昭和十年代の東宝系映画館@昭和初期の興行会社史本

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昭和18年(1943年)の暮れといえば大東亜戦の戦局がだいぶ悪化し、建物疎開のための閣議決定「都市疎開實施要綱」が出されたころだが、そんなときに大手興行会社・東京寳塚劇場(東寶)が創立十周年を記念して刊行した社史本に載っている、同社経営の都内映画館写真をご覧いただこう。どうしてそんな時局に出せたかといえば、もちろん当局の戦意高揚などの宣伝に一役買っていたからなのは間違いない。

1・2枚目の日比谷映畫劇場は省線有樂町驛近くに洋画専門封切館として昭和9年(1934年)2月開場、最新設備を完備しながらも50銭均一、という庶民的な入場料設定を初めて導入し話題をさらったという。昭和五十年代の末に取り壊されたらしい。
https://blog.goo.ne.jp/ryuw-1/e/0f5cb3dde19c28b71f607faf279b9cff
現在ではここに東宝日比谷ビル(日比谷シャンテ)が建っている。

3・4枚目の東橫映畫劇場は澁谷道玄坂に東寶直営館として昭和11年(1936年)11月開場、直後に運営会社が合併された、とこの本の「東寶十年史略」はいう。これは小林一三が東急の創始者五島慶太をたき付けて建てさせたものの、日比谷映畫劇場の観客がこちらに引っ張られては困る、と考えて出来上がったところですかさず取り上げてしまった、という話が菊地浩之氏のご著書『日本の15大同族企業』に出てくる。
https://books.google.co.jp/books?id=S-2fDwAAQBAJ&pg=PA62-IA2

なお、渋谷は空襲で大部分が焼け野原になったが、この建物は免れたそうだ。
http://www.touyoko-ensen.com/syasen/sibuyaku/ht-txt/sibuyaku07.html
☝の「昭和24年、渋谷駅前で焼け残ったビルの移動」のところに写っている。平成元年(1989年)2月まであったが、現在はここに渋東シネタワーが建っている。

5〜7枚目の帝都座は昭和6年(1931年)5月、日本活動寫眞の封切館として新宿通り沿いに開場。昭和15年(1940年)11月の末に東寶傘下になった。
https://suzumodern.exblog.jp/26434559/
昭和47年(1972年)まであったというが、何月までだったのかは意外と情報が拾えない。今は新宿マルイ本店が建っている。

なお、7枚目の「帝都座グリル」(おそらく地下にあった食堂のことではないかと)内部風景は小さな写真なのだが、拡大してみるとお客がごはんを召し上がっているのがかろうじて見える。右手手前がネクタイをしめている?男性1名、左手奥に男女カップル……かな? 少なくとも、顔の見える方は女性のようだ。

8枚目は錦糸町駅前の操車場だったところに昭和12年(1937年)にできた遊園地、江東樂天地の娯楽施設のひとつとして、江東劇場とともに12月に開場した本所映画館。昭和20年(1945年)3月の東京大空襲で被災したもののこの2館の建物自体は残り、昭和46年(1971年)5月に閉場するまで続いたという。
http://www.cinema-st.com/road/r118.html
現在、楽天地ビルが建っている場所らしい。

……というわけで、昭和初期のモダン建築映画館が空襲をくぐりぬけ、戦後も意外と長く命脈を保っていたのだが、今はひとつも残っていない。

ところで5枚目の帝都座外観写真、なかなかいい画なのだが残念ながらノドがきつくて右ページ側はうまく撮れなかった。ある程度以上のページ数のある束厚本はどうしてもノドの部分がみづらくなるが、この本のようにせっかく見開きで図版を大きくみせる趣向なのに、そのへんちゃんと配慮してくれていないのはいかにも残念。あるいはこれも、時局柄材料や精神的なゆとりがうしなわれていたあらわれなのかも……ともおもったり。

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