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番外編3 カナリヤレコード 1950年代<続編>
カナリヤレコードの続編です。 前回分はこちら https://muuseo.com/chirolin_band/items/18 日本ビクター50年史(1977年発行)に「カナリヤレコード工業株式会社」に関する 記述がありましたで、続報として掲載致します。 画像1 ビクター関係会社として掲載されています ①本店、②営業所、③は設立年月日、④株主構成、⑤営業内容 です。 設立は1958年8月21日となっています。 ピクチャー・レコードはもっと前から発売されていましたから、石川無線電機との提携 (レコード・タイムス1957年4月号掲載)の後、日本ビクターの子会社として再スタート したのが、この日付なのでしょう。 社名もここから「カナリヤレコード工業株式会社」 になったのかもしれません。 営業内容は「レコードの製造および販売」となっていますが、他のレコード会社と比べると その姿が見えて来ます。 画像2 同じビクター関係会社の「アール・ブイ・シー(RVC)」の会社紹介です。 「レコード,音楽テープなどの『企画制作』,製造および販売」 となっており、この中の『企画制作』がカナリヤレコードにはありません。 つまり録音や原盤作りはやらない「工場」ということになります。 ビクターはそもそも自社工場を持っていましたので、わざわざ「カナリヤ」を 傘下に加えた目的は「ピクチャーレコード」のノウハウだったのかもしれません。 (これは単なる推測です) 画像3 これが前回ご紹介した「レコード年鑑1960年」に「プレス専門工場として」 という但し書き付きで掲載されていた会社のことなのでしょう。 画像4 日本ビクター50年史の奥付です。 発行が1977年9月13日ですので、少なくともこの時点ではカナリヤレコード工業が 存在していたことになります。 #アナログレコード #レコード資料
音楽 カナリヤレコード 1950年代chirolin_band
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三光ニュース(各社レコード総合月報) 1950年代
三光というのは東京・神田にあった会社のようですが、 私は全く知識がありません。 手元にあるのは1953年代の数冊のみで、発行期間等は判りません。 1953年7月号を見ると、内容は新譜のリストのみで、 解説も広告もありません。 この号には雪村いづみさんの写真が上質な紙に印刷されており、 珍しいと思います。 1953年9月号からは解説が書かれるようになり、 10月号からは広告も入るようになります。 この解説ですが、明らかにメーカーが執筆しているようです。 純邦楽からクラシックまで万遍なくコメントされており、 1ディーラーではカバーし切れなかった筈ですし、 「テイチクレコード洋楽部」と署名されているものもあります。 こんなところから、これはタイトルこそ「三光ニュース」となって いますが、三光株式会社が単独で発行したものではなく、 いくつかの有力小売店が協力し、メーカーの支援も受けながら 共同で発行したものではないか、と推察します。 表紙(タイトル)はバリエーションがあるのではないかと…… (この冊子には、発行人等の記載はありません) #アナログレコード #レコード資料 #三光ニュース
音楽(レコード) 販促物? 1950年代chirolin_band
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LP初期のジャケット その16 HI-FI IN FOCUS チェット・アトキンス
チェット・アトキンスのアルバム「ハイ・ファイ・イン・フォーカス」のアメリカ RCA-VICTOR 盤です。 発売日は判りませんが、国内盤が1958年5月新譜として出ていますので、それ以前だと思います。 ジャケットに関し、オリジナルUS盤には A.M.Baunach , First Prize Winner RCA Victor Cannon Camera Album Cover Photo Contest との記述があります。(今ならばCGで作れそうですが) このアルバムには Walk,Don't Run や Lullaby of the Leaves といったナンバーが収められており、ベンチャーズのボブ・ボーグルがこのLPを何度も聴いて自分たちのレパートリーに取り入れたと証言しています。 因みにその Walk,Don't Run ですが、邦題は「急がば廻れ」ではなく「駈けないでお歩き」となっています。 (5枚目の画像が、国内盤を紹介しているビクターの月報1958年5月号です) #アナログレコード #チェット・アトキンス
チェット・アトキンス 音楽 HI FI IN FOCUS US RCA VICTORchirolin_band
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番外編3 カナリヤレコード 1950年代
1950年代に、当時珍しかったピクチャー・ディスク(童謡のSP盤)を販売していた会社です。画像は実物写真と1955〜1957年のレコードタイムス誌のリスト、広告、ニュース記事です。当時、レコードだけではなく蓄音器(カナリヤベビーホーン)も販売していたようです。最後の企業プロフィールは、レコード年鑑1960年版(音楽之友社)に掲載されていたものです。このプロフィールを見ていて思うのは、「どうもこれは東洋化成(株)のことではないか」ということです。 東洋化成について簡単にご紹介しますが、創業以来現在に到るまで一貫してアナログ・レコードを製造している会社です。一時期は、アナログ・レコードは東洋化成でしかプレスできない、という最後の一社になっていました。もちろん、レコード全盛時代も数多くのメーカーのプレスを受託していました。 ネットで調べてみると、「開運なんでも鑑定団」にこのカナリヤレコードと蓄音器が出品されたようで(2020年)、鑑定結果と共に「1953年に東洋化成が生産した」との鑑定士コメントが番組ホームページに掲載されていました。ですが、ここで新たな疑問も湧いてきます。東洋化成の創業は1959年ですから、1953年にはまだ存在していないのです。 そこで、直接東洋化成に問い合わせをしてみました。すると、「カナリヤレコードは東洋化成設立の前に作られた会社で創業者は東洋化成と同じ、その後も当時の東洋化成の隣に立地していた言わば兄弟会社だが、会社としては別ものだった」との回答を頂きました。 なるほど、兄弟会社とは言え、あくまで別企業ですから「カナリヤレコードを東洋化成が作った」という表現は適切でないわけですね。(60年前のことに関する問い合わせに回答していただいて、大変ありがとうございました) まだまだSP中心のレコード店にあっては、記事にもある通り、フル・カラーのピクチャー・ディスクは大変人目を引いたことと思います。 続編はこちら https://muuseo.com/chirolin_band/items/186?status_to=open #アナログレコード #レコード資料
音楽 かなりやレコード 2000年〜2020年chirolin_band
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番外編4 日本スター・レコード 1950年代
1950年代に存在した日本スターレコードの資料です。 画像は実物のレーベル、1958年のレコードタイムスに掲載された新譜リスト,記事,広告です。最後の会社プロフィールのみ、レコード年鑑1960年版(音楽の友社)に載っていたものです。 大関進さんの名前や写真が見えますが、その後日本グラモフォン〜東芝と移ってたくさんのレコードを作っていた方です。荒井恵子さんというのは「森の水車」を歌った方ではないかと思い、調べてみたところやはりそのようです。NHK専属という立ち位置だったため、レコードがほとんどないそうですが、紅白歌合戦には6回も出場されたそうです(by Wikipedia)。 #アナログレコード #レコード資料
音楽 日本スターレコード 2000年〜2020年chirolin_band
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番外編2 ミリオン・ヴォイス 1950年代
1950年代に存在したミリオン・ヴォイス・レコードの資料です。 画像はレコードタイムス1956年2月〜5月号の記事、新譜案内、広告です。 旧ソヴィエトの原盤ということで、新世界レコードと同じ路線です。ショスタコーヴィッチの「森の歌」は、同じレコードが両社から同時に発売告知されたりしています。 発売点数も少なく短命に終わった会社のようで、詳細は不明ですが、存在していたのは確かなので記録としてご紹介しました。 #アナログレコード #レコード資料
音楽 ミリオン・ヴォイス 2000年〜2020年chirolin_band
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番外編1 もうひとつのポリドール(ポリドール蓄音器〜ゼネラルレコード)
ポリドール(グラモフォン)については既に取り上げましたが、これはまた別の「もうひとつのポリドール」です。SP盤のレーベル画像は、里見浩太郎(現在は浩太朗)さんのレコードデビュー曲「金獅子紋道中唄」で、レーベル名は「POLYDOR」。盤自体は特別珍しい訳ではなく、一見普通のポリドール盤に見えるかもしれません。が、会社名は「NIPPON POLYDOR CHIKUONKI K.K.」となっています。そう言えば、レーベルのロゴも古いですね。原盤番号の「33-8-1029」は、昭和33年8月(1958.08)のようです。 ポリドールの歴史は、以下の通りです。 1953年1月 一旦会社を解散し、ここまでの流れを清算 1953年5月 「日本ポリドール(株)」を改めて設立 1956年4月 社名を「日本グラモフォン(株)」に変更 従って1958年8月時点では、とっくに「日本グラモフォン」に変わっている筈です。 実は、一旦会社を清算した後も旧会社の残党の動きがあったようなのです。 ひとつの足跡は森本敏克氏の「レコードの一世紀・年表」(沖積舎)にあります。 ●1953.06.15 旧ポリドール蓄音器の職員が「東京レコード(株)」を設立 ⇒何やら動きがあった様子、ただ「東京レコード(株)」のことはよく判りません ●1958.08 日本ポリドール蓄音器(株)が再発足 ●1959.04 社名を「ゼネラルレコード(株)に変更 何と、旧会社が復活しているのです。これは誰が見ても本流の「日本グラモフォン」と揉めそうですよね。 その辺りの経緯が「レコード年鑑1960年版」(音楽之友社)に記されていました。(画像参照) 旧会社の重役だった方々が「我々こそポリドール商標の継承者」(と仰ったかどうか判りませんけれど)と争ったが、結果は日本グラモフォンの勝利だったということですね。 で、里見浩太郎さんのレコード、これが再発足した「日本ポリドール蓄音器(株)」から発売されたものだったという訳です。 日本グラモフォン側のカタログをいくら探しても、このレコードは出て来ません。以前コメントした通り、1955年3月〜1958年5月の間は歌謡曲そのものが発売されていませんし、1958年6月の再スタート後もこのレコードの記録はありません。6年ほど前に、現在のユニバーサル・ミュージックのカスタマーセンターに本件を問い合わせしたことがあります。「60年も前のことなので…」と当惑しつつも、丁寧に調べていただけました。結果は「1955年の途中から1958年まで、発表した流行歌をまとめた資料に記載がありませんでした」。 当方で調べていた当時の月報とも完全に符号する回答でした。やはりこれは日本グラモフォンが作ったレコードではないのですね。 その後の「ゼネラルレコード」に変わってからのLPも一枚だけ手持ちにありましたので、掲載します。 なお、「金獅子紋道中唄」にはジャケットや同内容の45回転盤もあるのですが、私は所有していないため、 残念ながらお見せすることができません。 「月報」の話からは逸れますので、「番外編」として投稿致しました。 #アナログレコード #レコード資料
音楽 ポリドール蓄音器・ゼネラル・レコード 2000年〜2020年chirolin_band
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月報 ユニバーサルレコード 1950年代
1958年6月に設立された会社ですが、現在の「ユニバーサル・ミュージック」とは別の会社です。創業者の成田清氏は、前掲の「日本ディスク」に参加された方ですが、アンドレ・キャラビ氏と意見が合わず、独立して立ち上げられたそうです。(「証言-日本洋楽レコード史」による) 発売レーベルも「ディスコフィル・フランセ」「オワゾリール」で、日本ディスクから移行して来たものです。この辺り、どういう契約になっているのか良く判りません。 「バークレイ」「フォニット」「ハイ・ファイ・レコード」といったレーベルとも契約し、国内盤を出しています。(これらのレーベルは、後に大手メーカーから発売されるようになります) 「ユニバーサル」レーベルの国内録音盤も発売しており、白木秀雄,八城一夫,海老原啓一郎,松本英彦,秋満義孝といった当時のジャズメンの名前も見られ、日本ディスクよりは積極的だったことが窺われます。 何せ資料の集まりにくい会社で、私が入手できた月報も僅か2冊のみです。年表を見ても、いつまで継続したのかを追うことができません。 #アナログレコード #レコード資料
音楽 ユニバーサルレコード(株) 2000年〜2020年chirolin_band
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月報 日本ディスク 1950年代
日本ディスク(株)は、1956年3月にフランスの在日実業家アンドレ・キャラビ氏によって設立されました。フランスの電機メーカー「トムソン・ハウストン」と契約し、「デュクレテ・トムソン」レーベルのレコードを発売しました。クラシック系ではフルートのランパル,ピアノのイーヴ・ナットやリリー・クラウス,ハープのリリ・ラスキーヌ等、シャンソン系ではシャルル・アズナヴール,ミッシェル・アルノー等の香り高い盤を日本に紹介しました。レコード芸術の1956年9月号によると、プレスはエンジェル(東芝)と記されています。1957年には「ディスコフィル・フランセ」と「オワゾリール」レーベルが加わります。 その後の推移はざっと以下の通りです。 1957年10月 新マーキュリー(株)と合併(社名は日本ディスクを踏襲) 1958年6月 ユニバーサル・レコード(株)が設立され、「ディスコフィル・フランセ」と「オワゾリール」が同社に移行する。(前者は、後に戻ってくることになります) 1958年9月 新マーキュリーと分離し、日本ビクターと業務提携契約を結ぶ 1959年4月 「イスパボックス」レーベルを発売(スペインのレーベルです) なお、1957年頃より日本吹込の邦盤を「ディスク(DISQUE)」レーベルで発売していますが、アイテム数は限定的だったようです。 画像を掲載したのが ●ミッシェル・アルノーの25cm LP DLP-512 1957.12.15発売 伴奏のクレジットにフランク・ブゥルセルの名前が見えます ●ルネ・ルイ・ラフォルグのEP盤 DEP-5011 1958.12.5発売 センター孔の形状から、ビクター・プレスであることが明らかです(明記もされていますが) ●スクーザミ/四月の恋 武井義明 DH-38 1958年3月新譜(2月発売) 数少ない国内録音盤。ちなみに「DH」というシリーズは日本ディスクではなく、マーキューリーのものです。合併した会社のシリーズに挿入したということでしょうか…… ウェストミンスターのところでも触れましたが、マイナー企業の場合「こういう音楽を紹介したい、広めたい」という創業者の強い思いが立ち上げの動機となっており、そこが経済合理性重視の大手との差別化になっています。が、その思いの成就に困難を伴うのも事実。音友の レコード年鑑に日本ディスクの社名が載っているのは1960年版までで、61年版では、デュクレテ・トムソンムとディスコフィル・フランセがビクターのカタログに移っています。レコード年表によると「1963年2月解散」とあります。 ところで創業者のアンドレ・キャラビ氏、朝日ソノプレス社(朝日ソノラマ)の代表を務めるなど、その後も業界の発展に貢献されています。 #アナログレコード #レコード資料
音楽 日本ディスク 2000年〜2020年chirolin_band
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月報 日本マーキュリー 1950年代
関西系のレコード会社で、1924年に設立された「合資会社内外蓄音器商会」がルーツとなり、以降「太平蓄音器(株)」〜「大日本蓄音器(株)」と推移します。戦時中に「大日本雄弁会講談社(キング)」に吸収され(これは政策的な企業の戦時統合)、同社の西宮工場となり、更にキングから独立して「富士工業(株)」〜「富士航空工業(株)」となったところで終戦を迎えます。 1950年6月に「タイヘイ・レコード」を設立して戦後の歴史がスタートします。当初は焼け残った戦前の原盤による再プレスで資金を集め、アメリカのマーキュリーとの契約による洋楽と、国内の新人歌手の育成に力を入れます。これらは大きく成長し、 (1)JATP(Jazz At The Philharmonic)等の本場アメリカのジャズ・レコードの普及 (2)テネシー・ワルツ(パティ・ペイジ)等ポピュラー・ソングの大ヒット (3)野村雪子,藤島桓夫,松山恵子,西田佐智子(後に西田佐知子)の活躍 として実を結びます。 勢いに乗って1953年7月には社名を「日本マーキュリー(株)」と変更します。(1952年8月とする説もあります) (1)を率いていたのがノーマン・グランツですが、彼はクレフ・レコード、ヴァーヴ・レコードを立ち上げています。 また、マーキュリー・レーベルにはクラシックもあり、オリンピアン・シリーズが有名でラファエル・クーベリック/シカゴ交響楽団のレコードなども国内発売されていました。更に、アメリカのヴォックス(VOX)レコードをいち早く紹介したのも、日本マーキュリーでした。クレメンス・クラウス、オットー・クレンペラー、クララ・ハスキルなどのレコードが発売されています。珍しいところでは、8インチ・サイズのLP( ¥900) なんていうものも出ていました。 しかし、その先は順風満帆とは行きませんでした。社名にまでしたマーキュリー・レーベルがキングに移って洋楽の柱を失い、育てた人気歌手も野村雪子はビクターに、藤島桓夫と松山恵子は東芝に引き抜かれ、西田佐知子も日本グラモフォンに移ってしまいます。「新マーキュリー(株)」の設立〜日本ディスク社との合併と手を打つも、日本ディスク社からは見離され(自身はビクターと業務提携を結ぶ)、1960年にはタイヘイ音響(株)と合併して「タイヘイ・マーキュリー(株)」を設立、といったところまでは年表で追えるのですが、この頃は事実上開店休業に近かったようです。新譜が1963年まで発売されたという記録もあるのですが、もうミュージック・マンスリー等に掲載されておらず、詳細は判りません。 それでもこの会社、1980年までは存続していたようです。資産の売却を重ね、メーカーとしては終わっていたものの、隣接するヤンマー音響(仔細不明)と共に(?)他社レコードのプレスを受託していたそうです。かつて、神戸新聞社が「神戸発 レコード120年 埋もれた音と歴史」と題する連載記事を掲載したことがあり(1999年)、そこにはこの会社の最後の様子が記されていました。この記事(丁寧に取材された良い記事でした)はネット上でも開示され、私が閲覧したのは2010年でしたが、今は見られなくなっているようです。 #アナログレコード #レコード資料
音楽 日本マーキュリー 2000年〜2020年chirolin_band
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月報 日蓄工業 1950年代
ここでご紹介するのは戦後の日蓄(にっちく)工業(株)ですが、この会社の生い立ちや親会社(日本コロムビア)との関係を、ごく簡単に整理した表を掲載します。戦時中に敵性語を避けるために親会社自身が日蓄と名乗ったこともありますが、それは親会社の歴史であり、戦後1946年に親会社が日本コロムビアとなった時に日蓄工業と名乗ることになった会社、それがここで取り上げる日蓄工業株式会社です。(この資料は、「日本コロムビア五十年史」の年表に基づいて作成しました) 日蓄が紹介したのはエピック・レーベルですが、本来の原盤はオランダ・フィリップスです。この時は直接契約ではなく、フィリップスと提携関係にあったアメリカ・コロムビア経由での発売だったため、アメリカと同じエピックが使われました。ジョージ・セル/クリーヴランド管弦楽団など、明らかにアメリカ・コロムビア系のアーティストが加わっているのも、アメリカ側のレーベル強化戦略だったのでしょう。(また、日本ウェストミンスターの販売を担うこともこの会社の目的でした) 第1回新譜(56年9月新譜)にヴァイオリンのグリュミオーが選ばれていますが、ソリストとして、またクララ・ハスキルとのデュオとしても有名になりました。イ・ムジチ合奏団も、このレーベルで紹介されました。 1958年2月新譜として、ポピュラーの45回転シングル盤(NSシリーズ)がスタートします。このレーベルに限らず、17cm盤は4曲入りのEP盤が先に普及し、片面1曲のシングル盤は後からになります。また、ここで言うEP盤は45回転の本来の「Extended Playing」であり、片面1曲のSP盤に対して「Extended(拡張された)」優位性を誇示していたわけです。この辺り、1960年代に広がった「コンパクト盤」(これは33回転の言わばミニLP)とは別物です。第1回発売としてジュリエット・グレコが選ばれていますが、グレコの他にもエディット・ピアフ、ジャクリーヌ・フランソワ、アンドレ・クラヴォーといったシャンソン系の良いレコードがあったのも、このレーベルの大きな特徴でした。マイルス・デヴィスが音楽を担当した映画「死刑台のエレベーター」の初出もエピック・レーベルでした。 ですが、フルセット型のレコード会社としてはそう長くは続かなかったようで、58年末頃には販売を日本コロムビアに委託することになり、日蓄としての月報は59年2月号までで、3月号からはコロムビアの月報に吸収されます。 その後、新たな海外レーベルの獲得等もあるのですが、最終的には業態変換を行ってレコード業界を去って行きます。(この辺の事情は60年代のところで触れたいと思います) #アナログレコード #レコード資料
音楽 日蓄工業株式会社 2000年〜2020年chirolin_band
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月報 日本ウェストミンスター 1950年代
LP時代に入ったアメリカでは、新興のマイナー・レーベルが続々と誕生しましたが、その中でも最も成功したのがウェストミンスターでしょう。このレーベルを国内販売すべく設立されたのが「日本ウェストミンスター(株)」ですが、当初は国際ラジオセンター(貸スタジオの会社)のレコード部として発足しました。この時点では日本楽器が販売を担当していました。1955年12月には日本ウェストミンスター(株)が設立され、日蓄工業(コロムビア系列)が販売を担うようになります。 このレーベルの特徴は、1.初録音ものを多く狙う、2.戦後ほとんど紹介されていなかったウィーンの演奏家を積極的に起用、3.録音の良さが売り、といったところですが、1について補足すると、LP創生期ですから「LP初登場」という曲は数多くありましたし、故岡俊雄さんの名著「マイクログルーヴからデジタルへ」には、初録音ものはアメリカ中の図書館や学校の多くが購入するので、手堅い商売になったという記述がありました。 国内盤も最初からLP専門の会社(SPは作らない)としてスタートしましたが、クラリネットのレオポルド・ウラッハの吹いたモーツァルトの五重奏曲などは、今でも名盤と言われていますし、室内楽には優れたレコードがたくさんありました。個人的には、フランツ・コッホのブラームス/ホルン三重奏曲は何度も聴いたものです。コッホは月報解説にはウィーン・フィルと書かれていますが、正しくはウィーン交響楽団の首席奏者だった人です。ここで聴かれるホルンの音色は、間違いなくF管ヴィーナー・ホルンのもので、この時代はウィーン交響楽団も伝統的な古い楽器を使っていたことが判ります。(今はウィーン・フィルだけになってしまいました) 音が売りということもあり、「ラボラトリー・シリーズ」という企画がありましたが、これは収録時間を少なめにし、盤面をたっぷり使ってラウド・カッテイングしたものでした。(Dレンジ、Fレンジの拡張) ラインスドルフによるモーツァルト交響曲全集がこのレーベルに残されていますが、なんと「交響曲第37番」などという曲が含まれています。 1957年8月から VEGA レーベル(現代音楽とシャンソン)が、同年12月から nixa レーベルが加わります。後者はイギリスのパイ・レコードが原盤ですが、この時点ではレーベル限定の契約だったため、1950年代は nixa レーベルとして販売され、1960年9月新譜以降 PYE レーベルに変更されます。このレーベルからは、ロニー・ドネガン(スキッフル)のEP盤など、こんなものが発売されていたのかというものが含まれていますので、ポピュラー・ファンも要チェックです。数は少ないですが、国内制作盤もありました。 その後1958年末頃には販売を日本コロムビアに移管し、1959年3月新譜からはコロムビアの月報に吸収されます。 #アナログレコード #レコード資料
音楽 日本ウェストミンスター 2000年〜2020年chirolin_band
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月報 新世界レコード 1950年代
新世界レコードは、旧ソビエト盤を中心に販売していた会社です。設立当初の状況を整理すると、こんな感じです。 1955.07 古鷹産業が新世界レコードの名称でソ連盤を輸入開始(証言日本洋楽レコード史) 1955.11.20 第1回新譜が発売される(レコードタイムス1956年1月号) 1956.02 新世界レコードが古鷹産業レコード部から独立し、新世界レコード株式会社となる(証言日本洋楽レコード史) 1957.01.22 新世界レコード株式会社が販売業務を日本ビクターに委託した(レコード年表) 1958.05.31 新世界レコード株式会社が解散した(レコード年表) その後、改めて設立し直され、日本ビクターの資本が入ったようです。 こういう特色あるマイナー・レーベルは特定の個人の強い思いに裏打ちされている場合が多く、この新世界レコードも社長の「帆足計」氏の意向に沿ったレーベルだったと言っていいと思います。ガウク、ムラヴィンスキー、ロジェストヴェンスキー、ヤンソンス、オイストラッフ、コーガン、リヒテル、ギレリス、アシュケナージ、オボーリン、ロストロポーヴィッチ等々、このレーベルによって日本に紹介されました。 但し、当時のソ連は西欧諸国ほど録音技術が発達しておらず、その点でのハンデも抱えていました。 そんなこともあってか、来日したアーティストの国内録音も積極的に行っていました。その中でも注目すべきは、1958年に来日したレニングラード・フィルのライヴ録音です。この時はムラヴィンスキーが病気で来られず、ガウクやザンデルリンク、ヤンソンス(父親のアルヴィド・ヤンソンス)らに率いられていました。月報の1958年8月号には、ガウク(この指揮者はムラヴィンスキーの先輩格になります)指揮でチャイコフスキーの「悲愴交響曲」等のライヴ盤が紹介されています。 更には、録音がステレオで録られたことも書かれています。演奏会が 1958.5.12 で、ライヴ盤発売が 1958.6下旬というとてつもない早業で出されたこのLP、もちろん初版はモノラルです。(まだステレオ・レコードは国内にはありませんでした) 恐らく、時期が熟せばステレオ盤も発売するつもりだったのでしょう。 が、残念ながらそれは実現しませんでした。 1959年にはチェコのスプラフォン・レーベルが加わり、11月5日に第1回新譜が発売されます。ヴァーツラフ・ターリッヒ指揮チェコ・フィルによるドヴォルザークの「新世界より」(PSH-1)です。なお、このレコードの音源は、ターリッヒの同曲2度目の録音(1949年録音)とする記述を見たことがありますが、残念ながら音を確認したことはありません。 #アナログレコード #レコード資料
音楽 新世界レコード 2000〜2020年chirolin_band
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月報 日本ビクター(ワールド・グループ) 1950年代
ビクター(ワールド・グループ)1950年代の月報です。手元にある最古のものは1957年5月号ですが、インペリアル第1回とドット第2回分が掲載されています。ドットについては既発分も紹介されているので、第1回分が1957年4月新譜(3月発売)として出たのでしょう。(日本ビクター50年史にも、「1957.3 外国マイナー・レーベル日本発売開始」とあります) 翌月の1957年6月号にはでは、新たにパシフィック・ジャズとサン・レコードが加わっています。国内盤の「SUN」レーベル盤というのも貴重なものだと思いますが、第1弾シングルはジョニー・キャッシュの「アイ・ウォーク・ザ・ライン」です。また、プレスリー発掘の逸話なども記載されています。アトランティックの登場は1958年4月号からです。このレーベルは、初期のR&Bやジャズなどで特徴あるレコードを発売していました。第1回シングルの中には「あの娘さがして/コースターズ」(ATL-1003)が含まれています。原題は「SEARCHIN'」、デビュー前のビートルズがデッカ・オーディションで演奏した曲のオリジナル盤ですね。同じ58年4月号では、ドット系のヴォックス(VOX),シーコ(SEECO)が登場しています。ヴォックスは、ピアノのアルフレッド・ブレンデル等、後に大家となる演奏家の若き日の録音が残されており、イングリット・ヘブラーもそのひとりです。 1959年7月号には、インペリアルに移籍したテディ・ベアーズのアルバムとシングルが紹介されています。(フィル・スペクターの獄中死が報じられたのは、ほんの2ヶ月くらい前でした)同号では、ルーレット・レーベルが登場します。その後もユナイテッド・アーティスツ(59年6月号),20世紀フォックス(59年6月号),モンティーリャ(59年11月号)等が加わります。 #アナログレコード #レコード資料
音楽 日本ビクター 2000〜2020年chirolin_band
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月報 日本ポリドール(日本グラモフォン)1950年代
戦前からの日本ポリドール蓄音器(株)は、戦後宝商会の資本参加によって再建されましたが、福島県桑折工場の焼失等もあり、1953年1月に一旦解散しています。その後 1953.5.1 に日本ポリドール(株)が設立され、1953.5.27 にレコード協会に入会しています。1956.4.2 には社名を日本グラモフォン(株)に変更します。その際にドイツ・グラモフォンと富士電機製造(株)が資本参加しています。<解散した旧日本ポリドール蓄音器(株)は、実はこれで完全消滅したのではなく、その後一騒動起こすことになるのですが、その話は何れまた……> ヴァリアブル・ピッチのカッティング技術はドイツ・グラモフォンによるものであり、弱音部ではピッチを狭めて収録時間を稼ぎ、強音部はピッチを拡げて溝の接触を防ぐというもので、特に静かな部分の多いクラシックでは効果が大きくなります。先行ヘッドで直後の振幅を予知し、カッターの送り幅を調整するという技術は、テープ録音の賜であり、ドイツが磁気録音の先進国だったことと関係が深いものと思います。VG盤と称する78回転のヴァリアブル・ピッチ盤が盛んに宣伝されているのも、LP移行の過渡期ならではでしょう。 CORAL レーベルの第1回発売が 1954.9.20 だったのですが、レーベル名は「コラール」になっています。LP 第1回も同タイミングで予告されましたが、これはその通りには進まず、何回か延期された後、1954.11.10 に漸く発売されました。1955年10月号には ARCHIV の登場が告知されています。古楽器による演奏の草分け的な存在です。ポップス系では Polydor レーベルの P盤 が発売されていました。(ビクターの S盤,コロムビアの L盤 に向こうを張って !?) 邦盤の制作は1955年2月号を最後に途絶えてしまい、想い出盤と称する旧譜の再発盤や童謡のキンダー盤のみとなります。(復活するのは1958年6月号です) 1958年2月新譜として、バディ・ホリーの国内初レコードが紹介されています(SP C-124)。タイトルは「ペギイ・スュー」、アーティスト名は「バデイ・ホリイとオーケストラ」となっています。ただ、コメントを読むと、これがロックン・ロールであることはきちんと認識されていたようです。因みに翌 1958年3月号には45回転盤(DC-1032)が載っていますが、タイトルは「ペギイ・スー」に改められています。 #アナログレコード #レコード資料
音楽 日本ポリドール(日本グラモフオン) 2000〜2020年chirolin_band