)そのへんにうろうろしていそうなネコとかウシとかは、それぞれ1章設けられているのに姿は載っていない(ただし猫については頭骨と、それから前肢の鉤爪を出し入れできる機構のところの骨格図だけはある)。なおネズミについては、別の意味で間近でしげしげと観察しづらいためか、麦の穂を齧っているヤツが載っているのだが、今回は敢えて省いた。 生き物は特に、直接にではなくとも写真とか剥製標本とかで「本物」を目にしたことがあるかどうか、というのはそれを精確に描くに当たっては重要だとおもうのだが、この8枚の博物画にしてもそのあたりの差が如実にあらわれているのではないだろうか。動物の場合、殊に眼のあたりの描写がテキトーだと、なんだか異様な印象になる。明治期に描かれたものは、古いものほど非常にうまく描けている図版とそうでないものとの落差が激しい傾向があるようにおもうが、やはりそれは視覚的情報源の多い少ないがおおいに関係していたのだろう。ちなみに、目が変! と感じる図はなぜかたいがい、まるで吉田戦車氏お得意のキャラのよーに三白眼で、ちょっと怖い。どうせよくわからないんだったら、もっとかわいく描けばいーのに……(そーゆーモンダイじゃないかww)。 それにしても、明治期以降の動物博物画を数多く眺めていて感じるのは、今でもそうそうお目にかかれるものではないカモノハシが、押し並べて結構それらしく描かれている、ということ。明治から大正にかけて何度も博覧会が催され、その流れで常設の国立博物館が成立したりしたのだが、そのような場でかなり早くに大判写真なり剥製標本なりがもたらされていたのかもしれない、などと想像するものの、今のところその辺はちゃんと調べていないのでよくわからない。
女子用動物教科書 明治42年(1909年) 明治37年(1904年) 銅版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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100年前の子供服デザイン@大正後期の洋裁書
子供のどこが「職業人」なの? というツッコミが入りそうだが、「子供は遊ぶのが仕事」というくらいだし、まぁ一種の「職業集団」と考えてもいーかな、ということでww 子供のための衣裳というものはそれほど古くからあるものではなく、ヨーロッパなどでもせいぜい18世紀くらいからやっと小さい人たちの身体に合った設計のものが作られるようになったようだが、明治になるまで洋装なんてものはしなかった日本での子供服はさらに後にならないと普及しなかった。需要が少なければ出来合いの製品が商品として成り立つはずもなく、我が子にそういう恰好をさせようとおもうのならば、一着一着仕立てるよりなかった。この本は裁縫学校が洋裁を自らの手でできるようになるためのテクストとして刊行していたシリーズの中の1冊で、材料や作り方のくわしい説明と共にその型紙と、それから完成した服を纏ったモデルの図とが載っている。本格的な洋裁自習書としてはかなり古い部類なのではないかとおもう。 幼児からティーンエイジャーに至るまでに向けての肌着や普段着、他所行きなどのデザインがいろいろ載っていて、眺めているだけでもたのしい。「兒童洋服」というタイトルではあるが、大半は女の子向けで、男の子用は後ろの方にちょこっと載っているのみ。やはりヴァリエーションに圧倒的な差があるからではないかとおもわれる。身体の線を強調しない直線的な仕立て方、四角い襟まわり、幾何学的な切り返しや柄布による装飾、細身のエナメルベルト、細いベルトをあしらったカッチリとしたエナメル靴など、当時欧米で流行していたアール・デコ調モードを採り入れたデザインが目立つ。描かれているモデルの子供たちも顔つきや髪形などが日本人離れしていて、輸入された尖端文化へのあこがれのようなものも感じさせられる気がする。 下着からコートに至るまで手作りする、というのは自らの工夫も盛り込めるたのしみがあるだろうが、もちろん相当に手間暇がかかる。裁縫職人としてではなく、こうした衣裳をいくつも作れたのは当然、「名もなき家事」などは住み込みの女中らに当たり前に任せられる「いいところ」の主婦や令嬢に限られただろう。あるいはその腕をもって上流階級の家に奉公に入れれば、よい条件で傭われるだろうから、そうした途を択ぶために学んだ若い女性もあったに違いない。ネットでポチれば出来合いがたちまち手に入る(けれどもこういう「作るたのしみ」は喪ってしまった)現代の状況とどちらがよいと感じるかは、人それぞれとおもうけれども。
裁縫全書 兒童洋服の部 大正14年(1925年) 不詳 銅版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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牧草のいろいろ@明治の栽培教科書
明治になるまでの日本では、牛や馬などの大型の家畜は主に労働力として、また農作物の肥料原料供給源として小規模に繁殖されていて、西洋食文化が入ってきて食肉や乳製品などをもとめる人々がふえてくるまでは、その食糧としての牧草が注目されることもまずなかったろう。しかし、おいしい肉や乳などを常に大量に供給する必要に迫られると、「その辺の草でも喰わせておけ」というわけにはいかなくなる。 そうしたことから、農作物栽培のやり方を教える教育現場でもこうした牧草にはどのような種類があるか、その特徴や育てる際の注意すべき事柄は、といった情報がもとめられるようになった。とはいえ、農業全体からすれば牧畜用植物について識る必要のある農家人口はそれほど多くなかっただろうから、ここに紹介したようないろいろな牧草向きの草の図版は、農作物のうちでも割と珍しい部類に入るかとおもう。 一枚目から順に、「オホアハガヘリ或いはチモシー」「カモガヤ或いはオーチャード」「コヌカグサ或いはレッドトップ」「メードウ、フエスキュー」(=メドウフェスク)「ペレニアル、ライ、グラス」「トール、オート、グラス」「ナガハグサ或いはチンタッキー、ブルー、グラス」(=ケンタッキーブルーグラス)「ルーサン」(=アルファルファ)。ルーサンはマメ科、ほかはイネ科で、いずれも外来植物だが、オオアワガエリやカモガヤなどは今や牧草というよりも、イネ科花粉症の原因としてより身近になってしまったかもしれない。 なおこのほかに、図版はないが「ジョンソン、グラス」「クリーピング、ベント、グラス」「スウヰート、センテッド、バーナル、グラス」「赤ツメグサ或いはレッド、クローバー」「白ツメグサ或いはホワイト、クローバー」「セインフォイン」「黃及白メリロット」などが紹介されている。
普通作物教科書 明治40年(1907年) 明治39年(1906年) 銅版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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ポンプのしくみと電話のしくみ@明治の小学生用理科学習ノート
明治後期の高等小学校第二学年生用に作られた理科の学習ノートにある、手押しポンプとデルビル磁石電話機の仕組み図解。 カリキュラムに沿って見出し項目と挿し絵だけが刷ってあるのだが、子どもがサボってなんにも描き込んでいないと、なんだかシュルレアリスティックで不思議な雰囲気の絵本のようにもみえてくる。 こうした形式の帳面は、明治後期の尋常・高等小学校では割とさかんに使われていたようだが、教科書とはまた違った挿し絵が載っていて面白い。 #レトロ図版 #手押しポンプ #デルビル電話機 #磁石式電話機 #図解 #明治後期
高等小學理科記述帳 第二學年生 明治44年(1911年) 明治44年(1911年) 銅版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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十九世紀の実験さん@明治初期の無機化学入門書
帝大になるよりも前の東京大學醫學部製藥學科の最初期の卒業生が、ドイツから輸入された化学書や自らドイツ人教授から受けた知識などを基に明治十年代にまとめた無機化学書に出てくる、マジックの白手袋のようなシュールさのある「実験さん」。 輸入書にあった図版を描き写したのかどうかはわからないが、恐らくは元ネタ本にあった図を「これはわかりやすい♡」と思って採用されたのだろう。軽快な筆致のイラストを細密銅版画で綺麗に再現してある。このちょっと不思議なイメージがよっぽどお気に召したのか、表紙にまであしらわれている。 「実験さん」はその後も、化学や物理の実験場面などで盛んに登場するようになるのだが、この本あたりがそのはじまりなのではないかしらん。 本書の「第壹版」については、図版研「架蔵資料目録」ブログに載せてある。 http://lab-4-retroimage-jp.seesaa.net/article/456605716.html また本書と同じ第三版は、(画質はよくないが)国会図書館デジタルコレクションに公開されている(ただし表紙はまっくろけで、タイトルも何も書かれていないようにみえる)。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/830924 #レトロ図版 #化学実験 #東京大学 #薬学 #製薬化学 #細密銅版画 #明治初期
無機化學 前編 非金屬部 明治13年(1880年) 明治12年(1879年) 銅版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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海外産の鳥々@昭和初期の女学校用動物学教科書
昭和初期の女学校向けに編まれた動物学教科書に載っている、国内では自然繁殖していない「珍しい鳥」のいろいろ。銅版で細密に再現している。 色がついていないのでよくわからないが、「おりものやどり」はおそらく「キムネコウヨウジャク」、「はたおりてう」は「シャカイハタオリドリ」を指すのだろう。しかし字面で一番わからないのは「キヰ゛」に違いないww これは「キーウィ」のことだ。 小さな図版もこうして拡大して眺めてみると、細かいところまで表現されていてなかなか面白い。 #レトロ図版 #鳥 #細密銅版画 #動物 #昭和初期
最近女子動物學 三訂版 昭和10年(1935年) 昭和02年(1927年) 銅版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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恐怖のコレラメロディを奏でる死神の図@大正後期の科学雑誌
大正十年代当時の法定伝染病についての知識を解説した科学雑誌記事に添えられている、恐らく一八三〇年代の発生当時にフランス・パリで描かれたと思われる、コレラ蔓延の恐怖を骨の楽器を弾く死神に摸したイラスト。元図は木口木版画だろう。実感がこもっていながら、どこかユーモラスさも感じさせる絵。人々の表情や陰翳のつけ方、構図などがなんとなく『ジョジョ』シリーズのスタンド出現画面を思わせなくもないww かつては割とヘーキで海外出版物の図版を出典も書かずに転載することが少なくなかったため、これもそうだが元図版が何に載っていたのかはわからない。なお、このコレラ流行顛末などについては次の論文がわかりやすいかも。☞大森弘「1832年パリ・コレラと「不衛生住宅」 -19世紀パリの公衆衛生-」 https://www.seijo.ac.jp/pdf/faeco/kenkyu/164/164-oomori.pdf #レトロ図版 #伝染病 #コレラ #死神 #科学雑誌 #大正後期
科學知識 第五卷第四號 保健號 大正14年(1925年) 銅版+活版刷り 洋紙図版研レトロ図版博物館
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薬品棚と薬品容器@明治後期の調剤師向け解説書
明治の終わりごろの調剤法解説書に載っている、調剤室に備えるべき薬品棚と、それから薬剤保存容器のいろいろ。今日のように製薬会社があらかじめ一包づつ調製密封した製剤などがなかった時代、薬剤師が処方箋を受け取るごとに薬局方にしたがって材料を量って調合するのが当たり前だったため、調剤薬局や薬剤師を抱える医院などにはこうした木製棚が必ずあった。 ラテン語で「VENENA(=毒薬)」と書かれた札に咬み着いているドクロの飾り彫りが乗っかっている、両開き扉つきのハコは毒薬棚。といっても一応鍵がかけられるようになっているだけのフツーの小型戸棚で、今の感覚からすると不用心この上もない感じww 「薬品箪笥」と呼ばれていた大型の棚にしても、転倒防止装置も扉も何もなく、大きな地震でもくれば大変なことになるのは目に見えている。 容器の方は右上から、固体物をいれる「広口びん」、液体をいれる「細口びん」、それから水やアルコールなどで有効成分を抽出したものをいれる「エキスびん」、その下右側が陶器製の「軟膏びん」、そしてその左が油やシロップなどの粘り気のある液体をいれる「油びん」。貼ってあるラベルはそれぞれ、「樟脳(=d-カンフル)」「纈草〈きっそう〉(=カノコソウ)チンキ」「蘆薈〈ろかい〉(=アロエ)エキス」「薔薇軟膏(牛脂と蜜蝋とを融かし混ぜて粗熱がとれたところでローズウォーターを加えたもので、よい香りがするので軟膏製剤のベースとしてよく使われた)」「蓖麻子〈ひまし〉(=トウゴマの実)油」。 古風な道具類の細密銅版画と焼けた古い本文紙の色合いとが、ちょっとアヤシい雰囲気を醸し出していて、こういうのが好きな向きには心惹かれるものがある。 #レトロ図版 #調剤 #薬品 #毒薬 #ガラスびん #木製戸棚 #ドクロ #明治後期
調劑術講本 明治41年(1908年) 明治25年(1892年) 銅版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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十一月の星座@昭和初期の天文観測手引書
毎月の星空の見どころを、星座にまつわる逸話や知識なども織り交ぜながら案内する、初学者向けの案内所から今月の空のところを。親しみやすい手描きイラストでわかりやすく図解されている。「ペルセウス座」「鯨座」というギリシア神話由来のメジャーな星座二つと、「鳳凰座」というマイナーなのを一つ、あれもこれもと欲張らないところがよい感じ。 ペルセウスを南欧のスサノオ、などとなぞらえているあたりに時代が感じられて、面白さもひとしお。 #レトロ図版 #星座 #星図 #星空 #天文趣味 #昭和初期
星空行脚 昭和08年(1933年) 昭和08年(1933年) 銅版+活版刷り図版研レトロ図版博物館