-
The Jam “In The City”
私は元々、The Jamはそんなに聴いてはいませんでした。カッコいいなとは思ってはいましたが。しかし、私の当時の友達は結構、好きだった人がいて、気にはなっていたので、後になって、1枚だけ買ってみました。それが、彼等のファースト・アルバム”In The City”です。それで、先ずは彼等のバイオグラフィーを簡単に紹介していこうと思います。元々は、英国SurrayのSheereater職業訓練第二学校の学生であったPaul Wellerが1972年に始めたのが、The Jamで、その時、WellerはベースとVo担当でした。1970年中盤に、Steve Brookes (G, Vo)とRick Buckler (Drs)と言うメンツで、主にChuck BerryやLittle Richardの米国R&Rのカバーをやっていましたが、Wellerが、The Whoのデビューアルバム”My Generation”を聴いて、熱狂し、モッズ音楽に舵を切ります。そうして、WellerはRickenbackerのギター(Lambretta GP 150)を購入しますが、Brookesはバンドを脱退、新しいギタリストを探します。その中にはGary Numanもいたとか。それで、Bruce Foxtonが新ギタリストとして加入します。しかし、Foxtonはベースの方を担当することになり、 Weller (Vo, G), Foxton (B, Vo), Buckler (Drs)と言う鉄壁の布陣となります。その後2年間、The Jamは、London周囲で小さなギグをやっていましたが、彼等は、当時流行っていたパンクとは一定の距離を置いていました。ファッションも含めて、彼等は”revivalists”とも呼ばれていましたが、1977年初頭に、Polydorと契約しました。1977年4月29日に、シングル”In The City”をリリース、英国トップ40にチャートインします。同年5月20日に、本作品でもあるデビュー・アルバム”In The City”をリリースします。この時期には、The ClashとSex Pistolsの影響が大きく、「速くて、うるさくて、歌詞も的を得ている」音楽が流行っていました。その点、The Jamは、The BeatlesもカバーしていたLarry Williamsの"Slow Down"をカバーしたり、1960年代のTV番組のBatmanのテーマ曲もカバーしていたりと、1960年代のMotown RecordsやThe BeatlesとかThe Whoの影響が色濃く出ていました。ただ、歌詞に関しては、警察の暴力や英国王室の没落或いはJames Callaghan首相への侮蔑と言った反抗的なものが多かったようです。その一方で、ユニオン・ジャックの旗をファッションに取り入れたりと、「保守的」な面もありました。それで、アルバム未収録曲"All Around the World"が、英国トップ10に達した後に、彼等は、セカンド・アルバム”This Is The Modern World”を1977年後半にリリースしていますが、前作の超える成功はありませんでした。翌年1978年にリリースされたサード・アルバム”All Mod Cons”は、The Who, Small FacesやMotown Soundsの影響を受けたR&Bが取り入れられたサウンドを創り出し、Modsとしてのアイデンティティー、独自性を前面に打ち出した傑作となっています。1979年発表の4枚目のアルバム”Setting Sons”では “Girl on the Phone”などのストレートなThe Jamの典型的なサウンドに加え、ヘビーな展開を見せる”Private Hell”や曲調の変化に富んだ”Little Boy Soldier”、Wellerのロマンチストとしての一面を覗かせる”Wasteland”など充実した楽曲が多く、サード・アルバムと並ぶ傑作と評されています。その後、1980年に、5枚目のスタジオ・アルバム”Sound Affects”をリリース、1982年には6枚目にして最後のスタジオ・アルバム”The Gift”をリリース、このアルバムでは、ホーン・セクションの導入、ファンク、カリプソ等の要素を取り入れており、より音楽的に成熟したアルバムになっています。しかしながら、人気の絶頂にありながら、Wellerは、1982年10月に突如、解散を宣言し、同年12月11日、Brighton Conference Centreでのラストギグを最後に、The Jamはバンドとして幕をおろしました。 これが、The Jamの全てとなりますが、本作品”In The City”の内容についても、紹介していきたいと思います。この頃のThe Jamは、まだパンクが出てきた頃に活動していたこともあって、アップビートで、カッコいい曲が多かったですね。A1 “Art School”での弾け具合からB6 “Bricks And Mortar”まで、ノンストップで駆け抜けていきます。それで、今回、調べてみて分かったのですが、A3 “Slow Down”がカバー曲であったことやB6 “Batman Theme”なんて言うTV番組のテーマソングをやっていたりで、要するにMotown Soundを「速く」演奏している感が強いのですよね。また、私が昔観たTV番組で、彼等が、細身のスーツ姿で、大汗をかきながら、ジャンプしたりして演奏しているのは、本当にカッコ良かったです。その意味でも、他のパンクバンドとは違っていましたね。そんなThe Jamの原点を聴いてみてください❗️ Live “In The City”/“All Round The World”/ “SlowDown”. (1977) https://youtu.be/jGmIoTKWJFI [full album] https://youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_k8bElYja1TKOKyF7NQIVnkXycudqS06bw #TheJam #InTheCity #Victor #VirginRecords #Punk #ModSound #FirstAlbum #Mods #TheWho #PaulWeller #BruceFoxton #RickBuckler #1977
Punk / Mods Polydor Records 不明Dr K2
-
Sham 69 “That’s Life”
このアルバムは高校生の時に買ったアルバムで、パンクに興味がかなりあった頃ですね。そうです、Sham 69のセカンド・アルバム”That’s Life”です。諸パンクですね。最初にバイオグラフィーを簡単に書いておきます。Sham 69は、1975年にSurreyのHershamで、Jimmy and the Ferretsとして結成されました。「Sham 69」と言うバンド名は、建物の壁に描いたサッカーチームの落書きから取っています。Walton and Hersham ‘69と描かれていた文字が一部消えかかって、Sham 69と見えたので、それをJimmy Purseyがバンド名にしたとのことです。それで、Sham 69ほ1976年11月号のNMEにリハのことが掲載されていました。ヴォーカルのJimmy Purseyだけが今後オリジナルメンバーとなります。最初、ギターはJohnny Goodfornothing (本名John Goode)とNeil Harrisでしたが、彼等はDave Parsonsと交代します。ドラムのBilly Bostik (本名Andy Nightingale)もMark Cainと交代しましたが、ベースのAlbie Slider (本名Albie Maskell)は残って、1977年に彼等のファースト・シングル”I Don’t Wanna”をインディーレーベルStep Forward RecordsよりJohn Caleのプロデュースでリリース。その後、ベースのSliderがDave Tregunnaと交代。この時のラインナップが1979年まで続きます。1978年1月、シングル”Borstal Breakout”で英Polydor Recordsよりメジャー・デビューします。Sham 69は他のパンクバンドと異なり、アートスクール出ではなく、サッカーのクラブとの関係が大きかったこともあって、労働者階級のリスナーから支持を受けています。それで、Sham 69のスタイルは、サッカーの応援歌のような一体型のシンガロングスタイルを取り、後のOi!パンクの元になったとも言われています。ただ、ライブではパンクスとスキンズが喧嘩ばかりして、ライブ活動に支障をきたすようになります。逸話として、1978年のLeding Festivalて、”If The Kids Are United”を歌って、観客の喧嘩を止めようとしましたが、全く収まらない状況に絶望し、Purseyはステージ上で泣いたというものがあります(本人は否定)。また英国の極右団体National Frontが暴れて、ステージをめちゃくちゃにしたこともあったみたいです。ただ、レコードは商業的にも成功しており、1978年にファースト・アルバム(スタジオトラックとライブトラックから成る)”Tell Us The Truth”をリリース、同年には、本作品でもあるセカンド・アルバム(スタジオアルバム)”That’s Life”をリリースします。この頃になると、バンドの人気はTop of the Popsに出演したり、映画”D.O.A.”への出演で盛り上がります。しかしながら、1980年にバンドは、4枚目のアルバム”The Game”をリリースして、解散してしまいます。Purseyは、Sex PistolsのSteve JonesとPaul CookとSham Pistolsをやりますが、短命に終わり、ソロで活動していきます。しかしながら商業的成功には恵まれません。その後、1988年にPurseyとParsonsによってSham 69は再結成されます。あとは色々あって、Sham 69を名乗るバンドが2つ存在するようになり、現在に至っています。 それで、本作品の内容なんですが、とにかく、声を挙げて歌い易いパンク・ソングが目白押しで、更に、曲間には何気ない労働者の日常会話を挿入しているところもポイント高いです。まあ、当時は私も田舎の高校生だったこともあって、その熱量と取っ付き易さに一時期ヘビロテしてましたね。今回、40数年振りに聴いたんですが、ブルース臭い曲や日常会話のバックで流れるレゲエ調の曲などもあって、メリハリのついたアルバムになっています。まあ日常会話と言うのは、訳を見ると、ある英国の庶民的な青年が会社に遅刻して、それでクビになり、パブち行って、友人とダベったり、女の子にちょっかい出したりと言うようなものなのですが、当時はそうなんだぁと感心してました。あとPurseyの濁声なヴォーカルは矢張り唯一無比ですね。そんなアルバムですが、当時の熱気をも感じることが出来るので、興味のある方は聴いてみて下さい。 https://youtu.be/Aa_TSPfLHuo #Sham69 #That’sLife #PolydorRecords #Punk #SecondAlbum #StudioAlbum #Oi!Punk #Football #SingalongStyle #JimmyPursey #Dave Parsons #BillyBostik #MarkCain #AlbieSlider #DaveTregunna
Punk Polydor Records 不明Dr K2
-
Siouxsie and the Banshees “Join Hands”
初め、この”Siouxsie”ってなんて発音するの?と一部で話題になったSiouxsie Sioux (スージー・スー)率いるSiouxsie and the Bansheesのセカンド・アルバムです。私は、何故か聴いていないんですよ、このBansheesの音楽。多分、ファーストアルバムからシングルカットされた”Hong Kong Garden”が強烈過ぎたのかな?とも思います。今回は、彼女らのセカンド・アルバム”Join Hands”をご紹介します。その前に、彼女らのバイオグラフィーをちょっと書いておきますね。ザックリと説明しますが、Siouxsie (本名Susan Janet Ballion)とSteven Severin (本名Steven John Bailey)がRoxy Musicコンサートで出会ったのが1975年9月で、グラム・ロックが廃れてきた時期ですね。その後、2人はSex Pistolsのコンサートを体験して、インスパイアされ、Sex Pistolsのようなバンド活動を始めようとしてら知り合いを誘います(SiouxsieはSex Pistolsの親衛隊であったとかの噂がありましたね)。この時点では彼女らは記者からはBromley Contingentと呼ばれています。Malcolm McLarenが企てた100 Club Punk Festivalに出演することになっていましたが、少しのところでキャンセルさせられます。そこで、2人は、バンド名が無いのが悪いとか他の2人が悪いと考え、その2日後、バンド名をSiouxsie and the Bansheesと正式に名乗り、Marco Pirroni (G)とJohn Simon Ritchie (Drs; Sid Viciousのこと)を正式(?)メンバーーとして、1976年9月20日にパンクロックのフェスで20分間の即興演奏を繰り広げます。そのギグ後、すぐにバンドは解体。2人は、Kenny Morris (Drs)とPeter Fenton (G)を誘って、1977年にライブを何度かやりますが、Feltonが、余りに「ロック・ギタリスト」然としていたのでクビにし、7月に、代わりにJohn McKay (G)を加入させます。彼女らはその体制で、ライブをこなし、その年の11月にはGranada TVやTony WilsonのTV番組So It Goesに出演、更にはJohn Peel のRadio 1の為に、新曲”Metal Postcard”を含んで録音をしています。ただ、この時の演奏が余りにタイトであった為、音楽誌には「21世紀の工場のようだ」と酷評されています。1978年初頭には、彼等のギグはロンドンではソールドアウトになりますが、バンドはどこのレコード会社と契約するかで悩みます。その中で、Polydorと契約し、同年7月に、鉄琴をフィーチャーしたファースト・シングル"Hong Kong Garden"をリリース。「明るく、生き生きして、電車の窓から日本の風景を観ているようだ」と高評価を得ます。実際、英国シングルチャートトップ10に入っています。1978年11月に彼女らのデビューアルバム”The Scream (邦題「香港庭園」)”をリリース。NMEの記者はこのアルバム評として、「Velvet Undergroundと他の何かーー例えば”Tago Mago”期のCanーーとのユニークな融合」と高い評価をしています。1979年に彼女らのセカンド・アルバムである本作品”Join Hands”がリリースされますが、批評家達はベタ褒めで高評価されます。それで、プロモーションツアーを9月に予定したいましたが、その数日前になって、MorrisとMcKayが脱退してしまいます。それで、バンド側は、The SlitsのBadgieをドラムで借ります。問題はギタリストで、以前から対バンしていたThe CureのRobert Smithにギタリストとしてヘルプしてもらい、何とかツアーを完遂します。ツアー後、Badgieは正式メンバーとなり、Smithは元鞘(The Cure)に戻ります。それで、ギターは、当時既にMagazineの在籍していたJohn McGeochにヘルプしてもらい、シングル”Happy House”をリリース、更には彼女らのサードアルバム”Kaleidoscope”を1980年にリリース。このアルバムではシンセやシタール或いはリズムマシンなども取り入れた意欲作となっています。このアルバムは商業的にも成功し、英国アルバム・チャートの5位と記録されます。McGeochをヘルプのまま、1980年11月に初の米国ツアーを敢行します。1981年に、彼女らは4枚目のアルバム”Juju”をリリースしますが、Severinの提案に従って、やや暗い雰囲気のアルバムになっています。また、1980年より、SiouxsieとBudgieでThe Creaturesというサイドユニットもやっています。 とまあ、ここまで書いてきましたが、まだまだ、彼女達の活動や変遷もありますが、一旦ここまでとします。このバンドはホントにギタリストには縁が無く、何人ものギタリストが入れ替わっていますが、それが、欠点でもあり有利な点でもありますね。 さて、ここからは彼女らのセカンド・アルバム”Join Hands”を紹介してしていきます。多分、ファーストとメンバーは被っていますので、それ程大きな差はありませんが、やはり、パンクのビート感覚ではなく、最初からポスト・パンク的ですね。所謂、ドコドコしたドラムと特徴的なベースライン、ギターはやや控えめですが、抑えるところは抑えています。何と言っても、Siouxsieの Voが特徴的なんですよね。所謂、叫ぶでもなく、かと言って朗々と歌うでもなく、ヒステリックでもなく、何と言えばいいのか、このバンドでしか演れないヴォーカリゼーションなんですよ。一聴してSiouxsieであると分かります。またこのアルバムではちょっとした工夫が凝らされていて、オルゴールの音色をバックにSiouxsieが歌う曲やA1のように2分程度の短い曲などです(ハードコアでは無い)。パンクから始まったのに、既にポストパンクになっていたバンドですね。なので、非常に特異的かつ自律的なバンドだと思います。気になる方は是非とも聴いて下さい❗️「パンクとは自分達の好きな音楽好きなようにを演ることで、流行り廃りでは無い」と言うことですね。未聴の方は是非たも! “Playground Twist” https://youtu.be/UTfIelZGj6U [full album] https://youtube.com/playlist?list=PLAJQM3LahnwdmTKcGRTTKXZZaMnnpGsUD #SiouxsieAndTheBanshees #JoinsHands #Polydor #PostPunk #SecondAlbum #SiouxsieSioux #StevenSeverin #JohnMcKay #KennyMorris
Punk / Goth Rock Polydor Records 不明。Dr K2
-
Vangelis “See You Later (流氷原)”
また、プログレ初心者の私が紹介するのは、 Vangelisのソロ・アルバムとしては13枚目にあたる”See You Later (流氷原)”です(毎回、思うのはプログレのアルバムの邦題と付け方のセンスですね)。私の持っているのは国内盤なので、ライナーノーツをFool’s Mateの「あの」北村昌士編集長が書いています。それで知ったのですが、このアルバムでは、プログレ・バンドYESを脱退したJon Andersonが参加していることやCherry Vanillaがナレーションで参加していることです。Discogsによると、このアルバムは元々は全く違う内容であり、タイトル曲であるB2 “See You Later”は後から付け加えられたらしいです。それで、当初は ”Neighbors Above”と言う表題で、他に数曲入る予定だったらしいです。と言うのも、歌詞に関して著作権の問題があったからです。既に”My Love”と言う同名異曲のシングルが存在しており、そこがネックとなって曲の差し替えが行われました。またアイルランド盤のテストプレスの一枚に、”Fertilization”が含まれており、アイルランドの初版盤では特別に収録されていると思われていました。但し、エクストラ・トラックとして記載されているので、特に混乱はしていなかったようです。そんなこともあって、”Fertilization”と”Neighbors Above”及び”My Love”の3曲が削除されて、代わりに”See You Later”が後から加えられたらしいです。 Vangelisのバイオグラフィーは色々あり過ぎて、ここでは書ききれませんが、本名Evangelos Odysseas Papathanassiouで、ギリシャ生まれで、ForminxとAphrodite's Childにて、バンド活動をしており、特に後者では、1972年リリースのアルバム”666”がプログレ・サイケの古典とも言われている。彼は、最初、パリに住居を構えて、Frédéric Rossif監督の動物ドキュメンタリー映画”L'Apocalypse des Animaux”や”La Fête sauvage”及び”Opéra sauvage”の為の作曲を行なっていますが、この時期に、自分のソロアルバムもリリースし始めます。その後、1975年には、ロンドンに移住し、Nemo Studioと言う専用の録音スタジオを建て、そこから一連の作品を作り出していきます。彼の商業的成功のピークは1980年代〜1990年代であり、1981年作”Chariots of Fire (炎のランナー)”でアカデミー賞ベスト作曲賞を受賞。また、日本ではこちらの方がお馴染みかと思いますが、1982年作の映画”Blade Runner”の音楽も手掛けています。1992年作”1492: Conquest of Paradise”でゴールデングローブ賞も受賞、サントラとテーマ曲を手掛けています。またNASAやESAともコラボ作があり、1993年の”Mythodea”、2016年の”Rosetta”, 2022年の”Juno To Jupiter”と言うアルバムをリリースしています。と言うように幅広い活動を行なっていますが、何よりも彼は、電子音楽や近代映画音楽の歴史に重要な影響を与えてきており、たった一人で行う擬似オーケストレーションと言う手法を確立しています。そんな彼ですが、2022年5月17日に新型コロナウイルスの為に、79歳でパリの病院で亡くなっています。 それで、本作品ですが、彼は、先述の様に、元YESのJon Andersonなどをゲストに招いて、自身のスタジオNemo Studioで作製されています。まあ、一言で言うと、「電子オーケストレーションによる映画音楽」と言う趣きですね。曲を入れ替えたりした割には、全体の流れに違和感の左程無く、各曲が映画のワンシーンの様に展開していきます。個人的には、Cherry Vanillaのナレーションを付けたA4 “Not A Bit - All Of It”や長尺のタイトル曲B2”See You Later”が良かったですが、Jonのヴォーカルが、如何にもUKプログレと感じられる故に好物ではないので、B1“Suffocation”はイマイチでした(これは飽くまでも私の個人的感想です)。と言う訳で、彼が映画音楽に進出していく初期のアルバムの一つではあるので、アルバムに「物語り性」を求める方には良いのがなと思います。 “See You Later” https://youtu.be/_0Y_OAVq708 #Vangelis #SeeYouLater #PolydorRecords #ProgressiveRock #ElectroSymphony #Synthesizer #JonAnderson #CherryVanilla #PeterMarsh #Maurizio&Christina(Krisma)
Progressive, Electronic Polydor Records 不明Dr K2
-
Robert Fripp “God Save The Queen / Under Heavy Manners
希代の音楽家にして、プログレ・バンドKing Crimsonのリーダー兼ギターリスト、それがRobert Fripp翁であります。最近では、妻Toyaとの夫婦漫才でコミカルなところも見せています。まあこの人のバイオグラフィーは書き始めたら止まらなくなるので、ほんの少しだけにしておきます。また小さい頃からクラシックギター教室に通っていたのですが、この時にKing Crimsonを一緒に結成することになるGreg Lakeもいたみたいです。18歳の時に、Bournemouthのホテルのジャズクラブの専属Majestic Dance Orchestraでギタリストになって3年間働いてしました、因みにその後任者はAndy Summersでした。それで、1967年に、Michael GilesとPeter GilesのGiles兄弟と共にGiles, Giles & Frippを結成し、アルバムを一枚リリースした後に、Ian McDonald (G)とGreg Lake (B, Vo)と共にKing Crimsonへと向かい、1969年にKing Crimsonを結成します。その時から、RobertはKing Crimsonにおいて主導権を握っており、しばしば、強権的態度を取ることがあり、バンド内はギスギスしてきます。彼自身はそのことを認めてはいません。例えばそれは作詞担当のPete SinfieldやVlnのDavid Crossの解雇とも繋がると言われています。そのリーダーシップと厳格な音楽への取り組みによって1960年代から1970年代のプログレッシブ・ロック・ムーブメントを支え、その語義どおりの音楽スタイルから多くのアーティストに影響を与えてきました。特に、インプロヴィゼーションを主体とした演奏方法で人気を博しています。1969年作よデビュー・アルバム”In The Court Of The Crimson King”や1974年作”Red”における彼のギター・プレイは非常に高く評価されています。また、Robertはプログレと評されるのを嫌い、常に様々なアーティストとコラボしたりしています。例えばDavid Bowie, Brain Eno, Peter Gabriel, David Byrne, Andy SummersやDavid Sylvianとも交流したりしてます。1974年にKing Crimsonを一度解散しており、その時に「もうギターは弾かない」と言いましたが、David BowieとBrian Enoの呼び掛けで、音楽活動に復帰したらしいです。まあバイオグラフィーはここまでにして、漸く本題である本作品について紹介したいと思います。この頃、Robertは2台のオープンリールを駆使して、ギターの音を豊かにしようとしています。このシステムのことを彼は”Frippertronics”と呼んでいます。また彼はギターのチューニングは変則的で、”New Standard Tuning”或いは”Guitar Kraft Tuning”と呼んでいました。また、横道にズレそうなので、元に戻しますが、本アルバムではこの”Frippertronics”によるギターソロ作品かA面にとそれにドラムやベース、ヴォーカル(多分、David Byrne)を加えた作品がB面に収められています。A面はシャープでクリーンなトーンのギターがレイヤーを成して重なっていく、ややアンビエントな曲が、B面にはそのFlippertronicsの演奏とファンクのグルーブを持ったベースやドラム及びヴォーカルとのセッションのような生き生きした曲から成ります。Frippertronicsは今で言うところのLooperみたいものだと思います。なので、Robertのようなロング・トーンとは合わないようで、意外とこれが合うんです。また、バックのギターも彼ではないでしょうか? しかしながらこの時代に”God Save The Queen”と言うタイトルの付け方も狙ったんではないでしょうか。と言うようなA面とB面では異なる雰囲気の楽曲を聴くことができる、このアルバムはどうでしょうか?聴いてみます? https://youtu.be/IXMxcZyyKWo #RobertFripp #GodSaveTheQueen #UnderHeavyManners #PolydorRecords #Frippertronics #OpenReel #SoloAlbum. #Experimental
Progressive Rock / Ambient Polydor Records 1000円Dr K2