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日本の古い視力検査表いろいろ@昭和初期の医療器械カタログ
今ではちょっと考えられないことかも知れないが、戦前には医療器械のメーカーが共同で作った綜合カタログというものがあった。かつては小規模の企業……というか個人商店が非常に多かったため、手間もコストもかかるカタログを同業組合で出す、という形が明治の終いあたりからみられるようになった。 今回は昭和10年代のそうしたカタログに載っている、古い視力検査表のヴァリエーションをみてみよう。 1・2枚目は、試視力表を均等に明るく見せるための「中泉氏試視力表照明裝置」。それぞれ壁面固定式と、キャスタで転がせる移動式。地方の古い個人病院などには、もしかしたらまだあるのかも? 3枚目は、今でもひろく使われている「石原氏萬國式日本視力表」で、右側が幼児向けの「小兒視力表」。大人向けが「日本」と冠されているのは、カタカナが使われているから。 二十世紀初めにアメリカで作られた、さまざまな言語の文字が使われた万国式試視力表が、だいぶ前に「カラパイア」記事で紹介されていたことがある☟ ----- 「視力検査表の先駆けとなったあらゆる国籍の人々に対応した視力表(1907年)」@カラパイア https://karapaia.com/archives/52252504.html ----- この記事に出てくるレプリカ商品は、今でも売っているようだ。 4枚目は右側が「井上氏萬國式環狀試視力表」、今では「環狀」というよりも「ランドルト環」という方が一般的だろう。左側が「伊藤氏最新萬國式試視力表」。この「最新」の方は今ではあまり見かけないとおもう。 5枚目は「井上氏萬國式鉤狀試視力表」と「井上氏萬國式小兒試視力表」。この「鉤狀」の方は「スネレン試視力表」と呼ばれるもので、こういう「コ」の字形のほかに「E」字形も使われる。 6枚目が価格票、試視力表そのものはどれも65銭均一。照明装置の方は固定式が50円、移動式が90円だから、だいぶ値が張る。 比較のために週刊朝日編『続値段の明治大正昭和風俗史』(昭和56年 朝日新聞社)を引っ張ってみると、「英和辞典」項「値段のうつりかわり」表によれば当時の三省堂『コンサイス英和辭典』が昭和9年2円50銭、昭和13年に3円。『続続値段の明治大正昭和風俗史』(昭和57年 朝日新聞社)の「週刊誌」項では『週刊朝日』が昭和10年8月13銭、昭和12年7月15銭、となっていた。現行価格は『コンサイス英和辞典』第13版3520円、 https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/dict/ssd10146 『週刊朝日』2022年6月3日号440円。 https://publications.asahi.com/ecs/24.shtml 7枚目は左上が「草間氏照輝試視力表裝置」(35円)、左下が「伊藤氏試視力表照明裝置」(20円)。どうやら現行品のように試視力表の裏側から照らすのではなく、手前に立っている黒い筒状の覆いの内側に照明灯が仕込んであるようだ。そして右側は「小川氏試視力表裝置」(20円)。「裝置」という語が連想させるようなメカメカしさをあんまり感じない見た目だが、裏側にも試視力表がついていて、くるっと廻して切り換えする仕組みらしい。 8枚目は、まるで操り人形のように糸で引っ張って切り換える「井上氏絲引試視力表裝置」(35円)と、それの簡易版のような「前田氏絲引視力計」(20円)という超アナログ視力検査器械、そして金属じゃなくて木でできた「東大式遮眼器」(1円50銭)。この辺になると、今日の検眼現場ではもう全く考えられないようなシロモノだろう。 こういう忘れ去られた、現物などおよそ残っていそうもない昔の道具を、古い図解カタログたちは教えてくれる。
日本醫科器械目錄 昭和12年(1937年) 昭和12年(1937年) 活版刷り図版研レトロ図版博物館
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大東京の橋@昭和初期の東京風景写真帖
今日は都知事選の投開票日……何ひとつ期待はしていないけれど、一応投票だけはした。ま、それはさておいて。 昭和7年(1932年)、大正12年(1923年)の震災の後にそれまで農村だった東京十五區の外側の郡部へ住宅地がひろがっていき、そのままのしくみではいろいろと障りがもちあがってきたところで、荏原・豊多摩・北豊島・南足立・南葛飾の五郡だったところに新たに二十區を設定して三十五區からなる「大東京」になった。さらにその4年後、昭和11年(1936年)に北多摩郡の一部をくっつけて、現在の二十三特別区とほぼ同じ版図になった。そのへんの経緯などは「探検コム」のお方がわかりやすくまとめておられる。 https://tanken.com/35.html 住民が東京市外に移り住むようになったのは、震災で被災したというのももちろんあるが、都心部は煤塵などの公害がひどかったようだし、住環境も狭くてよいとはいえない状況になっていたから、この際もっと空気も水もきれいな広いところで暮らしたい、という人がふえたからだろう。 今回ご覧に入れるのは、ちょうどそのころの大東京の姿を紹介した小型の写真帖に載っている、いろいろな橋の姿。1・2枚目はご存知日本橋、明治44年(1911年)に架け替えられた石橋が今も使われているが、2枚目の図版と違って高速道路が上におっかぶさってうっとうしいことこの上ない。当時は中央に据えられていた道路原標も、都電の路線が廃止された昭和48年(1973年)に橋向こうに見える今はなき大栄ビル(旧帝國製麻ビル)の脇にどけられてしまっている。 https://blog.goo.ne.jp/ryuw-1/e/bc95758191a3d9f1b52e68aef01c742c 3枚目は隅田川にかかる橋々のなかから震災復興建築としての清洲橋と永代橋、それから駒形橋上から吾妻橋方向を眺めたところ、そして4枚目として拡大した部分には御茶ノ水驛に近い昌平橋あたりの中央線高架橋と聖橋。よくみると、聖橋の下の鋪道を若い女性がふたり歩いているのが写っている。 5・6枚目のはね上げ橋は、湾岸を走る貨物線が通っていた芝浦可動橋。 http://odawaracho.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-0ae8.html 廃線になった後もしばらく残っていたが、現在では東京臨海新交通臨海線が頭上を通る、新浜崎橋という特徴のない歩行用の橋にかけ替わっているらしい。 7・8枚目は新たに東京市に加わった地域から、世田谷區の多摩川にかかる鉄橋……ということなのだが、このトラス橋は鉄道線のように見える。世田谷区から多摩川を渡っている線路といえば東急田園都市線の二子玉川〜二子新地間しかない筈だが、二子橋梁はたしかこんな形はしていなかった。じゃあいったいこれはどこ? ……としばらく悩んだが、同じく東急の東横線が多摩川を渡る多摩川橋梁が以前はこんな鉄橋だったのを思い出した。 http://11.pro.tok2.com/~mu3rail/link151.html 同線前身の東京橫濱電鐵が大正15年(1926年)丸子多摩川驛〜神奈川驛間を開通させたときに造られたというが、二十世紀末ぐらいにかけ替えられて今はトラスじゃなくなっている。この橋の東京側は当時大森區(現在は大田区)の筈だが、丸子橋の上あたりからこの鉄橋方向にレンズを向けたとすれば、川向こうの左手や奥はたしかに世田谷區の玉川村ということになるようにおもう。
大東京寫眞帖 昭和12年(1937年) 昭和12年(1937年) 網版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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包帯の巻き方図解@昭和初期の看護教科書
最近、割と身近で外科手術を受けた方があった。そろそろやらねばならない時期で、ご商売もCOVID-19パンデミックのあおりでお休み中、ということもあってちょうどよいタイミングでの施術、ということだったようだが、でも夏至も前から30℃超えの暑さに見舞われている最中に包帯ぐるぐる巻きだなんて、考えただけで気が遠くなる。 さて、今回は日本赤十字社傘下の病院などで働く看護師のために編まれた、昭和10年代の看護法の本に載っている包帯の巻き方図解をちょこっと眺めてみることにしよう。ひと口に「包帯」といっても円柱状に巻いてある細長いヤツだけじゃなくて三角巾とか、副え木やギプスなどを使ったのとかいろいろあるわけだが、最も基本の「卷軸帶」、つまりガーゼや木綿布を細く切って巻いたものについて解説した章の中からいくつか拾ってみた。巻軸包帯は患部を固定するのが目的だから伸縮性のある材料は使えず、巻き方がまずいと血行が停まってしまったり、緩んできてしまったりしてたちまち困ったことになる。きちんと巻けるようになるのに習熟を要するのは今も昔もかわりない。しかし当時は伸縮包帯とか網包帯とか粘着テープとかはなかったから、はるかに限られた材料でいかにそのときの状況にあわせて巻くか、という判断も含めて、今以上に難しい部分があったに違いない。 現在使われている巻き方やその呼び名などと見較べてみると、ほぼ変わっていないことがわかる。 https://www.kango-roo.com/learning/5601/ http://www.jhpia.or.jp/pdf/news69.pdf こうした巻く順番などの細かい要領は、今でこそ誰にでも容易にアクセスできるけれども、かつてはこうした医療関係者向けの専門書でもなければ見られなかった。それはさておき、この手の教科書で最も早いものは明治22年(1889年)初版の看護教程書だが、巻き方は違わないように見えるもののここまで細かくは解説されていない。そしてモデルになっている実演さん方にしても、いかにも当時の洋書にあった挿し絵を引き写してきたような西洋人(の男性)ばかりなのだが、この本ではモダンな日本人男女風に変わっている。日赤のはじまりは西南戦争の傷痍兵の惨状をみるにみかねて、という経緯だったから当初は近代戦にかかわる軍人だけが対象だったのが、だんだんと一般人へも間口がひろがっていった、という移り替わりを端的にあらわしているようにもおもえる。
看護教程草案(救護看護婦用) 第二卷 昭和16年(1941年) 昭和12年(1937年) 銅版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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セルロイドを造る機械たち@昭和初期の一般向け工業製品工程図解書
今やほとんど石油製品に取って代わられて、国内では全く造られなくなってしまったセルロイドは、その独特の風合いや手触りで根強い人気を保っている合成樹脂だが、戦前には世界市場で圧倒的なシェアをもつ有力な輸出品だった。元はアメリカで考案された技術だが、可塑剤として使われる樟脳を採るクスノキが東アジアにしか生えておらず、明治28年(1895年)にその精油を豊富に供給できる台湾を併合した日本は、それまで輸入していたセルロイドの国産化に邁進するようになったのは自然な流れだったろう。なにしろ、繊維素(セルロース)の原料となる木綿ぼろも加工に添加するエタノールも国内で安定して確保できるものばかりだったからだ。 今回紹介するセルロース製造工場内部の図版は、この本の序文に列挙されている材料提供に協力した団体等一覧、及びこの章の解説内容からして大日本セルロイドのものとおもわれるが、同社は大正8年(1919年)に8社が合併してできた企業なので、そのうちのどの場所なのかはわからない。日本化学会が認定した化学遺産第009号「日本のセルロイド工業の発祥を示す建物及び資料」には、そのうちの1社堺セルロイドの工場内部写真が載った『記念帖』が含まれるが、その紹介記事 http://www.chemistry.or.jp/know/doc/isan009_article.pdf で見くらべてみると、そちらよりはだいぶ狭いような印象をうける……が、それは単に写真の撮り方の違いによるのかもしれない。この本の解説によれば原料となる硝化綿(ニトロセルロース)の製法にはいろいろあるのだそうだが、当時最もひろく行われていたという「壺式硝化法」がここでは図解されている。1枚目の、タイトルとともに写っている製品は靴べら、交通機関の回数乗車券を入れる透明ケース、その奥の手提げ籠のようなものはおむすび入れかしらん。 さて、2枚目の工程図解に沿って写真を眺めてみることにしよう。まず最初の「ぼろの撰別」は、染めたぼろが混じると後にセルロースに着色する際に色味が意図と違ってしまうため、白いものだけを選り分けておく必要あっての作業だそうだが、よく視ると集塵機の下で立ち働く女性とおもわれる作業員はみなマスクをしていて、おそらくは埃がもうもうと立ちこめる、いかにも身体によくなさそうな作業環境におもわれる。こうした単調な選別作業は、昔はだいたい女性ばかりが充てられていたことが、古い図版を数多く眺めていると読み取れる。 2番目の「捏和〈ねっか〉機」は硝化綿に樟脳とエタノールを加えて密閉槽で熟成させた餅のように粘り気のあるセルロイドの塊を温めながらこねる機械で、色を着ける場合はここで着色剤を加える。3番目の「壓延機」は、捏和により均一に混ざって僅かに黄色みを帯びた透明になったものをこれのローラーにより蒸気をあてながら圧し延ばして板状にする。セルロイドは元々、ビリヤードの球を造るのに用いられる象牙の代用品として考え出されたものだが、同じく動物原料の鼈甲の模造品や、その他の美しい模様は、色彩や透明度の異なるセルロイド塊をこね合わせ具合を巧く調整したり、あるいは複数種の板を重ね合わせて圧縮したり、というような職人の工夫と技術とにより作り出されるのだそうだ。そうしてできあがった板には気泡が含まれているので、それを温めながら水圧をかけて追い出し、畳くらいの大きさの分厚い板状になったものを4番目の「裁斷機」で切り揃える。表面に艶出しをする場合には板が冷えてしまわないうちに5番目の「光澤機」にかける。さらにバフで磨いてつやつやにすることもあるという。最後の「成形作業」は人形などの中空の製品を造る工程で、真鍮製の鋳型の間にセルロイド板を二つに折りたたんではさんで加熱し、折り曲げた生地の間に細い管で蒸気を吹き込んで型に密着させてから空気を吹き付けて冷すやと形ができあがる。あとは鋳型から外してはみ出た余分な部分を削り、色を塗ったり艶出ししたり細かい彫り込み加工などを施して完成させる、という手順が解説されている。 セルロイドは加工がしやすく、一度固まると変形しにくく、じつにさまざまな用途に利用されていたが、非常に燃えやすいという欠点がある。卓球の球は今でもセルロイド製のものが使われているが、材質が劣化してくるとその分解熱で自然発火してしまう危険性がある、と日本卓球協会が警告している。 http://www.jtta.or.jp/Portals/0/images/news/2016/kikenseruroido.pdf 今のコレド日本橋のある角地にかつてあった白木屋百貨店で昭和7年(1932年)暮れに起きた昭和初の高層建築物火災は有名だが、売り場の電飾を修理しようとして誤って電線をスパークさせた火花がクリスマスの飾り付けに引火し、それがさらにそばのセルロイド製人形などに燃え移ってあっという間に火の海になったという。 https://www.tfd.metro.tokyo.lg.jp/libr/qa/qa_38.htm https://bunshun.jp/articles/-/19515 大正〜昭和初期の映画雑誌を読んでみると、各地の映画館でしばしば大勢の死傷者を出す痛ましい火事を伝える記事が出てくるのだが、これも当時の映画フィルムがセルロイド製だったからで、映写機の光源に使っていた炭素アーク灯の熱とか、冬場にそばにある暖房用火鉢にうっかり近づけたりとかで一旦燃え上がるともう手がつけられなかったらしい。この章の終いには「特殊セルロイド」として大日本セルロイドの製品がいろいろ載っているが、その中には不燃性のものもある。しかしこれが大いに普及しなかったらしいのは、どうやらコストが需要に見合わなかったかららしい。同社から昭和8年(1933年)に写真フィルム事業専業として分かれた富士寫眞フイルムは国産映画フィルム製造のさきがけだが、早々に開発に着手していた不燃性フィルムベースの量産化に目処が立ったのは昭和27年(1952年)も暮れになってからのことだったそうだ。 https://www.fujifilm.co.jp/corporate/aboutus/history/ayumi/dai2-04.html 大東亜戦中は外交関係の杜絶、綿火薬としての用途も大きかった硝化綿の軍需対応による工場の業態転換などで停まっていた輸出も、工場設備の戦災被害が小さかったこともあり戦後には盛り返し、昭和24年(1949年)には再び世界のトップシェアを握った。難燃化に向けた取り組みも続けられていたそうだが、敗戦に伴うインフレーションの影響が大きかった上、昭和20年代半ばからは発火の危険性もなく安価な石油系が出まわるようになり、燃えやすさが改めて大いに問題視されれたことに加え、価格面でもコスト割れして市場がみるみるしぼんでいった。それからわずか10年ほどで、セルロイドは樹脂製製品に占める割合は1%を切ったらしい。そして平成8年(1996年)には、ついに国内生産は打ち切られてしまった。現在国内需要にこたえている製品はすべて輸入品だ。 http://www.celluloidhouse.com/kenkyu24.pdf セルロイドは埋めておけばちゃんと土に還る。いつまでも環境に残る石油系プラスティックによる生物への悪影響が大いに問題になっていること、代替品としてのいわゆるバイオプラスティックが必ずしも無害なかたちで生分解されない上、透明なものを造るのも難しいことを考えると、セルロイドの改良を今一度研究してみる余地はないのかな、とおもってしまう。
圖解商品の科學 昭和12年(1937年) 昭和12年(1937年) 網版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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理科実験教育用の真空放電管いろいろ@昭和初期の理化学実験用品カタログ(その2)
昭和初期の電気学教材用真空放電管あれこれの続き。こちらは管の中に封入された仕掛けが動くものが多い。背の高いガラス製品の割に木製台の小さなものが多くて、これ、うっかり引っかけて倒したら木端微塵だよな〜、とちょっと肝がひやひやしてしまう。 廻転車(レールを転がる羽根車)が入っているクルックス管だけ写真ベースで、ほかはみな細密イラスト。どのように質感を細かい線で表現しているかを、よくよくご覧いただきたい。 引き続き、こうした装置に通電するとどう動くのかを示す動画を紹介しておくとしよう。 ☆鉱物入り真空管、廻転車入りプルジ管、CRTに磁石を近づけてみたところ(個人) https://www.youtube.com/watch?v=B_xzlNadnkM ☆真空管内で燐光と蛍光を発生させる(個人) https://www.youtube.com/watch?v=wWRVtfsPJlc ☆クルックス管(ジュネーヴ博物館) https://www.youtube.com/watch?v=09-wj8uzehY ☆マルタ十字入りクルックス管(個人) https://www.youtube.com/watch?v=IgwDMuw0XiQ ☆羽根車入りクルックス管+クルックス管の陰極線を磁石で曲げてみる(個人) https://www.youtube.com/watch?v=bkIif0S8PTk ☆プルジ管(個人) https://www.youtube.com/watch?v=gh6G4xynKxs ☆カナル線(陽極線)管(個人) https://www.youtube.com/watch?v=z2ultlzM0vg ☆ブラウン管(ヴィンテージテク博物館) https://www.youtube.com/watch?v=jHGAnJjnNY0 #レトロ図版 #理科実験 #実験器具 #物理実験 #電気実験 #ガラス製 #放電管 #陰極管 #クルックス管 #ガイスラー管 #ブラウン管 #真空管 #昭和初期
島津理化學器械目録 第500號Ⅱ 昭和18年(1943年) 昭和12年(1937年) 銅版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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理科実験教育用の真空放電管いろいろ@昭和初期の理化学実験用品カタログ(その1)
昭和初期(といっても大東亜戦中)の高等教育用理化学実験用品カタログに載っている、実演教材用の真空放電管。端子に電圧をかけると陰極から電子が飛び出し、管内の何かしらにぶつかって光ることによってその運動を目視できる、というものだが、蛍光や燐光がさまざまな色形に輝くさまは子どものみならず大人の心も鷲掴みにせずにはおかないので、昔は見世物としても人気があったらしい。十九世紀から二十世紀初頭にかけて拵えられたこうした放電管による実験により発見された原理を応用して、ここにもあるようなネオンサインや、古いテレヴィジョン受像機やオシログラフに使われていたCRTディスプレイ(Cathode Ray Tube Display=陰極管表示装置)、蛍光灯(Fluorescent Light)や最近流行りのCCFL(Cold Cathode Fluorescent Light=冷陰極管蛍光灯)、そしてX線装置などの実用品開発につながった。 これらの図版はすべて細密イラストを原画として金属の板に彫りあげたものだ。ガラスや木製台、管内に封入された鉱物や薄い金属製のオブジェなどの質感や、陰極線のはしる様子をいかにしてそれらしくみせるか、というところに凝らされた描き方・彫り方の工夫がたのしい。 こうした放電管に通電するとどんな風に見えるのか、ご興味がおありの向きもあろうかと思うので、海外のだけれども実際にやってみせている映像をいくつか添えておこう。 ☆ガイスラー管+回転台(ジュネーヴ博物館) https://www.youtube.com/watch?v=yGm8AyqG8EA ☆いろいろなガイスラー管(ノッティンガム大学) https://www.youtube.com/watch?v=NYvEnAvouVA ☆古いソーダファウンテンのネオンサイン(個人) https://www.youtube.com/watch?v=E3TjWvXhBNo ☆アメリカのネオンサイン史+コレクターの蒐集品(個人)……ちょっと長い https://www.youtube.com/watch?v=neonxh18k08 ☆クロス真空計(個人?) https://www.youtube.com/watch?v=PoGTfQUTkB4 ☆クロス真空計(個人) https://www.youtube.com/watch?v=NzR_H3x6HX0 ☆蛍光管(グロー管)(個人) https://www.youtube.com/watch?v=09-wj8uzehY #レトロ図版 #理科実験 #実験器具 #物理実験 #電気実験 #ガラス製 #放電管 #陰極管 #クルックス管 #ガイスラー管 #ブラウン管 #真空管 #昭和初期
島津理化學器械目録 第500號Ⅱ 昭和18年(1943年) 昭和12年(1937年) 銅版+活版刷り図版研レトロ図版博物館