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ベンチャーズ・ガールズ その5
画像1 ベンチャーズ・ラテン・アルバム 日KING:GP-685 1979年3月21日発売 画像2・3 ゴールデン・ペレス・プラード ダブル・デラックス 日KING:GW-39/40 1969年8月20日発売 ベンチャーズの方はキングから発売されたユナイト・レーベルですが、 同時代の US 盤が見つかりません。 制作のイニシアティヴは日本側にあったと思われます。 ジャケット・デザインも国内制作でしょう。 ペレス・プラードの方は、 メキシコ・オルフェオン原盤のセブンシーズ・レーベルですが、 これも国内編集のベスト盤だと思います。 発売順はペレス・プラードの方が10年近く早いので、 こちらが初登場でしょう。 裏ジャケが別ショットかとも思いますが、 よく見ると単なる逆焼きであることが判ります。 この逆焼きバージョンをトリミングし、 ベンチャーズに転用したのでしょう。 「ラテンっぽいモデルの写真ないかぁ?」となったのでしょうが(!?) 10年前のものをよく見つけ出したものですね。 #アナログレコード #レコード・ジャケット #ベンチャーズ
音楽(レコード) キング・ 1960〜1970年代chirolin_band
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月報 ポニー 1960〜1970年代
1966年10月、ニッポン放送系列の「ニッポン放送サービス」が設立され、 ミュージック・テープの販売を開始しました。 この頃から「PONY」の商標は使うわれており、1970年には(株)ポニーと改称します。 (月報では1970年4月号から変更されています) 発足当初は、カー・ステレオ用の8トラック・カートリッジ・テープが主力商品で、 この辺りはアポロン音楽工業とよく似ています。 後発のキャニオン・レコードとは姉妹会社で、1987年には両社がまとまって (株)ポニーキャニオンとなります。 画像2 初めてレコード・マンスリーに掲載された広告(1967年10月号) 画像3 月報1970年3月号 画像4 月報1970年4月号 画像5 月報1970年5月号 画像6 月報1970年7月号 画像7 月報1970年8月号 画像8 月報1970年9月号 #ミュージック・テープ資料 #カートリッジ・テープ月報 #カセット・テープ資料
音楽 (株)ポニー 2000〜2020年chirolin_band
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月報 アポロン音楽工業 1960〜1970年代
アポロン音楽工業はミュージック・テープを販売していた会社で レコード盤は作っていませんでしたが、 広義のレコード・メーカーとして取り上げることにしました。 会社の起源としては、文化放送の系列会社として1964年に設立された「フジサウンド」 がルーツに当たるようで、この年に4トラックのカートリッジ・テープを発売した という記録が残っています。 ここが1967年にアポロン音楽工業と改称しました。 (日本レコード協会50年史による) 資本金 8,000万円、社長は渡辺美佐。出資社は文化放送と渡辺プロです。 この1967年頃から、既存のレコード・メーカーも音楽テープの販売を開始した という記録もあります。 但し、オープン・リールはビクターなど1950年代から発売されていました。 カセットはまだ会話の録音用などで、音楽用としては音質的に無理があると 考えられていました。 (その後カセットは急速に進化します) カートリッジ・テープというのは、オープン・リールと同様のテープを カートリッジに収めたもので、 サイズはカセットより大きく、リールはひとつだけで 「内側から引き出して再生し、外側に巻き付ける」 というエンドレス構造になっていました(A-Side / B-Side はなし)。 同一方向への走行のみで巻き戻しは出来ません。 テープ全体が8つのトラックに分割されており、ステレオで2トラック使いますので、 4つのプログラムが収録できますが、それぞれ収録可能時間は同じになります。 再生機でこのプログラムを切り替えて連続再生できるようになっていました。 このカートリッジは主にカー・ステレオでの需要を見込んで 売られていましたが、1980年代はカラオケ用として大いに活用されました。 ここで紹介する月報は1969年〜1970年のものです。 画像3 当時のプライス・リスト 画像4 1969年9月号 画像5 1970年2月号 画像6 1970年5月号 画像7 1970年7月号 画像8 1970年9月号 顔ぶれを見てすぐ判るのは、ナベプロ系のアーティストがレコード会社の枠を超えて 収録されていることです。レコードでのレーベル契約に馴染んだ方には、 新鮮な感じがすると思います。 画像8の「ヒット速報」など、レコードでは出来ないオムニバスとなっており、 これはアポロンのお家芸でした。 この中で気になるのが画像7の「チヨのお座敷艶歌」です。 これに相当するレコードが見つからないのです。 東芝から「チヨのお座敷唄」というLPは 1971.11.5 に発売されているのですが、 収録曲のほとんどが違っていて、 重なるのは2曲だけです。もっと後の時代に出たのか、テープ用のオリジナル企画なのか…… #アナログレコード #ミュージック・テープ資料 #カートリッジ・テープ資料 #カセット・テープ資料 #レコード資料
音楽 アポロン音楽工業(株) 2000〜2020年chirolin_band
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番外編3 エレック・レコード
1969年に設立されたレコード会社です。 フォーク系の若手アーティストを世に送り出した点で、URCレコードに近いものがありますが、こちらは最初から既存チャネルで販売するレコード会社でした。 吉田拓郎(当時はよしだたくろう)さんを筆頭に泉谷しげる、古井戸、佐藤公彦(ケメ)、海援隊等を紹介して行きます。 こういった新しいタイプのアーティストを発掘する感性は、大手メーカーの先を行っていたと思います。 URCと比べると、よりヒット狙い重視の商品も少なからず含まれていました。 「主義主張だけでは商売になりにくい」ことを考えれば、レコード・ビジネスとして決して間違ったことではなかったと思います。 残念だったのは、自分たちが発見し、世に送り出したアーティストが、より条件の整ったメジャー・レーベルに次々と鞍替えして行ったことです。 1969年に土居まさるさんの「カレンダー」が発売され、翌70年4月には広島フォーク村(吉田拓郎さんを中心とした、当時の広島のアマチュア・フォーク・グループの総称)としてのオムニバス盤が出ます。ただこれは、自主制作盤をエレックが全国発売したものでした。 画像2&3は吉田拓郎(当時はよしだたくろう)名義の初ソロ・アルバム「青春の詩」(ELEC-2001)です。 ずうとるび、まりちゃんズといった、全く路線の異なるレコードも発売されました。 大瀧詠一さんのナイアガラ・レーベルと契約し、ご自身の「ナイアガラ・ムーン」やシュガー・ベイブ(山下達郎さんや大貫妙子さんが在籍)のアルバムが発売されたのは1975年でした。 手持ちのレコードが少ないため、目録(1976年版を復刻したもの)のデータを掲載致します。 #アナログレコード #レコード資料
音楽 エレック 1960〜1970年代chirolin_band
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番外編2 URCレコード
URCレコード(アングラ・レコード・クラブ)は、会員制のレコード・クラブとしてスタートしました。 当時、岡林信康さんの「くそくらえ節」が発売中止になるといったことなどがあり、『レコード制作基準倫理委員会(レコ倫)の管轄外』という立ち位置をキープするために、この方法にしたようです。(レコ倫は日本レコード協会の中の組織であり、協会に加入しない自主制作盤だから好きに出しますよ、というスタンス) 1968年には活動を開始し、翌69年2月には第1回頒布が行われたようです。 いわゆるフォーク・ソングの中には、もともと何らかのメッセージを含むものが少なからず存在していました。(ボブ・ディラン、ジョーン・バエズ等々) 特にフォーク・ソングに限ったことではありませんが、そのメッセージの濃度や色合いによって、反社会的・わいせつ・差別的等の基準からレコード協会内部の自主規制が行われていたわけです。協会としては、世の中全体を敵に回すなどという愚行を避けるため、事前にチェックしていたということだと思います。 発足したURCには結果的には想定を大きく上回る会員申し込みがあり、69年8月にはマイナー・レーベルとして一般販売に切り替えたようです。 反戦歌、反体制的なメッセージ、左傾化する学生運動、70年安保、フォーク・ゲリラ等々、全て一括りにしてしまうのは間違いかもしれませんが、若者たちの声や感じ方を背景にした新しい波だったと思います。 残念ながら、URCレコードのオリジナルは私の手持ちにはなく、画像1&2は第1回分の復刻版のCDジャケットです。 レコードではA面が高田渡さん、B面が五つの赤い風船となっていました。 画像3以降の資料は、70年代に入ってURCが後発のエレックの傘下に入り、エレックとしての目録に掲載されていたレコード・リストです。目録も当時の現物ではなく、復刻版によっています。 ずっと後の時代ですが、高田渡さんは吉祥寺のいせや(地元では有名な焼鳥屋さんです)で呑んでいるところをお見かけしたことがあります。(仙人のような風貌になってからのことです) #アナログレコード #レコード資料
音楽 URCレコード 1960〜1970年代chirolin_band
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番外編3 ローヤル・レコード
かつて存在したローヤル・レコードです。画像1〜4が第1回分と思われる新譜の中の2枚です。 ジャケットはいわゆる「ポケット・ジャケット」と呼ばれる仕様で、上品な作りになっています。 コピーライト表記が「66.1」となっていることから、1965年には創立されていたものと思います。 ¥350 という定価は、この時代としては特殊ですね。(他社の歌謡曲シングル盤は ¥330 でした) DPS方式(Dyna Pick-Up Sound System)による「完全な High.Fi Stereo」が売りだったようです。聞いてみると、音像は Left Center Right とくっきり定位しており、3トラックで録音されていたようです。分離がよく、音質もクリアですが、全体的なサウンドとしては自然な音場の再現と言うより、マルチ・モノに近い気もします。 歌謡曲のシングル盤がメインでしたが、LPもあり、ジョージ川口さん等の日本のジャズ・メンの録音もありました。 70年代に入ってからですが、増位山大志郎さん(大相撲の増位山関)の歌った「そんな夕子にほれました」が、大きなヒットとなりました。 レーベルはマキシムですが、ローヤル・レコードからの発売です。(MR-2012 1974年発売) この曲は、後にテイチクのユニオン・レーベルから再録音・再発売されました。 (1977年3月25日発売 UC-39) ローヤルには、他にオニオン・レーベルというのもあったようです。 詳細は定かではありませんが、1977年頃に消えていったのではないでしょうか。 #アナログレコード
音楽 ローヤル・レコード 1960〜1970年代chirolin_band