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「からっ風野郎//三島由紀夫」見本盤7インチ+台本、その他。
最後の一日だけは犯罪者、それ以前は作家、映画監督、ボディビルダー、評論家、タレント、武道家、モデル、私設軍隊の総裁、歌手、似非自衛官、俳優、LGBTQにおけるG、様々な横顔を持っていた三島由紀夫。30代前半にして初めて発売したレコード、主演映画の主題歌「からっ風野郎」のシングルは以前にも紹介しましたが、これはそのジャケット無しの見本盤。B面はレギュラー盤同様に春日八郎の「東京モナリザ」です。その他、当時のロビーカード、縮小ポスター版チラシ、未使用のの台本など。あの映画もこの曲も、ノーベル文学賞候補にまでなった世界的文豪の遺した表現としては、散々な酷評をされる傾向で定着しています。ある面では実に不器用、見ていて気の毒なほど不格好でセンスのない人物だったが、愚直に一所懸命とりくむ姿が余計見ていられなかった、などという関係者の回想を読みますと、たしかに説得力を感じさせます。しかし、トリックスターでもあった三島という仮面をかぶった不器用な人間・平岡公威さんの、キッチュで通俗的で、どこか自己客観視しながら楽しんでいるような風情は、これなりに極めて興味深い。「太陽と鉄」や「文化防衛論」から自決のポジティブな意味を論うのも勿論アリですが、今では、本当にこの人は昭和という時代に通り過ぎていった一陣のからっ風だったのではと思います。それにしても、深沢七郎のギターが大きく明瞭に聴こえるようなリミックス作業をどちらさんか・・などと思いついて大笑いしてしまう、そんな時代になりました。
映画音楽 カルト歌謡 7" Single その他 キング揖斐是方
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サイケデリック戦士/ホークウィンド モーターヘッドのレミーが在籍。
「シルヴァー・マシーン」のヒットで日本でもおなじみの英サイケデリック・スペース・ロック・バンド、1974年リリースの五作目「永劫の宮殿」からのシングル・カット。デイヴ・ブロック、ニック・ターナーの二大巨頭を軸に、この時期のラインナップにはヴァイオリンとキーボードで元ハイ・タイド、サード・イヤー・バンドの名手サイモン・ハウスが参加。そして当然後に「エース・オブ・スペーズ」で大ブレイクのレミー・キルミスターがヴォーカルとベース。シンプルだがキャッチーなメロディーを、ひたすら反復してはトランスに入っていくという、まさにサイケなスペース・ロックとしか言いようのない芸風の佳曲。全裸で踊る女性ダンサーもメンバーもいたし、派手なライトショウなど視覚上のステージ演出は、これも当時のグラム・ロックの範疇で語ることもできそうです。ただし、このシングルが発売されたころには、明らかにかれらの人気にも翳りが。クイーンが既に登場していただけの理由では勿論ありませんが、なんかしらんけれどあの頃は次々に色々な面白いのが出てきましたから。
スペース・ロック 7" Single リバティ揖斐是方
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前衛ドラムの芸術/サニー・マレー 日本盤ESPオリジナル
アイラーやテイラーとの共演でも有名なドラマー、マレーによるセカンド。1966年当時のジャズシーンに於いて、アバンギャルドなフリー・ジャズなる形容もやむなしですが、筆者は現在、その演奏の革新性を的確に分析できるほどのジャス・ファンでもありませんので、大雑把にいえば割とあの時代のフリー・ジャズ然としたタイプのレコード、というのが正直な印象です。ですが、それでも伴奏打楽器してのドラムスじゃない発想で、リード奏者の演奏とは別に、けたたましくせわしないパルスを送り続けるドラマーというのは、やはりこれはこの人あたりが第一人者といってもいいのではないかと思います。面白いのは、参加しているトランペットのジャック・カーシルが、そもそもレストランの厨房で皿洗いをしていたアマチュア・ミュージシャンで、マレーに声をかけられて参加したいう話。それから本作での支払いの件では、ESPの創業者・バーナード・ストールマンともめにもめたという話。何も支払いをせずに行方をくらました彼を探し出して問い詰めたくだりなどが、「証言・ESPディスクの時代」という本でのマレー・インタビューで語られています。とうとうマレーの取り分は一切支払われなかったようで、数年前にパリで逝去するまで、やっぱり彼はこの作品に関してはノーギャラのままだったんだろうか。可哀想。なんとも妖気漂うポートレートにアートディレクターのクレジットではゴッズのジェイ・ディロン。流石ESP。
フリー・シャズ LP、アルバム ESP 日本ビクター揖斐是方
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ドント・ウォリー・マザー/マッコイズ
「ハング・オン・スルーピー」のヒットがあまりに有名な、若き日のリック・デリンジャーが属していたバンド、ザ・マッコイズ。古き佳き時代のアメリカの、ポップでイノセントで健全な人気バンドのイメージですが、66年秋のこのシングルは、そこからの脱却を図った一枚です。大ヒットとまではいかなかったまでも、それまでとはかなり異なった印象のサウンドと曲調、ずばりドラッグを知った青年のサイケデリックへの路線変更といったところでしょうか。なんでも、この曲リリース以前に、バンドはローリング・ストーンズと出会い、その薫陶を受けたという。笑い。つまりヨカラヌ事を諸々教えられたわけでしょう。タイトルはストーンズの「マザー」モノ二曲に呼応、サウンドは「黒く塗れ」に接近したような楽曲、しかもさっきまで親のいいつけを守ってきた品行方正だった青年が、札付きのワルと知り合い、突然「お母さん心配しないで」と唄う、このわかりやすい変化。バンドはこの後レーベルを移籍し、サイケデリック・ロック期へと突入していく。が、いづれも不成功、しかしながらエドカー・ウィンターとの出会いでメンバーは70年代、もう一花咲かせるわけです。なお、この日本盤シングルは米盤りも早くフェイドアウトしてしまう日本独自のショート・ヴァージョンです。
ロック 7" Single ステーツサイド揖斐是方
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野坂昭如 Petit Testament '80 事実上のラスト・アルバム 野坂流・10年遅れの切腹の儀
アマゾン・プライムかなにかで既に配信によって全曲が聴けるとはいえ、レコードとしては未聴のまま、探し続ける事40数年。世間ではさほどのレア盤ではいのかもしれないが、自分個人にとってはいつまでたってもみつからない、そんなレコードも稀にあります。これなどその典型。遂に、野坂のラストライブが。当然未CD化ですが。1980年4月30日、東京厚生年金会館でのライブ。ジャケットを見ると沢田研二トキオへの対抗意識が(笑)ここでの選曲、はしゃぎぶり、50歳にして病を得た後の歌手生命への疑念。そして総括の決意。明らかにこれは歌手・クロード野坂流の、ポップでキッチュでふざけた、しかし同時に極めてシリアスな、彼の切腹の儀とみえます。それを敢えてドキュメンタリー・レコードとして遺した。歌唱としては初になる作詞作「おもちゃのチャチャチャ」やお馴染みのレパートリー、拘りの大国での大ヒット、YMCAなどを交えて最後には「君が代」。ささやかな遺言という意味である「ブティ・テスタマン」の文底に流れる野坂流のミシマ・マナー。あの檄文など、三島の遺した諸々の直球とは対極に位置する徹底したコミカルなギミック、しかしそこには「冷徹」な笑いしかありません。 三島の自決は彼にとって二度目の強制終戦だったのに対し、野坂も「二度目の敗戦コンサート」としている。小沢昭一の歌った、アプレゲールのなれのはて、とまでは言わないまでも、これは野坂なりの、ライブ・パフォーマンスによる再びの敗戦ということなのだろう。実際に鬼籍に入る35年も前の、ショウの形をとった遺言か。音楽は残念ながら、80年代丸出しの浅薄かつバッド・テイストな伴奏。しかしこれは仕方があるまい、電飾パラシュートの時代だったのだから。しかし、それにしても一体なぜこのレコードだけが、無視黙殺ノーリイシューのままになっているのか。無論様々な事情が絡んでいたのでしょうが。自主製作からCBSソニーに始まり、エレック、コロムビア、パイオニア、東芝、そしてビクターとレーベル移籍の変遷はめずらしいことではないが、しかしそこを乗り越えた楽業総括のボックスひとつ出ないとはね。現役のレコード業界人には誰一人、歌手・野坂を知る人物などいないのではないかとすら思えてきます。(そういえば、晩年になりダニアースの唄や小林亜星と組んで曲を発表したりしていたけれど、あのへんは蛇足の感、強し)
歌謡曲 LP、アルバム ビクター揖斐是方
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米キャピトルより逆輸入デビューしたイーストの「ビューティフル・モーニング」
吉川忠英、瀬戸龍介を擁したイーストを御記憶の方はどれくらいいらっしゃるでしょうか。音楽雑誌にもそこそこの大きさで取り上げられ、72年頃でしょうか、東芝もあわや行けるのかもと期したフシはありました。チャートアクションはしりませんが、米国でもシングルリリースはされたはずです。英詞ボーカルは弱いけれど、なかなか味わいのある佳曲でした。ただ、まだあの時代の要請か、イントロに和楽器「笙」を使用し、否応なくオリエンタリズムを演出させられている点、このへんは渡米してエド・サリバン・ショーに出たはいいがイントロで余計な琴かなんかのソロを遮二無二くっつけさせられて「ブルーシャトウ」をするしかなかったブルー・コメッツの、いわば敗戦国者としての悲哀丸出し、いかんともしがたいところでしょうか。アルバムではラストに「ソーラン節」を配せざるを得なかったところも哀し。そんなイーストでした。それにしても「すき焼き」以来の先達たちの米本土上陸挑戦は、やっぱり歯がたたなかったですなー。いい曲だったんだけれどなー、外人はちっともそうオモワナカッタンダナー笑。
ロック 7" Single 東芝音工 キャピトル揖斐是方
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馬鹿ねc/w 弱い女じゃありません/西村じゅん マリア四郎・作詞 フェロモン・ディープ歌謡の奇盤
昭和ディープ歌謡のおぞましき妖花、マリア四郎。天草四郎だか転びばてれんだかしらんけど、そんなイメージ・キャラクターでとりあえず頑張りました。しかしながら不発。レコード会社を移籍したのちは「みやざきみきお」 名義で「シクラメン・ブルース」を。史上初の全裸歌手としてジャケットにもその姿が。それでも不発。みやざきみきおを調べる過程で彼が作詞したこの人のこのレコードを知ることとなりました。1971年発売のディープ歌謡、作詞がみやざき、作曲はあの「赤く赤くハートが、ああーうずくのさー」の新井靖夫。なんでも、この西村じゅんという人物は「ショッキング・ヴォイス 歌謡界に登場」というキャッチコピーでうりだされたそう。針を降ろしてみたら驚きました、どう聴いても「男性」の声。回転数をまちがえたかと。こんな声の女性などおらん。ということは当然、実は「男」説も囁かれるはずで、タモリが紹介していた扇ひろ子を思いだしたり笑、どっちなんだ本当は。なんにしても極めて珍しい声質の異色歌手であることは間違いありません。ビーメンが「弱い女じゃありません」といってるので、やっぱり男なのか・・・なお、みやざき氏の作詞はたいした巧くないですね。
ディープ歌謡 7" Single コロムビア揖斐是方
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「愛の祈り」「コーヒー天国」 オクトーバー・チェリーズとジェイド・アンド・ペッパー 日本盤シングル
シンガポールとマレーシアで絶大な人気を誇った60-70年代の東南アジアを代表するバンド、オクトーバー・チェリーズとその前身、ジェイド・アンド・ペッパーの国内盤シングルです。まさかこのバンドが、過去に日本盤で出ていたなんてと驚愕する例がいくつかありましたが、これらもそのひとつ。サイケデリック・ロック・ファンの中では「ペッパーリズム」といったオムニバス盤やポコラ本などで以前から認識されていた、ビートレスク・ポップ・サイケの名バンドです。1969年がデビュー・アルバムを発表した年で、そこには「ゲット・バック」から多大なヒントを得たような(笑)曲も入っていました。この二枚は順序からいえば「コーヒー天国」の方か先にリリースされたものですが、国内発売されたとはいえ、殆ど誰も買わなかったのではないかと思われるほど知名度低し。最初から器用なバンドで、「愛の祈り」の方はB面がほぼ原曲に忠実なハード・ロックとしてグランド・ファンクの「アー・ユー・レディー」を。それにしても、帯付きLPとしか思えないようなジャケットデザインのシングルというのも非常に珍しいのではないでしょうか。
ロック 7" Single グラモフォン・ポリドール揖斐是方
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世界的カルトGS ザ・タイガースの12枚組CDボックス 1967-1971
GSの頂点にはザ・ビートルズが、続いてザ・ローリング・ストーンズが君臨しています。数人編成のロック・コンボという意味では、彼等もまた広義の「クルーブ・サウンズ」といってもいいでしょう。60年代、言うまでもなく日本のそれではこのタイガース、圧倒的な人気を誇っていました。沢田研二のスター性に、あまりに依存し過ぎていたと言えばそこは否定しがたいものがあるかもしれませんが、とにかく他を大きく引き離すスーパー・グループであったのは間違いありません。そこで、このコンプリート録音源集を聴いてみる。すると非常に歪なグループだったことがはっきりとわかるのです。ライブではとにかくストーンズのカバーが中心、おそらくこれは彼らの素の欲求だったのでしょう。走りまくるだけの衝動ガレージといっていい曲もあります。末期のライブなどはGFRやCCRなどまでカバーした熱演を聴かせてくれます。一方で、問題はスタジオ録音のシングルやアルバム群。とにかく徹頭徹尾、タイガースのブレーンである作曲家、すぎやまこういちのクラシック・コンプレックスに翻弄されたテイストの作品がほとんどといっていいでしょう。まさにその点が、海外での日本のGS評価で無視黙殺されつづけている原因に他なりません。ほぼ「バンド」の創ったレコードとは言い難いあさってぶりです。他のどんなGSと比較してもその点は否定できませんが、これは「ポリドール」というレーベルのレコード作りのセンスにも大きく左右されているように思います。もしもフィリップスだったら、もっとましな録音を残せたのでは。日本ではGSの頂点に君臨しながらも世界的には全く相手にされていないアサッテの存在。まさに世界規模での「カルトGS」といっていいでしょう。本当のカルトGSのレベルにある「愛するアニタ」のタイガース・バージョンと、ヘンドリクスの「紫のパクリ」としか言いようもない「割れた地球」の二曲しか拾い物はない、がしかし、だからこその日本国でのスーパーグループともいえるわけですが。
グループ・サウンド CD ポリドール揖斐是方
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1971年のオランダ製海賊盤・東京キッド・ブラザースの「八犬伝」ライブ。
東由多加といえば、寺山・唐に続く日本のアンダーグラウンド演劇界の鬼才。といいたいところですが、あにはからんやそうでもない現状があります。あまりにも寺山が天才過ぎた、しかも恐るべき求心力・人間力をもって時代の才能を惹きつけ、集め、成功した。スケールとバリューはそこまでではないものの、唐もテントの中で間違いなく異空間をつくりあげた。対して東。まだこのころは柴田恭平もいないし、音楽面では元テンプターズの二人や下田逸郎がサポートするも、たとえばJ.A.シーザーの音楽に比してもあまりに弱い。ただ、桟敷やテントほどの後世に記憶されるほどのパワーはないにしても、東も頑張り海外公演などにも積極的でした。このレコードは1971年の長期欧州公演時に録音されオランダでつくられたと思しきライブ・ブートレッグです。当時のメンバーの直筆サインも入っていますが、この点にバリューはないでしょう。帰国後、スター俳優もそこそこ育て、キングレコードなどからもアルバムはいくつもリリースされることになります。しかし個人的にはたとえ松崎由治や高久昇などテンプターズ組のその後の音楽が聴かれようと、そんなことより一日も早く東監督、秋田明大主演のまぼろしの「ピーターソンの鳥」ブルーレイ復刻をと熱望する次第です。
ミュージカル LP, Album プライベート盤揖斐是方
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グッド・モーニング・スターシャイン/ザ・ストロベリー・アラーム・クロック
1969年の四作目にしてラスト・アルバム。大幅なメンバー・チェンジ後の唯一作。SACといえばなんといっても「インセンス・アンド・ペパーミンツ」でいきなり初期から成功したサイケデリック・バンドと認識されています。が、セカンド、サードと厳しい内容の作を重ねました。とはいえそれはあくまで私見、個人の好みの問題であり、コーラスハーモニーポップの、いわゆるソフト・サイケの文脈ではそれなりの評価は下されているのかもしれません。しかし、それにしてものオーバー・プロデュース、あんたらはすぎやまこういち先生についぞ頭が上がらなかったザ・タイガースか、とつっこんでもこの際差支えはないでしょう。それくらい柔らかい作風でした。もっとも、SACもタイガース同様、ステージではワイルドなパフォーマンスを披露、ドアーズぱりのインタープレイや、「ソウル・キッチン」でステージを終えるといったこともしていたそうです。一転してこのアルバム、音に黒っぽさは伴ったものの、力強い男性的なボーカルが響きわたりこれがあのストロベリーズかと驚かされます。ラストにして、強烈な個性こそないもののアメリカン・ロック然とした骨のある音を獲得したとでもいいますか。同じメンバー・チェンジ後のラスト・アルバム「ロックンロールがなつかしい」で終わったプルーンズ(完全に別のバンドが プルーンズを名乗っていた笑)よりははるかにましな幕引きでした。
サイケデリックロック CD UNI揖斐是方
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カサノヴァ7 (セッテ) コロムビア・コンプリートと夜の柳ケ瀬
ヘンな外人という言い回しがありました。ロイ・ジェームスでもイーデス・ハンソンでもイーエッチ・エリックでも誰でもいいですが。 ただし、出門英と組んだロザンナは、あまりそういう形容はされなかったような気がします。されたのかもしれませんが。遮二無二曲中でアモーレミーヨーなどと叫ばされたのは致し方ないでしょう。まだ60年代の日本国ですから。このグループはそのロザンナの兄や叔父がメンバーとして在籍していたコーラス・グループで69年コロムビアからデビュー。「夜の柳ケ瀬」はデビュー盤、そこそこのヒットらしいのですがまったく記憶にありません。白眉は三作目のシングル「万博でヨイショ」。コンニチハーコンニチハーの三波ばかりが歴史に残っていますが、これも見逃せないカルト歌謡の傑作です。イタリア語も交えて橋本淳が作詞。人類に夢も希望もあった時代への追想が。デビューシングルには女性メンバーとしてキャシー中島の姿があります。しかしセカンドにはもういません。そもそも最初からメンバーじゃなかったという話もあるようで真偽不明。どうでもいいですけれど笑。
ムード歌謡・ただしカルト+ディーブ CD 七インチシングル コロムビア揖斐是方
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イースト・ヴァイオニック・シンフォニア レコーディッド・ライヴ 限定リイシューエルピーと海賊盤二種
恥ずかしながら1976年のオリジナルALM盤ではありません。76年7月に小杉武久が主宰する音楽教場のメンバー10人によって録音された集団即興演奏の記録。他の二枚もインプロヴィゼーション1976と題されて各限定200枚で製作されたレコード。いずれも欧州製と思われますが定かではありません。内容はやはりタージ・マハール旅行団を想起してしまうのは否めませんが、個の音が全体のアンサンブルに埋没し匿名性を伴っているのは当然としても、互いの音を注意深く聴きながら気配を交感し、発音を巧みに制御している印象は受けます。そして、ひたすらタレ流しで冗長になりがちなこの手の音楽ですが、作品化するための編集、或る瞬間を選び切り取るセンスなどプロデュース側の手腕も大きな役割を担っているといえましょう。演奏している本人はその瞬間は愉しいが、聴かされる側は遣り切れない場合が多い(笑)ケースも珍しくなく、やはり個々のプレーヤーの「いかに音を出さずに演奏するか」といった妙なセンスが問われると思いますね。一方で、リスナーにとってはこうした音の連なりが心地よいか否かだけですべては事足りるし、そもそも難しいとか解らないなんていう音楽など存在せず、ひたすら己の感性に照らし合わせて「好きか・嫌いか・どうでもいいか」の簡単な断じ方だけでよろしいと思います。まあ、こういうライブを聴かされた場合ならば、一応の建前として儀礼的な拍手をパラパラと送るのは日本人たるもの必須のセンスですが。 さてこのレコード、欲をいいますと、先生の計らいで何某かを染み込ませた紙片でも同封しておいてくれればより一層などと、前時代的なセンスも露呈してしまいますが、今はそういうことを思いついてはいけません。
イムプロヴィゼイション LP, Album 海賊盤揖斐是方
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元オックス 野口ひでとの「ひでとからあなたに」 a.k.a.真木ひでと
1970年12月にリリースされたラスト・シングルのタイトルは、グループ・サウンズ・ブームが完全に終焉したことをペシミスティックに総括する「もうどうにもならない」でした、この人がリード・シンガーを務めていたオックスの。失神が失意にとってかわったわけですが。のたうち回って「テルミー」を啼唱していた野口は、何枚かのソロ・シンクルを出した後、72年にこのファースト・ソロを。ポール・アンカ、アダモ、モップスが歌った吉田拓郎、沢田研二らのカバーが収録されていますが、なかでも自ら作詞作曲を手掛けた「笑いを忘れたピエロ」が聴きものです。野口本人の弁によると、自分自身がナーバスになっていた時に作った、自分に対しての応援歌だそうです。オックスという過去を思えば、道化ができなくなってしまった自身を客体化しつつも苦悩している、聴きようによってはそこそこヘビーな楽曲といえるでしょう。先にシングルでだされた「他に何がある」は当時レノンの「マザー」のパクリに聴こえたわけですけれども、せめてこのアルバムでは8番まで歌詞のある7分を超えたといわれるバージョンで収録して欲しかったのですが。本作の後、あの「全日本歌謡選手権」で優勝、真木ひでととして再デビュー、オックス時代の栄光を再びといわんばかりのタイトル「夢よもう一度」というポール・アンカのパクリに聴こえた曲で復活することになります。なお、現在このアルバムは真木ひでとのボックスセット内に全曲収められてCD化されています。
歌謡曲 LP, Album フィリップス揖斐是方
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カンパニー1 デレク・ベイリー、エヴァン・パーカー、トリスタン・ホンジンガー 国内盤初回帯付LP
フリー・アンド・プログレッシヴ・ミュージックとして1978-9年にビクター音楽産業から発売された一枚です。このシリーズでは他にベイリーのソロ、スティーブ・レイシー、アンソニー・ブラクストン、ロスコー・ミッチェル なども出ていたようですが、販売実数はいったいどのくらいだったのでしょうか?豊かな時代でなければ実験的・前衛的な表現は、メジャーからはなかなか「発売・発表」の機会を与えられないものですが。ベイリーのギターにパーカーのサックス、ホンジンガーのチェロ、アルテナのベースという布陣で、あくまで個人的な印象に過ぎませんが、これが一般的なフリー・ジャズとは聴こえないのです。いや、厳密にいうと、フリー・ジャズとも呼べるのでしょうが、ちょっと印象が異なる。フリー・ミュージックというのでしょうか、いや、ミュージックと呼ばなくてもいいのかもしれない笑。楽器を発音しつづけあう駆け引きの記録。例によって、この種のレコードにつきものの、清水俊彦、間章両氏によるスクエアかつシリアスを極めた6ページに及ぶライナーノート、ベイリーの組織論と運動論云々と、いつも通りの観念論でレコードを側面から支えているのでした。面白い時代だったといえましょう。
イムプロヴィゼイション LP, Album ビクター揖斐是方