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Athletico Spizz 80 “Do A Runner”
このバンドは名前が沢山あってややこしいのですが、元々は英国のバンドで、Kenneth ‘Spizz’ Spiers (Vo, G)が1970年代後半に結成したSpizzenergieが毎年のように名前を替えて、Athletico Spizz 80, Spizzoil, Spizzles, SpizzSexuals、Spizzenergie 2などと呼ばれています。それで、彼等の初期のバイオグラフィーを書いておきます。Spizzは、英国西Midlandの総合型中等学校であるKnowleのArden校に在籍していましたが、丁度、パンク・ムーブメントが起こったことで、彼はその影響をモロ受け取ってしまいました。BirminghamでのSiouxsie and the Bansheesのギグで、彼はステージに上がって踊り狂っていましたが、実は彼は、1977年まではソロでパフォーマンスをやっていたらしいです。それで、彼は、本名Pete O’DowdことPete Petrolと数曲作ってシングルを出しており、1978年にはThe SlitsのPalmolive (Drs)も加えて、Spizzoilを名乗り、数回ライブをやっています。Siouxsie and the Bansheesの欧州ツアーのサポートや自らのツアーもやっていましたが、1979年後半に、新ラインナップ、すなわち、Spizz (Vo, G), Dave Scott (G), Mark Coalfield (Kbd, Vo), Jim Solar (B: 本名 James Little), Hiro Shima (Drs: 本名Suresh Singh)で、Spizzenergiを名乗り、ニューウェーブ・バンドとして、1980年1月のインディー・シングル・チャート1位になり、John PeelがDJをやっているBBC Radio 1で、シングル"Where's Captain Kirk?がかかり、この時が、彼等の人気は最高潮でした。またこのシングルは、ジャケがフェルトペンで書いてあり、以後、このスタイルがSpizzの特徴となります。その後、新ラインナップで、Athletico Spizz 80を名乗り、Marquee Clubでの5夜連続ショーをソールドアウトした唯一のバンドになります。”Where’s Captain Kirk?”は、1981年のライブミュージック映像”Urgh! A Music War”でも取り上げられ、また米国のケーブルTVでもしばしば使われていたこともあって、1980年に、A&M Recordsと契約し、アルバム”Do A Runner”をリリースしています。1981年になると、Lu Edmondsが加入し、バンド名はThe Spizzlesと改名します。それで、アルバム”Spikey Dream Flowers”をリリースし、このアルバムはSF的な要素を含んだものになっています。1982年にはSpizzenergi 2を名乗り、2枚のシングルをリリース、これらは1980年代のSpizzの「白鳥の湖」みたいなものです。1982年までに、英国ではポストパンクの波も終わっており、インディー・シーンへと移行します。また、どうもSpizz自身は、変名によるギネスブックに載ることを目指していましたが、それも拒否されています。しかしながら、Spizzはずっと活動を続けており、未だに現役です。 それで、本作品についてですが、バンド名はAthletico Spizz 80で、メンバーは、Spizz (Vo, G), Jim Solar (B), Mark Coalfield (Kbd, Vo: 本名Mark Stephens), C. P. Snare (Drs: 本名Clive Parker), Dave Scott (G)となっています。このバンド名は、1980年に行われたモスクワ・オリンピックにちなんで付けられた名称です。曲はパンクからモロ・ニューウェーブな音作りをいますが、これはKbdのCoalfieldによるアレンジが効いていると言うことでしょう。割と早目で短い曲が詰まってますが、その疾走感も時代的背景の影響もあるのでは?と想像します。あと、暗さが余り無くて、割と「陽性」の音楽になっています。個人的には、三拍子を使っているA3 “Intimate”や、かなりカクカクしたリズムとユニークな歌詞の使い方がニューウェーブっぽいA2 “New Species”やA5 “European Heros”或いはB1 “Red And Black”なんが好みですね。またA6 “Energy Crisis”やB2 “Rhythm Inside”の疾走感もカッコいいです。また、B5 “Airships”の殆どインストで、ニューウェーブなコード進行とアレンジも好みです。とにかく、Spizzのポップセンスが光ってます。そんな良質なニューウェーブ感に溢れた本作品を是非是非聴いてみて下さい❗️ “Where’s Captain Kirk? (live)” https://youtu.be/HsmJtIYu1mc 本作品自体はYouTubeに上がっていなかったので、同じメンバーでのライブ音源を貼っておきます。 https://youtu.be/AI517-03ssg #AthleticoSpizz80 #DoARunner #A&MRecords #NewWave #Punk #Keyboards #Spizzenergi #Spizzoil #Spizzenergi2 #TheSpizzles #Kenneth‘Spizz’Spiers #JimSolar #MarkCoalfield #C.P.Snare #DaveScott #Where’sCaptainKirk?
Punk / New Wave A&M Records 700円Dr K2
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Adam and the Ants “Kings of the Wild Frontier”
まあまあまあ、このバンドは一面、産業ロックでもあった訳ですが、ダブル・ドラムと海賊ファッションで1980年頃、絶大なる人気を誇った訳です。その名はAdam and the Antsです。結成当初は単なるパンクバンドとの認識で、私は無視してましたが、その内、人気が出て、来日し、オマケに「夜のヒットスタジオ」にまで出てましたね。それでは、彼等のバイオグラフィーをちょっと。Adam Antは元々、パブロック・バンドBazooka Joeでベースを弾いていましたが、Sex Pistolsの前座をやって直ぐに解散しています。それで、彼は新バンドを作ろうとしていた時に、Malcolm McLarenとVivian Westwoodのお店SEXの従業員Jordanと仲良くなり、ロンドンのパンク・シーンに魅せられていきます。1977年初頭にThe Antsを結成します。その時のメンツは、Lester Square (G), Andy Warren (B), Paul Flannagan (Drs)でしたが、最初のギグが終わった時に、Lester Squareが脱退します(因みに彼はその後、The Monochrome Setを結成しています)。その代わりにMark Ryan (G)が加入し、コンスタントにライブをやっていきます。しかし、6月にPaul Flannsganが脱退し、代わりにDave 'Barbe' Barbarossaがドラムで加入。このメンツで 、"Plastic Surgery"と"Beat My Guest"を録音。またAdamは有名なパンクロック映画”Jubilee”にKid役で出演。この年の終わり頃、Markが辞めて、代わりにJohnny Bivouac (G)で加入し、バンド名もAdam and the Antとします。バンドは何度も全英ツアーをやっていきますが、一部のAntPeopleと言うファン以外には余り人気が無かったようで、中々芽が出ませんでした。1978年にDeccaと契約します。1978年1月23日にJohn PeelのRadio 1でラジオ・デビューをしています。そこではJordanがリードVoをとっている曲もあります。1978年5月15日に、Jordanの最後のライブをやりますが、Johnny Bivouacが脱退、代わりにMatthew Ashman (G)で直ぐに加入します。その年の7月末に2枚のシングルを出すと、今度はDeccaと契約します。その時のメンツは、Adam Ant (Vo, G), Matthew Ashman (G), Andy Warren (B), Dave Barbe (Drs)でした。欧州ツアーを行い、戻ってきて、直ぐにレコーディングに入り、1979年1月にDeccaから”Young Parisians”をリリースしますが、経済的に成功とは言えなかったようです。その後、今度は、バンドはDo It Recordsと言うインディー・レーベルと契約。セカンド・シングル”Zerox”を録音し直し、1979年7月にリリースします。全英ツアーを行い、8月のLondon Lyceumでのチケットは完売しています。それで、Adamは、Matthew AshmanとAndy Warrenをクビにしますが、Lee Gorman (B)が新加入、Matthewも直ぐに戻ります。そうやって録音作業を続けて、彼等のファースト・アルバム”Dirk Wears White Sox”が1979年にDo It Recordsからリリースされます。これが意外にもウケて、1980年1月初めの英国インディー・チャートのトップにも躍り出ます。しかしながら、マネージャーをやっていたMalcolm McLarenがBow Wow Wowに力を入れる為に、1980年1月終わりに、バンドからAdam以外のメンバー3人を引き抜きます。しかしながら、Adamは、数ヶ月で、新メンバーを集めてきます。 Marco Pirroni (G), Kevin Mooney (B), Terry Lee Miall (Drs), Chris 'Merrick' Hughes (Drs)となります。マネージャーも替えて、Falcon Stuartがマネージャーとなります。最初、AdamとMarcoはファースト・アルバムの曲”Cartrouble Pt.2”をDo It Recordsの為に録音し直します。その時には、後にCulture Clubに入るドラムのJon Mossが参加しています。その後、1980年7月には、バンドはCBSと契約し、シングル"Kings of the Wild Frontier"をリリース、これが当たり、英国チャートの48位になります。次のシングル”Dog Eat Dog”はトップ10になり、英国の音楽番組Top of the Popsにも出演しています。そして、1980年11月にアルバム”Kings of the Wild Frontier”をリリース、英国ではヒットします。これが本作品になります。この時代にはニューロマンティックスが流行っており、それに乗っかった感じで、1981年1月には英国では1位になります!1981年2月には、Royal Variety Showで演奏していますが、ベースのKevin Mooneyがちょっとしたミスを犯した為、クビになり、代わっGary Tibbsがベースで加入します。バンドは昔の曲をアレンジし直して、シングルなどをその後もリリースして、チャートインしています。そして1982年初頭に本作品がベストアルバムとしてBRIT賞を受賞。更にはグラミー賞の最高新人賞にノミネートされています。しかしながら、Adamは、あるメンバーに最早熱意が無くなっていると感じて、1982年3月にバンドを解散させます。加えて、相棒のMarcoがツアーで疲労困憊しており、ライブもやめていたこともあって、解散後は、Adamはソロ活動に開始し、Marcoがそれを裏で支えていたみたいです。ザッとまあ、Adam and the Antsの歴史はこんな感じです。 それで本作品(彼等のセカンド・アルバムにして、最も評価された作品)ですが、流石に良く出来ています。シングルカットされた”Dog Eat Dog”や”Antmusic” “Kings of the Wild Frontier”では、ドコドコしたダブルドラムの強みが充分に出ており、なおかつ曲自体も良く出来ています。またそれ以外にも”Feed Me To The Lions”, “Jolly Roger”なんかも良い曲ですね。普通の8ビートでもなく、ファンキーだけどもファンクではないリズム・セッションが秀逸です。それとVoのAdamこの声質が、ちょっと高目で、それでも煽る様な歌唱ではなく、どちらかと言うと、クリーントーンで歌い上げる感じなのても特徴的ですね。なので、彼はパンクバンドにいるよりは、ニューウェーブとかにいた方がウケがいいでしょう。そんな売れっ子だったAdam and the Antsも、一回は聴いてみた方がいいでしょう。 https://youtu.be/vIfQQ4YPTXA #AdamAndTheAnts #KingsOfTheWildFrontiers #Epic #DoubleDrums #PiratesFashion #AntMusic #AdamAnt #MarcoPirroni #BRITWard #Punk #NewWave #PostPunk
Punk / New Wave Epic (CBS) 1100円Dr K2